【ディール急襲】 第3部3章

CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章35
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 チ゛―……と耳障りな音がした。

 光と風が一点に集まり、きらめきを放って弾け飛んだ。
 怒気が歓喜が恍惚が、恐怖が憎悪が絶望が、嵐のごとく駆けめぐる。意識が大気に溶け出して、彼我の境があいまいになる。
 一切の境界線が掻き消えてあらゆるものが溶けこんだ、ドロドロとならされた輝きの渦中で、エレーンは呆然と立っていた。
 光の奔流が周囲をめぐり、渦が白く発光する。
 渦は徐々に速度をゆるめ、やがて完全に停止した。

 闇だった。
 あらゆる色が溶け合った、漆黒の闇に閉ざされる。いや、果てなく広がっている。
 肌に迫ってくるような、濃い、密な闇だった。
 そのくせ、それ・・に意識をやると、たちまち彼方かなたまで澄み切ってしまう。
 しん──と宙空の隅々まで、深い闇が冴え渡った。

 ぽつん、と彼方に光がともる。
 淡く、白く、遠い光源。
 澄み渡った闇の彼方に、おぼろに光がともっていた。あれは……

 エレーンはあえぐように駆け寄った。
 あれは見失ってはならない光──!
 淡い光を全身にまとって、ウォードが宙空にたたずんでいた。シャツの両腕を自然におろし、うつむき気味の横顔を、長い前髪が覆っている。
 ほのかに輝く彼の元へと、両手を振って、がむしゃらに急いだ。
 だが、駆けても駆けても行き着かない。
 決して遠い道のりではない。彼はその場を動かない。彼の元まで宙空が広がり、阻むものなど何もない。なのに、距離が縮まらない。
「ノッポくんっ!」
 呼びかけが反響、虚ろに響いた。
 声がクニャリと奇妙に歪んで、でたらめな方向から戻ってくる。
 髪に、肩に光をまとって、彼は宙空に佇んでいる。声が届かぬ距離ではないのに、彼は顔さえあげようとしない。立ったまま眠っているかのように。
 うつむき気味の輪郭が、さらさら闇に溶け出した。
 彼を形作る光の粒が、みるみる散って消えていく。光の粒子がさらさら、さらさら。乾いた大地の細かな砂が、吹きさらわれていくように。
 近づくことさえままならず、唇をわななかせて凝視した。どうしよう。
 行ってしまう。
 自分が何者かも・・・・・・・知らないままで・・・・・・・

 胸が強く締め付けられて、たまらず駆け寄ろうとするけれど、行けども行けども近づけない。
 光の粒子は流出を続け、すでに希薄な彼の姿が、更にどんどん薄れていく。
 彼はかすかな抵抗も見せない。これまで自らを形作っていた精気が、体から抜け出すに任せるままで。このままでは完膚なきまでに損なわれてしまうのに。これではやがて完全に消滅してしまうのに。
 彼の体が透けていた。
 その輪郭の所々を辛うじて留めるばかりになっている。
 薄く残った最後の線が、ついに闇に消え入った。

 足を止めた体の底に、ゆっくり哀惜が降りてくる。
 冒しがたく厳粛な、揺るぎのない領解が。
 これは、あらかじめ・・・・・決まっていたこと・・・・・・・・
 彼らの"契約"が完了し、定量で均衡・・・・・、確定したのだ。
 だから、もう戻らない。まだ十五だった少年は。たった今、
 ──彼が、死んだ。
 宙空の闇が、息苦しいほどに密度を増した。
 人ひとりを呑みこんで、遠く空疎に澄んでいく。
 あらゆる感情をもぎ取られ、エレーンは呆然と立ちつくしていた。手も足も出なかった。まるで歯が立たなかった。これはすでに決定・・だった。はたの者の心情など、そこには一切斟酌しんしゃくされない。けれど、まだ──!
 氷を呑んだように冷たくなった、拍動ひびく腹の底で、未練がざわめき、黒々とさざめく。

