■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部1章 7話7
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その姿を凝視して、エレーンは唇を震わせる。
世界が動きを止めていた。
この巡り合いを見守るように。
野草がゆらぎ、梢がそよぐ。鳥も高みでさえずっている。けれど、二人の周囲だけ、すべてから隔絶されている。したたるような森の緑──。
ケネルが、いた。
あのケネルが立っていた。確かに、この目の前に。
あのケネルの確かな気配が、手の届く場所にある──。
胸の痛みに、顔をゆがめた。
のろのろエレーンは目をそらし、へたりこんだ足の下、踏みしだいた草地を見つめる。暗鬱で塗り込められた、やるせない胸のどこかで、とくん、とくん、と鼓動が息づく。
(……え?)
エレーンは戸惑い、ゆるく開いた我が手を見つめた。体に生気が戻った気がする。凍え滞っていた血流が、急に巡りはじめたような──。
思わぬ不可解な反応に、エレーンは密かにうろたえた。どうやら嬉しいようなのだ。ケネルと再び会えたことが。
──いや、
相手は他ならぬこのケネル。あのひどい仕打ちの張本人ではないか。次に彼に会ったなら、すべきことがあったはず。
浮つきかけた弱い心を、ぎゅっと拳に封じこめる。──言わないと。
ケネルに、あのことを言わないと。
旅はやめて、もう帰ると。今まで色々ありがとう。だから、これで、
さよなら、と。
「……あの」
ためらいがちに口をひらいた。
少し離れて立ったまま、ケネルは辺りをうかがっている。耳を澄ますような顔つきで。小太りが戻るのを気にしているのか。──いや、その顔はどちらかといえば、何かを待っているような。
いずれにせよ、呼びかけに対する反応はない。思いもがけず小さな声で、注意を引くことができなかったらしい。エレーンは浅く息をつき、その姿から目をそらす。
いざとなると、切り出しかねた。
それを告げるということは、この彼との決別を意味する。ここで関係が断ち切れる。金輪際会うこともなくなる。唯一味方してくれたこの人と──。
本人を前にして、心が惑った。急にひどく怖気づく。肩は引け、声は出てこず、体中が拒否している。
だが、すでに決めたこと。
たとえ、ここで先送りにしても、もう、結論は変わらない。この彼とは、もう行けない、心底そう思ったはずだ。ならば、告げるのは今しかない。
無理に気持ちを奮い立たせ、ひとつ浅く息をつく。無作法ではあろうけど、今、彼の目は見られない。
膝に目を伏せたまま、観念して口をひらいた。「あの、ケネル。あたし、もう──」
「まったく、いいとばっちりだな」
ぎくり、と肩が強ばった。
思いもかけない辛辣さに、錐で刺されたように胸が痛む。
おそるおそる窺えば、ケネルは先と変わらぬ様子で、周囲の木立を見渡している。その顔がしかめられ、苦々しげに振り向いた。
「すまない。気をつけてはいたんだが。──とはいえ、これは、あんたもあんただ」
異状の有無を検めるように、全身を見やって、腕を組む。
「なぜ、すぐに助けを呼ばない。手がかりもなく樹海を捜せば、居場所の特定に時間がかかる。その分だけ救助も遅れる」
「だ、だって──」
エレーンはおろおろ顔をゆがめた。「だって、怖くて……声、でなくて……」
「だったら、大人しく攫われるつもりか。もしもの時には、大声で叫べと言ったろう」
「……だって」
何かひどく割り切れない思いで、エレーンは唇を噛みしめた。この男には神経がないのか? あんな事をしておいて。いつものように平然としていて、いささかも変わるところがない。
身を硬くしてうつむいた。「……そんなこと、急に言われても」
木立に視線をめぐらせていたケネルが、ふと気づいたように動きを止めた。
怪訝そうに振りかえる。
「あんた、俺の話を聞いていたか?」
言わずもがなの質問に、エレーンは戸惑い、首をかしげる。「き、聞いてるでしょ。ちゃんと、こうして──」
「昨夜の話だ」
ぎくり、と頬が強ばった。
あの悪夢が脳裏をよぎり、手近な木根をつかみとる。後ずさった背が土壁に当たる。
