赤い液体が、ことり、と置かれた。
古ぼけたテーブルの向かいには、男爵が端然と座している。
燕尾服を着て、蝶ネクタイをしめている。きれいに撫でつけたオールバックにロイド眼鏡、ていねいに手入れされた短い口ひげ、白手袋をして、手にはステッキを持っている。
きちんとした正装だ。
けれど僕は、微風にゆれるカーテンの裾が、気になって気になって、しかたがない。
いよいよ夕闇が近づいて、灯りのともらぬ広い居間は、閑散として薄暗い。
高く壮麗な天井には、細緻なガラスのシャンデリアが冷たく闇に沈んでいる。
窓の連なる重厚な壁、向かいの壁には、大振りな油絵が三つほど、ぽつり、ぽつり、とかかっている。調度品は一つもない。窓辺におかれた、この古ぼけたテーブルセット一組を除けば。
夕間暮れの居間は、がらんと広く、誰の姿も、そこには、ない。
赤い液体を前にして、口ひげ男爵はとうとうと語る。人類がいかに多くのことを成し遂げたか。いかに素晴らしい世界を築きあげたか。
口ひげ男爵は誇り、讃える。彼らの偉業を。人類の英知を。もっとも、哀れな末路について触れることはなかったが。
涼風のはいる夕暮れの窓辺で、僕は毛深い腕を掻きながら、下の方が薄くあいている、向かいの窓をちらちら見る。その窓の向こうには、短い芝が少しあり、白い柵の境界の向こうには、仲間のいる森がある。
いつの間にか男爵と、卓をはさんで対座していた。
壊れかけた古びた椅子と、ささくれ立った小さなテーブル。その上には、赤い液体をたたえたワイングラス。
男爵がにこやかに語りかけ、僕はそわそわ窓を見て、夜がきて、朝がきて、昼がきて、再び夜がやってきて──。
そうして三昼夜がたっていた。
向かいに座る男爵から、腹の鳴る音が聞こえるが、男爵は席を立とうとしない。
口ひげの口元にうっすら笑みをたたえたままで、じっと顔を見続けている。僕から目をそらしてしまえば、帰ってしまうのが分かっているから。
目の前には、赤い液体。
それに手を出すような愚かな真似は、聡明な僕らは、無論しない。
動物は、動物の本分を失ってはならない。皆、当然のごとく、そんなことは知っている。建物に日がな閉じこもり、動くことをやめたなら、動物は動物ではなくなってしまう。
グラスの置かれた窓辺のテーブル。ささくれた天板に夕陽がさしこみ、窓枠の影が長くおちた。
人類最後の男爵は、笑みをたたえて、白手袋の指を組む。
「それで、──どうかね、君」
夕刻の闇に葬られ、森が黒くざわめいていた。
液体から、芳香が立ちのぼる。
液体の赤が夕陽に透けて、きらきら輝き、僕をいざなう。
きっと、旨いに違いない。
厚い壁に守られて暮らせば、外敵に怯えることはない。
寒い夜でも凍えることなく、炉火で暖められた部屋の中、寝具にくるまって、ぬくぬくと眠れる──。
勧められるがままに飲むべきか、断るべきか、途方にくれる。
杯の名は " 文明 " の美酒。
〜 境 界 〜
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