■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 3話9
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今、遠くのあの枝で、黒い影が素早く飛んだが、大きな鳥か何かだろうか。
いや、ぜひとも鳥だと信じたい。それにしちゃ、かなり大きい気もするが──。いや、正直に言おう。
── あんまり深くは考えたくない……
我が身を抱いて見まわしながら、エレーンは恐々足を進める。
森の中は森閑として、まだ昼なのに薄暗い。
野性味あふれる深い森が、青々と視界を覆っていた。苔むした巨木が、ごろりと方々に横たわり、緑苔が一面、木幹にはびこる、緑と黒の静寂の世界。
無秩序に垂れ下がる長い蔦、枯葉の地面から浮き立って、不規則にうねる太い木根──
高い梢で、不意に鳥声が響きわたる。ばさばさばさ──と黒い羽ばたき。
「……おっ、おっ、脅かさないでよ」
ごくり、とエレーンは唾を飲んだ。万一ファレスとはぐれたら、広大な原野で一人ぼっち。捜しにきてくれるまで、じぃっ、とひたすら、膝をかかえて待つ羽目になる。
馬で少し引き返したから、原野に戻っても、誰もいない。ケネルもまず、迎えにはこない。移動の中止に伴って、部隊もとうに解散している。もう夕方の方が近い時刻だ。だから、つまり、要するに、
── 置き去りなんて、絶対、嫌だ!
口を真一文字に引き結び、拳を握って、わしわし進む。
竹だか笹だか分からない、まっすぐ伸びた緑の葉っぱが、意地悪するように行く手を阻む。
ぎくり、と頬がこわばった。
……あ!
今、なんか「ブチっ!」って言った!
なんか踏んだ!
ぜったい踏んだっ!
ぞわり、と全身総毛立つ。
(いぃ〜やぁ〜ぁぁあっ!)
あわあわ口は半開き、うるうる涙目で、ずんずん進む。
ひーひー引きつり、顔は半壊。靴底あるから微妙だけども、絶対いっぱい踏んでいる! 虫とかミミズとかトカゲとか──!
絶対いっぱい踏んでいる〜っ!
ふと、あの言葉が頭をよぎった。出がけに聞いたケネルの脅し。
じっ、と足元に目を落とす。ならば、もしや、この下に、アレなんかもいたりするんじゃ……?
そう、あの黒虫なんかも。
「……」
ひーっ!
涙目で腿を高くもちあげ、爪先立ってエレーンは進む。
こんな所、誰が来ようって言ったのだ!?
前人未踏の原生林を、なんで歩かにゃならんのだ!?
あたしが一体何をした──!?
はたと気づいた。真相に。
そういや、この温泉行き、ケネルに無理にねじ込んだのは、そう、誰あろう、他ならぬ──
……。
……。
……。
ああ、
なんて絶望的な気分。
ぬかるんだ道を、涙目で進む。
足場が悪い。
あの雨でドロドロだ。こんな巨木に囲まれていれば、地肌も中々乾かないだろう。
一体いつから積もっているのか、地面には一面、見渡すかぎりの濡れた枯葉。お陰でこんなぬかるみでも、滑らずに済むのが救いといえば救い。もっとも、少しでも気を抜けば、足を取られて転ぶわけだが。そう、何度あわてて近くの幹にしがみ付いたことか。
いわゆる、俗にいう獣道──しかも、生易しい部類のそれではない。休憩の都度、森には毎度入ってきたが、木枝は大抵打ち払われて、樹海の途切れ目と見紛うほどの幅広い道ができていた。休憩地は適当なのかと思いきや、人手が入った整った場所を、きっちり選んでいたらしい。
そう、このハードでワイルドで濃い森に比べりゃ、あんなの子供騙しのお手軽・簡単・お散歩コースだ。それに引きかえ──
うっすら霧立つあたりを見まわし、エレーンはごくりと唾を飲む。
正真正銘の獣道だった。
陽が高い梢にさえぎられ、空気はひんやり、湿気が多い。薄暗い森のそこここに、苔むした巨木が転がっている。平坦なのかと思ったが、地面にも結構起伏がある。
先行する長髪は、障害物を苦もなく乗り越え、あるいは切り払って道を作り、森の深部へ分け入って行く。こんな大自然を物ともしない、意外にもかなり速いペースだ。大自然初心者には、障害物が山盛りいっぱい、てんこ盛りの苦行であるが。
「……むぅー……女男の、ばかあっ……!」
えぐえぐエレーンは泣きべそで進む。
ぅわんぅわん群れなす羽虫を散らし、旺盛な野草をわしわし掻き分け、手を放したその途端、反動で戻った強靭な草に、口を尖らせて文句を言い、転ばないよう足を持ちあげ、高くうねった木の根をまたぎ、木の幹にすがって、大きな水溜りをやり過ごし──
額の汗を手の甲でぬぐって、エレーンはげんなり梢を仰いだ。
ファレスの背ははるか先。足取りは、かなり速い。よくも、こんなデコボコ斜面を、平気な顔で歩けるものだ。
豆粒大になった人影が、時おり幹にもたれては時間調整しているが、そういうことで気を使うより、一緒に連れ立って歩くとか、か弱い女性をエスコートするとか、少しはしたらどうなのだ!