ケネルが呆気にとられた顔をした。
しばし絶句で、まじまじと見おろす。
「──そういうことか」
やがて、腑に落ちた顔でつぶやいた。往生したように頭を掻く。
「それで朝から逃げ回っていたというわけか。どうりで様子が妙だと思えば。勢いよくうなずいていたから、理解したものと思ったが」
溜息まじりに向き直った。
「顔をあげろ」
壁に殊更に背中を押しつけ、エレーンはおどおどケネルを仰いだ。ケネルは肩をかがめて膝に手をつき、顔を覗きこむようにする。
「よし。今度こそ聞いているな?」
うなずいたのを確認し、かがめた肩を引き起こした。
「聞いていなかったようだから、もう一度言っておく。他の隊員には近寄るな。事故が起きても、あんたの力じゃ太刀打ちできない。昨夜のことで、それは身に染みてわかったろう。言っておくが、あの程度の悪ふざけなら、部隊の誰にでもできることだ」
あぜん、とエレーンはその顔を仰いだ。
つまりは「脅し」だったということなのか? 昨夜のあの振る舞いは。
言われてみれば、確かにケネルは、無口な彼にしては珍しく、一人で長々と喋っていた。
毒気を抜かれて二の句が接げず、ただ脱力だけが口をついた。「なにそれ……」
「なにそれ、じゃないだろう。又、同じことを言わせるつもりか」
「──そうじゃなくって!」
エレーンはたまりかねて顔をあげた。
「なにも、あんなことまでしなくても! 普通に言えば、済むことでしょ!」
「聞かなかったのは、どこのどいつだ」
つっけんどんに返されて、出かけた文句を、思わず呑みこむ。
「再三、注意はしたはずだ」
ケネルはやれやれと腕を組んだ。
「だが、聞かないとあらば、致し方ない。あれなら、てっとり早いしな」
「……。なにそれ」
「どんなものだか身をもって知れば、あんたも実感が湧くだろう?」
あぜん、とエレーンは言葉に詰まった。もう、呆れてものも言えない。
深い溜息で額をつかんだ。「……ケネルの頭の中って、どうなってるの?」
「こっちの台詞だ」
辟易とした口ぶりに、怪訝にケネルの顔を見る。
「あんただって、やっただろ?」
「──はあ!?」
目を剥き、エレーンは腰を浮かせた。
「あたしが? ケネルに? いつ! どこで!」
あんなセクハラまがいの悪ふざけを!?
「きのう、街道から戻った時に」
間髪容れずに、ケネルは返す。
え゛──と前のめりで固まった。脳裏をよぎる不都合きわまる記憶の数々……
ケネルの白けた視線から、そろり、とよそに視線をそらした。ならば、つまり、お返しってことか? ケネルが街から戻った時に、飛びかかって揉みくちゃにしたから、だから自分もやり返した、と?
(……どこの子供よ)
脱力して、うなだれた。蓋をあければ埒もない。そんなしょうもない理由とは。なら、散々悩んだのはなんだったのだ。てか、涼しい顔してこの男、
──どんだけ負けず嫌いなのだ。
あんたな、と顔をしかめて、ケネルが心外そうに見返した。
「俺があんたを襲うわけがないだろう」
え、とエレーンは息を呑んだ。
思いもかけず胸が詰まり、思わず、あたふた目をそらした。
ぶっきらぼうに放られた言葉が、全身くまなく染み渡る。膨れに膨れた黒い疑心が、元の暗がりへと沈んでいく。
「まったく、あんたはよく分からないな」
不可解な生き物でも見るように、ケネルはつくづく見おろしている。
「普段はあんなに、まとわりついてくるくせに」
エレーンはげんなり額をつかんだ。
「──だから、あれはそんなんじゃ」
ああ、相変わらずの物わかりの悪さ。どうして、ケネルには分からないのだろう、こんなにも当たり前のことが。
誰も別に誘ってなんかない。ケネルが多分思っているような、誘惑なんかじゃ全然ないのだ。
だからケネルは仕返しのつもりで(それなら脅しても構わない)と思ったらしいが、まったく、とんだ料簡違いだ。女が男にじゃれるのはいい。別になんの問題もない。けれど、逆は然にあらず。腕力に差がありすぎて、遊びじゃ済まなくなるからだ。現に昨夜も、あんなことに──
ふと、エレーンは顔をあげた。本当にそれだけだったろうか。あんな恐慌に陥った理由は。
