■ CROSS ROAD ディール急襲 第4部 【ちょい読みサンプル】「流転」 (TOP に戻る)
流 転
目を凝らした目の前に、ズボンの足が投げ出されていた。
カウンターの中の薄暗がりに、男がうつ伏せで倒れている。ずんぐりとした小柄な白髪。チェック柄の綿のシャツ。うつ伏せたまま微動だにしない。皺だらけの手が布巾を握り、もう片方の手は、体の下敷きになっている。
呆気にとられ、息を殺して凝視した。呼吸をしている気配はない。物のように固まっている。直感的に理解した。これは、すでに
──死んでいる。
訳がわからなかった。
有野の携帯を呼び出しながら、日比谷の横断歩道を渡ろうとしていた。改修工事で館内に入れず、図書館の前で別れた有野は、かったるそうに踵を返した。
『 なら、俺は帰るわ。お前はゆっくりしていけよ 』
声をかけてきた相手に気づいて、こちらに気を利かせたらしい。だが、「課題の消化」は口実で、有野を呼び出した本題は、例の話の方なのだ。
あの奇妙な体験を、有野に打ち明けるつもりでいた。
電話で済ませられる内容ではなかった。一人で抱えこむには苦しくて、だが、誰にでもできる話ではない。相手構わず打ち明ければ、たちまち一笑に伏されかねない。だが、有野にならば話してもいい、そう思った。確かに初めは笑うだろうが、だが、それでも最後には、真面目に耳を傾けてくれる。
割り込みの用件は急いで切りあげ、有野の後を追いかけた。
帰るのならば、有楽町に向かったはずだ。携帯で有野を呼び出しながら、あの姿を早足で探した。まだ、さほど遠くには行っていないはず。だが、どうしたわけか、見つからない。あの姿が、どこにもない。暑さと間の悪さで苛々しながら、青信号で踏み出して──
そうして何かにつまずいた。平坦なアスファルトの路面で。
打撲の痛みに顔をしかめて視線をあげると、目の前の光景が一変していた。
あるべきはずの街の光景がすっかり消え失せ、その代わりに見たものは──
そこは薄暗い室内だった。
冷えきった板張りの床に、気怠い気配がくすぶっていた。場所に見覚えはまったくない。あぜんとしながら膝を立て、のろのろ床から立ち上がれば、室内は閑散と静まっている。壁に据えた酒棚と、飴あめ色にかがやくカウンター。
開店前の、昼の酒場のようだった。
そして、蹴っつまずいたのは、おそらく、この老人の足──。
ガラン、とやかましい音がした。
総毛立って飛びあがり、素早くそちらを振りかえる。店の戸口のドアベルか。来客を奥に知らせる手立て。つまり、
──誰か、きた。
息をつめて目を凝らす。
店の入り口の扉を開けて、一団が気負いなく入ってきた。無骨な身形の男たち、荒んだ空気をまとっている。柄が悪いというほどではないが、その目つきの鋭さから、危険な輩と直感した。町ゆく人々とは雰囲気が違う。周囲には、まず、いないタイプだ。そう、ああした類いの輩はいない。血の匂いがする、とでも言えばいいのか。
何かが決定的にずれていた。
嫌な予感が全身を走った。ああ、又だ。また──
……やっちまった。
絶望的に理解した。又、妙なことになっている。
舌打ちしたいほど不本意だ。あの時、図書館にさえ入れれば、炎天下の横断歩道でつまずくことなどなかったろうに。そうしたら、こんな目に遭うことも恐らくなかった。そうだ、勘が戻ってさえいれば、こんなヘマは犯さない。
( ……どういう場所だ、ここは )
西部劇のセットでも見るような、薄暗くよどんだ店内。テンガロンハットこそ被っていないが、戸口でたむろす一団は、どこか剣呑で、きな臭い。
照明器具のない板張りの天井、丸テーブルの手動のランプ、ここには電気さえ通っていまい。いや、そうした室内の様子以前に、外出時に帯刀するなど正気の沙汰とは思えない。
思考が弾け、立ち尽くす。とても、真っ当な世界とは思えない。
── "防刃シャツ"
そんな名称が、脳裏をよぎった。
"切れないTシャツが売れている" ──そんな記事をネットで見た。そう、確か秋葉原で、無差別殺傷事件が発生し、世間が震撼した頃だ。
手に入れておくべきだった。
どれほど高価であろうとも。物騒きわまりないこんな場所に、飛ばされるのが分かっていれば──!
