■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 3話11
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「……れ、れい?」
ファレスの腕が、背にまわった。
顎をつかんだ手が離れ、首筋を伝い、襟へと指が滑りこむ。
「チェ、チェリートマトでっ!」
ファレスが面食らったように動きを止めた。
とっさに言い放ったエレーンは、ぎくしゃく無理に笑みをつくる。「あ、だって好きでしょ? チェリートマト。──あ、ほらあ、サンドイッチ食べた時、あたしがちょっとつまんだら、あんた、すんごく睨んでたじゃないっ?」
ファレスは眉をひそめている。訳がわからないといった顔。
「だっ、だから、今度ご飯で出てきたら、あたしの全部食べていいから! んねっ?」
ファレスが軽い溜息で額をつかんだ。
脱力したように、うなだれる。「……さっさと、湯に浸かってこい」
「う、うん! 了解っ!」
引きつり笑いを浮かべつつ、エレーンはそそくさファレスから離れた。
辺りを見回し、着替えをするのに最適な、夏草の生い茂った茂みを見つける。ファレスは腰に手を当てて、ゆるゆる首を振っている。今にもへたり込みそうに。
茂みに向かいかけた足を、エレーンは止めた。ためらい、ファレスを振りかえる。「──あ、あのね、女男」
「どうした。早く行け」
「もしかして、おなか?」
「──腹がどうした」
捨て鉢な口調で、ファレスは質す。おどおど手を揉み、エレーンは続けた。「だから、あんた、もしかして、おなか痛かったり? だ、だって、この前おなか壊してたし、今日はなんか様子が変で──あっ、ううんっ! なんか元気がないみたいで、だから、どうしたのかなあって、あたし思って……」
返事がないことにようやく気づいて、上目使いでうかがうと、薄い唇に煙草をくわえ、ファレスは怪訝そうに目を向けている。
「──あ、あのねえ、あれは違うから!」
エレーンは焦って両手を振った。
「さっきのアレは、そんなんじゃないから! そーゆーのとは違うから! そんなこと全然思ってないからっ!」
わずらわしげに眉をひそめて、ファレスが苛立ったように嘆息した。「何が」
「だからあたし、さっきケネルに"あんたはやだ"って言ったでしょ。けど、あれは違うから! そんなんじゃないから!」
だって、それ以外に思い当たらない。ファレスを怒らせた理由など。あれが彼を傷つけたのではないのか──
ファレスは一言も発しない。じっとこちらを見やったまま、話の真意をうかがっている。
「あ、あのね! だから、あれは、あんたのこと嫌いとか、そーゆー意味じゃ全然ないから──! いや、むしろ気に入ってるしっ! うん! 気に入ってるっ! とってもすんごく気に入ってるっ!」
ファレスがうつむき、ふっと微笑った。なにか言い方が変だったかー!?
「あ、だからっ──だからね、あのっ! あの──っ!」
「そんな顔、するな」
「──へ?」とエレーンは動きを止めた。
自分の顔をピタピタ点検。そんなに変な顔だろうか。
「早く行け」
「で、でも!」
「気にしちゃいねえよ、あんなもの。こっちはいいから、さっさと湯に浸かってこい」
さばさば言って、煙草の先に火を点ける。
ぽかん、とエレーンは見返した。空気が軽い。さっきより格段に。はっきり肌で感じるほどに。
少し離れた岩に腰かけ、ファレスが無造作に背を向けた。ゆるやかに紫煙がたゆたう。
「済んだら呼べ。ここにいる」
「う、うん。じゃあ……お言葉に甘えて」
エレーンは首をひねりつつ、そろそろ茂みへ歩き出す。どういうわけか、話がすっかり済んでしまったようなので。
「羽目を外して泳ぐなよ。どうせ、のぼせるに決まってるからな」
「うん」
口やかましさも、いつも通りだ。なんだかすっかり元通り。もうすっかり、いつもの奴だ。一体なにがあったというのだ?
