■ CROSS ROAD ディール急襲 第1部 3章2話2
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付き添いの椅子に腰かけて、開け放った木枠の窓から、北カレリアの空を眺めていた。
外は快晴、きれいな青空。冷涼な気候のこの辺りにして、今日は珍しく気温が高い。むしろ、蒸し暑いくらいだ。
矢傷を受けた老執事は、街外れの診療所に運びこまれていた。待機していた医師たちに鎮静剤を投与され、窓辺の寝台で横たわっている。幸運にも、傷は浅いとのことだが、負傷したことそれ自体が、執事には衝撃が大きかったらしい。
猛々しい喧騒が遠く聞こえた。
エレーンは親指の爪を噛み、やきもき出口を振りかえった。思わず、椅子から腰を浮かす。
ぐい、と服が引っぱられた。
「どちらに行かれるので?」
むんず、と片手が上着の裾を握っている。高くしゃがれた聞き慣れた声。
エレーンは引きつり笑いで振り向いた。
「お、起きてたの、爺(じい)! ぐ、具合はど〜お?」
上掛けから腕を伸ばしていたのは、誰あろう、かの老執事。むくり、とやおら起きあがる。
「奥様! よもや、お戻りになるというのではないでしょうなっ!」
エレーンは、ほほ、とすぐさま笑い、執事に向けて、ちょい、と手を振る。
「や、やーねー、まっさかあ! な〜んでアタシがそんなコトぉ〜……」 ←急に愛想が良くなったら要注意。
だが、散々とばっちりを食った老執事は、そんなことでは誤魔化されない。きりり、とまなじり吊りあげた。
「冗談ではありませんぞ! どれだけ危険とお思いですか! 爺は断じて許しませんぞっ!」
なにせ苦節四十年である。
「……い、行かない、行かないって!」
んもうバカね〜、とエレーンはぶんぶん手を振った。
「あそこは戦いの真っ最中なのよ〜? 怖いおじさんでいっぱいなのよ〜? そ〜んな怖くて危ないとこに、な〜んで行かなきゃなんないわけ〜? やーね。冗談も休み休み言ってよー。あるわけないじゃないのよ、そんなことお〜」
滅相もないわあー、と続けて誤魔化し、脱出口をちらと確認、執事がぶちぶち横たわった隙に、そ〜っと、そ〜っと背を向けて、ぬき足さし足しのび足──
「奥様っ!」
あえなく目論見が看破される。
薄い頭から湯気を立て、老執事が顔を近づけた。
「爺はこわ〜い騎馬隊長に、一歩も出すな! ときつく言われておるんですからなっ!」
……ぬ? とエレーンは目をまたたく。待て。つまりは、あんたの保身か?
見れば、執事はうるうる涙目。
「あの極悪非道の朴念仁に(←ケネルのことか?) うっかりバレてご覧なさい! 爺がただでは済まないではありませんかー!」
ぱっ、とハンカチをうち広げ、それに突っ伏し、よよ、と泣く。よほど、ケネルが怖かったらしい。
その様を横目で眺め、はあ、とエレーンは嘆息した。
「わかったわよ〜。はいはい、行かない、行かないって、行かないわよ行かなきゃいーんでしょ行かなきゃ」
やれやれ、のポーズで席を立ち、そのまま、さりげなく出口に向かう。
「どちらへ行かれるおつもりでっ!」
ぎろり、と執事が睨んでいる。さすが苦節四十年、なかなか目ざとい。
加えて反射神経も良いようだ。ぴた、とエレーンは足を止め、口を尖らせ、振り向いた。
「うっさいわね。おしっこよ!」
「……お……?」
執事はぱちくり瞬いた。「お?」の顔で機能を停止。
エレーンはすたすた通りすぎた。
ぱたり、と部屋の扉が閉まる。
「わっるいわね爺。ちょおっと行ってくるわねん?」 ←嘘つき
エレーンは肩越しに舌を出し、してやったり、とほくそ笑む。テキは怪我した老いぼれ一人、一度寝つけば追ってはこれまい。
「さー、急がなくっちゃあ!」
くるり、と出口に振りかえる。
浮ついた高揚感につつまれて、夏の日ざしに飛び出した。
【 戦場の奇跡 】
両手を振って、騒乱の現場に急ぎつつ、エレーンは口を尖らせた。
「……なによ、あんな娘。ただ綺麗ってだけじゃない」
こんなこと、サビーネには逆立ちしたって真似できまい。彼女にとって街中は、恐ろしく野蛮なようだから。
