ディール急襲 第1部 3章1話1

CROSS ROAD ディール急襲 第1部 3章1話1 〜 運命共同体 〜
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 消毒薬の匂いがした。
 シーツがひんやり、手に冷たい。顔を横にかたむけて、うつ伏せに寝ているようだった。柔らかく大きな羽枕。糊のきいた真っ白なシーツ。適度な固さの快適な寝台。
 いくえにも重なるレースが見えた。出所をたどって見あげれば、高い天井の天蓋だ。採光に配慮し、窓が大きくとられた室内。灯りに照らされたきらびやかな部屋。
 このところ、ようやく見慣れた居室だった。今の自分の正式な居場所。
 部屋には、誰もいなかった。どれくらい眠っていたのだろうか。頭がぼんやり、かすんでいる。
 背中が焼け付くように痛かった。包帯できつく固められている──その理由を、思い出した。
「……なんで、あたしばっかり、こんな目に」
 枕に顔をこすりつけ、エレーンは唇をかみしめた。
 迫りくる白刃の恐怖が、今更ながら背にせまる。口元を覆う指先が、止めようもなく震えていた。自分はなぜ、こんな恐ろしい場所にいるのだろう。
「……ダド」
 すべてを拒絶して目を瞑り、エレーンは凍えた息を吐いた。
 壁にかけられた大時計は、十一時をさしている。微動だにしない黒い二針は、まるで静止しているようだ。このまま闇に埋もれてしまって、二度と浮かび上がれなくなるのではないか、朝など、もう、こないんじゃないか、そんな風に勘ぐってしまう。
 カーテンの裾が、夜風になびいた。窓はずっと、開けてある、、、、、
「助けて、ダド──」
 なぜ、彼がいないのだろう。ここにいるべき、あの彼が。
 あの屈託のない笑みが蘇り、みるみる涙が込みあげる。こんな部屋は場違いだ。この部屋は広すぎる。こんなちっぽけな身の上には。
 薄闇に置かれた名匠手になる装飾品が、夜のしじまに銀光を放つ。
 高い天井から吊られた照明。豪華なつくりの硝子灯。誰もがうらやむ豪華な部屋だ。だが、ここには、パーティーが終った後のような、白々とした寂寥感があるだけだ。装飾が華美であるほどに、室内の照明が明るいほどに"誰もいない"現実を、殊更に思い知らされる。
「……帰り、たい」
 噛みしめた奥歯から、弱音がこぼれた。
 この忌まわしい呪縛を断ち切りたかった。故郷の商都に帰りたかった。喧嘩しては笑いあった気心しれた仲間の元に。ラトキエ邸の狭い寮に。住み慣れた部屋にいるならば、少しは心も休まったろうに。こんな怪我をしていても。けれど、ここには誰もいない。心許せる友など、誰ひとり。
 海鳴りが、聞こえていた。
 海風が遠く鳴っている。風がたえず窓枠をゆすり、闇が重くのしかかる。領民の存在がひどく重くて、妾への羨望が絡みついて、もがいても、もがいても、身動きがとれない。ここは色々なことがありすぎて、自分を保っていられない。これまでつちかった価値観が、いともあっけなく壊れていく。せめて、あの時──
 そう、せめて信じたい。
 あの時、痛みと共に打ち砕かれたのは、己のやましい邪心だったと。
 
 音が、した。
 等間隔の。
 あれは扉をたたく音? 誰かが扉をノックしている──。
 はっ、とエレーンは目元をぬぐった。あわてて戸口を振りかえる。
 パタン、と扉がひらかれた。
 面くらい、薄暗い廊下に目を凝らす。今時分、誰だろう。世話をしている老執事だろうか。いや、執事であれば、部屋に入る際、ノックなどしない。
 暗がりにたたずむ相手を認め、あわてて夜着を掻き合わせた。
「──なっ、な、なによ、あんた!」
 助けを求め、とっさに男の背後を見る。だが、案内役の執事がいない。階下で見張っていた護衛もいない。ならば、勝手に入ってきたのか? つまり、その目的は……
(よ、夜這い……?)
