■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 1章 3話3
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あの夏の日の夢を見た。
アディーと過ごした、最初で最後のあの日々の。
なぜ、あんな夢を見たのだろう。二年も経った、今になって。
アディーは、ラトキエの領邸に勤めていた頃、身の回りの世話を任されていた、体の弱い娘だった。とはいえ仕える主人ではなく、病身の彼女を主が買い受け、街の娼館から請け出したのだ。
あの夏、アディーは主に連れられ、ノースカレリアで静養していた。
商都の領邸で伏せっていた彼女を、主が気ままに連れ出したからだ。あの北方の避暑地まで。
あの頃、領邸の別棟には、アディー目当てでダドリーとラルッカが、屋敷に逗留していたレノ様目当てで、カレリア随一の豪商の令嬢エルノアが入り浸っていた。
今でこそ、ダドリーはクレスト領家を統べる当主で、ラルッカは商都の官吏だが、当時はそれぞれ貴族の三男と次男という、相続する財産をもたない「冷や飯食い」という立場だった。それで自活の道を探るべく、似たような境遇の子弟が集まる、商都のサロンに出入りしていた。先の見えない鬱々とした日々を送る中、主が連れてきたアディーと出会い、たちまち虜になったらしい。
だが、当のアディーは病弱で、たいてい部屋で伏せっていたし、エルノアが狙っていたレノ様も遊び歩いてばかりいたから、目当ての相手に目通り叶わず、待ちぼうけを食わされることも、しばしばだった。
あり余る暇をもてあまし、別棟の裏庭でたむろす内に、関心を同じくする者同士、誰からともなく声をかけ合い、いつしか身分の壁さえ越えて仲間意識が芽生えたのも、むしろ自然の成り行きといえたろう。ダドリー、ラルッカ、そしてエルノア、むろんアディーとレノ様も含めて。
アディーは少女のようにあどけない、かわいらしい顔立ちの娘だった。
そろそろ二十歳にもなろうかというのに、子供のようにか細い手足と、日焼けなどしたこともないような白磁の肌をもっていた。たぐい稀なる美貌だが、その稀有な儚さの理由も、すべてが終わった今なら分かる。
彼女は実際、自由に出歩くことなど、できなかったろう。彼女が患うその病は、それほど深刻なものだった。
それが不治の病「黒障病」だと知ったのは、余命いくばくもないと知らされたのは、北方の澄んだ日ざしがゆるんだ、あの夏の終わりだったろうか。
仲間たちは一様に、戸惑い、うろたえ、絶望し、だが、この深刻な奇病を前に、人はあまりに無力だった。ダドリーもラルッカもエルノアもこの国屈指の名家の出だが、その財力や人脈をもってしても、元よりラトキエの人々は、彼女の延命に手を尽くしたが、それでもやはり、去りゆく彼女を引き止めることはできなかった。
声を嗄らして彼女に呼びかけ、都度こちらに引き戻し、でも、
彼女は一人きりで逝ってしまった。誰の手をもすり抜けて。
焼け付くような後悔が、今でも胸に残っている。
主治医が見立てた「晩夏」より半年も早い冬の終わり、芽吹いたばかりの春だった。凍てつくようなあの明け方──なぜ、あの時目覚めなかった。
朝も昼も晩も深夜も、あの別棟に皆で詰め、彼女の容態のわずかな変化に一喜一憂しながらも、彼女を励まし、苦しむ額の汗をぬぐい、その様子に意識を凝らして、なのに、あの朝に限って、なぜ誰も!
最後の、最後の、最後になって!
