『 傘もささずに、風邪をひきますよ? 』
ためらいがちに覗きこむ、息を切らした柔らかな微笑み。
ようやく母を捜し当て、息を呑んだ子供のように、大きな瞳を輝かせて。
首筋の肌が泡立っていた。
ふわりと揺らいだ髪の中、いつにも増して頬が白い。夏の服に包まれた、薄い肩が凍えている。なのに、あの娘は、笑って言うのだ。
『一緒に帰りましょう、エレーンさん 』
仕事だから世話をするあの娘は。
この手から彼を奪ったあの娘は。
ううん、本当は知っている。
彼の心は、自分にはなかった。それを承知で無理に頼みこんだのだから。
「仮初めの恋人」の約束だった。
レーヌにいる間だけの。彼は遊びと知っていた。それは知っていたはずなのに。
本当に想いを寄せていたのは、この娘の方であることを。
男なら誰もが夢中になる、か弱く柔らかなこのアディーの。
しとしと霧雨の降りしきる、薄墨を流したような雨もよう。
夏着の腕に、首に、頬に、まつ毛の先に、しっとり、やんわり、まとわりついて。
どんより雨雲に閉ざされた、大陸北方の避暑地の空。白く煙る遠い山、霧に包まれ眠る森、長く道が伸びている。彼方まで続く田舎のあぜ道。
『 もう、宿に戻りましょう? こんなに冷たい雨だもの。濡れた体で立っていたら、芯まですっかり冷えてしまうわ 』
ひっそりとした静かな景色、ぬかるんだあぜ道に、ひと気はない。
霧雨ふりしきるこんな日は、誰も外に出はしない。そんな酔狂な物好きは、このアディーくらいのものだ。
傘の柄を持つ手が濡れていた。
亜麻色の柔らかな髪の先から、ぽたり、ぽたり、と雫がしたたる。
スカートの裾が濡れそぼり、細い足首に貼りついていた。白い夏服に合わせた靴が、黒く水を含んでいる。泥土にまみれた高価な革靴。不自由な足を引きずって、どこのぬかるみを歩いてきたのか。一体いつから捜していた。
ひなびた街道の古い宿で、静養していたはずだった。
屋敷の世話係のことなんか、気にせず、ほうっておけばいいのに。どれだけ雨道に立っていようが、濡れたくらいで死にはしない。
でも、体の弱いこの娘は違う。
傘をかたむけた白い手に、ぽつん、ぽつん、と雫がしたたる。
ひなびた田舎を覆いつくす、しとしと細かな夏の雨。灰色の空、灰色の山、彼方へつづく灰色の道、どこもかしこも薄墨に呑まれた景色の中で、あの娘が差しかけた傘だけが赤い。
くるり、と赤い傘をまわして、はにかんだように微笑んだ。
『 早く帰ってセヴィランさんに、温かいお菓子をもらいましょう? 』
まったく、疑いもしないのだ。その手を相手が拒まぬことを。
手を伸ばせば光の中、今でもあの笑顔が広がる。
締め出された輪の中に、再び招いてくれた娘。とうに失くした家族のぬくもり。ささやかで真っ当で人並みの境遇。あの娘は最後の大事な家族。かけがえのない大事な妹。だから、思い出したくない"あの時"には、鍵をかけたままにしておいていいよね?
低く垂れこめた雨雲の下、灰色にかすむ遠い山、雨に煙る夏の畑、かなたへ伸びたぬかるんだあぜ道、畑の向こうの遠い森林、しとしと霧雨が降っている。
赤い傘がくるくる回る。
薄墨に呑まれた景色の中で、その赤だけがくるくる回る。
くるくる、くるくる、くるくる、くるくる──
■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 1章 3話2
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