 ごくり、とエレーンは唾を飲む。
 思わぬ相手が、そこにいた。
 さらりと長い薄茶色の髪、三白眼気味の冷ややかな双眸、整った細面と、しなやかな痩身。もしや、ケネルから事情を聞いて、あの時の仕返しにやってきたのか? あの街道で、ぶったから。
 そうだ。あの時、奴はものすごく怒っていた。
(……どうしよう)
 動けない。
 背中の怪我で、身動きがとれない。寝台に這いつくばったまま、手近な枕にしがみつく。「お、お、女男! あんたね、いったい何時だと思って──!」
「ファレス」
 ぶっきらぼうに訂正し、長髪が部屋に踏みこんだ。
「俺の名前は"女男"じゃねえ。──たく、失敬なアマだな。わざわざ出向いてやったってのに」
 敵兵を爆死させて平然としていた、あの悪魔のような冷血漢だ。
 ズボンの隠しに手を突っこみ、値踏みするよう視線を巡らせ、足を投げ出すようにして歩いてくる。広くきらびやかな居室を前に、特に臆した風もない。
 長髪は入室の許可も求めず、足を止める様子さえない。女性ひとりの寝所というのに、頓着するふうもない。当然のごとき足どりで、ずかずか中に踏みこんでくる。
 エレーンは気圧され、広い天蓋の寝台を、あたふた隅まで後ずさった。「な、な、なんの用よっ!」
「泣きべそかいてんじゃねえかと思ってよ」
「──だ、誰がっ!」
 顎先でさされて、エレーンはあわてて頬をぬぐう。
 長髪が怪訝そうに覗きこんだ。「なんだ。本当に泣いてたか」
「──な、な、泣いてなんかっ!」
「いい様だな」
 むっ、とエレーンはねめつけた。
 長髪は冷やかに眺めおろす。「まったく、馬鹿な真似をしたもんだ」
「なによ。冷やかしに来たわけ? あたしのこと」
「だから言ってんだろ、見舞いだって」
「──その図々しい態度の、どこが見舞いよ!」
 この長髪、めったに見ないほどの美丈夫だが、中身はつくづく最悪だ。
 長髪が拍子抜けしたような顔をした。「たく。脅かしやがって。大したこた、ねえじゃねえかよ」
「これだって、そうとう痛いわよっ!」
「それだけ喋れりゃ上等だ」
 どこか確認するような口ぶりで言い、呆れた顔で視線をよこした。「重傷だったら、そんなもんじゃ済まねえよ。口もきけずにうなっているか、気絶したまま目ぇ覚まさねえか。いずれにせよ、そんなにくっ喋ってて平気でいられるわけがねえだろ」
 エレーンは不審もあらわにねめつけた。「あんたも知ってたの? 今日のこと」
「いいや」
 片足に重心を預けて腕をくみ、長髪はつくづくというようにながめやった。「どうした。あの小生意気な面はどこへ行った。まあ、びびっちまうのも無理ねえか。軍刀で斬られるなんざ、さすがに初めてだろうしな」
「あ、当たり前でしょ!」
 エレーンはわなないて言い返し、枕を強く抱きしめた。
 その指が細かく震える。白刃きらめくあの恐怖が背に迫り、かたくかたく目をつぶる。
 不意に、枕元が大きく沈んだ。
 肩を震わせて顔をあげ、一拍遅れて理由を知る。
 寝台の端に、長髪が腰をかけている。
 見舞いと言いつつ、なんたる無礼。無作法にもほどがある。だが、今は正直、それどころではない。
 抱きしめた枕に、エレーンは顔をすりつける。こみあげた弱音が、思わずこぼれた。「……こ、恐かった」
「だろうな。よく生きてたもんだ。あんた、運がいい」
 あっさり、長髪は相槌をうつ。
 エレーンは怪訝に盗み見た。意外だった。嫌みの一つも言わないとは。この野蛮で口の悪い冷血漢が。
 天井の暗がりを背景に、白く端整な顔があった。
 寝台の枕元に手をついて、長髪は無造作に眺めている。おろしたままの長い髪が、肩から滑り落ちていた。静かだ。とても。あの恐ろしい事件が嘘のように──。
 たまらずエレーンは瞼を閉じた。
「……で、でも、信じられない」
 無言の視線で、長髪は促す。
「ケネルが、あんなこと、するなんて」
「──大方そんなこったろうと思ったぜ」
 長髪が辟易としたように顔をしかめた。
「奴は、何も知らねえよ」
 唖然と、エレーンは長髪を見る。「……ケネルは、知らない?」
「もっとも、妙な気配があることくらいは、察していたかも知れねえが」
 但し書きを付け足して、長髪は真顔で目を据えた。
「奴の名誉のためにも言っておく。あれは奴の差し金じゃない。あの連中がぼたされて、勝手に行動を起こしたんだ」