あの静かな夢の気配が、まとわりついて離れない。
まだ、肌に残っている。しとしと大地に降りそそぐ、まとわりつくような霧雨の気配と、あの娘の軽いぬくもりが。
ふわりと落ちた羽根のように軽い、彼女の柔らかな息づかいが。濡れた手の冷たさが。雨に凍えた指の細さが。
薄墨に塗りこめられた曇天の下、赤い傘がくるくる回る。
くるくる、くるくる──くるくる、くるくる──
まるで、警鐘を鳴らすかのように。
「……おい。これはなんだ」
しばし、絶句で沈黙した後、ケネルが"それ"を、二本の指でつまみ上げた。
ちら、と正座の上目使いで、エレーンはケネルを盗み見る。「……えっと。それはぁ〜、サンドイッチ、というもので〜……」
「悪い。もう一度言ってくれ」
「……う゛。あ、いや、だからぁ〜」
もじもじ指をいじくり回して、エレーンは口を尖らせた。
(もぉ〜。そうやって、すぐ怒るぅ〜……)
じっとり睨みあう両者の間に、とある物が置かれていた。
よれよれになった白い包みだ。ボロ……っとひしゃげたその隅には、何かの汁さえ染み出ている。
うららかな日ざしが降りそそぐ一夜があけた室内で、ケネルと膝詰めで話していた。戸口側の土間の脇──半球状の家屋の中央、つまり即席の緩衝地帯で。
遊牧民のこうしたゲルを、今後も渡り歩く、とケネルが言うので、きっちり陣地を割り振って、以後、相互不可侵とする旨、通告してやったのだ。土間を境に南がケネル、水瓶のある北側がこちら。もっともケネルは、ずかずか越境してくるが。
一夜が明けたゲルの床には、荷物の中身が散乱していた。
今日は行程を取り止めたとかで、ケネルがいきなり荷物検査を始めたのだ。ちなみに、とり散らかした諸々の中には、持ってきた覚えが一向にない、男物の柄シャツが混じっている。
不思議に思ってよくよく見ると、その正体がようやく分かった。
ゆうべゲルに訪ねてきた、あの蓬髪の首長アドルファスが着ていたシャツだ。
あの後、寝具に寝転んで、彼と色々話をした。
一人でいるのは無用心なので、ケネルが戻るまでいて欲しい、そう彼に頼んだのだ。
なのに、土間の窯の火加減を見ながら喫煙する背を見ていたら、肩から力が抜けていき、すぐにうとうとし始めた。胸をあたたかく満たしていたのは、ずっと忘れていた安堵感。澄み渡った手放しの信頼──
気づけば朝になっていて、温かく心地よい寝具の中で、ぬくぬく肩までくるまっていた。
蓬髪の首長はもうおらず、もう一組あった寝具の方が、大雑把に畳んで壁ぎわに積んであったから、あの後ケネルが戻ったらしい。
そして、その当のケネルは、その後、荷物を検めて、顔をしかめてこう言った。
『 持ち物は必要最小限。馬への負担を考えろ 』
つまり "これらの荷物はあらかた不要。よって、ここに置いていく"
かくいうケネルの手荷物は、所々すりきれた革のザックが一つきり。要は、自分と同じようにせよ、とのことらしい。
でも、と内心エレーンは、ぶちぶちケネルに文句をたれる。あんたとあたしじゃ事情がぜんぜん違うのよ女の子は荷物が多いんだからあったり前でしょ──
むしろ、あれっぽっちで、よく間に合う。あんな袋一つでは、着替えを入れただけで満杯だ。そもそも奴は「全部置いていけ」などと無茶難題を吹っかけるが、長旅に楽しみは不可欠だろう。トランプだとかゲームのたぐい、気分転換用の花火とか──。
そして、そうこうする内に、ついでにコレが発覚した、という次第。そう、
──「第一次サンドイッチ事変」勃発。
たまりかねたように嘆息し、ケネルが包みを取りあげた。「──捨てるぞ」
「あ、でも!」
はっし、とエレーンは思わず飛びつく。
む? とケネルが振り向いて、ぐい、と手元に引っぱり戻した。
「もう食えない」
「だけどっ!」
両者譲らず、包みをつかんで引っ張り合う。
ケネルが溜息まじりに顔を見た。「一日持ち歩いた生ものだぞ。傷んでいる」
「えー、でも〜」
「もう無理だ」
「でも、真ん中の方をちょびっとだけなら」
「どこでも同じだ。十中八九腹を壊す」
「──むう……でも〜、せっかくぅ〜」
「いい加減にしろ」
強い視線を向けられて、エレーンはひるんで言葉を呑んだ。
取り合った手をのろのろ放し、正座の膝に悄然とうつむく。「だって……」
敷きつめられた絨毯が、うららかな日ざしを浴びていた。
