CROSS ROAD ディール急襲 第2部1章 7話6
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 今来た道を逆走する。
 怒り狂った小太りが、すぐ後ろに迫っていた。あの体型にもかかわらず、意外にも身軽で動作が速い。
 直進しては追いつかれる──とっさにそう判断し、道を左折したその直後、目についた茂みに飛びこんだ。
「どこ行きやがった! くそアマが!」 
 地団太を踏む怒声が聞こえる。
 エレーンは精一杯背をかがめ、息を殺して移動した。
 腹立たしげに藪を鳴らして、小太りはまだ追ってくる。だが、障害物が頻出する獣道が功を奏した。
 いたるところに枝が張り、蔦が絡まる獣道は、横幅のある体格では、動きがとりにくいものらしい。追っ手の様子を窺うたびに、姿が徐々に遠のいていく。
 今の内に引き離すべく、道幅の狭い方へ、狭い方へと、しゃにむに逃げこむ。
 はっ、とそれに意識を凝らした。
 耳が拾った微かなさざめき。梢を渡る風とは別の。──もしや、あれは人の声? つまり、そこに
 ──誰か、いる?
 頬の強ばりが、ぎこちなくゆるんだ。
 この付近なら部隊の人だ。駆けこめば、きっと助けてくれる。普段は冷ややかな彼らだが、さすがに見捨てはしないだろう。
 道なき道の藪を掻きわけ、一直線に音源に向かう。──ふと、その足を、エレーンは止めた。
 戸惑いがちに振りかえる。そういえば、誰も「いない」のではなかったか? 風道の西側は女性の領分、部隊の者は立ち入れない、そうした決まりになっていたはずだ。ならば、そこにいる相手というのは──
 弾き出された結論に、身を硬くして後ずさる。ならば、それは
 ──小太りの仲間。
 あの頬傷の顔がよぎった。
 うろたえ、左へ足を向ける。
 繁茂した緑のシダが、四方に葉を広げていた。胸までそれに埋まりながら、エレーンは忍び足でその場を離れる。
 くるくると渦を巻く、白い綿毛のシダの新芽が、随所で頭をもたげていた。傾斜にびっしり貼りついた、かがやく苔と繊細な葉先。深い深いシダの森──。
 ぎくり、と肩を強ばらせた。
 先とは違う何かの気配。微かにゆれる藪を見据えて、エレーンはじりじり後ずさる。
「な、何人いるのよ……」
 唇を噛んで見まわした。どうしよう。
 ──挟みうち。
 背後にいる小太りも、徐々に距離を詰めている。どこへ隠れたのか捜している。
 音を立てぬよう注意を払い、右手の獣道に分け入った。足音を殺してシダを掻き分け、焦燥に駆られて振りかえる。
 がくん、と足がつんのめった。
「──たっ」
 つぶやきが、とっさに口をつく。顔をしかめて首を振り、転げた地面にエレーンは手をつく。木の根に足をとられたらしい。
 ばちゃん、と手の平がぬかるみを叩いた。頬に跳ねた水をぬぐって、泥にまみれた膝を立てる。今ので服の左側が泥だらけだが、今は構っていられない。ぐずぐずしてはいられない。早くしないと、追っ手が
 ──くる。
「でも、どっちに行けば……」
 唇を噛み、逡巡して左右を見た。一体どちらがあの草原? どちらに進めば、あの風道? それ以前に、ここはどこ? いや、まずは逃げないと──!
 覚悟を決めて、藪に入った。丈高い草むらを、背をかがめて何とか進む。
 耳が、微かな水音をとらえた。
 いや、少し前から聞こえていたはず。それらしきものは見えないが、近くに川でもあるのだろうか──
 がさり、と背後で音がした。
 身構え、じっと息を殺す。
 左の藪が大きく揺れた。次第次第に近づいている。がさり、がさり、と藪を掻く音。
「逃げないと──」
 やきもき見まわし、道を探す。転んだ時の物音で、居場所が知れてしまったらしい。早く離れないと見つかってしまう。
 肩越しに気配を確認しながら、足音を殺して、逆側に逃げる。
 静かな森に、うっすら霧が立ちこめていた。
 少し温度が下がったようで、空気がひんやり肌に冷たい。ぬかるみに転がり始めた黒い岩石に足をかける。
 道が険しくなっていた。山道を歩くような岩がちの上り坂。傾斜が知らぬ間に急になったが、あの小太りが後ろにいる。後戻りなど考えられない。時おり、ぱらぱら音が聞こえた。崖の土塊が崩れる音か──
 景色が、かげった。
 そのことにようやく気がついて、ふと、視線を振りあげる。
 面食らって足を止めた。
 壁が視界をふさいでいた。うっすら思い描いていた、木立が続く景色ではない。
「い、行き止まり……」
 荒げた息を整えながら、エレーンは愕然としてつぶやいた。進行方向正面に、異なる茶色の流れるような横じま──さっき遠くに見えていた、あの地層に辿りついたらしい。いつの間に、あんなに遠くまで──だが、途方に暮れている暇はなかった。
 斜面の左右に、活路を求める。
 光をさえぎる右手の森は、密林と呼ぶにふさわしい。鬱蒼として薄暗く、すでに立ち枯れた巨木の枝から、つたが不気味に垂れ下がっている。細い枝ほども太いつるが、その木肌を締めあげるように、みっしり固く張りついている。この先は、更に深い森。生半なまなかな覚悟で踏みこめば、十中八九遭難すると、素人目にも予測がつく。
 それに比べて、左は明るい。少なくとも空は見える──いや、何か聞こえてこないか? 
