■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部4章 interval 〜流転〜
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目を凝らした目の前に、ズボンの脚が投げ出されていた。カウンター内の薄暗がりに、人がうつ伏せで倒れている。ずんぐりとした白髪の男だ。その小柄な背を普段着のようなチェック柄のシャツが覆っている。白髪の老人は、うつ伏せたまま微動だにしない。皺だらけの手が布巾を握り、もう片方の手は体の下敷きになっている。
呆気にとられ、息を殺して凝視した。老人に、呼吸をしている気配はない。物のように固まっている。直感的に理解した。これは既に
──死んでいる。
訳がわからなかった。有野の携帯を呼び出しながら日比谷の横断歩道を渡ろうとしていた。改修工事で館内に入れず、図書館の前で別れた有野は、かったるそうに踵を返した。
『 なら、俺は帰るわ。お前はゆっくりしていけよ 』
声をかけてきた相手を見て、こちらに気を利かせたらしい。だが、課題の消化は口実で、むしろ例の話の方こそが有野を呼び出した本題なのだ。
あの奇妙な体験を、有野に打ち明けるつもりでいた。電話で済むような内容ではなかった。一人で抱え込むには苦しくて、けれど、吐き出してしまおうにも、誰にでも話してしまえるような安易な類いの話でもない。相手構わず打ち明ければ、一笑に伏されかねない話だが、有野にならば話してもいい、そう思った。確かに初めは、笑ってからかいもするだろうが、それでも最後には、真面目に話を聞いてくれる。
割り込みの用件は急いで切り上げ、すぐに有野を追いかけた。帰るというなら有楽町に向かった筈だ。携帯で有野を呼び出しながら、姿を探して早足で追った。さほど遠くには行っていない筈だ。なのに、どうした訳だか、どこにもいない。暑さと間の悪さで苛々しながら青信号で踏み出して、そうして何かにつまずいた。起伏のないアスファルトの路面で。
打撲の痛みに顔をしかめて視線を上げると、目の前の光景が一変していた。あるべき筈の街の光景がすっかり消え失せ、その代わりに見たものは──
そこは薄暗い室内だった。冷えた床に気怠い気配がくすぶっている。場所に見覚えは全くない。唖然としながら膝を立て、のろのろ床から立ち上がれば、室内は閑散として静まり返っている。開店前の、昼の酒場のようだった。そして、今、蹴つまずいたのは、恐らくは、この老人の脚。
ガラン、とやかましい音がした。総毛立って飛び上がり、素早くそちらへ振り返る。音の正体に、はっと気づいた。店のドアに吊られたベルだ。客の来店を知らせる合図。
──誰か、きた。
息をつめて目を凝らす。店の入口の扉を開けて、一団が気負いなく踏み込んできた。数人の無骨な男達、荒んだ空気を纏っている。柄が悪いというほどではないが、目つきの鋭さから危険な輩と直感した。一般人とは雰囲気が違う。自分の日常には、まずいないタイプだ。そう、ああした類いの輩はいない。血の匂いがする、とでも言えばいいのか。何かが決定的にずれていた。嫌な予感が全身を走った。ああ、又だ。また──
……やっちまった。
絶望的に理解した。又、妙なことになっている。
舌打ちしたいほど不本意だ。あの時、図書館にさえ入れれば、炎天下の横断歩道でつまずくことなどなかったろうに。そうしたら、こんな目に遭うことも恐らくなかった。そうだ、勘が戻ってさえいれば、こんなヘマは犯さない。
( ……どういう場所だ、ここは )
西部劇のセットでも見るようだった。戸口の客がテンガロンハットこそ被っていないが、照明器具のないまっ平らな木造天井といい、円卓に置かれた手動のランプといい、ここには電気さえ通っていまい。いや、それ以前に、外出するのに帯刀するなど正気の沙汰とは思えない。開けた真っ当な世界とは思えない。
──"防刃シャツ"
思考が弾けて立ち尽くした脳裏に、その名称が閃いた。"切れないTシャツが売れている" 以前、そんな記事をネットで見た。確か、秋葉原で無差別殺傷事件が発生し、世間が震撼した頃だ。
手に入れておくべきだった。どれほど高価であろうとも。物騒極まりないこんな場所に飛ばされてくるのが分かっていれば──!