天窓のあいたゲルの外で、小鳥のさえずりが小さくする。ケネルが軽く嘆息し、呆れたように目を向けた。「北方とはいえ、今は夏のさなかだぞ。なぜ、食い物なんか持ってくるんだ」
「──だって」
「だって、なんだ」
「辻馬車で行くと思ったし」
「それがどう関係するんだ」
ケネルは普段、返事も省くほど無口だが、尋問中は手を抜かない。
「だって、トラビアって遠いでしょー?」
エレーンはぶちぶち指をいじった。
「着くまで、ただ座ってるだけなら、時間あると思ったから──だから二人で、ケネルと一緒に食べようと思って。なのにケネルってば、会うなり荷物、勝手にどっかにやっちゃうし、いきなり馬とかにのっけるし、あたし、持ってきてたの忘れちゃって」
「だが、現に──」
「すんごくがんばって作ったのよ? せっかく朝早くに起きて、みんなにも手伝ってもらってさ、なのに──」
「事情はわかった。だが、現に傷んでいる」
「でも」
「いいな。捨てるぞ。話は終わりだ」
身じろいだ向かいに、はっと、とっさに目をあげる。
諌止の視線とかち合った。
エレーンはおずおず手を引っ込め、膝にうつむき、唇を噛む。抗議をしても、ケネルは聞かない。きっと、このまま押し通す。頑固だからというよりも、常に彼は合理的だから。事情は一応説明したが、それさえ彼には下らない話──。
胸が強く締めつけらけて、手が膝の生地を握りしめる。だけど、これはケネルのために──
「あんたも、たいがい強情だな」
ケネルが溜息まじりに手を伸ばした。
とっさに、あわてて引ったくり、エレーンは胸に抱えこむ。「やっぱ待って! 捨てないで! あたしだけでも食べるからっ!」
「食ってやるよ」
「だから食べるって言ってんでしょっ! わかんないタヌキねっ! 大丈夫だってばっ! 傷んでないとこ半分だけなら──え?」
またたき、ケネルの顔を見た。「……食べて、くれるの?」
「嫌なんだろ、捨てるのは」
ケネルが包みをとりあげて、無造作に紙を剥き始める。
あっけにとられて、ケネルを見た。
温かいもので胸が満たされ、エレーンは軽く唇をかむ。そうだ、ケネルはこういう奴だ。無愛想だし、威圧的だし、理不尽なことばかり言うけれど、こういうことを、彼はする。こういうところが、彼にはある。愛想がなくて、ぶっきらぼうで、でも、きちんと配慮はしてくれる。事情を知れば、手を尽くしてくれる。なるべく希望に沿うように。
「──ありがとケネルっ! もう、大好きっ!」
思わず首に抱きついた。
突進されて首だけ傾け、ケネルは鬱陶しそうに顔をしかめる。
「なつくな。暑い」
口をとがらせ「放せ」の顔。いつものあの仏頂面。
笑って、ケネルを横から覗いた。「ねっ! おいしい? ケネル?」
「まずい」
ケネル隊長、憮然と断言。
「ほらほらほらね? 見て見てケネル(←くじけない) お肉とか野菜とか栄養関係もうばっちり! これって結構いい肉だから、実は結構おいしいもんね? ねっねっケネル。ねっ、ケネル?」
「まずい」
「んまたまたまたあ〜! 照れちゃってえ! やーねえー。ケネルってば冗談ばっかり!」
ぱん! と笑ってケネルを叩く。
ぶっ飛ばされて、けほっ、と噎せつつ、ケネルは、なんだよ、と嫌そうな顔。
「そんなはず、あるわけないでしょ? だあって、すんごくいい肉なのよお?」
「まずい」
「もー。ケネルってほんと、頑固よねえ〜」
「あんたにだけは言われたくない。早く入れ。一人で食うには量が多い」
へ? と面食らって見返した前で、ケネルが戸口に目を向けた。なんだ、いきなり。誰かいるのか?
ちちち……と小鳥の声がした。
絨毯のない靴脱ぎ場の隅に、二人分の靴が寄せてある。年季の入った編みあげ靴と、自分の見慣れた旅用の革靴。厚布は、そよとも動かない。
ケネルは辟易とした顔で嘆息する。──て、なんだそれは。この期に及んで悪あがきか? 格好つけて言いきった手前、引っこみがつかないというヤツか? まったく、これだから頑固者は困る。
しん、と沈黙した戸口の布を、しら〜……と横目で見ていると、ケネルが苛ついた口調で舌打ちした。
「そこにいるのは分かってる。さっさと入れ、ファレス」
ばさり、と厚布が払われた。
昼の草原を背景に、しかめっ面でそっぽを向いた、ファレスが憮然と立っていた。
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