interval 〜邂逅〜
寝静まった暗がりに、黒い革靴が歩み出た。
蒼い静けさに包まれた部屋を、闇にまぎれて歩いていく。
細身の体に黒の上下。迷いもなく向かう先には、月あかり射しこむ最奥の窓辺。そこには大型の寝台が、壁に寄せて据えられている。ゆったりとした白いリネン。大きな羽根枕に頭を沈めて、厚みのない人影が、ひっそり横たわっている。
その体を毛布ごと、節くれ立った手で抱きあげる。娘の体は、すでに子供のそれのように軽い。
コツコツ、かたく靴音が響いた。
床で眠りこんだ顔の間を、見向きもせずに人影は歩く。鍵を外しておいたテラス戸を、革靴の先で蹴りあけて、木立おいしげる庭に出た。
漆黒をひろげた天蓋の下、夜闇に閉ざされた明け方の庭は、まだ、しん、として、ひと気がない。
春の月に照らされて、男はぶらぶら庭を行く。
幅の広い裏道を、等間隔にともった外灯が、ぽつりぽつりと照らしていた。木立豊かな広い庭には、見渡すかぎり人影はない。娘を抱いたまま小路を抜け、予め決めていた、まさにその場所に男は立つ。
あやすようにして軽くゆすって、腕の娘の注意を引いた。
「アデレート。雪だ」
娘がぼんやり、瞼をあけた。
細い眉を娘はしかめて、懸命に目を凝らしている。見えているのか、いないのか。自分を抱いた男を見あげ、か細い声を振りしぼった。
「……さん……あ……」
辛うじて男の名前を呼んで、長いまつ毛がゆっくりと閉じた。
ふっくら白いその頬に、白い切片が舞い降りる。底冷えのする蒼闇の中、月が煌々と浮いている。いつまで待っても、その言葉の先はない。
男はゆっくり、天を仰いだ。
ありがとう、と言おうとしたのか、あいしている、と伝えようとしたのか、今となっては知る由もなかった。今となっては、どうでもよかった。彼女の時はついに満ち、すでに去ってしまったのだから。
息詰まるような歳月が、目の前を流れ去っていた。
凍てつくような明け方の月が、庭を薄青く照らしている。
無限の闇のかなたから、白が尽きることなく舞い降りていた。
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