■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部2章44
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けたたましい金属音が、夜更けの路地の石壁に響いた。
ガラガラガラ……と耳障りな音で、蹴とばしたバケツが泥濘に転がる。ひらり、と夜闇に飛び出す影──。
走り続けた足裏が、ビクリと硬直、居竦んだ。
とん、と身軽に爪先で降り立ち、目を光らせて振り向いた "それ"に、衛生班の班長カルロは顔をゆがめて息をつく。
「……お、脅かしやがって。猫じゃねえかよ」
震える手の甲で頬をぬぐい、追手の気配をそわそわうかがう。
矢も楯もたまらず駆けだした。
泥を跳ねあげ、前のめりで空を掻く。
前を見据える二つの眼は、道の先の、その先を凝視し、転げるようなじれったい足が、ぬかるんだ地面をがむしゃらに蹴散らす。息があがってあえぐ脳裏に、焼きついた思いは一つ。少しでも遠くへ。安全な場所へ。
だが、どんな暗がりに潜りこんでも、あの男が壁から現れ、引っ立てられてしまいそうな気がする。
"あの眼"が追ってくるようだった。
射ぬくように見据えるあの目が。
「あ、あいつら、血の通った人間じゃねえ……!」
ぶり返した怖気に目をみはり、ごくりと唾を飲みくだす。
(あいつら、仲間を──)
ぶっ殺しやがった……!
あの噂は本当だった。
部隊に仇なす不穏分子は、いつの間にか姿を消す。表向きは「配置換え」だが、以降、姿を見た者はない。それが二人となり、三人ともなると、いつしか囁き交わされるようになった。
──密かに処刑が行われている、と。
路地に連れこまれたセレスタンは、一切抵抗しなかった。
殴られても、蹴られても、されるままになっていた。
顔色一つ変えるでもなく、ザイはセレスタンを甚振った。
その拷問を見届けるように、人影が路地をふさいでいた。
佇む四つのシルエットから、逆光の人影の正体が知れた。大男の弓使いレオン、体格の良い怪力ロジェ、小生意気な発破師ジョエル、無口で無表情の毒薬使いダナン。レッド・ピアス隊、第一班。
壁にもたれ、息を荒げるセレスタンに、ザイが不意に突っ込んだ。
暗く煤けた石壁のはざま、夜の路地の暗がりの壁で、二つの人影が動きを止めた。
やがて、ザイが身を離し、その手にさげた短刀から、切っ先を伝って滴が落ちた。
壁に押しつけられたセレスタンが、自分の左胸を両手でかかえ、がくり、とぬかるみに両膝をついた。
黒メガネが天を仰ぎ、前のめりに顎から崩れた。
それきりだった。
泥水の中に突っ伏して、それきり禿頭は動かなくなった。
路地の先に無言で佇む、四つの逆光の人影に、抑揚なくザイが命じた。
「片づけろ」
月下で四人が身じろいだその時、ふと見やった弓使いの目が、つかの間こっちを捉えた気がした。ザイもふと、怪訝そうに肩越しに見やり──
無我夢中で、その場を離れた。
足音を立てまいと必死で神経をすり減らし、息を殺して夜道を駆けた。振り向く気など起きなかった。街路灯のともる通りを、ただがむしゃらに駆け抜けた。そぞろ歩く人ごみを抜け、幾度もでたらめに角を曲がり、人目につかない路地に入り──。
首尾を見届けるべくセレスタンを尾行し、予期せぬ場面に出くわしていた。
我が目を疑い、立ち尽くした。曲がりなりにも、あれは仲間だ。そのはずだ。ついほんの半日前まで、親しげに笑い交わしていた。それが──
なすすべもなかった。
見殺しにせざるを得なかった。気をそらそうにも相手は特務。小細工など通用しない。しかも、相手は一人ではない。それぞれ技量を持つ全員だ。
助けに入るどころではなかった。いや、それどころか勘づかれたかもしれない。町角の陰で見ていたことに。あの処刑の一部始終を。
最期の瞬間、己に何が起きたのか、刺されたセレスタンにもわからなかったろう。
ほんのわずかな前触れもない、目にもとまらぬ速さだった。
固唾をのんで見つめていたのに、気づいた時には、ザイが肩から突っ込んでいた。
鎌風のザイ。ひと度あの目が捉えれば、まず標的は逃げられない。少し前まで、生きて呼吸をしていた者が、瞬いた直後、この世から消える、その瞬間を目撃した──
がくり、と不意に肩が落ち、体が宙に投げ出された。
たたらを踏んで地面に突っ込む。
したたかに打った肩をつかんで、顔をしかめて振り向いた。足が、何かに引っかかった。一体何に蹴っつまずいた──
怪訝にカルロはすがめ見た。
石壁にもたれて、誰かいる。
じめつく路地の暗がりに、足を投げて座っている。薄汚れた身形に、使いこんだザック。酔っぱらい──いや、浮浪者だろうか。
妙な気がした。
男はうなだれ、沈黙している。未だに何の反応もない。怒鳴りもしなければ、毒づきもしない。たとえ酔っぱらって寝ていても、急に誰かに蹴られれば、身じろぐなり、うめくなり、なにがしか反応があるものだが。
好奇心が、危機に勝った。
己の状況を一瞬忘れた。目をそらさずに立ちあがり、壁の男にそろそろ近寄る。だらりと右の手の甲が、ぬかるんだ地面に落ちている。もう片方の手のひらで、シャツの脇腹を押さえている。灯りがなくて分かりにくいが、どす黒く広がったあの染みは、
──血か?