 彼方からの視線を感じた。
 じっと見つめる怜悧な瞳。あれは──

『 あんたに興味があるだけさ 』

 声が、脳裏で不意に響いた。かの参謀ギイさんの──
『 "三"の厄難って知ってるかい? 』 
 膝に置かれた長い指で、彼の煙草が薄くくゆる。
『 ヨハンみたいな特殊なガキは "三"に倍する年齢としで死ぬ。つまり、三歳みっつ六歳むっつ九歳ここのつだ 』 

『 飯食いに行くぞ、あんぽんたん 』 
 しなやかな髪が、ひるがえる。
『 てめえギイこら! なんでそういう余計な真似を! ガキなんぞ側にくっ付けたら、出てこねえかも知れねえじゃねえかよっ 』 

 赤く染まった夕焼け空に、石壁が高くそびえている。
 天を衝くような街壁の、弧を描く門の左右で、巨大なたいまつが燃えている。

『 めっちゃ優しい方っスよ? つか、なんで訊きますかね本人に 』 

『 ──姫さん──姫さん。大丈夫だから── 』 

『 ふふ。なぁんか、わかっちゃうのよね、わ・た・し 』 

 活気に満ちた日暮れの市場。
 膝下までの外套をまとい、路地を行きかう影法師のような人々。ざわざわ、がやがや、路地を往く人々の頭。行きかう人の顔、顔、顔──

『 ひ〜めさん。──しょうがないよな。だって、誰もいないんすもん。ま、通報したのは 俺 すけど 』

『 もしかして、見たー? 』 

『 誰かがしきりに呼んでる気がして、街道の方が気になった。で、行ってみたら、お前がいてよ 』 

『 ああ、隠さなくていい。あんたのことは知っている 』 

 さらさら砂が街路に流れる。
 白茶けた石壁が連なる街。薄暗い外灯の下、ザイが壁から肩を起こす。

『 もう、姫さん。よそ見しないで。ほら、ちゃんとフードをかぶって 』 

『 遊びというなら構わない。だが、あの男には深入りするな 』 

『 あんたを連れてちゃ、町にも寄れず、あんたの容態がもたなくて──それでカノ山の坑道にこもって、医者の到着を待ったとか 』 

『 起きろ。行くぞ、あんぽんたん 』 

『──あんたさ、もう泣くなよ。あのハゲがいなくても、俺らがあんたを守るから 』 
 空へ飛び立った鳥たちの行方を、枯れ草色の頭髪のジョエルが、きかなそうな顔つきですがめ見る。
『 ねえだろ、あんなの。青鳥を服従させるとか、アレを育てた鳥師だって無理だぜ 』 