「──なんだ、暗れえな。準備中かよ」
隣とがやがや話していた男が、首を伸ばして怪訝そうに窺った。反応が戻ってこぬことに、やっと気づいたものらしい。ぶつぶつ悪態をついていた男が、こちらの姿を見咎めたらしく、面食らったように口をつぐんだ。「おっと。──なに、お前。ああ、ここの親父の息子かい?」
「──え、ええ」
とっさに嘘をついていた。足元に転がる老人の死体は入口からは見えないだろうが、あの内の誰か一人にでも勘づかれたら、恐らく自分はただでは済むまい。たちまち警察に突き出され、そのまま犯人にされてしまう。そうなれば、いかなる申し開きも通じない。
確信があった。こうした世界では、こっちの理屈は通じない。公正な取調べが行なわれるという保証はない。そもそも、この事件の証人となるだろう入口にいる彼らにすれば、自分は胡散くさい余所者以外の何者でもない。おまけに、事件現場の店内には、他には誰もいなかった。この自分を除いては。犯人として、これ以上疑わしい者がいるだろうか。
逮捕されれば、石壁の牢屋に繋がれる。そうなれば、二度と外には出られない。自分には身柄の引き取り手も、身元を保証してくれる者もいないのだ。つまり、ここで彼らに捕まれば、
──一生、外には出られない。
なんとしてでも、隠し果せねばならなかった。床に転がった老人を。
老人と馴染みであるらしきその男は、頬を歪めて苦笑いした。「あんのクソジジイ。身寄りはねえとかぼやいていたが、どうしてどうして立派な息子がいるんじゃねえかよ。──ああ、親父はいねえの? 明日は店、開けるんだろ」
「え、……はあ、まあ……」
笑みを作って曖昧に応えた。男が怪訝な顔をする。「どうした。明日には戻るんだろ、親父」
「え、ええ、それはもちろん!」
男は戸口に寄りかかり、小首を傾げて眺めている。上手く笑えた自信はない。外で待っていた自分の連れを、男が無造作に振り向いた。
「──おい、休みだってよ」と聞こえてきたから、やりとりを伝えているようだ。顔が引きつっていたろうに、こちらを怪しむ素振りもない。外光に佇む向こうからは、薄暗い店内はよく見えていないらしい。男が再び振り向いた。
「──ああ、それなら、また来るわ」
気負いなく手を振り、踵を返す。一団もぞろぞろ歩き出した。
男達の革ジャンの背が、たるそうな足取りで引きあげていく。降りそそぐ夏陽の中、それはゆっくりと離れていった。
喫茶店でバイトをしていた経験が、ひょんなところで役立った。いや、正直に言おう。バイト先は街中の喫茶店などという健全でお行儀の良いものではない。個人経営の近所のバーだ。こっちの方がよほど実入りがいい。カクテルをつくり、酔っ払った客の世話もする。顔見知りの店ではあるが、バレたら間違いなく退学になる。
『 なんか、ありそうだな、お前 』
昼の薄暗いカウンターで、一人でたるそうに飲みながら、ギイは唐突にそう言った。長身痩躯、かなり短いスパイキーショート、左耳にスタッドタイプのブラックピアス、精悍な顔立ちなのに、いつでも怠そうな顔をした男だ。いつも似たような服装だから、身形には構わない質らしい。朝起きなくていいというなら、夜まで惰眠を貪りそうなタイプだ。こちらの素性に気づいているような節はないが、ふとした拍子に興味を示す。そして、ひと度スイッチが入ってしまえば、僅かな瑕も見逃さない。
『 どこから来た。ここらの者じゃねえよな 』
誰にも指摘されずにきたことを、いとも容易く言ってのける。ふっとようやく気を抜いたところを狙い澄ましでもしたように。
ギイはカウンターに頬杖をつき、じっとこちらを眺めていた。一たび敵に回してしまえば、これほど厄介な相手もいない。うまく抱き込めれば、これほど心強い味方もいないが──。吟味するような茶色の瞳は寛大そうにも冷酷そうにも見える。いや、どちらもきっと事実だろう。時々の利害次第で何れにもなる。一ミリたりとも心動かすこともなく。
確信を持った口振りだった。──いや、この男が知る訳がない。
もしや、鎌をかけている?
