CROSS ROAD ディール急襲 第2部 2章 interval 〜 追憶 〜
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 あの頃、君は、俺の世界の全てだった。
 手に入れたい、と切実に願った。
 何を差し出しても、何と引き換えにしても、構わなかった。
 
 
 賭けを、した。
 旅に出たノースカレリアの、夜更けの酒場で。
 酔ったあいつにしてみれば、そんなものは、ほんの思いつきの、気紛れなゲームに過ぎなかったろう。
 あいつ──レノは、自信たっぷりに、こう持ちかけてきたのだ。君が俺を選ぶなら、譲ってやってもいい、と。
 君は商都随一の夜姫で、それを買い受けるとなれば、正直、懐は痛かったが、その程度の金なら、どうにか工面することは出来た。何より、あいつの小馬鹿にした態度が癪に障った。
 もちろん、二つ返事で承諾した。
 
『 で、お前は何を賭ける? 』
 
 何を?
 持っているものなど、何もない。
 あの頃の俺は、箸にも棒にもかからない、領家のしがない三男坊で、地位も名誉も何一つ、手中にしてはいなかった。ましてや君の価値に見合うものなど、何も思いつきはしない。親の金なら幾らかあったが、金など腐る程持っているあいつは、そんなものには見向きもしない。
 
『 だったらさ── 』
 
 証書は、酒場によくある厚紙のコースター。
 水滴のついたグラスを退けて、引っ繰り返した裏側に、言われるがままにサインした。俺が賭けた内容は……今となっては思い出せない。だが、あの頃の俺のことだ。どうせ碌でもないような戯言だろう。
 契約成立の証に何か、と言われ、成人の儀式の折に親父からもらった金の鎖時計を付けてやった。クレスト領家の紋章入りだ。今にして思えば貴重な品だが、何を差し出そうが構わなかった。酔ってもいたし、君が手に入るかも知れないと浮かれた頭は、それどころじゃなかったのだ。
 
 
 君は、あいつを選んだ。
 降るような星空の下、闇に沈んだ草を蹴り、嘲笑って片手を広げたレノの元へと一直線に駆けて行った。
 月明かりに照らされて、薄闇に浮かび上がった君の白い後ろ姿が、今でも目に焼きついて忘れられない。
 心を支配したのは、絶望というより虚しさだった。ああ、やっぱりな、という空虚な気持ち。君は許してくれたけど、恐がられているのは知っていた。
 
 けれど、あいつは君の前から姿を消した。君の病状が刻々と悪化しているのを知りながら。
 その頃から、愛だとか恋だとか、そんな悠長なことを言っているような余裕はなくなった。常に思い詰めていた肩からは、気張りも見栄も全て抜け落ち、気も狂わんばかりの執着は、嘘のように立ち消えた。何もかもかなぐり捨てて、皆、全力で走っていた。振り返ることなど出来なかった。余裕なんか微塵もなかった。そう、甘えたことを言ってる余裕など、もう何処にもなくなっていた。
 現実はそれ程までに厳しかった。
 残された時間は、刻一刻と磨り減っていく。君の体は日を追う毎に痩せていく。
 《 黒障病 》は不治の病だ。名医と名高いラトキエの典医に召集がかけられ、献身的な看護が日々続いた。しかし、病状は日を追う毎に悪化の一途を辿っていく。
 僅か半年ばかりの間に、君の体は子供のように軽くなり、いつ見舞いに行っても、高熱に全身を震わせて、息をつくのもやっとという厳しい日々が続いた。寝床に起き上がることさえ出来なくなったのは、あの旅からの帰郷後すぐのことだったろうか。
 
 嫌な予感が、近付いていた。
 後戻りの出来ぬ決定的な事態は、すぐそこにまで、やって来ていた。
 カウントダウンを意識した途端、時の流れは加速した。息を潜めて従っていた"時"は、俄かに本性を露わにし、暴力的なまでの凄まじい力で、かつての主を圧倒する。あたかも、この世における真の主が誰であるのか誇示するように。それは突然に姿を現し、獰猛な牙を剥き出した。焦燥に追い詰められ、息を呑んで見守っていながら、誰も"時"の足を止める手立てを、それを食い止める術を知らないのだ。一日が終わってしまう度、残り少ない時間を思って溜息をつく。こうしている間にもジリジリと、"時"は指の間をすり抜けて、背後の彼方へと過ぎ去っていく。
 "時"は、誰にも止められない。
 
 あれは、逼迫した願望が見せた幻だったろうか。
 漆黒の闇の中、開け放った深夜の窓辺に、黒装束の死神が、ふわりと降り立ったように見えたのは。
 寝台に横たわった体をシーツに包み、君を攫って行くように見えたのは。
 
 翌朝、君は、きちんと毛布に包まれて、元の寝台の上にいた。呼吸を止めた冷たい体で。
 まだ春も浅い、寒い朝のことだった。
 驚きに、声も出なかった。ただ、場違いなほどに穏やかな、朝鳥の声だけが、小さく離れに聞こえていたのを覚えている。ガランと静まり返った別棟で、凍て付く早朝の空気の中で、瞬きをすることさえ忘れて、ただただ見入っているより他に術がなかった。
 信じたくなかった。そう、あの別棟で目覚めた者は、燃え尽きてしまった真っ白な終焉を、突然目の前に突きつけられて、どれほど驚き、狼狽えたことか。危篤の報がもたらされて以来、毎日詰めていたにも拘らず、あの夜に限って、誰も君の傍に付き添っていなかったのだ。返す返すも悔やまれる。今思い出しても、自責の念に駆り立てられる。ああ、どうして皆が皆、あの晩に限って、眠り込んでしまったりしたのだろう。
 絶望に打ちのめされたラルッカは、昼夜を問わず街の酒場で酔い潰れ、廃嫡の危機に立たされた。唇を噛んで沈黙を守ったエルノアは、いつの間にか皆の前から姿を消した。エレーンは恐慌を来たして泣き喚き、日に日に衰弱していった。俺は、と言えば、圧倒的な無力感に打ちひしがれて、取り残された者の行く末を、ただ見守ることしか出来なかった。あれほど楽しかった夏の日が、固く結ばれた仲間達の結束が、古くなったコルクのように、風化し硬化した端の方から、ぼろぼろと無残に壊れていく。それが吹き攫われて散る様を、救いようのない荒涼を、見ていることしか出来なかった。君を捨てた薄情な男は──レノは、葬儀にさえ来なかった。
 無力だった。ひたすらに。
 過ぎ去ろうとする時神の裾を、死力を尽くして引き願っても、"時"は追い縋る者の懇願になど、少しも耳を貸しはしない。そうして手の届かない時の彼方へと、二人とはいない大切な者を、奪い、連れ去ってしまうのだ。あっけないほど簡単に。
 それを、初めてまともに実感した。
 神は、取引に応じない。
 神に、取引は通じない。
 願いも望みも何一つ、神の耳には届かない。
 森閑と静まり返った虚無の海で、索漠と荒れ果てた地平の果てで、"神" が死んだのは、この時だ。
 
 君は、一人で逝ってしまった。誰に見送られることもなく。
 ──いや、
 あの晩、降り立った死神だけは、或いは、それに立ち会ったかも知れない。君の静かな旅立ちに。
 むしろ、そう思いたかった。傍にいるのが誰であろうと、一人きりより遥かにいい。
 そう、あれは死神だったのだろう。一日も時を過たず、君を迎えに来たのだから。
 死神の髪は、赤かった。
 
 
 
 
 

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