 それは、地響きを思わせる水音だった。知らぬ間に、耳に馴染んでいた音。靴の先で野草を掻き分け、地面の端から下方を覗く。
 薄く霧がかかっていた。そよぐ草木のはるか下方で、流れが黒岩を洗っている。
 谷だ。
 黒く険しい岩石が、谷底の河原を占めている。しぶきを上げる速い流れ。森閑とした深い渓谷。吸い込まれそうな幽玄な景色──
 ぱらぱら、土塊つちくれがこぼれ落ちた。
 あわててつま先を踏みこんで、エレーンはどぎまぎ後ずさる。こちらは駄目だ。逃げ道はない。何かの拍子に落ちでもしたら、一溜まりもないだろう。
 空にそびえる茶色い地層を、せっぱ詰まって振り仰いだ。とはいえ、こちらは急傾斜、"崖"と言えるほどの急勾配だ。杭や縄などの装備もなしに登ろうなどとは無謀だろう。
「どうしたら──」
 エレーンは立ち往生で途方に暮れた。
 ついに進退きわまった。ここからどこかへ動こうにも、右にも左にも道はない。行く手は傾斜。後ろは追っ手。それを示す藪の揺らぎは、今も着実に近づいている。
(──もうだめ) 
 きつく閉じた瞼の裏を、あの顔が刹那かすめた。助けて、
 ──ケネル。
「みぃ〜つけた」
 ひときわ大きな草木の響きに、ぎくりと肩が強ばった。嬉色をはらんだ甲高い声──。
 飛びあがって振りかえる。
「そこにいたなあ? 仔猫ちゃん?」
 猫なで声で男は呼びかけ、たるんだ頬を、にたりとゆがめる。
 シダの草海のただ中に、あの男が立っていた。小太りの体を左右に揺らし、追いつめるように歩いてくる。
「俺から逃げられるとでも思ってんのか?──甘いな。こう見えても鼻は利くんだ。この業界セカイじゃ、ちったあ知られた顔なんだぜ?」
 頬のだぶついた肉を揺らして、舌舐めずりせんばかり。
 エレーンは我が身を抱いて後ずさった。おぞましさに身の毛がよだつ。じりじりと後退した背が、すぐに壁に突き当たった。空にそびえる地層の傾斜──。
 右手に、身をひるがえした。
 こちらは未曾有の深い密林。ここで小太りはけたとしても、生きて戻れる保証はない。だが、それを厭うている場合ではなかった。こんな男の餌食になるより、蛇だの虫だのトカゲだの、気味の悪い生き物の方がましだ!
 踏みこもうとした靴底の先で、がさ……と何かがうごめいた。
(──へ、蛇っ!?)