うーむ、と腕を組みで、てくてく歩く。
あっ! とファレスを振り向いた。
「──今度はなんだ」
じぃっ、とエレーンはその背を見つめ、口の先を尖らせた。
「絶ぇぇぇっ対に! こっち見ないでよっ!?」
あァ? とファレスが肩越しに見やった。「てめえの洗濯板、確認してから物言えってんだ」
「ぬ!? よよよよけいなお世話よっ!」
エレーンはずんずん引き返し、ファレスの手から、お風呂セットを引ったくる。
ぷい、と殊更にそっぽを向いて、地面を踏んづけ、藪へと向かった。そういや荷物は持ってくれていたようだった。
衣服を脱いで、そっと爪先から湯に入った。
ゆらめく水中の石段を、足場を確かめ、ゆっくりと降りる。
大判のタオルを体に巻いた、剥き出し素肌の肩越しに、ちらとエレーンは様子を見た。
ファレスは岩に腰をかけ、こちらに背を向け、喫煙している。まったく、微塵も、これっぽっちも関心なし!──あくび混じりのその顔が、そうあからさまに表明している。
「……。あっ、そお」
どうもちょっと釈然としないが、背を向けて岩段に座り、胸の上まで、お湯に浸かる。
まずはほっと安堵して、力を抜いて足指を伸ばす。鮮やかな緑の野湯は、肌にほどよく温かい。
ほっと、思わず吐息が漏れた。周囲は静かで、誰もいない。ずっと、ずっと、
こんな所に、来たかった……
森は、静かだ。
風が渡る。梢が騒ぐ。青と浅葱の光彩陸離。優しい肌触りに、全身がほぐれた。背中の傷は、不思議なほど痛まない。むしろ、感覚自体あまりない。まったくの無痛ではないものの、痛みの出方には波がある。背中がずきずき疼くのは、日没後がほとんどだ。
背中は、どんなふうになったろう。傷痕が醜く引きつれているのか、それとも赤いミミズ腫れ? 合わせ鏡なら見られるだろうが、今は正直どうでもよかった。
そう、どうだっていい。そんなことは。
風に押しやられるようにして、梢の緑がさらさらなびく。
空は青く、どこまでも広い。あのはるか西空の下には、トラビアの大地が広がっているはずだ。あの彼が捕らわれた──。ここは静かで、平穏で、そして、こんなにも安全だというのに。
ダドリーは、どうしているだろう。
食事はちゃんとしているだろうか。殴られたり、蹴られたりしていないだろうか。酷い扱いを受けていないだろうか。拷問なんか、受けていないだろうか。
トラビアの開戦を承知の上で、ダドリーはディールに盾突いた。領土に残ったこちらは既に、ディールの要請を突っぱねて、全面対決に踏み切った。ダドリーは今、何を要求されているのだろう。反抗的な当主の全面降伏? それとも、当代当主の強制降板? どちらがたやすい? むろん後者だ。
飄々と見えて、ダドリーは頑固だ。自己保身など、決してしない。協力要請の取引にも、彼なら、決して応じない。領土の譲渡や、領民隷属の脅迫にも。それでは無傷でいる方が難しい。
今ごろ彼は、冷たい石の牢屋の床に、全身傷だらけで、転がされているかも知れない。光の射さない薄暗い牢で、頑丈な石壁に囲まれて、重い鎖で繋がれているかも知れない。手枷足枷で転がされ、治療も満足に受けられず、水の一滴さえ与えられずに。
とても、疲れているだろう。周りは、常に敵ばかり。神経を研ぎ澄まし、寝ても覚めても気を張りつめて。それでも何も、
──してあげられない。
口に、鉄の味が広がった。これまで数え切れないくらいに味わってきた味、今ではもう、慣れてしまった血の味が。
無力だった。嫌になるほど。わかっているのに、何もできない。彼が今どこにいるのか、誰に何をされているのか、およその見当はついているのに、それでも何も、この手にはできない。彼の傷ついた手を取ることも。倒れ伏した体を抱きしめることも。彼の背負うものは大きくて、それを肩代わりなど、とてもできない。ならば、せめて、こんな所で
──ゆっくり、休ませてあげたいな……
熱いものが込みあげた。
唇をかんで、わななきを押さえる。今はだめだ。平気な顔を保たなくては。だって、他人がそこにいる。