真意を測りかね、黙っていると、ギイは訝るように目を細め、頬に薄く笑みをのせた。
『 ──乗ってこねえか 』
急に興味をなくしたように、正面の酒棚に視線を戻した。『 いいけどよ、別に 』
興醒めしたような物言いだが、声には愉快そうな余韻があった。やはり、鎌をかけていたのか。
まったくもって嫌な男だ。興味があるのか、そうでもないのか、さっぱり心がわからない。ショットグラスを片手で揺らして、ギイは常に考えている。気紛れな悪意で挑発し、そのくせ、あっさり引いてしまう。相手の反応を確かめる為だけに思わせぶりな真似をする。仲間の方の常連はどうにでもなる単細胞だが、この男だけは気が抜けない。言うならば種類が違う。一人で考えを転がして遊び、それが口から出る時には、既に揺るぎない決定事項、そうしたことに慣れた人種。
からかうようなギイの目には、対抗意識を喚起させるような、あざけりのようなものが潜んでいる。だが、吊られてしゃにむに突っかかれば、手もなく足元をすくわれる。歯向かっても決して勝てない、知らぬ間にやり返されている。気づかないのは馬鹿だ。
どことなく詐欺師のような男だが、質の悪いことに読みは正しい。ぼんやり酒棚を眺めていたギイに、いきなり訊かれたことがある。
『 何者なんだ? 本当は 』
今日は無責任にも、酔い潰れた連れを置き去りにして出て行った。燕尾服にシルクハットという妙な格好の中年男だ。問題集を木箱に伏せて、カウンターの酔客を辟易と見、「毎度」とギイを送り出す。知らぬ間に溜息をついていた。たるそうに去りゆく短髪の背。
good luck ギイ。君は君の道を行ってくれ。願わくば、こっちには関わらぬことを。
今日も何とか仕事を終えて、看板をしまい、店の扉に鍵をかける。店主の息子になり果せ、早や一月が経った頃、 ようやく事情が飲み込めてきた。
この店はうらぶれた倉庫街の片隅にあり、繁華街のある中心部から遠く離れた場所にある。当然、店は流行っていない。そうした寂れた立地ゆえ、身寄りのない老いた店主が一人ひっそり他界した折りにも、誰一人として気づかなかった。
店の裏手は断崖で、遥か下方の水面では、海流が激しく渦巻いていた。常連らしき最初の客を店から追い返したあの後に、毛布を探し出して遺体を包み、店の裏手まで引きずって、深夜の海にやむなく落とした。彼らが出直してくる前に、死体をどうにかせねばならない、そのことだけしか頭になかった。必死だった。道義も何もありはしない。味方はおろか知り合い一人いないのだ。
洗ったグラスを片付けながら、それにしても、と考える。何故、自分ばかりがこんな目に遭うのだろう。見知らぬ世界に転がり出たのは、実は、これが初めてではない。前回は、無人島の原生林の中だった。いや、正確には無人ではない。人はいた。若い女が一人だけ。
あの時は、呼ばれた気がして振り向いた。切羽詰った声だった。ひどく怯えた辛そうな声。だが、その時ぶらついていたのは家の近所の商店街で、いたってのんびりとした昼下がりだった。人が悲鳴をあげるような危機的な状況では無論ない。だからこそ、それを怪訝に思ったのだ。
振り向いた時には、嵐の夜の樹海にいた。そこには既に、見慣れた商店街はどこにもなかった。視界が瞬時にすり替っていた。突風が上空をごうごう唸り、横殴りの雨が叩きつけ、真っ黒い数多の梢がざわざわ不気味に揺さ振られていた。
叩きつけるような轟音と共に、夜空に白く稲妻が走り、青白い閃光に、その姿が照らし出された。見たこともないような巨木の前に、髪の長い女の子がいた。年の頃は十七、八。怯え、泣きながら、うずくまっていた。ためらいながらも近づくと、彼女がいきなり抱きついてきた。
驚いて後ずさった。彼女は服を着ていなかったからだ。だが、本人に気にした様子はない。ただ必死に縋って泣いていた。獣の一種であるかのような一糸纏わぬ白い姿で。事情を聞くが、言葉がまるで通じない。そもそも言葉というものを、彼女は持っていなかった。自分の名前以外には。
