■ CROSS ROAD ディール急襲 第２部 １章 ２話４
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月夜の原野の暗がりに、ぽっと小さく火が灯った。
束の間それは顔を照らして、ふっと再び掻き消える。
昼とは変わり、肌寒いほどの夏の夜気に、薄く紫煙がたゆたった。原野の暗がりで人影がうごめき、月下の草海を歩き出す。革の上着をはおった二人──一人は黒髪、一人はしなやかな長い髪。
「よくわかったな。首長がまた戻ってくると」
顔をしかめて一服しながら、ファレスは連れに目を向けた。夜空をながめて隣を歩き、ケネルは横顔で薄く微笑う。
「あれで収まるアドルファスじゃないだろ」
月の明るい静かな夜だ。
さらさら夜風が、黒い草波をさらっていく。
「時に、ケネル」
ぶらぶら足を運びつつ、ファレスは呆れ顔で目を向けた。「お前、作ったことねえだろ、薬草茶」
「まず要らないからな、この体じゃ」
「だとしても、いくらなんでも濃すぎんだろ。誰が飲めんだ、あんな泥沼みてえな代物を」
紫煙に紛らせ、嘆息する。
「俺は、反対したはずだぞ」
柳眉をしかめて見やった先で、件のゲルが暗がりに白い。
「みろ。言った通りになったじゃねえかよ。まだ行程の初日だってのに。北方から商都は五日の行程、国境は更に三日先。これが最低でも必要な日数だ。しかも、馬で身軽に飛ばすとしてな。ただでさえ重傷の上、あれでも領家の正妻だぞ。こうして連れ回してくたばってみろ、すぐにも一悶着もちあがる」
夜闇にまぎれた夏虫の音に包まれて、連れは暗がりで紫煙を吐く。ぶらぶら隣を歩きつつ、ケネルは口をつぐんだままだ。
「もたねえぞ。分かっているだろ」
たまりかねた口調で、ファレスは責めた。
「なぜ、そうも強行する。のっぴきならねえ事情でもあるのか」
「珍しいな」
くすり、とケネルが横顔で苦笑った。
「お前がそうまで食い下がるとは」
冷やかすような口振りでうかがう。「そんなに気になるか？ あの客が」
「──俺はただ、注意喚起しただけだろ」
ファレスは鼻白んで口ごもり、舌打ちで憮然と目をそらした。
立ち止まった足を、再び踏み出す。「なら、好きにしろ。部隊の隊長は、お前だからな」
「注意は、している」
慎重な口振りで、ケネルは応えた。
ファレスは苦虫噛み潰して紫煙を吐く。「だったら今後も四六時中監視して、ああして張りつくつもりかよ」
「逃がすわけにはいかないだろう？」
含みにファレスは、柳眉をひそめて口をつぐんだ。
四方に黒枝を張り出した、大木の幹に背でもたれる。「で、どんな風の吹き回しだ」
静かに浮かんだ月の下、夜風が葉先をなでていく。
がらん、とどこかの暗闇で、家畜の首の鈴が鳴る。
ケネルも草海で足を止めた。紫煙を吐いて、空に視線をめぐらせる。
「──泣いてるんだよな。夜更けに一人で」
無数の星が遠くきらめく、夜の天蓋に目を凝らす。
「俺は、たまに夢を見る。いつも決まって同じ夢だ。そこでは、俺は、間に合っている。あいつは床の血溜まりで、虫の息で倒れている。何をしていると思う？ その時、俺は」
ファレスは面食らって口をつぐみ、だが、言わんとする話を察し、疎ましげに柳眉をしかめた。「もう、済んだことだろうが」
「俺は、平気な振りをし続ける。天気の話やら手柄話やらを、一人で延々とし続けて」
「だからなんだ。客とどんな関係がある」
「領主の生還は、望み薄だ」
夜空の星から目を戻し、ケネルがおもむろに振り向いた。「それでも、会いたいというのなら」
「手を貸すつもりはねえんだろ」
「どうやって。不可能だろ」
灰を叩いて落としつつ、ケネルは横顔で苦笑いした。