「──なんだ、暗くれえな。準備中かよ」
がやがや話していた一団の一人が、首を伸ばしてうかがった。
奥からの反応がないことに、ようやく気づいたものらしい。ぶつぶつ悪態をついている。
ふと、振り向き、面食らったように口をつぐんだ。
「おっと。──なに、お前。ああ、ここの親父の息子かい?」
──見つかった。
「え、ええ……」
とっさに嘘をついていた。
足元に転がる老人の死体は、入口からでは見えないだろうが、誰か一人でも勘づけば、おそらく自分はただでは済むまい。即刻、通報、たちまち警察に突き出され、そのまま犯人にされてしまう。そうなれば、いかなる申し開きも通じない。
確信があった。
事こうした世界では、こちらの理屈は通じない。
取調べが公正な保証はない。そもそも、本件の証人となるだろう、あの戸口の一団にすれば、店内で見かけたこの自分は、うさんくさいよそ者以外の何者でもない。
おまけに、事件現場の店内には、他には誰もいなかった。この自分を除いては。犯人として、これ以上疑わしい者がいるだろうか。
そして、石壁の牢屋につながれ、二度と外には出られない。
身柄を引き取ってくれる者も、身元を保証してくれる者も、自分には一人もいないのだ。つまり、今、捕まれば、
── 生涯、外には出られない。
隠さねば。
なんとしてでも、死体を隠し果おおさねば。
床に転がった老店主と馴染なじみであるらしきその男は、頬をゆがめて苦笑いした。「なんだよ、あのクソジジイ。身寄りはねえとか、ぼやいてたくせに、どうしてどうして立派な息子がいるんじゃねえかよ。──ああ、なに。親父はいねえの? 明日は店、開けるんだろ」
「え、……はあ、まあ……」
あいまいに笑って応えた。
男が怪訝そうな顔をする。「どうした。明日には、戻るんだろ、親父」
「え、ええ。それはもちろん!」
戸口の枠に肩でもたれて、男は無言でながめている。上手く笑えた自信はない。
品定めでもするような視線に、背中に嫌な汗が伝う。男が身じろぎ、店の外で待っていた仲間を、ぶっきらぼうに振りかえる。
「──おい、休みだってよ」
今のやりとりを伝えている。顔が引きつっていたろうに、男が怪しむ気配はない。──そうか、明るい外からは見えにくいのか。
「いいよ。それなら、また来るわ」
男が片手てをあげて、踵を返した。
いかにも着こんだ革ジャンの背が、ぞろぞろ、たるそうに引きあげていく。
夏日にゆらぐ陽炎の中、それは、ゆっくりと遠ざかっていった。
喫茶店のバイトの経験が、ひょんなところで役に立った。
いや、正直に言おう。街中の「喫茶店」などという、健全でお行儀の良い代物ではない。個人経営の近所の「バー」だ。なにせ、実入りがよほどいい。
カクテルをつくり、酔っ払った客の世話もする。知り合いの店ではあるが、バレたら間違いなく退学になる。
『 なんか、ありそうだな、お前 』
昼からたるそうに飲みながら、ギイが唐突にそう言った。
薄暗いカウンターで飲んでいるのは、あの時引き返した一団の一人。
長身痩躯、かなり短いスパイキーショート、左耳にスタッドタイプのブラックピアス。とはいえ、いつも似た服だから、身形には構わない質らしい。
顔立ちは精悍なのに、いつでも怠そうな顔をした男だ。起床しなくていいのなら、夜まで惰眠を貪むさぼるタイプ。
こちらの素性に気づいたような節はないが、ふとした拍子に興味を示す。これが実に厄介だ。そして、ひと度スイッチが入れば、わずかな瑕も見逃さない。
『 どこから来た。ここらの者じゃねえよな、お前 』
そして、誰にも訊かれずにきたことを、いとも容易く指摘してのける。ふっと、ようやく気を抜いたところを、狙い澄ましでもしたように。
カウンターで頬杖をつき、ギイがじっと眺めている。
真意を測りかねて、口をつぐんだ。
確信したような口振りだった。──いや、この男が知るわけがないが。
吟味するような茶色の瞳は、寛大そうにも冷酷そうにも見える。いや、どちらも事実だろう。その時々の利害次第で、おそらく、いずれにも立場を変える。一ミリたりとも心動かすこともなく。
