熱を出して寝ていたのだ。
あの自宅の、子供部屋で。
そろそろ聞こえてくるはずだ。軽く床をするスリッパの音。ぱたぱた、ぱたぱた──
少し忙しないその音は、廊下を横切り、階段をあがって
『 あらあら。なにを泣いているの? 』
ふわり、と甘い、あの香り。
横たわった肩の下、するり、と手が滑りこむ。
慣れた手つきで抱きあげて、しっかり背中を包みこむ。
『 はいはい。いらっしゃい。わたしの大事なお姫さま 』
待って待って待ちわびた白い手。
待ちわびた母のぬくもり。
『 ……いつの間にか、重くなったな 』
困ったような苦笑いで、つむぎ出された懐かしいあの声。
いつも穏やかなその声は、一段、また一段と、ゆっくり階段をあがっていく。腕に抱いた宝物を取り落としたりせぬように。
ごめんね。本当は起きていた。
でも、とても眠たくて、だから気づかない振りをしたの。
居心地のよい腕の中、宙に投げた爪先がゆらゆら。
階段を一段のぼるたび、体がゆれて、少し恐い。でも、大丈夫。落としたりしない。
大きなこの手は、信頼できる。がっしりと頑丈で、そのまま任せておいていい。
大切に、大切に運んでくれる。
守ってくれる父のぬくもり。
知っていた。これは夢。
二度と取り戻せない、遠いぬくもり──。
『 あんたじゃ、ここから出られない 』
向かいの森から目を戻し、《 どくろ亭 》 の主が紫煙を吐いた。
ここには昔、風変わりな連中が住んでいた。
白い肌に青い髪、めったに姿を現さず、狩猟で生計を立てていた。その明らかに異種族の、独特で神秘的な風貌から、近隣の者は連中を 「風の民」 とも 「エルフ」 とも呼んだ。
連中は実際、妖術のようなものも操ったし、森の奥まった場所への侵入路に、結界のようなものを張っていた。つまり、彼らは森に近寄ろうとする人々を、都度ことごとく追い払っていたのだ。
それでも付近の住民は、連中と上手くやっていた。入口付近の鳥獣を狩ったり、木の実を拾う程度のことなら、連中も大目に見たからだ。街道に現れた連中には、店主は物を売ってやったし、物々交換にも応じてやった。
青い髪の連中は、森と同化、共存し、鳥獣とも共棲していた。万事において支障はなかった。あの戦が起きるまでは。
昔、あの森で戦があった。
今では理由も定かでない、どうしようもなく下らん戦だ。それでも戦で大勢が死んだ。もう二十年も前の話だ。
青い髪の民族は、森に押し寄せた軍隊に、森ごと焼かれて全滅した。
だが、当時の結界は、主不在のまま残っている。だから、森に立ち入る者たちは、今でも戻ってこられない。
あの森には意志がある。
忌まわしい記憶を封じこめ、今でも人間を許していない。未だに怒りを宿している。だから、もう、あの森は、何人たりとも受け入れない。
白を散らして、早咲きの桜が舞いあがる。
雪のような花びらが、あたりを白く埋めつくす。
涙にかすむ青い空から、それは、ゆっくり落ちてきて、
地上で仰ぐ者たちを、ふわり、とやさしく包みこむ。
髪に。肩に。さし伸べた手の平に。
軽い花びらが、ひんやり、とまる。労わるように、慰めるように。
あの娘の存在そのものの軽さで。
無数に舞う花片から、淡く霧が立ちのぼる。
白く抜け出て、宙にただよい、天の高みへ還っていく。あの娘の砕け散った魂が。
魂の抜け殻が、肩に、髪に、ふわり、ととまる。
役割を終えた欠片たち。白く滅びた、もろい残骸。かすかに温かい軽い灰。
それは、とても儚くて
それは、とても優しくて
ゆっくり、ゆっくり、降り積もる。
終わることなく、尽きることなく、後から、後から、落ちてきて──
葬送の鐘が、鳴り響いた。
ふと、振り向いた肩先を、一陣の風が吹き抜ける。
舞いあがった白い花片が、天の果てから落ちてきて
病床の隣に置かれた椅子、治る見込みのない病、子供のように細い手足、盆の上の水さしとグラス、見つめるまなざし、あいたままの空の薬包、大量の汗と激しい痙攣
がらん、ごろん、と鐘が鳴る。
彼女の死を悼むように。世界の喪失を嘆くように
叩きつける寒い風、舞い散る桜吹雪、離れから追い立てる若き主、泣けないエルノア、姿を消したラルッカ、顔をしかめて佇むダドリー、黒服の葬列、夕暮れの鎮魂の丘、あたりに立ちこめる死の匂い
がらん、ごろん、と鐘が鳴る。狂おしいほどの警鐘が。
無数の淡い抜け殻が、渦を巻いて舞い狂う。
後から、後から、蒼い天から降り落ちて──
夏休み、蝉の声、雨の日の田舎道、煙草の先で崩れた灰、ほの暗い昼の宿、昼日に沈むカウンター、日ざしに暖まった店の裏口、ひっくり返った片方だけのサンダル
落ちて
落ちて
墜ちて、いくよ……
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