 とん、と卓に飛び乗ったのは、か細い前脚をそろえた黒猫。

『 熱烈歓迎、感激スねえ。まずは靴、脱ぎましょうね。部屋ん中は土足厳禁どきんスよ 』 

『 なんでそう見境なく、顔を売ってくるんすか 』 

『 ま、観念して戻るこったな。海賊どもにとっ捕まって、腹裂かれるよりマシだろが 』 

『 死んだんだってな。友達が。ラトキエが囲っていた女とか。死因は確か黒障病 』 

『 それなら、わたしの邪魔はしないで 』 

 次から次へと、誰かの声が襲いかかる。
 困惑する耳の奥で、声がわんわん氾濫する。

『 そうして次々相手の心を手中にする──一介の庶民から一足飛びに、公爵夫人にまで成りあがった、篭絡の極意を知りたいね 』 

『 気にするな。照れてるだけだ。ガキだから 』 

『 しんどいんスよ、あんたに、あんなふうに泣かれるのは 』 

『 君は、一刻も早く街へ戻って。大丈夫、ならず者は、もういない 』 

『 ……てんめえ阿呆! なんでギイばっか見てやがるっ! 』 

『 やられた。グルかよ。飯食って店を出た時か。だから、あの時── 』 

『 よせ! 駄目だ、台無しになる 』 

『 ここにいれば、来るかと思ってー 』 

『 規制線の先へ行け。ここにいたら、ヤバイってんだよ! 』 

『 なら、あんた、オレと行く―? 』 

『 準備ができ次第、町を出る 』 

『 ──まあ、誓っちまった・・・・・・ことだしな 』    

『 なんで "ケネル"ー? あんたを・・・・助けたつもりはないけどー 』 

『 おい! 姫さん、そこにいな! すぐに迎えをやるからな! 』 

『 君、あいつに何をしたの? 』 

 エレーンはたまらず、顔をしかめて耳をふさいだ。
 ……なんだろう、これは。
 かつて見聞きした情景が、脈略なくでたらめに、洪水のように押し寄せる。

『 いつか、すっかり片がついたら、』
 暑い屋上の風に吹かれて、誤魔化すようにケネルが苦笑わらう。
『 戻ることもあるだろう。そうしたら、どこかに飲みにでも行くか 』

 丸い小さな黄色が揺れる。
 屋台に積まれたミモザの花。
 商都の行きつけの喫茶店。窓辺にある四人席には、同じ顔をしたリナとラナ。

『 来い! 』
 真顔のファレスが、手首をつかむ。
 足場が消えた崖の下、ぐんぐん迫る荒ぶる海面。
『 ようし、大丈夫だ。少しだけ息を止めていろ 』

『 クレストには無論、民兵もご提供頂く 』
 眼窩の落ち窪んだ痩せぎすの使者が、交渉の卓から、乗り出し、ささやく。
『 我々は兵が欲しいのです。戦地シャンバールでも通用する、遊民どもの戦力が 』

 まだ寒い春先に、喪服で集った墓地の丘。
 何日も引きこもった寮の部屋。暗い部屋のカーテンを引き開け、手を伸べたダドリーの笑顔。

 半分開けた扉に手をかけ、かったるそうに現れたレノさま。立ちふさがった肩の向こうに、あの夏、仲間とたむろした、田舎宿のレノさまの部屋。
 夏風そよぐ窓辺には、熱を出して臥せったアディー。宿の者の清掃さえ、長らく締め出していたはずなのに、昼の床には、ちり一つない。

 雨の中を迎えにきた、白い服の小さなアディー。
 肩に置いた彼女の傘が、笑顔の向こうで くるくる回る。赤い傘がくるくる。くるくる──

 青く晴れた夏の空。雲が流れ、突風が吹き、パラパラ頁がめくれていく。
 昔の記憶や情景が、目まぐるしくひらめき、消える。
 手元に配られるカードのように、次々それが切り変わる。なぜ、こんなことが起きるのか。それがなぜ "今"なのか。かつての情景が去来する。何を捜しているのだろう。──いや、
 ──決定は・・・覆らない・・・・
 それを悟ったその瞬間、あれほど鳴っていた声がんだ。
 これまで得てきた体験などでは、どうにもならないことを知る。そう、
 決定は、もう、覆らない。

 急停止していた光景は、どこかの高い天井だった。
 やり過ごそうとした刹那、ふと気になって意識を凝らす。淡褐色にくすんだ視界、吹き抜けの壁に這う手すり。上階へ続く幅の広い、
 ──階段?
 この階段を知っている。
 子供の頃に家族と暮らした、あの懐かしい商都の自宅。
 この階段に座り込み、ぬいぐるみを抱いて待っていた。多忙な両親の帰りを、いつも。
 あの訃報が届くまでは。