ギイは訝かるように目を細める。
『 ──乗ってこねえか 』
頬に、薄い笑みをのせた。
壁に設らえた酒棚へ、興味が失せたように目を戻す。『 いいけどよ、別に 』
物言いはそっけないが、愉快そうな余韻を含んでいる。やはり、鎌をかけていたのか──。
まったくもって食えない男だ。
興味があるのか、そうでもないのか、さっぱり本心がわからない。ショットグラスを片手で揺らし、ギイは常に考えている。
気紛れな悪意で挑発し、思わせぶりにそそのかし、そのくせ、あっさり引いてしまう。反応を確かめるためだけに。
仲間の方の常連たちは、どうにでもなる単細胞だが、この男だけは気が抜けない。そう、いわば種類が違う。一人で考えを転がして遊び、それが口から出る時には、すでに揺るぎない決定事項、そうしたことに慣れきった人種。
からかうようなギイの目には、対抗意識を喚起させるような、あざけりの欠片が潜んでいる。
だが、それに吊られて突っかかれば、手もなく足元をすくわれる。歯向かっても、決して勝てない。いつの間にか、やりこめられている。気づかないのは馬鹿だ。
詐欺師めいた男だが、質の悪いことに、読みは正しい。ぼんやり酒棚を眺めていたギイに、いきなり訊かれたことがある。
『 何者なんだ? 本当は 』
そして、今日は無責任にも、酔い潰れた連れを残して、さっさと店を出るという暴挙に出た。哀れにも天板に突っ伏しているのは、燕尾服にシルクハットという、時代がかった服の中年男だ。
問題集を木箱に伏せて、カウンターの酔客を辟易へきえきと見、「毎度」とギイを送り出す。
我知らず、溜息をついていた。たるそうに去りゆく短髪の背。
good luck ギイ。
君は君の道を行ってくれ。願わくば、こっちには関わらぬことを。
今日も何とか仕事を終えて、看板をしまい、店の扉に鍵をかける。
店主の息子になり果おおせ、はや一月が経った頃、 ようやく事情が飲みこめてきた。
この店は、うらぶれた倉庫街の片隅にあり、繁華街のある中心部から遠く離れた場所にある。当然、店は流行っていない。
そうした寂れた立地ゆえ、身寄りのない老いた店主が一人ひっそり他界した折りにも、誰一人として気づかなかった。
店の裏手は断崖で、はるか下方の水面では、海流が激しく渦巻いていた。
常連らしき最初の客を、店から追い返したあの後に、毛布を探して遺体をくるみ、店の裏手まで引きずって、深夜の海にやむなく落とした。
彼らが出直してくる前に、死体をどうにかせねばならない、そのことだけしか頭になかった。必死だった。道義も何もありはしない。味方はおろか知り合い一人いないのだ。
洗ったグラスを片付けながら、それにしても、と考える。
なぜ、自分ばかりがこんな目に遭うのか。
見知らぬ世界に転がり出たのは、実は、これが初めてではない。
前回は、無人島の原生林の中だった。いや、正確には無人ではない。人はいた。
若い女が一人だけ。
あの時は、呼ばれた気がして、振り向いた。
せっぱつまった声だった。
ひどく怯えた、辛そうな声。だが、その時いたのは、家の近所の商店街で、いつもののどかな昼下がりだった。誰かが悲鳴をあげるような、危機的な状況では決してない。
振り向いた時には、嵐の夜の樹海にいた。
見慣れた商店街は、どこにもなかった。視界が瞬時にすり替っていた。横殴りの雨が叩きつけ、風は上空でごうごう唸り、黒い梢がざわざわと、不気味に揺さ振られ続けていた。
叩きつけるような轟音とともに、夜空に白く稲妻が走り、ひるがえった青白い閃光に、その姿が浮かびあがった。
見たこともないような巨木の前に、髪の長い女の子がいた。
年の頃は十七、八。怯え、泣きながら、うずくまっていた。ためらいながらも近づくと、彼女がいきなり抱きついてきた。
驚き、とっさに後ずさった。彼女は服を着ていなかったのだ。
必死にすがって、彼女は泣いた。まるで気にしたふうもなく。獣の一種であるかのような、一糸まとわぬ白い姿で。
彼女の事情を聞こうにも、言葉がまるで通じない。そもそも言葉というものを、彼女は持っていなかった。自分の名前以外には。
