■ CROSS ROAD ディール急襲 第1部 1章2
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ドレスの襟元から取り出した"それ"を、エレーンはむっつりと眺めやった。
「……ざまあみなさい」
二指でつまんだ石のかけらは、きらきら緑色に輝いている。
いわゆる俗に言う「夢の石」
領主の執務室の片隅で、厳重に保管されていた珍宝だ。
「人の世の望み、ことごとく叶えます」
という世にもありがたい稀代の秘宝。そんなたいそうな代物が、なぜに首飾りなどにくっ付いているかといえば、むろん理由は他でもない。
こっそり持ち出してやったからだ。
ダドリーとは絶交し、あれから口もきいていない。
むしろ、顔も合わせていない。
なにせ、奴がいないから。
人伝に聞いた話では「領地を視察中」というのが名目で──だが、それだって、どうだか怪しいものだ。
そうよ、とっ捕まえたあの秘書官、途端に目を泳がせて、おどおどそわそわしてたもの。どう見たってあの顔は、嘘をついていた顔だもの。どうせなら、もっと、ましな嘘をつけばいいのに。
石ころ一つ隠したからとて、どうなるものでもないけれど、石の紛失にダドリーが気づけば、少しは身にしみて堪えるだろう。つまりは腹いせ、ささやかな嫌がらせ。
もっとも、これは偽物だ。
現に妾も子供も健在で、商都を見捨てたダドリーだって、ついに翻意などしなかった。
どんなにがんばって願をかけても、この石は何一つ叶えない。
でも、せいぜい青くなればいい。
こんな辺鄙な片田舎まで、はるばる嫁いでやったのに。
「……こんなはずじゃ、なかったのにな」
エレーンは小さく溜息をついた。
何もかも、手に入れるはずだった。
そうよ。せっかく玉の輿にのったのに。クレスト領家の正夫人。身分でいえば公爵夫人。
誰もがうらやむ輝かしい未来が、待ち受けているはずだった。これまでの冴えない人生を挽回してあまりある──。
確かに、商都の領邸で働きながら、ダドリーと付き合っていたあの頃は、そんなこと夢にも思わなかった。二つ年下のあの彼が、まさか領主に化けるとは。
むろん、彼の身分は知っていた。
この国の三大公家クレスト領家の三男坊──だが、統領息子というならともかく三男坊などという半端な立場は、跡目とは無関係な「ごくつぶし」の方をたいてい意味する。
だから住み慣れた商都の街で、両親の店を買い戻し、二人で店をやるつもりでいた。
ささやかでも幸福な家庭を夢みて。
なのに、
「……なによ。もう、女がいるとか」
いや、それどころか子供までいるとかっ!
開け放した窓の向こうに、純白の雲が浮いていた。
うっすら青い北方の空。天井の高い広い居間。一人きりの退屈な午後──。
「……あの頃は、楽しかったな」
くすり、と笑って、目を閉じた。
気だるく茶碗をとりあげた耳に、遠い笑いがよみがえる。蝉の声、陽の輝き、コップについた丸い水滴。海に沈む大きな夕陽──
あの彼の逗留先に、みんなで押しかけたものだった。
そして、日がなたむろしていた。
毎日、暇を持てあましていた。散歩をし、昼寝をし、カードをし、長椅子でだべり──
カウンターの向こうの壁の酒瓶。
西日のあたる裏口の戸。ひっくり返ったままのサンダル──なんという名前だったか、あの夏、仲間と居座った、崩壊寸前のあの宿は。なにか変った、変てこりんな屋号だったが。
森と牧場と農地しかない、地味でひなびた片田舎だった。ノースカレリアのような街ではなく。そして、外海にほど近い──
ひなびた避暑地の気だるい午後。
皆、何をするでもなくそこにいて、当たり前のようにじゃれていた。そこが自分の居場所だった。それがどれほど特別だったか、どれほどかけがえのない日々だったのか、過ぎてしまった今なら、わかる。
ひなびた何もない田舎でも、気のおけない友さえいれば、極上の避暑地になるのだと、あの夏の日に、初めて知った。
時は過ぎ、あっという間に夏は去り、そして、友が、ひとり死んだ──。
「お、奥様! 大変でございます!」
ふと、エレーンは扉を見た。
あわただしく転がりこんできたのは、黒い燕尾服の老執事。小柄で、すでに頭髪が寂しい。
この土地に転居してから、何かと世話を焼いてくれる、いわば世話係という役どころ。ちなみに、あの妾宅の場所を、あっさり白状した張本人でもある。
そして、ちなみに、あんなにあわてた様子も珍しい。
ちょっと廊下を走っただけで、この世の終わりかってくらいの勢いで、ガミガミ雷落とすくせに。
かがんだ膝に手をおいて、執事は息を整えている。
せっぱつまったように、顔をあげた。
「旦那様の姿が見あたりません!」
「──だからあー。視察でしょ? シ・サ・ツ」
むっ、とエレーンは顔をしかめて、げんなり白けて、片手を振る。
「たく。なにを今更そんなこと。まー、 ど こ 視察してるかは、だいたい見当つくけどね」
不覚にも片頬ヒクつくが、ほほ、と笑って、香茶をすする。そんなもの、妾の所に決まっているではないか。どうせ、すねて、ヘソ曲げて、羽を伸ばしているに違いないのだ。こっちと顔を合わせるのが嫌なもんだから!