妖精じみた丸裸の彼女と、二人きりでしばらく暮らした。あり余る膨大な時間を、彼女に言葉を教えて過ごした。教材には、子供に聞かせるような簡単な童話を用いた。森の迷子という風情の彼女の姿からとっさに思いついたのは、世界の名作
『 ヘンゼルとグレーテル 』
そして、自分の世界での日々の暮らしや出来事を、彼女に色々話して聞かせた。果実をもぎ、木の実を拾い、魚を獲って日々を過ごした。彼女は食べられる実を知っていたし、川での罠の張り方にも次第次第に慣れてきて、いつしか要領を覚えていった。彼女は素直で愛らしく魅力的で、二人でいることに苦痛はなかった。むしろ、このまま邪魔が入らぬことを、夢のような平穏が壊されぬことを強く望んだ。
やがて、意志の疎通が不自由なく図れるようになった頃、見知らぬ顔が現れた。ぼさぼさの髪を一つに括った、顔も手足も小汚い男。元は着物の形をしていたらしき汚れたボロ着を纏っていた。
樹海を長らくさまよったらしく、こちらを見つけて絶句したように立ち尽くし、泡を食って駆けてきた。黒い髪に黒い瞳、欧米人の顔立ちではない、東洋人の顔立ちだ。日本人にしては言葉づかいは奇妙だったが、話の意図はなんとか通じた。
ヤヒコという古風な名を持つその男は、我が身に降りかかった未曾有の変事を動揺しきりの様子で語った。いつものように田畑に行くべく近所の野良道を歩いていたら、いつの間にか、嵐の夜の森にいた。それ以降は、たまたま持っていた農作業用の鍬を用いて、鳥獣を獲って飢えを凌いだ。何故自分がこんな所にいるのか、事情が皆目わからない。
そんな具合に人が出現することが、それから後もいく度か起きた。出現場所はたいてい森で、見知らぬ者が突如森からさまよい出てくる。身形は様々、年齢も様々、だが、共通項もあるにはある。そのいずれも若い男だということだ。ヤヒコのような閉口するような粗野な輩も中にはいたが、感覚の近い奴もいた。
『──つまり、帰れないってことすかね 』
森を眺めて索漠と、七瀬は白けた顔でそう言った。金髪のミディアムウルフにシルバーピアス、一見チャラ男っぽいが、意外にも礼儀正しい"今風の若者"。七瀬は淡々と呟いた。『
つまり俺達、やばくね 』
何もできない彼女を守って、身を寄せ合うようにして暮らしていた。この原始的な共同生活を余儀なくされた仲間達は、多い時で十人近くもいたろうか。曖昧な言い回しになってしまうのは、顔触れは変動したからだ。一人、また一人、そして翌日にまた一人──もしくは同じ日に二人現れて翌日にまた一人、といった具合に。事故や天災で命を落としたヤヒコのような者もいたし、ある日ふっと掻き消えた七瀬のような者もいた。現れる時と同様に、人は唐突に出現し、そして唐突に失踪した。理由は誰にも分からない。
緩慢に、漫然と、森の四季は移り変わり、夏を何度か経験した。森で連日、獣を狩り、火を熾して肉を焼いた。倒れた老人を店で見て、死んでいると直感したのは、大して怯みもしなかったのは、その当時の体験で死には慣れていたからだ。
あの日は彼女が死んだ日で、悲嘆に暮れて歩いていた。
それでも、いつものように狩りに出て、皆で獲物を探していた。食料を確保する事が一日の最優先事項であり、最重要の課題だった。一日の時間のあらかたが森での狩りに費やされた。とにかくその日一日を食い繋がねばならない。「食う」ことは命を繋ぐことに他ならなかった。食わねば死ぬ。いたって自明な生物の真理だ。
それでその日も、獲物を求めてさまよっていた。降り積もった枯葉を踏み締め、仲間達と目配せし、足音を忍ばせて歩いていた。数人に踏みしだかれる枯葉の音が、ごく微かに音を立て──
けたたましい音で振り向いた。異質で硬い人工的な音。すぐには何だか分からない。長らく埋もれていた錆びついた記憶が浮上して、ようやくじわじわと理解する。そうだ、これは、
──クラクション。
