■ CROSS ROAD ディール急襲 第２部 １章 １話４
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日はすっかり暮れ落ちて、空気がひんやりと肌寒い。
広大な原野の蒼闇に埋もれて、椀を伏せたような白っぽいものが、二つ、三つと点在している。薄墨に呑まれた草海で、ほのかに灯かりが揺れている。
駆り立て続けた馬速を落として、ケネルは灯かりに近づいた。
「迷わんかったかね、隊長さん」
「夜分にすまない。今晩一晩、世話になる」
馬を止めて草地に降り立ち、ケネルはそつなく応答する。
そちらの方に目をやれば、宵の草海に溶け入るように、初老の男が立っていた。相好を崩した、皺の刻まれた温和な顔。
男と簡単に挨拶を済ますと、ケネルは馬からこちらを下ろして、指示された方向に踏み出した。足を向けた行く手には、ほのかに見えていた白っぽい建物。
エレーンも男に軽く会釈し、あわてて後を追いかける。「ね、ねえ、ケネル。あれは何？」
「ゲルだ」
「……ゲルダ？」
なんの呪文だ。
「移動が可能な、あの人たちの組み立て式住居だ」
「あ──そ、そうなんだ。──あ、えっと、じゃあ、あっちの奴は──」
初めの内こそ、ケネルは簡潔に応えていたが、途中でふつりと黙ってしまった。以来いつもの仏頂面で、まるきり口をひらかない。
むう、とエレーンは口を尖らせ、足の速いケネルについて歩く。なんとか引き出した情報によれば、先の男は遊牧民とのこと、家畜の群れを追いながら、大陸を広く移動している。蒼闇に白く埋もれていたのは、ゲルと呼ばれる彼らの住居。周囲の壁を布で覆った建物だ。
馬群から離脱し、行きついた場所は、遊牧民が集うキャンプだった。つまり、彼らの住居を借り受けた、ということらしいが──。
「入れ」
ゲルの戸口のかたわらに立ち、ケネルが厚布をもちあげた。
エレーンはあわてて、その脇をすり抜ける。「……お、お邪魔しま〜す」
どこかの洞窟を思わせる、ともし火ゆらめく室内だった。
しん、と立ちこめた暗闇に、ゆらゆら灯かりが点っている。床に置かれた携帯ランプ、三つのカンテラ──
「──脱げ」
「はあ！？」
ぎょっとエレーンは、飛びあがって振りかえる。なんてこと言うのだこの男！？
戸口の布を持ち上げたまま、ケネルが小さく嘆息した。
「靴を脱げ」
「……え？ くつ」
あたふた片方ずつブーツを脱ぐ。「──あっ、靴ね！ う、うんっ！」
耳たぶまで逆上せている。知らない場所にケネルと二人、舞いあがってたもんだから、初めの方を聞き漏らしたらしい。
脱いだブーツを端に寄せ、エレーンはそそくさ室内を見た。
半球状の室内の床には、赤い絨毯が敷きつめられ、物珍しい丸壁は、細かな木組みでできていた。頭上に天窓がはめこまれ、絨毯のない中央の土間には、古びた窯が取り付けてある。
暗がりの中、おぼろげに見分けられるのは、壁際に置かれたいくつかのクッション、隅に積まれた畳んだ寝具、そして、右の暗がりに、水瓶や小物のぼんやりとした輪郭。家具や間仕切りの類いはない。だが、調度品がわずかに一つ、真向かいの壁に架かっている。金の枠の額縁だ。
（──絵？）
ひんやり冷たい絨毯を踏みしめ、エレーンはそろそろ、そちらへ進んだ。
急ごしらえの室内に、それはいささか場違いで、その異質さに興味を引かれる。三つの小さなカンテラの、金の枠組みが光る中、中央の土間を通りすぎ、ともし火の暗がりで目を凝らす。
（なんだろ、これ。──鳥、みたいな？）
"黄金の鳥"のようだった。単純な線に、単純な構図。背景などは一切ない。絵画というにはあまりに拙（つたな）く、むしろ何かの符丁のような──
「そんな所に座りこむな」
ぎくり、と背後を振り向けば、ケネルが戸口で、かがんで靴を脱いでいる。「西は神聖な方角だ」
「──あっ？ う、うん」
しゃがみかけていたエレーンは、あわてて壁から飛びのいた。「ご、ごめん。あたし、知らなくて……」
ただちに右手へ移りつつ、たじたじケネルを盗み見る。彼らはずいぶん敬虔らしい。
そういえば、と思い出した。このゲルに入る前、ケネルは夕暮れの西に向かって、しばらく祈りを捧げていた──。
この辺りなら座ってもいいよね……？ と見当をつけて腰を下ろし、改めてケネルに目を向ける。「でも、なんで、あたし達だけこっちの方に──？」
予てよりの疑問をぶつけてみる。
「あんたに野宿は無理だろうからな」
座りこんだこちらの横に、ケネルがぶっきぼうに荷物を投げた。
（……どうしよ。ケネルと）
二人きり。
荷物をかかえて壁に張りつき、エレーンは顔を引きつらせていた。
もじもじ膝にうつむいて、身を硬くしてうずくまる。ケネルの気配が気にかかる。ほんの少し身じろぐだけで、過敏に反応してしまう。