サビーネからそれを聞いた時には、正直胡散臭いと思ったが、爺(じい)に訊いて確認すると、どうやら事実であるらしかった。サビーネは館にこもりっきりで、もう何年も出ていない。嘘でもポーズでもなんでもなく街が恐いらしかった。まあ、そういうこともあるのかもしれない。なにせ相手は過保護に育った元深層の令嬢だ。
そう、館の奥に引きこもり、微笑んでいることしかできない女だ。自分一人では何もできない、美しいだけが取り得の女。だが、この世の大抵の男どもは、そうした女をこそ女神の如くにちやほやする。目端のきく利口さよりも、内に秘めた優しさよりも、何より見た目で選択する。それが真実であることを嫌というほど思い知った。サビーネの館に忍んでいった、ダドリーのあの態度を見て。
女の美しさは、それだけで価値だ。守ってやりたい、と男に思わせるだけで勝ちなのだ。知識をどれほど詰めこんでも、仕事の技を磨いても、常に優しく正直であっても、ことこうした恋愛においては、大して使える武器にはならない。ずっと認めたくはなかったけれど、それが世知辛い現実なのだ。
そんな相手に挑もうというなら、真っ向勝負を仕掛けたら負けだ。相手と同じことをしたところで、元より劣った見た目の分だけ見劣りすること確実だ。むしろ、それにかまけて本来の務めを怠れば、彼女の横に立つことさえできない。
自分は領家の奥方だ。地位に見合った責務がある。それをきちんと果たさねば、ダドリーにそっぽを向かれてしまう。所詮は使用人あがりかと冷たく軽蔑されてしまう。何か一つでも取り得を持たねば、サビーネに彼をとられてしまう。容姿で勝つのが無理ならば
(こっちについた方がお得じゃね?) と奴に思わせる事こそ肝要だ。そうだ、目指せ、
──使える女!
今、自分がすべきこと。それは奥方としての役割を全うすること。そうだ。ここでふんばらずして、一体いつふんばるというのだ!
煉瓦の街路を走りつつ、エレーンは街角の先を見据える。勝算なんて、あるわけない。けれど、絶対、
──この場は収める!
大通り先の南壁に、戦闘の前線は既になかった。壁を乗り越える兵の姿も見当たらない。粗末な武器を振りあげた尻尾の方の住人が、右手の街角に見え隠れしている。つまり、前線は西に移動している。
視界の端に、何かが動いた。大通りの突き当たり、防壁の上だ。
ひょいと顔を出したのは青い軍服の兵士だった。通りの左右を確認し、壁の向こうに手を振っている。下に仲間がいるらしい。先陣に殺到したローイらに気づいて侵攻を一時中断し、成りを潜めていたのだろう。だが、戦線移動を見てとって侵入を再開したらしい。壁にまたがった軍兵の合図で、一人、又一人と、兵が防壁を乗り越えてくる。
「──なんとかしないと!」
エレーンはじりじり爪を噛んだ。兵の補充があんなにあっては、いくら捩じ伏せてもきりがない。戦には素人のエレーンでも、それは本能的に感じ取った。あの流入を食い止めぬことには、この先、自軍に勝機はない。
打つ手を捜してやきもき見まわし、ふと、エレーンは気がついた。そうだ、ローイたちの形勢はどうなっている? まずは、戦況を把握せねば。
街を見渡せる高台に立つべく、櫓(やぐら)のはしごに手をかけた。はしごをつかみ、段を踏みこみ、体を上へと持ちあげる。
コツンと何かがはしごに当たった。エレーンは反射的に視線を下げる。音がしたのはスカートの右側のポケットだ。
(……あれ? これって)
手を突っこんで、ごそごそ漁った。指が細い鎖をたぐり寄せ、固い感触を探りあてる。ああ、あれだと合点して、鎖ごとそれをつかみ取った。
吊り下げられた鎖の先で、翠玉のかけらが輝いていた。
俗に言う「夢の石」。ダドリーと喧嘩して、やけ飲みしていたあの午後に、せめて奴を困らせてやろうと執務室から持ち出して、だが、無断でくすねたものだから放り出しておくわけにもいかなくて、常に人目に触れぬよう、ずっと隠し持っていた。そう、人の世の望み、ことごとく叶えるという稀代の秘宝──
(──まてよ?)
エレーンはわずか眉を寄せた。
"人の世の望み、ことごとく叶える"?