 たたらを踏んで、反射的に飛びのく。
 刹那、何かを視界に捉えた。枯葉に埋もれた小さな茶色。こちらを見ているつぶらな瞳──
 ウサギ──と気付いた時には遅かった。後ろは谷だ・・・・・、と思い出した時には。
 のけぞったかかとが、ずるりとすべった。
 とっさに肩越しに見やった背後に、茶色い泥土と水たまり。体勢が崩れ、踏ん張れない。水気の多いぬかるみの足場──。
 泳いだ視界が"動き"を捉えた。
 空と崖との境界から、不意に飛び出した大きな物体。ぱらぱら土塊が落ちる音。斜面を残像が滑り落ちる。目では捉えきれない速い動き──
 落石──。
 ──こんな時に。
 たとえ、ここで踏ん張れたとしても、あの岩の下敷きは必至。つかの間捉えた残像は、人の大きさは優にある──だが、我が身の不幸を呪ったのも、ほんの束の間のことだった。
 ぐらり、と体が大きく傾いだ。
 振りまわした手に、何かが当たる。
 木根から生えた木立の若枝──それを必死でつかみとる。
 その枝が、大きくしなった。
 まだ細く、人の体重を支えきれない。むしろ、折れない枝を支点として、体が大きく振りまわされる。
「──きゃ」
 ぐるり、と視界が反転した。
 流れる木立。梢と空。激しく切り替わる視界の下方に、黒岩の河原が飛びこんだ。黒く大きな岩石塊。速い渓流。深い谷。しぶきを上げる谷川の流れ──。
(もうだめ……)
 とっさに硬く目を閉じる。
 ほうり出された胸の下が、息が止まるほど圧迫された。
 それは願望の為せる業だったかも知れない。ふっと懐かしい気配に抱えこまれた──そんな気がした。力任せに引きあげられ、ぐいと体が振りまわされる。体がふわりと浮きあがる──。
 腕から、したたかに叩きつけられた。
 とっさにエレーンは息をつめ、歯を食いしばって腕をつかむ。
 渓流の響きが、耳に戻った。
 どこも水には浸かっていない。川への落下は免れたらしい。一体何が起きたのか。崖から張り出した枝に弾かれ、運よく窪みに飛ばされでもしたのか。
 手の下に、柔らかな感触があった。ごつごつした岩ではない。つかんでいるのは湿った何か──。したたかに打ち付けた体の痛みに、まだ軽く顔をしかめて、エレーンはそろそろ目を開ける。
 目に、鮮やかな緑が飛びこんだ。
 瑞々しくもたくましい色彩、野草に手を付いている。へたり込んでいるのは、ぬかるんだ地面──さっきの場所にいるようだ。なぜ、まだ、ここにいるのか──
 視線をめぐらすまでもなく、"それ"は容易く見つけられた。
 草地に投げた足のすぐ先、そこに影が落ちている。
 誰かが立ちはだかっていた。頑丈そうな編み上げの靴。暗い色のズボンの足。革の上着と黒い頭髪。目に馴染んだあの身形は、あの部隊に属する者。ならば、彼が助けてくれた? だが、それが事実なら、その腕力は尋常ではないが──。
「名を訊こうか」
 落ち着いた声がした。
 問いかけたのは、背を向けた男か?
 ──ああん? と小太りがすがめ見た。今の問いへの応答のようで、品定めでもするような目つきで、じろじろ不躾に男を見ている。
 ぎょっ、とその顔が引きつった。
 熊に出くわしでもしたように、ぎくしゃく一歩ずつ後ずさる。背を向けた黒髪の男が、からかい笑いで促した。
「どうした、名乗りをあげろよ。少しは知られた顔なんだろう?」
 小太りはおろおろ後ずさり、滑稽なほどのあわてぶり。味方の姿でも探しているのか、きょろきょろ忙しなく見まわしている。
 飛びのきざま、踵を返した。
 小太りの腹をよじって、あたふた道を引き返していく。揶揄含みの口調を改め、「──ザイ」と男が誰かを呼んだ。
「身元を確認、報告しろ」
「──了解」
 え? とエレーンは見まわした。
 静かにそよぐ木立のどこかで、無機質な声が応答した。感情のうかがえない男の声。これまで聞いたことのない──。
 周囲の木立にめぐらせた視線が、わずかな揺らぎを捉えたが、それもすぐに収まって、森の景色にまぎれてしまった。
 背を向けて佇む男は、あの小太りが逃げこんだ向かいの藪を見据えていた。視線をめぐらせ、その横顔が露わになる。引き締まった頬の線、うなじまでの黒い髪。日にやけたあの首筋。そして、よく知るあの瞳──
 はっ、とエレーンは目をみはった。なぜ、今まで気づかなかった。
 心の平静が保てない。胸の鼓動が一気に速まる。
「怪我はないか」
 男が身じろぎ、振り向いた。
 どぎまぎエレーンは視線を落とす。深く分け入ったこの森の、今まさにこの場所に、なぜ、彼が立っているのだ?
 居場所は伝えていなかった。まして風道を外れて迷い、散々追っ手から逃げまわった。それで見つけられるはずがない。いや、今は理由を詮索するより、しなければならないことがあったはずで──
 一度に感情が押し寄せた。
 収拾がつかずに混乱をきたし、適切な返事をおろおろ探し、だが、口をついたのは彼の名だった。
「……ケネル」
 今朝からずっと避け続け、それでも、どうしても頭の中から追い出せなかった、その当人がそこにいた。
 
 

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