 唖然とエレーンは絶句した。ケネルの指示というならまだしも、屋敷に押し入った三人とは、口もろくにきいたことはないのに。
「知ってるか。奴がなぜ、協力する気になったのか。どうして、この話を受けたのか」
「ど、どうしてって──」
 エレーンは詰まり、口ごもった。知るわけがない。ケネルは元々知り合いではなく、日頃の態度も友好的とは言いがたい。むしろ、怒ってばかりいる。あの無愛想な仏頂面は、いっそ"迷惑そうだ"と形容した方が早かろう。
 大して興味もなさそうに、長髪は軽く肩をすくめた。
「あんた、気づきもしなかったろう。あの時、、、、通りかかった俺たちに」
 エレーンは頬をこわばらせた。
 ちくり、と胸に、鋭いトゲが引っかかった。長髪はじっと、冷ややかに目を据えている。
「泣いてたろ。あいつら、、、、を見て」
 とっさに、エレーンは目をそらした。
「か、関係ないでしょ、あんたには!」
 心当たりがあった。あの日の、別宅の裏庭──妾宅に忍んで行ったダドリーを、光の庭で見つけたあの時。蚊帳の外の鉄格子の向こうで、みじめに彼らを見つめていた──
「そっ、そんなことより、なんで知ってんのよ、あたしのことなんか」
「あァ? なんで知ってるか、だ?」
 長髪は白けたようにすがめ見た。
「自覚がねえのか? あんたは今や、クレスト領家の奥方だ。そのあんたの顔なんざ、街中の者が知ってるだろうぜ。そりゃ、評判にもなるだろうぜ。庶民のメイドを正妻に据えたってんだから」
「……そ、そう」
 エレーンはばつ悪い思いでうつむいた。メイドあがり──事あるごとに投げつけられた揶揄だ。事実だが。
「鉄格子を握って、めそめそしてたろ。親に見捨てられたガキみてえに、庭ん中を見つめてよ。俺らにも気がつかねえくらい熱心に」
 エレーンは顔を強張らせた。心が未知の害意を警戒する。
「何を見ているのかと思いきや、中にいたのは当主と妾、それに妾が産んだガキ。それで、ほっとけなかったんだろ。ケネルは女に甘いからな。まあ、上の意向を無視するなんざ、滅多なことじゃねえんだが」
「……同情?」
 ふと、エレーンは顔をあげる。
「ああ」
 きっぱり長髪は肯定した。誤魔化しもしなければ、取りつくろいもしない。
 エレーンは唇を噛んで、くすりと笑った。「……同情、してくれたんだ、あたしに」
「みじめか?」
 間髪容れずに、長髪は尋ねる。
 エレーンは眉をひそめて目をそらした。なんて不躾な男なのだ。
 だが、なぜだろう。それでも不思議と、素直になれる。そう、彼はすべてを知っている。
 とりつくろうのも今更か、と小さく息をはきだして、ゆるりと首を横に振る。
「同情が、こんなにありがたいものだなんて、あたし、今まで知らなかった。今は、差し伸べてくれるなら、どんな手だって嬉しいもの」
「──たく。どこまで馬鹿正直なんだか」
 エレーンは面食らって、相手を見た。
 長髪はいぶかしげに見つめている。なにか珍しい物でも見るような目で。
「あんたはここの領主じゃない。右も左も分からねえ、嫁いだばかりの新米だ。街の連中に付き合って、律儀に玉砕しなくても、故郷の商都に避難すりゃ、それで済んだ話だろ。どうせ、あんたの働きになんざ、誰も期待しちゃいねえんだからよ。もっとも今は、ディールが商都を囲んでて、そう簡単には入れねえがな」
 エレーンは愕然と目をみはった。
「……そっか」
 思わず、苦い笑いが浮かぶ。
「そっか。その手があったんだ。あたし、思いつきもしなかった」
 顔を歪めて、くすくす笑う。そう、それで良かったんだ。奥方さまの身の振り方は。
 それこそが、望んだことではなかったか。誰も手出しできない安全な場所に避難して、ひたすら隠れ、ひたすら、じっと息を潜める。この騒動が収まるまで。安全な場所、安全な時間。手にあまる厄介事が、無事、頭上を通過するまで。
「──逃げられるわけが、ないじゃない」
 目の前の枕を凝視して、エレーンは声を押し殺した。
「あたしは、ここの人達のこと、ダドリーから任されているのよ」
 領家の人間が逃げたりしたら、残された領民はどうなるのだ。
 長髪は呆れた顔をした。
「たくましいな。恐くねえのか。のこのこ前線に出てきた時にも、そりゃあ度肝を抜かれたけどよ」
 柳眉をひそめ、まじまじと顔を見つめてくる。