ただ事ではない、と直感した。しかも──
うなだれた男の顔を認め、戸惑い、とっさに目をそらす。
「死んでんじゃねえの?」
どこか下卑た笑いと共に、石壁の先で声がした。
路地の暗がりに目を凝らせば、少し離れて、もう一人いる。
どうやら老いぼれた爺さんのようだ。酒瓶を片手にうずくまっている。掠れたダミ声で、酔っぱらいは続ける。
「なんだかその人、日暮れからちっとも動かねえんだよ。──いや、俺ぁ、何度も言ったんだよ?」
したたかに飲んでいるらしく、すでに呂律が回っていない。
「具合が悪いなら、医者に行きなよーって。けど、うんともすんとも言わねえんだよな、これが」
カルロは眉をひそめて目を戻す。訳がわからず、思考が飛んだ。なぜ、こんな所にいる。もしや、よく似た別人か──いや、この顔、頭髪、間違いようがない。目を閉じ、ぐったりうなだれた頬。乾ききって切れた唇。血の気の失せた土気色の顔。
「──おい、じいさん」
せかせか壁に駆け寄った。
老人にとりつき、肩をゆする。
「起きろ、じいさん。頼みがある。急いで警邏を呼んでくれ。あいつを医者に見せてくれ。わけがあって俺は行けねえ。だから、あんたが──あ、おい!」
うつらうつらしていた肩が、酒瓶かかえて寝転がった。
目を閉じた赤ら顔が、高いびきをかいている。
「──ちっ! 使えねえジジイだせ!」
毒づきながら道を戻り、顔をしかめて男を見おろす。
……どうする。
見捨てるか?
ぐずぐずしている暇はない。もたもたしていれば、特務がくる。だが、見捨てれば、命に関わる。部隊に知らせた方がいい。すぐに。そう、一刻も早く。だが、迂闊に動くわけには──。まだ、特務がうろついている──
堂々巡りに頭を掻き、行きつ戻りつうろついた。自分の顔を忙しなくなでる。
──どうする。
暗い路地を振りかえり、じりじり気配をうかがった。自分が姿をくらましたことには、とうに気づいているだろう。残党狩りが始まっている。
踏ん切りがつかず、二の足を踏む。奥歯をかみしめ、じっと見つめる。正体を失くした土気色の頬。このまま放置し、立ち去れば、朝には確実に冷たくなる──
目を背けて、踏み出した。
捕まるわけにはいかないのだ。見つかれば、次は自分の番だ。やっとの思いで逃げてきたのに、こんな所で潰えてたまるか──
行く手に振り向けた視界の端を、あの忌まわしい残像がよぎった。
路地の闇に佇む人影。泥のぬかるみに突っ伏す禿頭。見殺しにした同胞の──
「──くそっ!」
舌打ちして振りかえり、駆け戻って膝をついた。
破れかぶれでザックを地に投げ、壁の男に向き直る。
顎をもちあげ、顔色を見、腹を押さえた手をどけた。
「……やべえな、急がねえと」
大量の出血。衣服のどこにも穴はない。処置した傷が開いたか──。引きちぎるようにして衣服を開き、震える指で、道具を取り出す。
ぐしょ濡れの包帯にハサミを入れた。
「──ちくしょう!」
じりじり気を揉み、顔をゆがめてカルロは毒づく。
「何してんだよ! 逃げろよ俺! こんな所でかかずらっていたら──」
今、こうしている間にも──
知らず気配を探る背に、じわり、と嫌な汗がにじんだ。今こうしている間にも、ひたひた影がにじり寄っているかもしれない。セレスタンを葬ったということは、発覚したということだ。拷問で、奴は吐いたかもしれない。こちらの名前と企てを。見つかれば、こちらも
命は、ない。
ぶるり、と首を振り払った。
男の腹に目を据えて、包帯の切れ端を取り払う。目を閉じた土気色の顔は、息をしているのか、それさえ怪しい。手が、たちまち血液でぬめる。手を拭いた切れ端を投げ捨て、別の切れ端で出血をぬぐう。
「やべえな、こいつは……」
つぶやき、ふと、見返した。
「……なんだ、ありゃ」
