■ CROSS ROAD ディール急襲 第１部 ２章１話４
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その声は、不思議なほど、よく通った。
決して荒げた声ではなかった。むしろ、物言いは落ち着いている。それでも今の一言は、罵声で荒れた喧騒を突いて、くっきり明瞭に耳に届いた。
平然としていた統領代理が、驚いたように窓辺を見た。
「……ケネル」
窓辺で、青年が眺めていた。
年齢は二十代後半といったところか。黒い頭髪、癖のない顔立ち。嫌みのない落ち着いた面ざし。だが、日灼けした頬は引き締まり、弱々しい印象はない。
ふと、視線がかち合って、エレーンはどぎまぎ目をそらす。
（……な、なに。あの人は）
我が身を抱いた手の下で、肌が総毛立っていた。
どくん、どくん、と鼓動が速く、掻き乱された胸は、息苦しいほど。涌き上がった感情に戸惑った。これは、
──嫌悪？
そう、不愉快なのだと思い当たった。
無遠慮なほどまっすぐに、彼が自分を見つめていた。
すべてを見透かされそうなまっすぐな瞳で。あれほどまでに不躾に、凝視する相手をエレーンは知らない。
気性の荒そうな男たちが、ことごとく動きを止めていた。今のケネルの一声で。
ささやかな異変に気づかぬ女将が、つかまれた腕を振り払い、遅まきながら窓辺に目をやる。
その頬が、ぎくり、と凍りついた。
「ガ、ガーディアン？──どうして、ここに」
ようやく拘束を振り払った亭主が、うろたえた女将を怪訝そうに見る。「お前、あいつらを知っているのか」
「──あ、いや。知り合いってわけじゃないんだけど、その、」
あわてて首を振った女将は、だが、言いにくそうに口ごもり、結局、口を閉ざしてしまった。何かをひどく恐れるように。
窓辺に佇み、見ていたケネルを、四人の男が取り巻いていた。
短い髪の中年男。どこか熊を連想させる、太い二の腕の蓬髪の男。初対面の亭主の腕を、廊下で突然ひねりあげた、あの乱暴な長髪の綺麗な顔。その後ろの窓辺には、騒動などには見向きもせずに、窓の外を眺める青年。
「事情はわかった」
ケネルは事もなげにそう言った。
「ちょっと行って、始末してくりゃいいんだろう」
「──隊長が行くなら、俺も行くぜ！」
間髪容れずに、椅子が鳴った。
たまりかねたように立ちあがった男の声に触発されて、次々、同調者が椅子を蹴る。
勢いこんで引かれた椅子が、ガタガタ騒がしく音を立て、部屋はにわかに騒然とした。
部屋に集った一同が注視を向けたその先には、統領代理デジデリオ。
今や半数が席を立ち、ケネルの言葉に同調していた。
席こそ立たない者たちも、統領代理を真摯に見ている。視線を集めた当人は、呆気にとられて見まわしている。
「──いいでしょう」
やがて、溜息まじりに首を振り、統領代理が目を返した。
「仰せに従いましょう、奥方様」
ぽかん、とエレーンは口をあけた。急転直下のこの事態が、とっさにうまく飲みこめない。
統領代理が苦笑いした。
「見ての通り、いわゆる兵はないんだが、あなたにはこの、とっておきのボディーガードをお貸ししよう」
いささか投げやりに、軽く手を振る。
あっさり離れた男たちを、戸惑いながらエレーンは見まわす。狐につままれた心境だった。今の今まで、つまみ出されそうになっていたのに。
統領代理に目を戻し、上目遣いで伺いを立てる。「あ、あのぉ〜。なんでいきなり、そんなことに……？」
彼は笑みをたたえて両手を広げた。
「あなたはこの我々を、仲間と言ってくださった。家族と言ってくださった。ごらんなさい、彼らの顔を。たとえ、今、わたしが止めても、あなたに付いていくでしょう」
「……は、はあ」
エレーンはたじろぎ笑いで小首を傾げた。とってつけたようなこの台詞。芝居がかった大仰な身振り。手の平返したようなこの態度。だが、当の代理は澄ましたものだ。
「あなたが我々の仲間なら、これも同胞の危機というもの。黙って見過ごすわけには参りません。とはいえ、この彼らまで、取り上げられてしまうとなると、わたしは丸腰も同然なんだが」