「あんた、本当にわかっているか。運が悪けりゃ、ここで死ぬかも知れないぜ」
 びくり、と肩が震えあがった。
「じょ、冗談じゃないわよ! なんで、あたしが死ななくちゃなんないわけ? なんにも悪いことしてないのに!」
 エレーンはうろたえ、抗議する。
「あ、あたしはただ、お嫁にきただけなのに──こいって言うから、くっついて──ダドにくっついて来ただけなのに──」
 あの光景が脳裏をかすめた。
 一瞬にして立ち昇る炎。逃げ場を探して右往左往する黒い影。喧騒にまぎれた苦しげな悲鳴──あの時焼かれた人達は、さぞ熱かったことだろう。さぞ苦しかったことだろう。即死というなら話はまだしも、炎に体を取り巻かれ、延々全身を焼かれたら、それこそ地獄の苦しみだ。そう、生きながらにして焼かれた人間を見たのは、遠い昔の話じゃない。もしも、あの光景が、わが身に降りかかったら──いや、はたして対岸の火事だろうか。
 自分は領家に属する者だ。ディールの兵に捕まれば、何をされるかわからない。カレリアは平和な国で、前例がないから確かなことは知らないが、勝利した側の敵対者は、ひどい目にあわされるのではないか? 公衆の面前に引き出され、処刑されたりするのではないか? その時、その場に引き出されるのは、他でもない
 ──自分、、ではないのか?
 頭の後ろに、重みがかかった。
 びくり、と肩がはねあがる。
 長髪だった。長髪が頭をなでている。手を伸ばし、ぽんぽん、とぞんざいに。少し面倒くさそうに。小さな子供をなだめるように。無断で頭に触るなど、やはり、こいつは無礼な奴だ。けれど──。
 両手で枕にしがみ付き、エレーンはそのまま泣きじゃくった。意外にも大きな重たいこの手が、思いもよらず安心できた。今まで、ちっとも知らなかった。よく知りもしない他人の手が、こうも温かいものだとは。
 胸のどす黒い諸々が、ゆるやかにほどけて、溶けていく。この手で戦を起こした後悔。失われた多くの人命。すぐそこにある死への恐怖。夫の愛妾への断ち切れぬ嫉妬──。
 ふと、エレーンは顔をあげた。
「──ねえ」
 長髪が手を止め、いぶかしげに目を向ける。とっさに、その腕にすがりついた。「あ、あのね。もしも──もしもの話よ?」
 長髪は促さなかった。表情ひとつ変えるでもなく、無言で先を待っている。
「もしも、あの時頼んだら──あたしがケネルに頼んでいたら」
 エレーンはためらい、目をそらす。声の語尾がわずかに震える。
 ためらいを振り切り、目を戻した。
「そうしたら本当に、その、──斬っていた、と思う?」
 サビーネ達を──とは言えなかった。
「だろうな、あいつなら」
 いと.もあっさり、長髪は応えた。事情は了解しているらしく、そつなく不足を汲みとって。
「それも仕事の範疇だ」
 エレーンは動揺して目をそらす。
「だが、あんたは頼んでねえだろうが」
 ぶっきらぼうに、長髪は言った。エレーンは唇を噛みしめ、首を振る。「──でも、あたしは、」
 問題は、そこではない。
「だって、あたしは断らなかった。ケネルに断りもしなかった、、、、、もん……」
 そっち、、、だ。
 涙が頬を伝い落ち、白いシーツに染みを作った。
 あれは本来、単なる冗談で終わった話だ。そんな話はさっさと断り、釘の一つも刺しておけば、何事もなく済んだ話だ。それを現実になるまで放置したのは、他でもない、この自分だ。
 エレーンはかぶりを振って、つっ伏した。
「いなくなればいいと思ったの! 死んじゃえばいいって思ったの! サビーネは何も悪くないのに、自分の勝手な都合だけで! あたし──あたし、最低だわ!」
 強く枕にしがみ付いた。自責の海で溺れかけ、すがれる物は、それしかない。
 頭のうしろに、押さえつけるような重みを感じた。
 長髪が頭をなでていた。無造作に。少し面倒くさそうに。あの無慈悲な冷血漢が。
 優しい言葉をかけるでもなく、慰めの言葉を口にするでもない。それでも、ぶっきらぼうな温もりが、今は何より嬉しかった。横顔は少しうとましそうだが、それでも去らずにいてくれる。そばにいてくれる存在に、心の底から安堵できる。
 すがれるものが、二つになった。
 
 
 
 
 

( 前頁 / TOP / 次頁 ) web拍手


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》