■ CROSS ROAD ディール急襲 第1部 4章4
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しゃにむに腕を振りほどき、目をみはって振り向いた。
乱れた衣服を掻き抱き、唇をわななかせて竦んでいたのは、領主の愛妾、あのサビーネ。案の定サビーネは、下着に手を滑り込ませて直に素肌をまさぐったら、跳びあがって逃げて行った。
出立の話を聞きつけて、差し入れを持ってきたという。
「迷惑だ」と突っぱねて、やり果せようとはしたものの、意外にもしつこくついてきた。朝の寝静まった天幕群を無駄に歩きまわるのにも辟易とした頃、ふと、そのことに気がついたのだ。
何も追い払うことはない。そうまで言うなら、仲良くするまで。
逃げたその背を見送って惜しいような気もしたし、半ば本気で天幕に引っぱりこむつもりでいたが、今はあいにく時間がない。さほど暇があるでもなかった。
天幕群を出、ファレスは早朝の街道に出た。
通り過ぎた関門では、朝番の見張りが二人、あくびをしながら、手持ち無沙汰そうにぶらついている。
左手に続く樹海の梢が、さらさら風に揺れていた。
早朝六時の街道には、旅人はおろか人影さえも見当らない。空はすっきり晴れわたり、雨に降られる気使いはない。
街道の右手は、クレストの所領ノースカレリアの街。左の樹海を抜けた先には、レグルス草原が広がっている。道なりに南下すれば、この国の首都・商都カレリアに到達し、そこから街道を西進すれば、この国の第二の都市、ディールの領有地、トラビアの街に辿りつく。
怪訝に、ファレスは足を止めた。
見咎めたのは、男の後ろ姿だった。髪に白いものが入り混じる四十絡みの中年だ。こんな早朝にもかかわらず、木立の裏にひた隠れ、前を行く女を尾行ている。
「──いい趣味してるぜ」
沿道の樹幹に腕組みでもたれ、ファレスは呆れて眺めやった。旅行鞄を引っ下げた女は、件のクレストの奥方だ。尾行に気づいた様子はない。
もっとも、男は結構な年嵩。気になる女に声もかけられないほど初心なのか?
いかにも相手は奥方様だが、あの女は庶民の出、雲の上の存在でもなかろうに。
いや、とファレスは眉をひそめた。
追っかけにしては様子が妙だ。ぎこちない足取り。ぎくしゃくと強ばった横顔。辺りをうかがう落ち着きのない目。上着の裾の、あの不自然な膨らみは──
「持ってやがるな」
短刀を。
ファレスは小さく嘆息した。
「刺客ってわけかよ、いっちょ前に」
領主の正妻の選定は、当人のみならず関係者一同、一族郎党その川下に至るまで、利害が生じる大問題だ。領主が庶民などを連れ帰った煽りで、人生の予定を狂わされた者が大勢いる。
つまり、彼女が消え去ることで恩恵をこうむる者がいる。たとえば、正妻候補を多数用意し、手ぐすね引いて待ち構えていた貴族。その下流に連なる商家。領主の跡取りを子供に持つあの妾の関係者。そのいずれであるにせよ、うろちょろされては目障りだ。
舌打ちで背を引き起こし、ファレスは腰の短刀に手を伸ばした。
「露払いをしておくか」
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