■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 3話8
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何かを忘れてしまっている。
それは、とても大事な何か。
忘れてしまってはいけない何か。
思い出せそうで、思い出せない。
ふとした拍子に胸を刺す。
朝の静かなご飯の席で、ふと、スプーンが止まった時。
キャンプの人に挨拶するため、ケネルがゲルを出て行った時。
ふっ、と夜中に目覚めた時。
ずっと、何かが欠けている。
けれど、何だかわからない。
あまりに当たり前で、あまりによく知っていて、すぐ目の前にあるはずなのに。
よく知る形をしているはずだ。
この胸の奥深い場所に、前から巣食っていた感情だから。
けれど、常に人がいて、その正体を見極めようにも、うるさくて、気が散って、うまく考えていられない。
だから、本当はどこでも良かった。どこでもいいから逃げたくて。だから──
ざわり、と胸がざわめいた。
手綱を引いて、速度をゆるめた馬の上、とっさにエレーンは目をそらす。
「……や、やだ。なにあれ」
午後の鈍い日ざしに包まれ、ひっそり白い骨が静まっていた。
野ざらしになった何かの頭骨。三つ重ねて木杭で串刺しにされている。そのまちまちな大きさと縦に長い形状から、獣の骨のようではあるが──。
猟師か何かの悪戯だろうか。それとも儀式か何かの跡? いずれにしても、禍々しいことこの上ない。
あの面影が脳裏をよぎり、不意打ちに強く奥歯を噛む。
「──や、野蛮ーん!」
非難めいた口調をつくり、エレーンは殊更に顔をしかめる。「なんでわざわざ、あんな真似するわけ?」
ファレスが手綱を無造作にさばいた。「目印だ」
馬を止めて地面に飛び下り、抱き取るようにしてエレーンを下ろす。
「目印?──あっ──ちょ、ちょっと待ってよ!」
馬を引いて歩き出した横に、エレーンもあわてて駆け寄った。「あんた、あたしのこと置いてく気ィー? 行くなら行くで声くらいかけてよねー……」
歩く都度、薄茶の髪がしなやかに揺れる。
行く手を見つめる横顔は、いつにも増して仏頂面。返事もしなけりゃ、見向きもしない。ちらちらエレーンは盗み見て、口の先を尖らせた。「けど、目印ってなんの?」
「あれが樹海への入り口だ」
「でも、あんなの使わなくっても──死んだ動物を晒しものにするとか、どうなのよ──」
「家畜なんてものは、死んで初めて役に立つ」
ぎくり、と肩がこわばった。
ファレスは見もせず、馬を引いて歩いて行く。
あわてて追いかけ、横に並んだ。「そ、そういう言い方はないんじゃないの? いくら家畜だって、かわいそうでしょ。死んだら埋めてあげないと──」
「肉も食らえば、革を剥いで使いもする」
「──え?」
「あんただって、そうだろう。鞄だとか靴だとか。あの目印も同じこと、捨てる骨の再利用だ」
「だけど、三つも串刺しにしなくたって──」
「目印だと言ったろうが。嵩がなけりゃ、目立たない。この辺りの足は、馬だしな」
でも──とエレーンは唇を噛んだ。確かに理屈はそうなのだろう。だが、気分的に嫌なのだ。だって、そこに晒されているのは、ただの単なる物じゃない。少し前まで生きていて、そして死んだ生き物の亡骸──。
「早く来い」
はっと声を振り向くと、長髪は目印に向かっている。
あわててエレーンは後を追った。いつの間につなぎ終えたか、水溜りのある涼しげな木陰で、これまで乗ってきたファレスの馬が、長い首を垂れている。
この辺りの樹木は巨大だ。それがどこまでも鬱蒼と生い茂っている。似たような景色が延々と続き、少しでも気を抜くと、居場所がたちまち分からなくなる。
「ね、ねえ。本当にそこから入る気? 中に道なんて、ないみたいだけど──ねえ、ちょっと、話聞いてるー? 女男ってば! 入り口なんか、どこにも──」
「確かに"お薦め"かも知れねえな」
ぼそり、とファレスがつぶやいた。「堅気の女が、湯に浸かろうってんだから。うるせえ外野も、そう容易く立ち入れねえし──」
「え、なになにっ? ガイヤって?」
エレーンはここぞとばかりに食いついた。今日のファレスはいやに無口で、中々会話が続かない。
「──いや」とファレスは短く切りあげ、やはり構わず歩いていく。
エレーンは戸惑い、口をつぐんだ。珍しく向こうから切り出したから、少しは喋るかと思ったのに。
ファレスの様子が変だった。訊かれたことに答えはするが、やむなく仕方なく、必要最小限といった態。無礼な態度は初めからだが、それとはちょっと違う感じだ。昼食までは、普段と変わらなかったのに。
怒っている、というのでもない。ダレている、というのでもない。あえて言うなら、何かを考え続けている。そして、ずっと苛立っている。なんだか急に、
よそよそしくなった。
見向きもしない端正な顔を、戸惑いまじりにエレーンは覗く。「ねー。なんかあったでしょー」
ファレスは目印を見たまま見向きもしない。
「だって、全然喋んないし、今日はあんまり怒んないし──あっ! 別に怒ってほしいとか、そういうこと言ってんじゃないんだけど──だってさ、なんか感じが違──」
「おい、足元」
「──え?──あっ」
たたらを踏んだ上腕を、ぶっきらぼうにファレスは取る。
「よそ見しねえで、前見て歩け。派手に転んだばかりだろうが」
