その存在には、少し前から気づいていた。
「夕飯は何がいい?」
台所から、母の声がする。
新聞に目を通しながら、なんでもいいよ、と僕は応える。
トントン包丁を使う音。
コンロで鍋が、わずかに湯気をあげている。短いパーマの小柄な背中。
風取りのため、勝手口を開けているから、蝉の声がやかましい。
「もう。なんでもいいって言われるのが、かあさん一番困るのよね」
愚痴を言いつつ、シンクの水を流す音。皿とグラスを手際よく洗い、隣の水きりに置いていく。
「ほら、また、こんな所に脱ぎっぱなしにして」
自分のことは自分でしなさいって、かあさん、いつも言っているでしょう?
「後で片付けるよ」と僕はいささか、げんなりと返事。
盆飾りをほどこした、薄日さしこむ仏間の隅に、脱ぎっぱなしの靴下とネクタイ。
一日歩いて汗だくのワイシャツ。そろそろ夕方になるというのに、道では陽炎がゆれている。
陽が翳った玄関の隅に、真夏の炎天下でくたびれた革鞄。
「大きな成りして、本当にいつまでも子供なんだから」
濡れた手を前掛けでぬぐい、母は柱の時計を見る。
「あら。もう、こんな時間。行かなくちゃ」
パーマの髪を軽く整え、くたびれたスリッパをぱたぱた鳴らして、開いた勝手口から外へ出て行く。
背が、夏日に包まれる。
短いパーマが風になびいて、ふわり、としなやかに日ざしに広がる。
せわしない横顔が、さらりと長い茶髪を掻きあげ、バッグを肩がけした艶やかな頬が企むように肩越しに見た。
くすりと笑った生意気な少女が、日ざしの中を駆けていく。さらさら黒い髪をなびかせて。
夏の路地に出た白い背中が、降りしきる夏日に溶け入った。
おかえりなさい
〜ある夏の夕ぐれ〜
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