妖精じみた丸裸の彼女と、二人きりで、しばらく暮らした。
あり余る膨大な時間を、彼女に言葉を教えて過ごした。小さな子供に聞かせるような、簡単な童話を教材に用いて。「森の迷子」という風情から、とっさに思いついたのは、世界の名作 『 ヘンゼルとグレーテル 』
そして、彼女に話して聞かせた。自分がいた世界での、日々の暮らしや出来事を。
果実をもぎ、木の実を拾い、魚を獲って日々を過ごした。
彼女は食べられる実を知っていたし、川での罠の張り方にも、次第次第に慣れてきて、いつしか要領を覚えていった。
彼女は素直で愛らしく魅力的で、二人でいることに苦痛はなかった。むしろ、邪魔が入らぬことを、この夢のような平穏が、壊されぬことを強く望んだ。
やがて、彼女との意志の疎通が、不自由なく図れるようになった頃、見知らぬ顔が現れた。
ぼさぼさの髪を一つにくくった、顔も手足も小汚い男。元は着物の形をしていたらしい汚れたボロ着をまとっていた。
長らく樹海をさまよったらしく、こちらを見つけ、絶句のていで立ち尽くし、泡を食って駆けてきた。
黒い髪に黒い瞳、欧米人の顔立ちではない、東洋人の顔立ちだ。日本人にしては言葉づかいが奇妙だが、話の意図はなんとか通じた。
古風な名を持つその男「ヤヒコ」は、我が身に降りかかった未曾有の変事を、動揺しきりの様子で語った。
いつものように田畑に行くべく、近所の野良道を歩いていたら、いつの間にか、嵐の夜の森にいた。
そして、たまたま持っていた農具の鍬で、鳥獣を獲って飢えをしのいだ。なぜ、こんな所に自分がいるのか、事情が皆目わからない。
そんな具合に人が出現することが、それから後も、いく度か起きた。
出現場所はたいてい森で、突如森から、見知らぬ風体がさまよい出てくる。
身形は様々、年齢も様々、だが、共通項もあるにはある。そうした者のいずれもが若い男ということだ。
そうして集まった者の中には、あの粗野なヤヒコのような、閉口するような輩もいたが、感覚の近い奴もいた。
『──つまり、帰れないってことすかね 』
森をながめて索漠と、七瀬は白けた顔でそう言った。
金髪のミディアムウルフにシルバーピアス。一見チャラ男っぽい見た目だが、意外にも礼儀正しい "今風の若者"。
七瀬は淡々とつぶやいた。『 つまり俺たち、やばくね 』
何もできない彼女を守って、身を寄せ合うようにして暮らしていた。
この原始的な共同生活を余儀なくされた、いわば仲間は、多い時で十人近くもいたろうか。あいまいな言い回しになってしまうのは、顔触れは変動したからだ。
一人、また一人。そして翌日にまた一人。もしくは同じ日に二人現れ、その翌日にまた一人、といった具合に。
事故や天災で命を落としたヤヒコのような者もいたし、ある日ふっと掻き消えた七瀬のような者もいた。人は唐突に出現し、そして唐突に失踪した。理由は誰にも分からない。
緩慢に、漫然と、森の四季は移り変わり、夏を何度か経験した。
森で連日、獣を狩り、火をおこして肉を焼いた。倒れた老人を店で見て、死んでいると直感したのは、大して怯みもしなかったのは、その当時の体験で、死には慣れていたからだ。
あの日は彼女が死んだ日で、悲嘆に暮れて歩いていた。
それでも、いつものように狩りに出て、皆で獲物を探していた。
食料を確保することが、一日の最優先事項であり、最重要の課題だった。一日の時間のあらかたが、森での狩りに費やされた。とにかくその日一日、食いつがねばならない。「食う」ことは、命をつなぐことに他ならなかった。食わねば死ぬ。いたって自明な生物の真理だ。
それでその日も、獲物を求めてさまよっていた。
降り積もった枯葉を踏み、仲間たちと目配せし、足音を忍ばせて歩いていた。踏みしだかれた枯葉の音が、ごくかすかに音を立て──
けたたましい音で振り向いた。
異質で硬い、人工的な音。すぐには何だか分からない。
長らく埋もれた記憶が浮上し、ようやく、じわじわと理解する。そうだ、これは、
──クラクション。
振り向いた目を、白が射抜いた。