傷は開いていなかった。きちんと縫合されている。だが、縫い目の隙間に、何かある。血液でべっとり張りついた、何か黒い、動物の毛の塊のような──
ハサミでつまみ、指先で引き抜く。
厚みはなく、紐のような──。黒い塊は存外に長く、引いても引いても、血まみれの腹から、ずるずる出てくる。
ぐっしょり血液で湿った"それ"を、目の高さに持ちあげて、矯めつ眇めつすがめ見た。
「──こいつが悪さをしてたのか」
羽根だった。
鳥の翼の、あの羽根だ。爪から手首ほどの長さのある、ぬらりと濡れた漆黒の──。鴉の風切羽といったところか。だが、そんな異物が、なぜ腹に──
しげしげ腹を見おろして、手にした羽根に目を戻す。
とっさに断ち切り、投げ捨てた。
切断された二つの羽根を、顔をしかめてカルロは見る。にゅるり、とうごめいた気がしたのだ。意思を持つ生物のように。
「き、気味が悪りィな……」
いや、何かの弾みで軸が動いて、そんなふうに見えただけ──そう、おそらく、それだけの話だ。
だが、否定のそばから、奇妙な幻影がひるがえる。もし、今のように羽根が動いて、腹の中を掻きまわしていたら──
「──ばかばかしい」
強く首を横に振った。
「あってたまるか、そんなこと」
殊更に吐き捨て、気を取り直して処置に戻る。
傷はすでに塞いであるから、できることは消毒くらいだ。清潔な布を押し当てて、新たに包帯を巻いていく。助かるかどうかはわからない。あとは患者の体力頼み。だが、異物の負担が取り除かれれば、おそらく快方に向かうはず。
切断された黒い羽根が、かたわらの水たまりに漂っていた。それは半分沈んで静止している。
「──そりゃ、塞がるもんも塞がらねえやな。あんなでかいもんが挟まっていちゃ」
溜息まじりに思わずごち、ひらいた衣服を元の通りに整える。
それにしても、とカルロは思う。一体どんな処置をすれば、羽根が腹に混入するのか。衛生班に長らくいたが、そんな話は聞いたことがない。いや、あれほど大きな物体を、縫合で見逃すなどありえない。虫というなら話はまだしも、羽根など勝手に動かない。だが、羽根は明らかに、肉に埋まって突き刺さっていた──
弱々しく男がうめいた。
軽く咳こんだ肩を抱き、カルロはザックから水筒をとり出す。「やっと、ご帰還あそばしたか。ほら、大丈夫かい? 副長さんよ」
そう、なぜ、こんな所に、総隊を仕切る副長がいるのか。
水筒の口をあけ、息を吹き返した唇に、端を軽く押しつける。「ほらよ、水だ。こいつで喉を湿らせな」
「譲ってくんねえ? きれいな顔した、その兄ちゃん」
しゃがみこんだ肩越しに、カルロは怪訝に振り向いた。
夜更けの暗い路地の先に、街灯を浴びた数人の影。
一杯ひっかけてきた一団らしい。三人連れの男の一人が、顎の先でファレスをさす。「礼は弾むぜ?」
「あア? 男とわかって言ってんのかよ」
「言ったろ、今、兄ちゃんって」
暇を持て余した金持ちの中には、男色に手を出す輩がいる。
招かざる客に顔をしかめて、カルロは苦虫かみつぶす。「とっとと失せな。死にかけてんだよ」
「そいつも一興。ぞくぞくするね」
「たく! 金持ちの酔狂に付き合ってられるか。行った行った! こちとら遊びじゃ──」
追い払いかけた手をとめて、ふと思案し、顔をあげた。
「いいぜ、乗った。その話」
路地の先でながめている、先の男を振りかえる。
「丁度こっちも持て余していたところだ」
口端をゆがめてカルロは笑い、意識のないファレスに振りかえる。
「……すまんな、副長」
その耳に、早口でささやいた。「もう、俺には看てやれねえ。得体のしれないあの連中が、医者に見せるか、そこは賭けだが、ここでくたばるより幾分ましだろ。そんな体で酷だろうが、後はあんたの才覚次第だ。運が良ければ──」
生き延びられる。
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