振り向いた目を、白が射抜いた。まばゆい白──陽を反射するアスファルトの白線だ。そして、今のは自動車の鳴らすクラクション。
雑然とした街の中に立っていた。うだるような蒸し暑さ、ぎらつく太陽、気怠い夏。二車線の道路を挟んで商店が軒を連ねている。
全てが跡形もなく消えていた。鬱蒼とざわめく深い森も、生死を共にした仲間達も。それらの代わりに滑り込んだ景色が──四角い造作物の数々のパーツが、いやに現実感を伴って、あやふやな視界に迫ってくる。
その"正しさ"に圧倒された。それは白々しくも絶対的に正しい。商店街から入った舗装路には、二階建ての民家が続いている。庭があり、門があり、車庫がある。灰色の中層マンションが晴れた空に突き出ている。見慣れた景色、見慣れた路地──。
家の近所にいるのだと、少ししてから気がついた。生まれ育った家の近所だ。だが、その事実はひどくいびつで、何かひどくよそよそしかった。世界に体が馴染まないのだ。
それをそれとして認識するには、咀嚼の為の時間がかかった。風景が徐々に身に馴染み、それを努力して殊更に理解し、異物を飲みこむようにして飲み下す。その嚥下の行程は、いやにゆっくりと行なわれた。この場所を熟知しているのは明らかなのに、無理に捻じ曲げているような、嫌な違和感がそこにはある。
少しして、胸がどきどき鳴りだした。動くことさえままならず、微動だにせずに立っていた。汗が額を滑り落ち、手は拳を握っている。
じっとり汗ばむ真夏の昼、人も疎らな街路では、蝉がジイジイ鳴いていた。道路の向かいの商店の日陰を、ベビーカーを押した茶髪の若い母親が、疲れた無表情で歩いていく。反射的に腕時計を見た。十一時十分を指している。つまり、今は午前中──
疑問が湧いた。こんな時間に、自分は何故、こんな所に立っているのだ。学校は──そう、学校があるはずだ。授業を受けているはずのこんな時間に、どうして自分はここにいる?
身に着けているのはユニクロのTシャツと、色褪せたジーンズだった。いつもの見慣れた服装だ。朝起きて、床から拾って、何も考えずに服を着た──記憶が鮮明に蘇った。ここは家の近所の商店街、そして、今は夏休み。だから、こんな半端な時間に場違いな所に立っている。いや、それなら"あれ"は何だったのだ。夢を見たということか。質の悪い白昼夢を……?
呆然としながら、左の腕に目をやった。"それ"はやはり、そこにある。手首の下から肘にかけての大きな傷跡。森で狩りを始めた当初、要領も何もわからずにへっぴり腰で突入し、猪に反撃されて裂かれた傷。結局治らず残ってしまった。その深い傷跡は、違和感なく腕にある。ならば、彼らと暮らした日々は、
「……夢じゃ、ないのか」
慄然と立ち尽くした。
夢なら、ある筈のないものが、腕にはっきり刻まれていた。いや、あんなにも鮮やかなあの日々が、単なる夢でなどあろう筈がない。あの彼女との間には、自分の子供さえ授かっていたのだ。
母親にそっくりの、かわいい顔立ちの女の子だった。仲間に守られ、皆に愛され、日々すくすく成長し、今がかわいい盛りだった。
彼女を失い、空洞になった心を抱えて、亡骸の前に立ち尽くしていたあの時も、皆が悲嘆に暮れる中、五つになったばかりのあの小さな娘だけは、細い背筋をしゃんと伸ばして不思議なほどに平然としていた。力なく下ろした手の中に、小さなその手をすべりこませ、娘は励ますように軽く握った。
『 泣かないで、トーノ。わたしは、ここにいるわ 』
ひどく大人びた仕草だった。そして、毅然と顔を仰いだ。物のように横たわった、あの彼女と瓜二つの顔で。
胸の上で手を組んで、シンと横たわった彼女の白い顔を思い出すと、今でも絶望に目が眩む。
愛する女を失っていた。永久に失われたあの笑みを、今でも、はっきりと思い描ける。彼女の名は月読といった。
── 第四章 「譲れぬもの」 了 ──
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