 助けてくれた青年は、稀有けうな力を持っていた。
 あのノースカレリアで二十年前、荷馬車が突然横転し、両親は積み荷の下敷きになった。すぐに積み荷を退けようとしたが、荷台から転げた積み荷は巨大で、数人がかりでも微動だにしなかった。
 手もなく往生していたその時、見かねたように彼が現れ、積み荷を持ちあげてくれたのだという。わずかに持ちあがった隙間から引き出された両親は、すでに息がなかったが。
 手を貸してくれた青年は、遊民だとは聞いていた。
 けれど、当時は幼くて、それ以上のことは知りようがなかった。自分の悲しみで手一杯で、両親不在のその一事が、常に頭を占めていた。
 両親の訃報を受けとってからというもの、日々積みあがる困難と、疲弊と困窮の渦中に呑まれて、その恩人の消息を気にかけるような余裕もなかった。
 思いがけず、その後を知った。
 ケネルの部隊の短髪の首長が、奇しくも教えてくれたのだ。青年の名は「ガライ」だと。彼が辿ったやりきれない最期も。
 彼がひた隠しにしてきた怪力が、常軌を逸したその異能がその一件で発覚し、元より北方でくすぶっていた迫害が異民狩りにまで発展したのだという。ガライはその標的になり、寝込みを暴徒に襲われて、理不尽にも命を落とした。あの時わざわざ両親が、買い付けになど行かなければ──。
 そうしたら、こんな不幸は起きなかったろうに。そのガライも両親も、常と変わらぬ平穏な日々を、今も送っていたろうに。時にあわただしく、ささやかな事件が時折起こる、ほんの少し退屈な──。
 仕事を引退していた祖父も、惨めな最期を迎えることなく、地域の裕福なご隠居として社交に明け暮れていられたろう。自分も遺児になどならずに済んで、必死に苦難に立ち向かったあげく天涯孤独の境遇に身を落とすこともなかったろう。
 今でも、折に触れ思い出す。幼い頃に友と遊んだ、あの夕刻の公園を。
 あたりに薄く闇が降り、一緒に遊んだ友達に次々親の迎えが来ても、自分の元には誰も来なくて。
 とうとう一人で公園に残され、それでも家には帰りたくなくて、夕暮れの街をひとり歩いた。
 どんよりと陰鬱な、大人が忙しげに行き交う街を。味方のぬいぐるみを胸にいだいて。
 どこまでもどこまでも当てなく歩いた。どこまでもどこまでも独りだった。あの時、街路灯ともる街角で、彼の姿を見かけた気がする。
 若い数人と連れ立って、繁華街の扉をくぐる、あの薄く笑った顔を。子供などには見向きもしない、あの彼の横顔を。

 ──なぜ、こうも思い出すのか。
 昔の些細な出来事を。古い、古い、記憶の底の──。
 記憶の底に辿りついていた。
 静かに波が打ち寄せるように、闇の静寂が戻ってくる。
 そういえば、とふと思う。あれはどこへ行ったのか。すべての不幸の発端は。
 横転した荷馬車の積み荷、その巨大な・・・黒耀石は・・・・。 

 ぐるりと視界が回転した。
 上と下が。
 左と右が。
 ぐるぐる渦が大写しになる。
 そう、あれは"時"の年輪。そして、空には三つの月──それが示すのは、時の混在。時と場が錯綜している。
 両手で耳をふさいだ時の、ゴーという低音が満ちていた。
 一面の闇だった。
 前後も上下も存在しない。なすすべもなく立ちすくむ。
 一面、宙空の至るところで、光が生じては、すっと消える。
 今までそれに気づかなかっただけで、あのはかない営みは、ずっとああして在ったのだろう。永久とわ繰り返されてきた・・・・・・・・のだろう。この宙空一面で。止むこともなく。ひと時も休まず。これまでも。これからも。
 彼方で、誰かの声がする。

《 忘れていいよー。オレのこと 》

 つ──と頬をすべったしずくで、ふとエレーンは我に返った。
 今のは誰の・・声だったろう。
 なぜ、自分は泣いている? そもそも、ここはどこなのか。
 息苦しいほどに密度の濃い、密着するような闇だった。
 そのくせ一たび意識を向ければ、たちまち彼方までひらけていく。なぜ、自分はこんな所に──。
 戸惑い、周囲を見まわすと、闇の彼方に、ぼんやりと人影。
 ──人だ。人がいる。
 自分の他にも誰かいる?
 立ち話をしているようだった。若い男と小柄な子供。  
 背丈が男の腹までしかない、眉と肩でまっすぐ髪を切りそろえた子供は、神官のような白い装束。
 子供の話を聞きながら、男は自分の腕をつかんでいる。手首に向けて一筋の赤。どうやら怪我をしているらしい。ここには闇があるだけで、ぶつかる物さえ見当たらないが。
 奇妙な事実に気がついて、エレーンは怪訝に男をながめる。
 思わず、その顔を見返した。
「……ケ、ネル?」
 
 
 

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