脳裏をよぎった閃きを追いかけ、じっとそれに意識を凝らす。
掌がじんわり汗ばんだ。つかのま形をとった瞬きが、みるみる輪郭を描いていく──いや、馬鹿げている。"それ"ではいかにもお手軽すぎる。そもそも、あれはおとぎ話、他人がそれを言ったなら、即刻笑い飛ばすか相手にもしないか、その手の類いの突拍子もない世迷言だ。けれど──
ぞくり、と背中が戦慄した。
──もしも、上手く、はまったら?
ひゅん──と耳元で風がうなった。
頬のすぐそばを何かが掠め、足が反射的に凍りつく。何かを感じる暇もなく、視界の先で影がちらつく。向かいの街角に青い敵影。数人の射手。
──狙われている!
射手が次々矢をつがえ、一斉に狙いを定めていた。弦をキリキリ、引き絞る音まで聞こえる気がする。標的はまさしく、この自分。だが、わかっていながら動けない。足がすくんでしまっている。
石壁に切り取られた日ざしを受けて、鋭い矢尻が鈍く光った。へたりこみそうな足を叱咤し、エレーンは必死で膝を立てる。
一心に凝視し狭まった視界で、街角で構えた射手の様子が、いやにゆっくりと展開した。その細部まで、まざまざと見える。弓を引き絞る射手の指。それがいっぱいに弦を張りつめ、指先が弾かれるように素早く離れて──意識が曖昧に膨張し、何ひとつ、まともに考えられない──!
ぐい、と手首が引っぱられた。
直後、風が鋭くうなって、カカカ──と何かが突き立った。
エレーンは弾かれたように振りかえる。
──弓矢。
休業中の商店の壁に、数本の矢羽が突き立っていた。
矢尻がまだ揺れている。避けるのがわずかでも遅れれば、今頃まさに針ネズミだ。板壁をえぐる無慈悲さに、エレーンは背筋を凍らせる。
濃密な香りが鼻先をくすぐり、ふと、エレーンは顔をあげた。香木のような、薫製のような、いや、もっとそこはかとなく複雑な、異国のものであるかのような、一種独特の風変わりな芳香──命の恩人の存在に気づいて、あわてて後ろを振り向いた。
「あ、ありがと。おかげで助かっ──」
呆気にとられて口をつぐむ。
「あんた、だれ」
「──俺か?」
パチクリまなこを瞬いて、見知らぬチョビひげが肩をすくめた。
「俺はジャック=ランバート。そこの川で釣りをしていたんだが、バパが呼びに来たんでな。それで、あんたを助けにきた」
「た、助けに? あたしを?」
きょとんとエレーンは相手を見やる。
偉そうに顎をしゃくったのは、どことなく不遜な、そして胡散臭い、痩せっぽちの男だった。どうも味方であるらしいのだが、一つ大きな疑問がある。
「で、ジャック=ランバートって、そもそも誰」
てか、そもそもパパって誰なのだ?
いや、そんなことより何よりも、奇妙で奇天烈な髪型と、特殊な格好はなんなのだ? 額にバンダナ、鼻の下にチョビひげ。ぷらぷら多量の三つ編みの先には色とりどりのビーズがじゃらじゃら、あんまり見かけない奇抜な服を色柄無関係にごてごて合わせ、白いドレープのふりふりシャツを、これでもかというほど着こんでいる。
「……(絶句)……なに、その格好。あんたの趣味?」
派手が信条の遊民たちより、下手すりゃ、こっちのがよっぽど派手だ。
思わず口をついたというだけで決して興味はなかったのだが、ジャック=ランバートは得意満面、「これか?」と三つ編みのビーズを摘みあげる。
「これは俺の宝物だ」
感慨深げにしみじみのたまい、一人で深くうなずいている。
「……ふ―ん」
もはや、なんと言って反応していいものやら分からない。分かっているのは、いささか変わった美的感覚の持ち主らしいということだ。
ヒュン──と空気が不穏に鳴った。
はた、とエレーンは我に返る。
「あ、ありがと、ジャックさん。んじゃ、そゆことで」
にっこり笑って、そそくさはしごに手をかけた。そう、こんな妙ちきりんな変てこ野郎と歓談している場合じゃないのだ。
「おお、気をつけて行けよ」
ジャックはにこやかに手を振った。
はしごを登りつつ、引きつり笑いで会釈を返し、だが、とエレーンは首をひねる。
普通は止めるものではないのか?
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