■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部1章 7話1
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夜明けの原野は靄につつまれ、どのゲルも寝静まっている。
周囲に視線をめぐらせながら、ケネルは夜露を踏みしめ、歩く。
「あれでなびくほど安くはない、か。──上等だ」
だが、まあ、と苦笑いし、肩越しにゲルを振り向いた。
「少しは懲りたろう。あの落ち着きのないお姫さんも」
寝不足の目に、皿の白がまぶしかった。
いつものように、いくつもの皿に盛られた惣菜。それでもいくらか、皿の数は減ったろうか。
仕切りをあげた戸口から、冷涼な朝風が入ってくる。仕切りの向こうで輝く野草、甲高く賑やかな小鳥のさえずり。
手付かずの惣菜をうつろにながめ、エレーンはフォークで青菜をいじる。「……ねえ、なんで子守り歌?」
自分の膳を平らげて、食後の一服をしていたファレスが、怪訝そうに目を向けた。
なんの話かと束の間思案し、「──ああ」と思い出したように、軽くうなずく。
「決まってんだろ。とっとと寝ちまいたかったからに」
顔つきはやや白け、口振りこそぶっきらぼうだが、それでも問いには率直に応える。
「キツい時には、意識がない方が楽だからな」
サンドイッチで壊した彼の腹を、さすってやったことがあった。その際ファレスは、日頃の険しさからは想像もできない、妙にかわいらしいことを言っていた。
『詫びだってんなら、子守り歌でも歌えや』
意地悪で粗暴なこの男の趣味趣向などどうでもいいが、ふっと、それを思い出したのだ。
「でも、どうなの? 大のおとなが子守り歌っていうのは」
この際、話題は何でもよかった。とにかく今は、会話を続ける必要がある。
「ガキの頃」
整った顔を軽くしかめて、ファレスは天井に紫煙を吐いた。
「子守り歌を聞けば、すぐに眠れた。むしろ、その為にあるんだろうが、こういうもんは。──もっとも、寝床にあぶれでもしなけりゃ、あいつがそばにいた例はねえがな」
「あいつって?」
「俺の母親。どさ回りの一座の踊り子だった」
ファレスは絨毯に後ろ手をつくと、当時に思いを馳せるように、天窓からの日ざしをながめた。
「一度出かけりゃ、次の昼まで戻ってこねえ。だから、寝る時は大抵一人だ。けど、ガキってのは暗い所が怖いからよ。少しでも早く眠ちまいたくて、あいつを真似して口ずさむんだが、返って眠れねえんだよ、目が冴えて。その内、嫌なことばっかり、思い出してよ」
「お母さんって、きれいな人?」
「おう。とびきりいい女だぜ」
ケネルほど無口ではないようで、その口ぶりはざっくばらんだ。
「当時、覇を競った踊り子の中で、一、二を争う上玉だった。結局、客とイイ仲になって、そいつと逝っちまったが」
恋人の話でもするように、母親についてファレスは語る。静かに。どこか得意げに。
薄くくゆる紫煙の向こうで、吊りあがり気味の鋭い瞳は、遠いその日をながめている。けれど、ファレスは、それほど欲したその人を、とうとう独り占めできなかった──。
エレーンは当惑して目を伏せた。
人を人とも思わぬ冷血漢の、思いがけない一面に。今では遠いあの日の自分と、あまりに似通った傷痕に。口調が淡々としているだけに、その光景がありありと浮かぶ。
おびえて、ふとんに潜りこむ子供。有効と思われる手立てを試し、工夫はするも眠れない。
壁でうごめく黒い火影が、その手を不意に伸ばしてきそうで。
するり、と壁から抜け出して、今にも頭上に飛びかかってきそうで。
がたがた震えて怪物を睨み、ただひたすらに待ちわびて。守ってくれる親の手を。
いつ帰ってくるのか、と。
"ねえ、おじいちゃん"
幼い頃の自分の声が、耳の奥でささやいた。
"いつ、お父さんたち、帰ってくるの?"
「──おい、どうした」
ふと、ファレスが振りかえり、怪訝そうにうかがった。
真顔になって、身を乗り出す。
「痛むか、傷が」
あわててエレーンは頬をぬぐい、必死になって首を振った。務めて平静を保とうとした。こんな所で泣き出せば、ファレスに理由を訊かれてしまう。けれど、涙が止まらない。ぬぐっても、ぬぐっても。翻弄される我が身が不憫で。一人ぼっちの自分が哀れで。
ついに、うなだれ、泣きじゃくった。
向かいのファレスが、戸惑いがちに身じろぎ、覗く。
「……アドのとこに、行く」
その名が、とっさにこぼれ出た。
「──首長の所へ? あんたがか?」
面食らってファレスが見、すぐに憮然と柳眉をしかめた。
「冗談じゃねえ。やれるかよ。大体、居場所は野営地だぞ。徒歩で行けるような近場じゃねえ。それに、あんたは知らねえだろうが、野営地ってのはな──」
「そばにこないでっ!」
とっさの拒絶に、もどかしげに乗り出したファレスが、驚いたように動きを止めた。
「あたし、アドの所に行く!」
エレーンはかたく目をつぶり、我が身を抱いて首を振る。それは溺れかけた手でつかんだ藁。この粗野な集団で、唯一無二の味方の名──。
中腰のまま固まっていたファレスが、乗り出した肩をゆっくりと戻した。
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