もっとも、あれは意地悪な野良猫。過大な期待もどうかとは思うが。しかも、今日は、なんでか機嫌がすこぶる悪い。
「……なっ、なによおっ! 一人で先に行っちゃってさあ! 一緒に歩いてくれたっていいでしょー!?」
ぜーはー肩で息をつき、エレーンはせめて舌を出す。
長髪の背は、見向きもしない。行く手の森を見ているか、辺りの様子を見まわしているか、こっちの方を見るとすれば、ちらっと様子を一瞥する程度だ。
距離は、どんどん開いていく。必死で追うも、追いつけない。少しがんばったくらいじゃ縮まりそうにない。むしろ、不慣れな足場で手間どる内に、少しずつ、少しずつ、離れていく。
胸下ほども高さのある、苔むした巨大な倒木に、両手で必死にしがみ付き、やっとのことで、乗り越える。降り立った枯葉の片隅、ぽつんと落ちた、白い物が目に止まった。その"白"が目を引いて、何気なく視界に収める。
ぎくり、と肩が居竦んだ。
エレーンはどぎまぎ目をそらす。乾いた唇を軽くかみ、ざわめく気持ちを噛みしめる。「……ほ、骨?」
行き倒れた獣だろうか。毛皮などは既にない。ずいぶん古いものらしく、角は丸く、なめらかだ。入り口にあった"目印"のように。
思わず、それから目をそらした。
とっさに握った手のひらが、立ちつくした膝が震える。
心がざわざわ波立った。深い場所に押しこめた、想いが息を吹き返す。ひっそり深い樹海の中で、木漏れ日を浴びた白い骨──。
あの光景が一閃した。
宙を掻くようにねじ曲がった指。血まみれの手、青白い頬、閉じた瞼、動かない体──。
昼下がりのノースカレリア。街路の隅に積まれた兵士。土嚢のように積まれた遺体の。それに交じって捨て置かれた、薄汚れた癖っ毛の顔──。
ぎくり、と足が凍りつく。
「……ダド、リー」
呼吸が浅く、速くなる。目をみひらいてうつむいた視界に、茶色に濡れた枯葉の地面。あの彼が行き着く先も、あの兵士らと同じではないのか。だが、兵の命を奪ったのは、他ならぬこの自分で──。
何をして誤魔化しても、どんなに遠くへ逃げ出しても、どこまでもどこまでも追ってくる。"絶望"という名の、真っ白に焼き切れた未来──
忘れられないことだった。
忘れてはいけないことだった。何をどう言い繕おうが、この手が命を奪ったのは事実だ。商都の酒場の片隅で、親しく飲み交わしていたかも知れない、彼らの貴重な人生を。
領家の正妻を名乗る以上、万人の持たない富と権力とを後ろ盾に持つ以上、一時たりとも気を抜いてはいけなかったのだ。あの重要な局面で。
何らかの行動を起こす際には、誰よりも慎重に考えなければいけなかったのだ。なのに、自分は簡単に、あの時手を放してしまった。恐かったから。重かったから。あの息苦しいほどの重責を肩代わりして欲しかったから。
なぜ、あの時、気づかずにいたのか。開戦すれば、人は死ぬのだ。こんなに当たり前のことなのに。どんなに使者に食い下がっても、それだけは避けるべきだった──。
(あたし、きっと、地獄に落ちる……)
わななく唇を噛みしめて、首を振って、前を見据える。長髪の背に目を据えて、拳を握って歩き出す。
──あたし、一生、忘れない。
午後の鈍い木漏れ日が、方々の地面に射していた。
ぽつんと小さいファレスをながめ、エレーンは黙々と森をいく。下草を踏む足音だけが、規則的に耳へと届く。聞こるものは他にない。枝の小鳥のさえずりくらい──