諦めたように彼は微笑み、しなやかな手をさし出した。
「まあ、いい。我らが命運、あなたの手に委ねましょう」
「あ、あのっ！」
窓辺へ駆け寄り、呼びかけると、ケネルが無造作に目を向けた。
とっさに、エレーンは立ち止まる。小柄なのかと思ったが、近づくと案外、上背がある。
その理由に気がついた。後ろにいる蓬髪の男だ。その熊のような体格が、いささか迫力がありすぎるのだ。
他の四人もそれぞれ身じろぎ、おもむろに目を向けてくる。
無言の注視に、エレーンはたじろぐ。
「あ、あの、ありがとう。お陰で、とっても助かったわ。あ、あの、それで──」
気まずい。とっても。彼らにその気はないのだろうが、どうも雰囲気が威圧的。
そこに五人もいるというのに、誰ひとり言葉を返してくれない。とはいえ、こうして切り出したからには、話半ばで引きあげるわけにも──。
見物されてでもいるような視線に、たじろぎながらもケネルを見た。
「あの、あなたがいなかったら、どうなってたか。あたし、どうしていいのか、まるで見当もつかなくって──」
見やったものの、ケネルも無言だ。応答どころか表情のひとつも崩さない。社交辞令も何もない。不機嫌なのか、相槌さえも打ってくれない。
ほとほと困り果てて愛想笑い。「あ、で、でもね？ あなたのお陰で、なんとか乗り越えられそうな──」
「さっさと戻れ」
面食らって口をつぐんだ。
「いつまで油を売っているつもりだ。あんたの街に、さっさと戻れ。あんたには、すべきことがあるだろう」
「すべきこと？ あたしに？」
オウム返しで訊き返す。
とはいえ、とっさに思いつかない。自分にできることは既にした。でも、警邏には管轄外だと言われたし、義兄の協力も得られなかった。ちなみに、軍など、ここにはない。ならば、何があるというのか。今、自分がすべきこと。
落ち着いた声で、ケネルは言う。
「あんたにはもう往来で、泣いている暇はないはずだ。領主が不在というのなら、その代行はあんただろう。領民たちに知らせなくていいのか。ディールが攻めてくるんだぞ」
「あっ！──は、はいっ！」
はっと弾かれ、顔をあげた。そう、彼の言うとおりだ。
ぺこり、とケネルに頭を下げて、夫妻の元へと取って返す。「あのっ！ あたし、戻らないと！」
「セヴィ、ちょっと残ってくれるか」
夫妻と話していた統領代理が、やんわり話に割りこんだ。
出口に向かいかけたセヴィランが、足を止めた肩越しに見る。「なんの用だよ、デジデリオ」
「話がある」
笑みを浮かべた統領代理と、怪訝そうな亭主の顔を、女将も胡散臭げに見比べている。「そうかい？ じゃあ、あんたはゆっくりしておいでよ。あたし達はお先にね。さあ、帰ろう、エレーンちゃん。あたしも及ばずながら力を貸すから」
「お前もだ、ビビ」
「……あたしも、かい？」
女将が面食らって訊き返す。腑に落ちなげに、ちらと見た。
「でも、この子を一人で歩かせるには、ここらはちょいと物騒だしさ。話があるなら、後で聞くさね。送り届けて戻ってからでも──」
「なら、こちらで護衛をつけよう」
統領代理はにこやかに、だが、問答無用で退ける。
「何も心配はいらないさ。責任をもって屋敷まで送る」
軽く手をあげたその合図で、近くにいた男二人が、機敏に立ちあがって近づいた。
やりとりを見ていたエレーンの腕を、滑り込んだ二人が、左右から取る。
「さ、参りましょうか、奥方様」
「──えっ？ あ、ちょっと、あのっ？」
エレーンはあわてて亭主を見た。「お、おじさん？」
呆気にとられて見ていた亭主は、やれやれというように息をつき、気まずそうに笑みを向けた。
「悪い。その人たちと戻ってくれるか。なんだか用があるらしいからさ。後で、ビビと顔だすよ」
「……あ、はい。それじゃあ、後でまた」
やむなく、エレーンは頷いた。正直言えば心細いが、当人に言われては仕方がない。
出口に向かう肩越しに、夫妻の方を振り向き振り向き、追い出されるようにして部屋を出た。
その何気ない約束が、果たされないとは思いもせずに。
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