う゛っと顔を引きつらせ、エレーンはぶちぶち連れを仰ぐ。「もっ──もー! なにツンケンしてんのよー。あんた絶対、なんか変──」
「変じゃねえよ、俺はどこも」
むう、とエレーンは連れを見あげる。いや、明らかに変だろう。面倒事を押し付けられても、罵りもしなかったあの時点で。
まるで相手にしてもらえず、エレーンは溜息まじりに行く手を見た。
串刺しにされた獣の骨は、陽射しに白々と静まっている。その凪いだ穏やかさは、時を止めた"死"の象徴。立ち入る者の未来の姿を、あたかも暗示しているような──。
薄気味悪さに怖気が走り、エレーンは思わず目をそらす。「……ねー。本当に大丈夫なの〜? こんな所、勝手に入って」
端正な横顔に、変化はない。
「道とか、絶対ないっぽいし、こんな所で迷ったら──」
「カレリアの樹海は、大陸の東端を覆っている」
「だから?」
「西に向かえば、原野に戻る」
「──いや。それはそうなんだろうけどさー。だけど──」
「獣の骨には、警告の意味がある」
腕を辿って、怪訝に仰げば、ファレスが無表情に一瞥をくれた。
「──え?──あっ!」
押しのけるようにして、ファレスから離れた。「ご、ごめん! つい……」
知らぬ間にしがみ付いていたらしい。そして、ファレスは目敏くそれを察したらしい。こっちの怖気と動揺を。ぶっきらぼうな口調で続けた。
「この辺りは迷いやすい。一度迷えば、生還するのは至難の業だ」
ぎょっ、と顔を振りあげた。「で、でも! さっきバパさん、みんな使ってるって」
「遊牧民には"星読み"がいる」
「──ホシヨミ?」
「空を見て、方角を知る連中のことだ。そいつらがいれば、迷わず外に出てこられる」
「……。出てこられるって、あんたね」
愕然と、エレーンは樹海をながめた。実は、とんでもない場所に来たのではないか? 結構メジャーな温泉地という、お手軽な行楽地の印象だったが──。現にこうして、野性味溢れるジャングルチックな原生林。物見遊山のお気楽気分なんか、木っ端微塵にどっかへ吹っ飛ぶ。
エレーンはたじろぎ、上目使いで袖を引く。「なら、あんたも、そのホシヨミって奴で──」
「いいや」
「──はあ!?」
目をみはって、口をぱくつかせた。
「ちょっと! 冗談じゃないわよ!? だったらダメってことじゃない! 迷っちゃうってことじゃない!? どーすんのよ、こんな所で迷ったら!」
入り口の目印からして、縁起でもない獣のドクロ。わざわざみんなに「立ち入り危険」と警告しちゃうような場所なのだ。
「ケネル達だっていないのに、こんな所で迷ったら、誰にも助けてもらえない──!」
「大丈夫だ。迷わない」
「なんで、そんなこと言い切れるわけ? そういう特技はないんでしょ? なのに──」
「俺は、そういう血を引いている」
鬱陶しげに言い捨てて、つかつかファレスが目印へ歩いた。
腰の短刀を引き抜いて、ぶっきらぼうに薙ぎ払う。
胸まで茂った若枝が、雑草ともども、ザ──ッとたちまち断ち切れた。
木立の間の下草を、蹴りやり、踏みつけ、森への入り口を切り開く。目線に垂れ下がった蔦をつかんで、無造作に短刀を打ち下ろす。
端整な横顔が、淡々と作業を進めていく。
「ちょ──ちょっと、女男!」
切断されて垂れ下がった蔦を、無造作な手付きで払いのけ、広大な樹海へ踏みこんでいく。
「──ま、まじで入る気!?──あっ、ちょっと女男っ!」
手の先だけでその背を追って、エレーンは呆然と立ち尽くした。長髪の背は返事もせずに、どんどん奥へと進んでいく。
「……ちょっとお……」
鳥の声、虫の声、なんの動物なんだか分からない鳴き声──。
至るところに古い蔦が垂れ下がり、厚い枯葉の地面には、にょきにょき伸びた無数の細枝。縦横無尽に伸びる枝、いや、蔦だか枝だか分からない。
「……えー……ここ、入るの〜……?」
あたしが〜? とエレーンは途方に暮れて己をさす。だって、どうみても、道なんかない。ほんのちょっと入った辺りに、直立した青い野草が、首の高さにまで茂ってる……
目の前に、だらん、と一本、蔦が長くぶら下がっている。今にも顔にぶつかってきそうな場所に。奴が無計画に断ち切ったせいだ。
踏ん切りがつかず、おろおろ、うろうろ。
ああ、あそこの樹のてっぺんまで、一体、何十mあるのだろう。あの大きな幹の周囲は、大人が手をつないで何人分? 全体的に苔むした感じで、根元にキノコなんかも生えている。ぶっ太い木根が無秩序にうねり、膝の高さにまで張り出している。つまずいたら絶対転ぶ。賭けてもいい。
人手の入っていない自然の森。
枯葉で埋まった深い森、まだらな木漏れ日、巨大な倒木、枯れ枝が絡まった青葉の樹、斜めの角度で立ち枯れた幹、苔とか、蔦とか、水溜りとか──
「……。まじで?」
圧倒的な威容に、足がすくむ。
密度の濃い神秘の樹海が、今、視界いっぱいに広がって──はた、と思い至って顔をゆがめた。いや、こんな所で、置いてけぼりなんか食った日には──!?
「ま、待っ──!」
あわててファレスを見やった視線が、頭骨の眼窩とかち合った。
「……う゛っ」
じとり、と、しばし睨めっこ。
「お、おじゃましま〜す……」
薙ぎ払われた蔦の先を、摘んで、そーっと脇へ押しやり、足を持ちあげ、茂みをまたぐ。
「──まっ、待ってよー、女男っ!」
ええい、ままよ、と駆けこんだ。
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