(ひきょう者っ!)
敵の姑息なやり口に怒りの炎がぶり返し、内心はらわた煮えくり返るが、しかし、今は使用人の前。
奥方さまの威厳を保ち、楚々と、優雅に、鷹揚に。
そうだ。妾といちゃつく程度のことで大騒ぎなんぞしていたら、領家の奥方は務まらないのだっ!
執事はもどかしげに首を振る。
「い、いえ、ご別宅の方ではございません」
「あん? だったら一体、どこだっていうのよ」
「ですから伺っておるのです! 私どもも、てーっきり、そう思っておりましたが、先ほど、お見えでないとの返答が」
「……はあ? つまり、なに? それって、つまり──」
ひくり、とエレーンは絶句した。つまり、あのトウヘンボクは、今度はよその女にまで、ちょっかいかけに行ったのか──!?
ぐぐっ、と握った拳固がわななく。妾だけでは飽きたらず!
額の汗をハンカチで拭き拭き、老執事は報告を続ける。
「それだけではございません。ディールから使者が来邸しまして」
「ディ、ディールですってえ!」
ぎょっ、とエレーンは見返した。
「な、なんで? なんでディールがウチなんかにくんのっ!」
辺りをはばかるように執事は見まわし、頬の横に手を当てた。(ですから、援軍の要請でございましょ?)
「……。わかってるわよ、そんなこた!」
ぬう、とエレーンは睨めつけた。恐慌中の茶々は気にさわる。
「して、どうなさいます?」
ぐっ、とエレーンは言葉につまった。お伺いを立てるだけの奴は気楽でいいな!?
「どうなさいますぅって、どーすんのよ! あの人がどこ行ったかなんて、こっちが訊きたいくらいだわよっ!」
「とにかく」と、執事は仕切りなおす。
「使者が言うには、事は急を要するので、旦那様がご不在でも、書状だけでも、お納めいただきたい、と」
「は、はいっ? それってまさか」
エレーンは愕然と己をさす。
執事はにっこり、仰せの通り、と微笑んだ。
「はい。先方との釣り合いもございますし、ここはやはり、奥様にご対処いただくのが一番かと」
「そ、そうだっ! お義兄様がいるじゃない! 闊達にして聡明な、ダドリーの二番目のお兄様がっ!」
「グレッグ様は、先ほど屋敷へお戻りになりました」
「……は?」
「なんでも、お加減がお悪いとか」
「いーわけ!? そういう見えすいた手で!」
こほん、と執事は咳払い。
「グレッグ様より、ご伝言でございます。万事粗相のないように、くれぐれも丁重にご対応になるように、と」
「なんで、あたしが!?」
愕然と、エレーンは絶句した。もしや、まさか、と思っていたが、
──お義兄様に逃げられた……。
どうも、彼には嫌われている気がする。心当たりがないでもないが。
がっくり、うなだれ、首を振る。「……いや、そんなの無理だってぇ〜。そんなことあたしに、できるわけないでしょ〜」
ほんのついこの前まで、しがないメイドだったんである。
ほんのつい数日前に、着いたばっかりなんである。
ぴらぴらドレスこそ着ちゃいるが、中身は庶民この上ないのだ。
額をつかんで ぎりぎり歯ぎしり。「──あんのバ力・ダドリ〜っ! 一体どこほっつき歩いてんのよ! この一大事に!」
きっ、と執事を振り向いた。
「帰っていただきなさい」
きょとんと執事は、まなこを瞬く。
「では、居留守を使う、と仰せになるので?」
「だあって、勝手に面会なんか、できないでしょ」
破れかぶれだ。腕をくんで宣言。
「領主は不在よ。いなけりゃいないで致し方なし!」
そう、降りかかる火の粉は、断固速やかに振り払うべし。
執事は明らかにうろたえた様子で、おろおろ扉に目をやった。「し、しかし、使者はもう、すぐそこまで──」
「あー、具合悪るっ!」
「は?(=どこが?)」
エレーンは腹を見おろして、ぱちくり瞬き、ぺちぺち叩く。
「あらやだ! そーいえば、おなかの調子も!──んまあ! あたしったらオナカが痛いわ? 今まですーっかり忘れてたけど、そういえば今朝から、ずーっとおなかが痛かったのよね〜。──あら、やだ、た〜いへん! もう今にも割れそうだわあ!」
「それはそれは(=割れる〜? 腹が〜?)」
小指を立てて、ほほ、と笑い、ドレスの脇を引っつかむ。
「ささ。これにて、わたくしは休みます。気分が悪くて伏せっておりますゆえ、使者にはそうお伝えしてね。万事粗相のないように」
「ほう? 良い根性でございますな。では、この爺一人に押し付けて、ご自分だけお逃げになると?」
尖らせた口で、執事が意訳。正確に理解したようだ。
エレーンはそそくさ出口へ向かう。
「奥様っ!」
「んじゃ、後はよろしく頼んだわねん?」
扉の取っ手をむんずとつかみ、力任せに押しあける。
バン──と予定外の音がした。
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