■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部1章 6話6
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よつんばいで氷結し、エレーンは顔をゆがめて振り向いた。
「……み?」
みどり、いろ?
もそもそ床に尻を落として、我が身をきょろきょろ点検する。
緑色とは一体何ぞや? 服のことか? いや、緑のものなど何もない。寝巻きは白だし、裸足だし、リボンなんかもつけていないし。手荷物にも緑はない。革靴が緑のわけはない。だったら、どこから「緑」が出てきた? もしや、これって、
下手な冗談?
「──そ、それで、その〜」
"緑"については聞かなかった振りで、エレーンはぎこちなく笑みを作った。「えっと、今日はどんなご用?」
まさか「緑だ」って言いにきたのか?
あー……、とウォードは天井を見、考えこむように口をつぐんだ。
気怠そうに目を戻す。
「なんだっけー」
「あたしに訊くう?」
しばし、二人して無言で停止。
あー、そーか、とつぶやいて、ウォードは胸の隠しを探る。
長い指でつまみ出したそれを、「これー」とこちらに突き出した。
「……あたしに?」
ぽかん、とエレーンは向かいを見た。
おそるおそる受けとったのは、黄色い草花、タンポポだ。体調を崩して寝込んだ所へ、花を持って訪れた──
と、いうことは?
あぜん、とウォードの顔を見た。「もしかして、お見舞い? このお花!」
「あのこに持ってってやんな」
「えっ?」
「って、バパがねー」
「……え゛?」
顔をゆがめて固まった。
なぜだろう。会話というのに、一々予測がつかないのは。
まあ、それはそれとして「バパ」というこの名前、どこかで聞いたことがある。
「あー。あの、赤いピアスの」
はた、と膝を打って、ウォードを見た。「何気にかっこいい首長のおじさん? それで、わざわざ来てくれたの?」
「暇だったしねー」
「そーゆーこと言う?」
ふと、その存在を思い出し、壁の隅っこでもそもそ動く、茶色い毛皮を振り向いた。
「あ、じゃあ、もしかしてあのウサギも?」
さぞや退屈しているだろうと、遊び相手まで連れてきたのか?──なんという細やかな気遣い。あのケネルやケネルやケネルには、真似のできない芸当だ。うるうる感涙で友を見る。「あ、ありが──」
「おいでー」とウォードがウサギを呼んだ。
壁の匂いをかぎ回っていたウサギが、ぴくり、とたちどころに動きを止める。
振り返ってウォードを認め、二歩動いて立ち止まり、足早に彼に近づいた。──て、ウサギの奴、実に素直だ。さっき抱こうとした時は、あんなに嫌がって跳ねまわったくせに。あ、さてはあれって
女の子?
柔らかそうな茶色い毛皮を、ウォードは難なく、片手で膝に抱きあげる。「どうするー? オレ、やってもいいけどー」
「……え?」
「あんた、どうせ、できないでしょー?」
ウサギを抱いて向き直った。
「ここで捌くー? あー、下が汚れるかー」
ぽかん、とエレーンは口をあけた。彼はなんの話をしている?
長い耳を片手でつかまれ、ウサギはバタバタ、足を蹴り出し、暴れている。ふわふわ柔らかな毛皮の腹を、長い指でウォードがさした。
「焼く? 煮る? 炒めるー?」
「──た、食べる気!?」
ぎょっとエレーンは後ずさった。
「だって肉でしょ」
「そ、それは、そうかもしんないけどもっ! けど、刃物で切ったら痛いでしょっ?」
「痛くないよう早く済ませる。だから、兎も大丈夫」
「……」
大丈夫って言うのか、それ。
「で、でも、まだ生きてるし。なのに切るとか、そんなひどいこと──」
「きのう、弁当食わなかったー?」
「──え──なに? お弁当?」
話の急変に面食らい、エレーンは目を白黒する。
「あったでしょー? あれにも鶏肉が」
「──そ、そうだけど──でも、あっちは鶏で、その子はウサギで」
「鶏はいいけど、兎はダメなのー?」
「それ、は──」
鋭い指摘に、とっさにつまる。
「だ、だけど、そんな、生きてんのに──殺して食べるだなんて、そんなのちょっと──」
頭をなでていたウサギから、ウォードがゆっくり目をあげた。
「だったら、あんたは、生き物を食わずに生きていけるー?」
ぎくり、と頬が強ばった。
もやもや胸に淀みが立ちこめ、あわてて彼から目をそらす。
不意打ちで、意識させられた。
都合の悪い現実を。本当は皆が知りながら、目をそむけてきた真実を。
たじろぎ、ウォードを盗み見た。
(……こ、この人って)
頭の回転が鈍いのかと、正直、侮ってもいたけれど──。
ぼう、としているかと思いきや、だしぬけに意表をついてくる。
いつも気だるそうで眠たげな顔。どうでも良さげな間延びした物言い。感情の起伏に乏しい目。どんなに愛らしいものを見ても、どんなに綺麗なものを見ても、どんなに嫌なものを見ても、一切変わらないのだろう平坦な瞳。それでも誰より、事の核心を捉えている。