土間でケネルは、窯に燃料を放りこみ、火を熾しているようだ。ずっと口をつぐんだままで、あれから一言も発しない。
時おり動作の端々に、粗暴な仕草が垣間みえた。ふとした拍子に気づいたような顔をするから、どうやらケネル本人は、なるべく見せないようにはしているらしいが──。
ぱちぱち、炎が鋭く爆ぜる。
黙りこくった沈黙の中で、疑問がむくむく湧き起こる。
ケネルの意図が分からない。だって、どうして一人だけ、こんな所に連れてきたのだ。こんなうら寂しい原野の果てまで。確かにケネルが言うように、野宿なんかは遠慮したいが、こうして間借りするくらいなら、街道で宿をとればいいのに。
ケネルは土間の縁に片膝をつき、窯の炎を眺めている。炎が赤く照りかえす、背を向けたままの横顔からは、何もうかがい知る事ができない。
窯に火が入ったことで室内は大分明るくなったが、それでも隅の方は暗かった。こんな洞窟のような暗がりで、これから一体どうせよ、というのか。
沈黙が続く気まずさに、エレーンは身じろぎ、顔をしかめる。気晴らしの一切が取り払われると、いやでも意識が立ち戻る。知らない振りでやり過ごしてきた、じりじりするような一抹の不安に。
手を伸ばし、そっと左の肩をつかんだ。あの日の怪我が、疼くように脈打っていた。どうにか宿までたどり着き、気が緩んでしまったか──
「どうした」
ぎくり、とエレーンは飛びあがった。
ケネルが振り向き、いぶかしげな顔でこちらを見ている。一体いつから、そうやって見ていた──？
あわてて首を横に振る。「あっ。ううん、なんでもない。ただちょっと──」
「ちょっと、なんだ」
すぐさまケネルが畳みかける。
直視で先を促され、エレーンはためらい、うつむいた。「あの、ちょっと痛いかなって、背中……」
「なぜ、早く言わない」
ケネルが窯の前から立ちあがった。
「あんた、薬は。飲んだのか」
「の、飲んだもん、ちゃんと。朝だって。さっきだって」
「つまり、効かなかったということか」
ケネルが短く舌打ちした。「──まったく。変なところで意地っ張りだ。余計なことなら、調子に乗って喋るくせに」
むっとエレーンは顔を見る。「あ、あたしは別に、意地なんか──」
つかつかケネルが戸口に向かった。無造作に靴を突っかける。
「え──なにっ！？ どっか行くの？」
あわてて腰をあげた途端、払った厚布が、ばさりと閉じた。
とっさに追いすがった手を下ろし、エレーンはへなへなへたり込む。
「お、おいてかないでよ。こんな、知らない所なのに……」
取り残された室内で、火影が不気味に揺らいでいた。
壁も床も静まり返り、ほの暗い室内に音はない。包帯を巻いた背中の傷が、思い出したように、しくしく痛む。
肩を抱いて唇を噛み、膝をかかえて突っ伏した。
「……もー。こんなの、あたし、聞いてないしぃ」
ケネルが同行を承諾した時、てっきり普通の旅だと思っていた。
辻馬車を乗り継いで中央に向かい、商都で長旅の疲れを癒し、トラビアに向けて出発する。その間、店も人目もある街道を使い、町に入って休憩し、夜は小奇麗な宿に泊まって、付近の店で食事をとって──。まさか夢にも思わなかった。あんな馬群で荒野を疾走するなんて。行けども行けども景色の変わらぬ大自然のただ中を。
こっちの方が早いから、とケネルは事もなげに言うけれど、町も店も宿もない、目印など皆無の原野じゃ、どこまで来たのか、どこにいるのか、こちらにはさっぱり見当もつかない。最寄りの町まで戻りたくとも、徒歩で戻れる距離じゃない──。
秘めた不安が、胸をよぎった。
そう、ずっと不審を抱いていた。だって、改めて考えれば、ケネルについて、よく知らない。知っている事があるとすれば、いつもなぜか怒っていることと、めったに口をきかないことと、用がなければ見向きもしないということくらいだ。
こちらの様子を窺うようなケネルの無言の一瞥を見るたび、慎重に距離をとっているのかと思ってみたりもしたけれど、これまでの行いを見る限り、そこまで深い考えはない。
ケネルは無駄なことは一切しない。何にも動じず淡々と、涼しい顔を崩さない。それが今日一日でよくわかった。
窯にかけた鍋の湯が、しゅんしゅん小さく沸き出した。
しん、と静まった暗がりで、窯の炎が爆ぜている。打ち消しては立ち現れて、彼への不審がぐるぐる回る。だって、疑いたくもなる。好意でなければ、なんなのだ。それなら、どうして付き添いの話を受けたのだ。この旅の護衛として、彼を雇ったわけでもないのに──。
ばさり、と唐突に音がした。
はっとあわてて見回せば、薄暗い戸口に人影があった。
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