「トラビアは鉄壁の城塞都市だ。国境軍の本部も近い。警備の目を掻い潜り、運よく街壁に取りついたとして、弓矢の餌食になるのがおちだ」
「抜け道があんだろ。とぼけんなよ」
「分かっているはずだ。今、あの手は使えない。余所者がいるからな」
夜闇に沈んだ草海で、夏虫が静かに鳴いていた。
あたり一面、青と黒との影絵の景色。月下に広がる暗がりに、半球状の件のゲルが、ほの白く浮かんでいる。
ふい、とファレスは目を戻した。「にしたって、なんだってんだ、あの茶番は。さっきのあの"卵"ってのはよ」
標的をすでに手中にし、確実に捉えていたあのウォードが、ただの一言で動きを止めた。
「さあな。知るわけないだろう」
ケネルが投げやりに返事をほうった。
「ウォードのことは、バパに訊け。世話係はあの人だ」
黒梢の暗がりで一服し、ファレスは苦々しげに顔をしかめる。
「にしても、女ってのはしょうもねえ。まさか思いもよらなかったぜ。よりにもよって、ウォードを焚きつけるってんだからよ。で、それはそうと、あの女」
指先で紫煙をくゆらせて、件のゲルを顎先で示した。
「なんで、まだ生きてんだ」
赤い絨毯にへたりこみ、エレーンは固唾を呑んで凝視していた。
仰ぎやった視界には、目前に迫った蓬髪の男。ゲンコで"おあいこ"にした直後、白シャツに不穏に引っぱりこまれて、うっすら気にはなっていたが──
後ずさった背が、壁にぶつかる。
──やっぱり、不興を買ってたかー！？
ただで済むとは思えなかった。
相手はこの背を斬りつけて、現に凶行に及んだ男、粗暴な気性は折り紙つきだ。まして、誰の目もないというなら──。
冷たいものが背に走り、エレーンはわななく唇を噛む。昼に冷やかしの視線を向けてきた、傭兵たちの顔が思い浮かんだ。目の奥に潜む野卑な光──。
逃げ道を、手立てを、目の端で探す。
脱出口は一ヶ所のみ。
靴脱ぎ場のある東の戸口だ。だが、行く手を蓬髪が阻んでいる。この建物は布壁だが、内には格子が貼ってある。簡素な造りでも、そこは住居、素手で破れるほど柔ではない。
（ももももうっ！ ケネルのばか！）
張りついた壁を背でこすり、エレーンは内心、涙目でなじる。
（なにが「俺はここで寝る」よ！ この肝心な時にいないんじゃ）
──なんの役にも立たないじゃないよっ！
最も遠く距離をとるべく、蓬髪のいる戸口の真向かい、右手の壁にとっさに逃げた。
膝が萎え、肩が傾ぐ。
辛うじて床に手を突いて、四つん這いで這いずった。だが、支えたはずの腕が萎え、がくり、と顎から床に突っ込む。
ぐい、と肩をつかまれた。
膝と爪先が持ちあがり、体が宙に浮きあがる。
腕が、軽々とかかえあげた。
「お……お、降ろして。お願い。降ろして……」
ぎゅっと硬く目をつぶり、エレーンは蚊の鳴くような声で訴える。
萎えた手足でせめてもがくが、蓬髪の男は応えない。筋骨たくましい腕でかかえて、のしのし部屋を歩いていく。もがいても、もがいても、その腕はびくともしない。
どさり、と床に降ろされた。
尻もちをついて転がった頬に、毛織の絨毯のごわついた感触──いや、これは絨毯じゃない。まるで異質ななめらかさ。それに、もっとひんやりしていて──なんだったろう、この滑りの良い手触りは。
動転して混乱し、うまく頭が働かない。エレーンはのろのろ瞼をあける。
目に、ほの白い色彩が飛びこんだ。赤い絨毯を区切る白。来客用の
──寝具の敷布。
瞬時に、視界が焼き切れた。
指先に触れた物をつかんで、手当たり次第に投げつける。
立ちはだかった蓬髪が、難なくクッションを受け止めた。視線はこちらを見据えたままで、脇にほうって再び踏み出す。何も考えることはできなかった。もう、何も。
何ひとつ。
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