男は一人、歩いていた。
今にも意識が遠のきそうな、果てのない時を引きずって。
くる日もくる日も一人きり、日々は永々と繰り返された。
荒涼とした無音の大地に、見わたすかぎり、人影はない。
彼方からの哀れみが、地表にそそぐ日ざしに紛れる。
『 これが、お前の望みだろう 』
男は、ただ、待っていた。
砂漠をさまよう旅人が、ひたすら水を求めるように。
耳をすませば、聞こえるはずだ。
風にまぎれて吹きすぎる、世界のかすかな寿ぎが。
どこかで生まれる産声が。ひそかに芽吹く春の息吹きが。
波ひとつない、静かな海辺の浜に立ち、男はただ待っている。
凪の海に波が立ち、それがこちらへ渡ってくるのを。
この手に、再び還るのを。
貝殻細工の風鈴が、あるかなきかの風に揺れた。
吊るしのシャツの袖がなびく。昼さがりの店は無人で、通りや路地にも、人影はない。
木造家屋が建ちならぶ、大陸北方の小さな町を、男はひとり歩いていた。
無人の飯屋で食事を済ませ、店で品を吟味して、いくつか選んで街道にでる。
うららかな陽を浴び、田舎道を歩いた。
見渡すかぎり、人はいない。風だけが、ゆるく吹いている。
ひっそり鄙びた街道を、風に吹かれてしばらく往くと、豊かに青葉おい茂る、樹木が一本現れた。
道端の大木の向こう側に、ささやかな花壇とテラス席。古ぼけた二階家が奥にある。
街道沿いの看板が、海からの風にカタカタ鳴った。
薄汚れた木板には、字面に構わぬぞんざいな筆致で「どくろ亭」と書かれている。
古木の扉を押しあけて、無人の宿へと、男は踏みこむ。
薄闇に沈む店内右手に、飴色のバーカウンター。壁一面のグラスと酒瓶。
この宿の一階は、昼には喫茶、夜には酒場を営業している。だが──と男は苦笑いした。ここの酒場は、まともに営業していた試しがないのだ。店主がよそへ飲みに行くから。
うららかな春の陽が、奥の勝手口でたゆたっていた。
戸口をくぐれば裏庭だ。すぐ左に階段があり、その古びた階段は、狭い踊り場で向きを変え、右手の天井で消えている。二階は、宿泊用の客室だ。
ギシギシ木板をきしませて、男は階段の踊り場を過ぎ、二階の床を踏みしめる。
向きを変えて廊下を進むと、窓のあいた板の間が右に、廊下を挟んだ向かいの壁に、西端の扉が現れる。扉の向こうがあの部屋だ。
男はおもむろに扉を開けた。
入口の向かいに長椅子と卓、衣装箪笥が据えてある。右手の窓際には、寝台が二台。
こざっぱりとした簡素な部屋だ。古い木枠の窓からは、きれいな夕陽を見ることができる。町から外れた立地ゆえ、朝晩などは、とても静かだ。
片隅の旅行鞄には、衣類が無造作に積まれており、窓に面した書き物机には、本が数冊積んである。
重石をおいた用箋の上には、手紙でも書いていたのか、ペンが一本、転がっている。
窓から風が吹きこんで、カーテンの裾がゆらめいた。
開いたままの本の頁が、ぱらぱら音を立てて、めくれていく。
男は入口で立ち止まり、無人の部屋を眺めている。視線の先には、窓辺に寄せた白い寝台。
日ざしであたたまった板張りの床を、風がゆるく吹きぬける。
男は部屋に足を踏み入れ、町から持ってきた白シャツを、書き物机の椅子にかけた。
だが、椅子にかけて休むでもなく、無人の廊下に再び出ていく。そろそろ、時間だ。
毎日必ず、足を向ける場所があった。
宿の裏手の巨樹の下だ。木漏れ日ゆれるこの木の名はユグドラシル。「世界樹」の別名でも呼ばれるこの樹の根元に、とある物が埋まっている。
男は木根に腰をおろし、腕をくんで目を閉じる。約束の日は、まだ遠い。それは先刻承知だが、ここで待つのも悪くない。
幹にもたれたその肩に、梢を透かした木漏れ日がちらつく。
高原をわたった春風が、男の髪をさらっていく。これまでどれほど長い時、くり返してきただろう。くる日もくる日も風に吹かれて──
「……ただいま」
小さな声が、どこかで、した。
気後れしたような女の声。
男は、ふと目を開けて、声に視線をめぐらせる。
まばゆい緑の向こうから、それは一歩、一歩やってきた。
ふわりと白い夏の服。やわらかそうな薄茶の髪。長い髪を輝かせ──。
娘のたおやかな輪郭を、日ざしが柔らかく包んでいた。
はかなくも強いその姿は、当時と何も変わらない。
寝そべった肩を幹から起こして、ゆっくり男は立ちあがる。
ズボンの隠しに手をつっこみ、頬をゆるめて振りかえる。
「遅せーよ、お前」
待ち焦がれた"あの頃"のように。
〜 約束の地 〜
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