確かに、驚きはするだろう。急に相手がのしかかってきたのだ。だが、それでも、話くらいは聞いていたはず。単なる悪ふざけと種が明かされ、あの場限りのことで済んだ。大ごとになど、なろうはずもない──そうケネルも思ったからこそ、なんの気なしに実行した。
けれど、実際に起きたことは──
深い木立を貫いて、どこか遠くで、鳥が鳴いた。
いや、鳥の声とは少し違う。もっと長くて、均質な音色──そう、変わった節の口笛のような。
ケネルは聞き入るように目をすがめ、じっと動きを止めている。
やがて、軽く息をつき、力が抜けたように身じろいだ。
「ほら、立て。戻るぞ」
振り向きざま、つかつか近寄り、こちらに向けて片手を突き出す。「そんな所で座りこむな。服が泥だらけになるだろう」
「……え……え?」
一転してせっつかれ、エレーンは地面についていた手を浮かした。差し出されたその手をとろうと、反射的に手をもちあげ、
ためらい、その手を引っこめた。
「どうした」
ケネルが怪訝そうに顔を覗いた。
エレーンはへたりこんだ足に目をそらす。
「……ごめん。まだ無理。立てないみたい」
ケネルは拍子抜けしたような顔をして、やれやれと背を起こした。
「仕方がないな。もう少し休むか」
上着の懐を探りつつ、隣の幹へと歩いていく。
エレーンは目を伏せ、足の脛をゆっくりとさする。心に走らせた探査の触手が、その理由を掘り当てていた。説教に便乗した悪ふざけで、恐慌をきたしたその理由を。
心に怖れがあったから。
元よりケネルに、不審を抱いていたからだ。
『 あの女とガキ、始末してやろうか 』
暗雲を縫って閃いた声に、ありありと経緯がよみがえる。
すでに辿りついたはずだった。結論は出ていたはずだった。彼とは、もう行けないと。そう、だから、ケネルとは、
──もう一緒にいられない。
鋭く走った胸の痛みに、たまらずエレーンは唇を噛む。
ケネルは木根で足を投げ、木幹にもたれて喫煙している。普段と何ら変わらない、淡々としたあの瞳。あの姿を見るのも、これが最後。
──言わないと。
ケネルに「さよなら」を言わないと。
きちんと、お礼を言わないと──。熱い塊が胸に突きあげ、たまらず顔を振りあげる。
「ケネル!」
ふと、ケネルが目を向けた。
指で紫煙をくゆらせて、目線で先を促している。
「あの……」
こみあげた熱で、胸がつまる。
「あの、あたしは──」
声が震え、言葉が途切れる。まっすぐ見返すケネルの瞳。
「……あの」
周囲をかこむ高い木立に、ひっそり静寂が浸透した。
森は光に満ちている。唇をかんで逡巡し、浅い呼吸を繰り返す。どうしよう、思い出が、今、目の前で進んでいる。
時が、止めようもなく進んでいく。
風が流れていくように、二人の脇をすり抜けて。
過ぎた後では取り戻せない、この時だけの、大事な一瞬。
「……あの」
「何かあるなら言ってくれ」
辛抱強く待っていたケネルが、げんなりしたように嘆息した。「そそっかしいあんたのことだ。どうせ又、ろくでもないことなんだろう」
「そ、そんなんじゃ……」
エレーンは目を伏せ、ためらった。別れの言葉を彼が聞けば、この絆は切れてしまう。本当に、細くて脆い絆なのだ。今、この手を離したら、二度とケネルと会えなくなる。
指で紫煙をくゆらせて、ケネルは言葉を待っている。
──なにか、言わなきゃ。
どうせ終わりになるのなら、彼の心に残るように。
彼の心に届くように。
とくん、とひとつ、胸が波打つ。
「……あのね、ケネル」
ふっと、糸をつかんだ気がした。
──今、言うべきことがある。
鬱々とした暗がりで、閃いたのは、この言葉。
そうだ。この場に必要なのは、きれいに着飾った言葉じゃない。今の自分がなすべきこと。
幕を引いてしまう、その前に。
務めてゆっくりと息を吐く。心を決めて、顔をあげた。
「ずっと、ケネルに訊きたかったことがあるの」
このまま訊かずに別れたら、ここで逃げてしまったら、きっと一生後悔する。
「あの時ケネル、本当に、」
梢がそよぎ、木漏れ日がゆれる。
覚悟を決めて、彼の目を見た。
「本当に、サビーネのこと殺そうとしたの?」
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