人々があえて隔離してきた禁忌に属する不文律を、彼は容易く均してしまう。そう、彼の言う通り、美麗な衣服で着飾っても、優れた作法を身につけても、どんな言い訳で繕っても、人は未だ、数ある捕食獣の一にすぎない──。
「──あの、やめにしない? そういうの」
落ち着かない気分をもてあまし、エレーンはせかせか話を変えた。
「おなか別にすいてないし、この子とだって遊びたいし」
鼻を動かすウサギの頭を、ウォードはゆっくりなでている。
「ね、そういうのはやめにしよ?」
気のない素振りにたまりかね、エレーンはやきもき顔を覗く。「放してあげて? ノッポくん!」
「だれー?」
はっ、として口を押さえた。
それは、背の高い彼に付けた、こっそり呼んでいたあだ名だった。背高ノッポの「ノッポくん」
「ご、ごめんなさいっ! あたし、つい──!」
エレーンはおろおろ、とっさに謝る。彼を軽んじたわけではないが、向こうにすれば、こっちはろくに知らない女。気分を害したに違いない。
彼はいつも軽装で、緊張感のかけらもなくて、ケネル達のように物々しくないから、つい忘れてしまいそうになるが、彼も歴とした傭兵なのだ。腕力こそが至上と謳う男社会特有の矜持だってあるだろう。そう、蓬髪の首長が謝罪にきた晩も、急に激昂したではないか。大人げないほど些細な理由で。
突如彼に引っぱりこまれたあの光景を思い出し、エレーンは背筋を凍らせる。
不意をつかれたあの時は、猛獣につかみかかられたかのようだった。女子供に関係なく容赦なく向かってくる感じで。まして、ケネルのあの警告。もしも、また怒らせたりすれば──しかも、今日はケネルがいない。彼を止められる人が誰ひとり──。
膝に置いたウサギの背を、ウォードはゆっくりなでている。感情のうかがえない、抑揚のない目を向けて。
節くれ立った長い指が、ウサギの毛並みをゆっくりなでる。
くり返し、くり返し。ゆっくりと、くり返し──。
「行きなー」
あっさり、ウォードが手を放した。
ぴょんぴょん飛び出した茶色いウサギには見向きもせずに、背を倒して、後ろ手をつく。
「あ、あの……?」
「いいよー」
拍子抜けして、見返した。「──え」
「あんたはそう呼びたいんでしょ」
「……う、うん。ありがと」
エレーンは呆けてへたりこむ。
向かってくる様子は、ない。
「あ、あの、それでノッポくん。ウサギのことなんだけど──」
「あんたがいいなら、それでいいよー。あんたに食わせるために獲ったんだし」
すっかり興味が失せた様子で、ウサギにはもう目もくれない。
ごろりと再び寝そべって、ひょろ長い足をウォードは組む。
抑揚なく天井をながめ、裸足の爪先をぶらつかせた。「けど、あの人はすぐ死ぬよー?」
「──え?」
ぎょっ、とまたも固まった。今度はなんだ! 何事だ!? てか
「だ、誰のこと?」
「"おでこのお母さん"」
「……はい?」
からかってるのか?
「アドから、あんた、かばってたでしょー?」
かばった? 蓬髪の首長から?
「──ああ。それってサビーネの」
あの晩の、領邸を襲撃した一件らしい。
「でも、なんで、そんな"死ぬ"とか」
「残り時間がもうないしー。本体がもういないから、何をしても変わらない」
まるで訳がわからないながらも、黒々としたものが広がる。エレーンはどぎまぎ目をそらす。「な、なんでわかるのよ、そんなこと」
「わからないけどー」
「……え゛」
やっぱり、この人、からかってる?
そこはかとない敗北感に、どんよりとまみれる。気を張ってたのに、なんという気楽な返事。脱力しながら目を戻す。
ぎくり、とエレーンは居すくんだ。
尻もちをついて、へたりこみ、あわあわ壁まで後ずさる。
気配を敏感に察したか、がりがり絨毯を引っかいていたウサギも、あわてふためいて飛んできた。膝に飛び込み、もぐりこむ。
(や、や、やっぱり、この人、)
相手を凝視し、ごくりとエレーンはつばを飲む。
あだ名つけたの怒ってたのかー!?
でも、あだ名くらいで大人げない──いや。彼はそもそも、
──大人げなかったー!
腹部に潜りこんだ柔らかな毛皮が、ぶるぶる小刻みに震えていた。
その薄い皮膚の下、早鐘の鼓動を刻んでいる。
天窓からの真昼の日ざしが、すっくと立ちあがった、彼の高い背を照らしていた。白いシャツの腕の先、その手が握っているものは──
『 あいつが何を考えているのか、俺たちでも分からないことがある 』
己の鼓動が圧する脳裏を、ケネルのあの警告がよぎる。
『 ウォードには近寄るな。うかつに近寄れば── 』
"潰されるぞ"
震える毛皮を抱きしめて、エレーンはかたく目をつぶる。
凪いだような昼の日ざしが、鈍くきらめきを弾いていた。
ウォードが握った切っ先の。
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