CROSS ROAD ディール急襲 第2部 1章 2話5
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 向かいの床で、どさり、と腰を降ろした音がした。
「おい」
 ざらりとれた重い声。
 向かいで、布ずれの音がした。蓬髪が身じろいだらしい。
 必死で首をすくめた耳に、炉火が出し抜けに大きく爆ぜた。
 続いて爆ぜるその音が、小さく絶え間なく聞こえてくる。
「……おい、そう恐がるなよ」
 野太い声には意外にも、持て余したような色がある。
 なぜだろう。まだ手を出してこないのは──怪訝に思い、おそるおそる目をあけてみた。
 たくましいズボンの膝が、向かいであぐらをかいていた。恐々あげた視線の先で、無精ひげをさすって思案顔。
 ジジ……と灯かりの芯を燃やして、壁の火影が揺らめいた。
 土間で、湯が沸きたつ音。無精ひげに覆われた口が、ゆっくりと薄く開いた。
 だが、顔をしかめて、口をつぐむ。
 ためらい、横を向いて軽く舌打ち。あぐらの膝に置いていた、ごつい手がもち上がった。
 ぎくりとエレーンは身構える。手が所在なげに宙をさまよい、往生したように蓬髪を掻く。「──たく。参ったな」
 蓬髪は顔をしかめ、大きく息を吐いてから、思い切ったように振り向いた。
「すまなかった」
 睨みつけるようにじっと見て、あぐらのまま頭を下げる。
「なんなりと言ってくれ。何を充てても、償いはする。この通りだ」
 傭兵部隊の一を預かる、アドルファスと呼ばれた、あの首長が。
 腰を抜かしたまま面食らい、エレーンもあわてて居住まいを正す。
 上目使いで向かいを覗いた。「あの〜。もしかして、謝りにきた、とか?」
「──だから、そう言っている」
 蓬髪が苦々しげに顔をしかめた。
「あの、でも、ふとんの上に、あたしのこと──」
 警戒を解かずに身を引きながら、落ち着きなく視線をめぐらせる。
 ふと"それ"が目に留まった。
「そっか。西の方に行ったから」
 にわかに事情を合点して、赤くなって、あたふたうつむく。「西は・・神聖な方角・・・・・だから、だから、あたしをどかそうと──」
 このゲルに到着してすぐ、あのケネルに戒められたはずだ。
「神聖な?──ああ、いや」
 蓬髪の首長は首をかしげ、無精ひげの顎をつかむようになでた。「そんなことより額縁・・がよ」
 は? とエレーンはまたたいた。なぜか会話が噛み合わない。
「頭に落ちでもしたら危ねえだろう」
 西の壁の絵画を見やって、蓬髪の首長は顔をしかめた。
「下手すりゃ、角で額を切るぞ。あんた、壁にぶち当たっていたし、もう行き止まりだってのに進もうとするし」
 何も聞こえてねえようだったし、と付け加える。
「で、でも、それなら、なんで、ふとん──」
「いや、あんたが降ろせって言うからよ。そうはいっても、手を放せば、暴れるだろうし、転げて落として、頭ぶつけても事だしよ」
 あんぐりエレーンは口をあけた。すると何か? だから、万一転げ落ちても、一番支障がなさそうな、柔らかい場所に降ろしたと? そう、すなわち寝具の上に。
「……。すみませんでした」
 耳まで真っ赤にのぼせつつ、あたふたエレーンは頭を下げた。「と、とんだお手間をおかけして」
 なんて、はしたない勘違い──。
「どういたしまして」
 気分を害したふうもなく、蓬髪の首長は鷹揚に返した。とはいえ、こっちも必死だったし、散々非礼を働いたはずだ。顔をぐいぐい平手で押したし、手当たりしだい蹴っ飛ばしたし──。
 全身じっとり冷や汗まみれ。てっきり襲われたと思ってました……
 とは口が裂けても言えはしない。態度にありあり出ていたが。
「──あ、でも、さっき」
 エレーンはそそくさ、ごまかし笑いで話を戻した。「あの、あたし、"おあいこって" だから、話は終わりのはずで」
「終わっちゃいねえよ。まだ何も」
 首長は苦々しく首を振った。何かに腹を立てたような口振りで、言い聞かせるように目を据える。「まだ何も済んでねえだろ。そんな怪我を負わされて、あんただって収まらねえだろ」
「あっ! いえ、でも──」
 思わぬ剣幕にエレーンはあわてた。「あの〜、あたしは、もう別に。だから、もう」
「俺なら、生涯許さねえ」
 首長はごまかしを許さない。とりなしに構わず言葉を続け、濃い眉を厳しくひそめた。
「もしも、どこぞの馬鹿野郎がカーナに傷なんぞ負わせたら、何があっても許さねえ。そいつがどこへ隠れようが、どんなに遠くまで逃げようが、必ず捜し出して叩っ斬る。それだけのことを、俺はしたんだ」
 思わぬ強い語気に圧されて、エレーンは、はあ、とあいまいに返す。困惑しつつも、うかがった。「それで、あの、カーナっていうのは」
 彼の恋人の名だろうか。
 ふと、首長が顔をあげた。
 物思いから醒めたように腕組みを解き、照れくさそうに無精ひげを掻く。「俺にも一人、娘がいてよ」
 エレーンは面食らって見返した。そういえば、子供がいても、おかしくはない年代だ。むしろ、四十絡みのこの年ならば、当然すぎるほど当然だろう。
 すとん、と何かが腑に落ちた。
 これまで宙を漂っていた釈然としないくすぶりが、収まるべき所に収まったような。じわじわと合点する。そうか。だから・・・か。この人は、誰かの父親だから──