目がくらむような、まばゆい白──陽を反射するアスファルトの白線。今のは、自動車の鳴らすクラクション。
雑然とした街の中に立っていた。
うだるような蒸し暑さ、ぎらつく太陽、気だるい夏。二車線の道路をはさんで、商店が軒を連ねている。
すべてが跡形もなく消えていた。
鬱蒼とざわめく深い森も。生死を共にした仲間たちも。それらの代わりに滑りこんだ景色が──四角い造作物の数々のパーツが、いやに現実感を伴って、あやふやな視界に迫ってくる。
その"正しさ"に圧倒された。
それは白々しくも、絶対的に正しい。
商店街から道を入った舗装路には、二階建ての民家が並ぶ。庭があり、門があり、車庫がある。灰色の中層マンションが、晴れた空に突き出ている。見慣れた景色、見慣れた路地──。
家の近所にいるのだと、少ししてから気がついた。
生まれ育った、よく知る界隈。だが、その事実はひどく歪で、何かひどくよそよそしかった。世界に、体がなじまない。
それをそれとして認識するには、咀嚼のための時間がかかった。
風景が徐々に身になじみ、それを努力して殊更に理解し、異物を飲みこむようにして飲み下す。
その嚥下の行程は、いやにゆっくりと行なわれた。この場所を熟知しているのは明らかなのに、無理にねじ曲げているような、嫌な違和感がそこにはある。
少しして、胸がどきどき鳴りだした。
動くことさえままならず、微動だにせずに立っていた。汗が額を滑りおち、手は拳を握っている。
じっとり汗ばむ真夏の昼、人もまばらな街路では、蝉がジイジイ鳴いていた。
道路の向かいの商店の日陰を、ベビーカーを押した茶髪の若い母親が、疲れた無表情で歩いていく。反射的に腕時計を見た。十一時十分を指している。つまり、今は午前中──
疑問が湧いた。
こんな時間に、自分はなぜ、こんな所に立っているのだ。学校は──そう、学校があるはずだ。授業を受けているはずのこんな時間に、どうして自分は、ここにいる?
身に着けているのはユニクロのTシャツと、色褪せたジーンズだった。
いつもの見慣れた普段着だ。朝起きて、床から拾って、何も考えずに身につけた──記憶が鮮明に蘇った。ここは家の近所の商店街、そして、今は夏休み。だから、こんな半端な時間に、場違いな所に立っている。いや、それなら"あれ"は何だったのか。夢を見た、ということか。質の悪い白昼夢を……?
呆然としながら、左の腕に目をやった。
"それ"はやはり、そこにある。
手首の下から肘にかけての大きな傷跡。森で狩りを始めた当初、要領も何もわからずにへっぴり腰で突入し、猪に反撃されて、裂かれた傷。結局治らず残ってしまった。その深い傷跡は、違和感なく腕にある。ならば、仲間と暮らした日々は、
「……夢じゃ、ないのか」
慄然と立ちつくした。
夢なら、あるはずのないものが、腕にはっきり刻まれていた。いや、あんなにも鮮やかなあの日々が、単なる夢でなど、あろうはずがない。あの彼女との間には、自分の子供さえ授かっていたのだ。
あの母親にそっくりの、かわいい顔立ちの女の子だった。
仲間に守られ、皆に愛され、日々すくすく成長し、今がかわいい盛りだった。
彼女を失い、空洞になった心をかかえて、亡骸の前に立ち尽くしていたあの時も、皆が悲嘆に暮れる中、まだ五つになったばかりのあの小さな娘だけは、細い背筋をしゃんと伸ばして、不思議なほどに平然としていた。
力なく下ろした手の中に、小さなその手をすべりこませ、娘は励ますように軽く握った。
『 泣かないで、トーノ。わたしはここにいるわ 』
なにか、ひどく大人びた仕草で。
そして、毅然と顔を仰いだ。物のように横たわった、あの彼女と瓜二つの顔で。
胸の上で手を組んで、シンと横たわった彼女の白い顔を思い出すと、今でも絶望に目がくらむ。
愛する女を失っていた。
永久に失われたあの笑みを、今でも、はっきりと思い描ける。
彼女の名は、月読といった。
〜 流 転 〜
〜 CROSS ROAD 【ディール急襲〜姫とやさぐれ傭兵団〜】第2部4章より 〜
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