固く、固く、目を閉じて、無理に熱を呑みくだす。
エレーンは大空を仰ぎやった。今日は一体どうしたのだろう。それは十分わかっているのに、背中に気配を感じているのに、心がこんなにも流されてしまう。自分の心が押さえきれない。心が勝手に溶け出してしまう。なにか無性に胸が騒ぐ。こうする間にも、彼の笑顔が、胸をきりきり締めつける。
気が急く。憂う。気が揉める。なぜなのだろう。心がゆるんでしまうのは。脆さをさらしてしまうのは。冷えきった体を包みこむ、凍えた心を解きほぐす、温かい湧水の成せる業だろうか。
顔を振りあげ、見あげれば、空は抜けるように青かった。静かだ。
とても。
木立のどこかで、鳥声が聞こえる。甲高いから、あの小さな鳥だろう。あんな小さな翼でも、トラビアの空まで飛ぶのだろうか。あんな鳥でも飛べるなら、この背に翼があったなら──
ふと気づいて、一人で嘲笑った。あまりに陳腐な空想だ。
純白な厚い雲と、底のない夏空が広がっていた。どこまでもどこまでも、尽きることなく広がる空。トラビアへと続く広大な空──
この手はあまりに小さくて、何も持てはしないけど、この身はあまりにちっぽけで、何もできはしないけど、せめて、同じ空の下、かの人の無事を一心に祈る。あの使者に脅された時から、気が休まったことなど一時もなかった。ダドリーを忘れたことなど、今まで、ただの一度もない。
岩棚に注ぐ轟音が、途切れることなく聞こえていた。
翠の透明な水面が、陽に揺らめいて輝いている。トラビアの牢は暗いだろうか。トラビアの夏は暑いだろうか。
トラビアの空も、青いだろうか。
何かが頬を滑り落ちた。
水面で、小さく水音があがる。あわててエレーンは頬をぬぐった。とっさに腰をあげ、座った岩段から深みへ踏み出す。だって、ここにはいられない。すぐ後ろにファレスがいる──
「潜るなよ」
ぴくり──と爪先が凍りついた。
エレーンは密かにたじろいだ。動いた矢先だ。なんて勘の鋭さなのか。息を殺してうかがえば、ファレスはやはり背を向けて、同じ姿勢で喫煙している。あの大岩に腰かけたままで。早く彼に返事をしないと。
返事をしないと、彼に変に思われる──わななく唇を無理にあける。だが、何の言葉も出てこない。こみあげた熱を飲み下す。何度も何度も唾を飲む。せり上がる嗚咽を押し殺す。だが、今日は上手くいかなかった。押し止めようとすればするほど、次から次へと想いが溢れて、
こらえても、
こらえても、
こらえても、
こらえても!
「泣くなら、普通に泣け。見ねえから」
ぎくり、と肩がこわばった。
なぜ、わかってしまったのか。ずっと彼は背を向けていた。ずっと慎重に隠し通してきた。人前では泣くまいと。まだ、誰にも悟られていない。ケネルだって気づいていない。なのに、なぜファレスには、それがわかってしまったのか。
誰にも明かさなかった心の内が。
輪が、いくつも水面に広がる。
ぽたぽた水滴が滴り落ちる。わななく唇を噛みしめて、じっとエレーンはうつむいた。こらえきれずにしゃくりあげた途端、押し潰されたような声が出た。自分でも信じられないほど、ひどく無様で、滑稽な──。
誰も、信用なんか、できなかった。
少しでも他人に隙を見せれば、たちまち見下して襲いかかってくる。失笑と嘲りを買ってしまう。また他人に侮られてしまう。涙を見せたら、おしまいだ。一気に萎縮し、心が折れてしまうから。一度損なってしまったら、二度と元には戻らない。だから、いつでも平気な顔で、必死で心を立て直してきたのだ。
こらえた続けた喉が熱い。のどかにきらめく翠の水面を睨みつけ、じっと奥歯を噛みしめる。だって、誰にもわかるはずない。他人の本当の痛みなんか。
いつでも警戒して生きてきた。いつでも身構えて生きてきた。転落するのは一瞬だ。誰にも弱みは見せられない。だって、世界はいつだって、
いつでも"敵"の姿をしていた。
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