がさり、と左で茂みが鳴った。
物思いから解き放たれて、ふと、エレーンは顔をあげる。
ぎょっと硬直、飛びのいた。
「──でたっ!?」
それが鎌首をもたげていた。黒と茶色と肌色の、ぬめぬめした鱗の体。チロチロうごめく、先が割れた赤い舌──
「……へ、へ、ヘビヘビへビぃ〜っ! ヘビヘビっ!」
どっしり太った、網の目模様の大蛇だった。
チロチロ舌を動かしながら、じっとこちらを見つめている。黒光りする体を器用にくねらせ、濡れた枯葉を動いている。腹這いのわりに、かなりの早さで。
一足飛びで、近くの幹まで飛びのいた。
ぐっ、と顎を引き、息を殺す。胸がドキドキ、予期せぬ出会いに高鳴っている。いや、決して会いたくなどなかったが──。
あのツルツル頭から尻尾まで、ファレスの身長で三人分くらいはありそうだ。きっと、あの胴、腕より太い。これに咬まれたら絶対死ぬ。いや、巻きつかれただけで即死する!
じとり、とエレーンは、硬直したまま凝視する。
(……な、なんで)
なんで、
なんで、
なんで、
なんで、足がないのに進めるのだ……?
とっちらかった頭の中で、埒もないことを考える。目をそらしたいのに、そらせない。……絶対、毒蛇に違いない。
そうだ! 毒蛇に違いない! だって、そういう色してる! こんな所に住んでいる!
種類なんかは知らないけども、一人コクコクうなずいて、即座にきっぱり断定する。独断と偏見と憶測に満ちた問答無用の野生の勘で。
……あんな牙で咬まれたら!
口はあわあわ半開き。目は既にじんわり涙目。
──絶対、即刻、あの世行きだーっ!
でっぷり太った立派な大蛇が、その鎌首もちあげて、悠然と前を横切っていく。ギロリ──と一睨みでもされたらば、バンザイ三唱で逃げ出すこと請け合い。蛇の方も、一瞥しただけで心得たようだ。格下の奴だ、と。
ぴたり、と両手をくっつけて、エレーンは幹に貼りついた。
蛇さまが無事通過するまで、息を殺して、じぃ──っと待つ。この巨木の表皮にでもなっちゃった気分で。ぶくぶく泡吹きそうな勢いで。
右に左に体をくねらせ、大蛇は悠々と進んでいく。道を開けたその前を、つるっと丸い蛇頭が、右手の藪へと入っていく。
胸を押さえて、はー……っ、とエレーンは脱力した。やれやれと足を踏み出す。
ぐにっ、と靴裏がずり落ちた。この確かな弾力は、枯れ木や丸太じゃないような?
嫌な予感に苛まれ、そろり、とエレーンは足元を見──
すべての表情が抜け落ちた。
……あ。
しっぽ、踏んでた。
にへら……と笑って、引きつり顔で目を上げる。そして、
(とんでもないことを、しでかした──!?)
諸手をあげて飛びのいた。
藪に消えた大蛇の頭が(んんー……?)というように持ちあがった。
くる、と鎌首が振りかえる。
赤い舌先をチラつかせ、値踏みするように、じっと凝視。手足もないのに、ゆらりと胴で立ちあがる。
片頬だけでヒクヒク笑い、エレーンは無為に小首を傾げた。
あんたって、体がとっても長いのね……
シャー──! と大蛇が躍りあがった。
恐ろしい速さで、大きくうねる。
くわっ、と迫る大きな口。
縦菱形の真っ赤な口に、乳白色の鋭い牙。顔の九割が全部口!
……顎が、外れたりしませんか?
(咬まれる──!)
とっさに硬く目をつぶり、エレーンは奥歯を食いしばった。
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