 生真面目な顔で、蓬髪の首長はうなずいた。
「娘に傷をつけるなんざ、何があっても許されねえことだ。きっと親御さんだって許さねえ。どんな理由があるにせよ」
「理由?」
 とっさにエレーンは聞き咎めた。話が唐突に横にそれ、なにか違和感を覚えたのだ。
 首長は何事か言いかけて、だが、断念するように口を閉じ、ゆるく首を横に振った。「──ああ、いや、なんでもねえ」
 きまり悪げな横顔を、釈然とせずエレーンは見る。
 そういえぱ、おかしい。部隊を預かり、北方へと赴いたこの首長が、ずっと籠の鳥だったサビーネと、面識があったとは思えない。まして、害するほどの恨みなど。
「──俺はただ、あんたのよ」
 気まずい沈黙を追いやるように、首長はもどかしげに口をひらいた。
 顔をしかめてその先を探し、だが、吐息と共に首を振った。
「──いや、なんでもねえ」
 真顔に戻って目を向ける。
「この借りは返す。必ずな」
 あわててエレーンは片手を振った。「か、借りだなんて、そんな! だってあれって、あたしが勝手に飛び出したわけだしっ!」
 じっと首長は目をすがめ、本心を見極めるように顔を見た。
 いかつい目元を、わずかに緩める。
「……あんたは、いい奴だな」
 あぐらを崩して後ろ手を突き、寛ぐように片膝を立てた。
「本音をいえば、そう言ってもらえると、ありがたい。あの時は不意を突かれてな。屋敷の警備が割りこんだかと、うっかり刀を振っちまって。仕留める気でいったから、ばっさりいったかと思ったが」
 ひげ面で小首をかしげ、しげしげ、こちらの顔を見た。
「運のいい奴も、いたもんだな」
 返す言葉が見つからず、エレーンはそわそわたじろぎ笑う。「お、お陰さまで」
「しかし、よくも、あんな所へよ」
「や。自分でも何がなんだか。あの時は、あたしも無我夢中で」
「いや、大したもんだぜ。中々できることじゃねえ。何せかばってやったのは、亭主のってんだから」
 鋭くエレーンは声を呑んだ。
 油断していた胸を衝き、彼女の笑顔が一杯に広がる。一度は押し込めたあの・・苦さが、黒いもやがかかるように、毒が回るように染みていく──。
「……違う」
 口端だけでぎこちなく微笑い、エレーンはあえぐように息を吐いた。
「違うの。ぜんぜん偉くない。あれは、おじさんが思うようなことじゃなくて──あの、──」
 言葉にできず取り止めた先を、首長はやんわり視線で促す。
 仕方なくエレーンは、溜息まじりに向かいを見た。「──ケネルから、聞いてない?」
「聞くって何を」
 熱い固まりがこみあげて、乾いた唇を軽く噛む。
 胸が震え、唇が震えた。指を強く握りこむ。
 首長はじっと黙っていた。中途半端に取り止められても、訊き直すでも、促すでもない。
 やがて来るだろう詮索を、エレーンは身を硬くして全身で拒んだ。手前勝手な醜い心を、これ以上彼に覗かれたくない。やっと手に入れた親交を──この人の信頼を手放したくない。真相を知れば、きっと呆れる。それに──
 あの・・姿を思い出し、エレーンは居たたまれない思いで眉をひそめた。
 あの後、現場に駆けつけたケネルに、突き飛ばされたのも知っている。扉の外の暗い廊下を、うろついていたのも知っている。中に入って来ることもできずに、深夜までうろうろと。夕焼けの壁でうずくまり、ひとり泣いていた小柄な肩。
 だが、首長が感服したあの行動は、サビーネをかばってのことではなかった。後継ぎをかばったわけでもない。そんなたいそれた動機ではないのだ。
 割りこんだ理由は一つきり。浅ましくて、くだらない、ぱかみたいに単純な理由だ。ただ軽蔑されたくなかった、
 ダドリーに・・・・
「なにを泣いてんだ。ん?」
 思わぬ重みが、後頭部あたまにかかった。
 怪訝に思い、顔をあげると、頭の上に、硬くてごつい大きな手の平──首長が腕を伸ばしている。
「なんだ、どうした。辛気くせえ顔してよ」
 手が頭をなでくりまわす。小さな子供にするように。
 なだめるように首長は笑い、言い聞かせるように言葉を続ける。「ほら、どうした。大丈夫だ、俺は味方だ。何があろうと、味方だからな」
 エレーンは小さく息を呑んだ。
 不意をついて舞い降りた奇蹟に、心がとっさに反応できない。
 気を張り続け、強ばった胸に、温かいものがじんわり広がる。やっと、やっと、
 やっと一人、味方が・・・できた・・・──。
 突きあげた切なさで、胸がつまる。──そうか。そうだ。そう・・なのだ。
 奇蹟は、その自覚をも連れてきた。今にして、ようやくわかった、自分がとった行動の根っこが。こんな怪我を負わされて、それでも尚、彼を許せる、と思った理由が。
 この彼のまなざしだ。戸惑いと困惑を含んだ気遣い。それは、いつしか失くしたもの。幼い頃は皆と同じように持っていて、けれど、あの朝に失った。
 そんな掛け替えのないものを、この人はくれた。どれほど渇望しようとも、もう永久に取り戻せない、そんな得がたい宝物を、惜しげもなくこの手にくれた。誰より真摯に気遣ってくれた。あの場で一人、この人だけが。
 だから・・・、彼を許そうと思った──。
 こぼれた涙を指先でぬぐい、エレーンは微笑って顔をあげた。
「ちょっと、お願いがあるんだけどな」
 
 

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