CROSS ROAD ディール急襲 第2部 2章 2話1
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 普段であれば、来訪者が行きかう馬車道も、すっかり人通りがとだえていた。じりじり照りつける夏日の下、緑に彩られた無人の道が、ひっそりと長く続いている。
 高い壁にかこまれた広い敷地のいたる所を、二人一組の黒服の守衛がいかめしい顔つきで闊歩している。商都を治めるラトキエ領邸の広い敷地は、資料館や迎賓館等、大型の建築物を始めとし、多様な施設を併せ持つ。領邸母屋の窓の向こうを、黒服の従僕が忙しなく横切り、白襟紺服のメイドらが、今日も楚々として立ち働いている。ここは、あの頃と変わらない。
 監視所が付属する厳かな正門の表には、いかにも屈強な門衛が数人、威嚇するように並び立ち、領邸への訪問者の身分を訝しげに検めている。彼らの警戒がいつにもまして物々しいのは、ラトキエが治める商都の街が、未曾有の事態にさらされている為だろう。
 誰何してきた門番に、身元を明かして案内を請えば、門番から連絡を受けたのだろう、遠く馬車道の先の母屋から、見知った顔の黒服の執事が慌てた様子で飛んできた。
 真夏でも一分の乱れもない初老の執事は、当時、彼女の世話をしていたと記憶している。あの頃よりもいくぶん薄くなった頭を何度も下げたところをみると、少し不機嫌な顔をしていたのかも知れない。
 今の気分にそぐわない慇懃な態度に苛立ちを覚え、相手の居場所へ案内を急かせば、執事はおろおろ、困った顔でためらった。だが、そうしていたのも束の間で、結局、先に立って案内を始めた。客の身分を考えて、無下にもできまいと判断したらしい。
 踵を返した執事に続き、石造りの正門から敷地に踏みこむ。
 青芝の庭が一気に開けた。あふれんばかりの緑梢が、吹きわたる風に鳴っている。広大な前庭の右手には、外部から馬車道が引き入れられ、ゆるやかに続く道の先は領邸母屋まで続いている。敷地の左には、点在する建物の屋根が、豊かな緑梢の先に見え隠れしている。あふれかえった緑にまぎれ、作業着姿の庭師らが雑談しながら歩いていく。
 いつにも増して寡黙な執事に先導されて、並木道の馬車道を左折し、西の青芝へと踏み込んだ。この広大な青芝は、いつも手入れが行き届いている。常に青々として瑞々しい。
 懐かしかった。靴裏に感じる芝の柔らかな感触さえも。胸に迫る切なさは肺を圧して痛いくらいだ。あの夏の記憶が不意に鮮やかに蘇り、込みあげた何かで息苦しくなる。そう、全てはここから始まったのだ。
 こちらの顔を見て、途端に逃げた彼女を捕まえ、初めてまともに声をかけた。
 泣き出しそうに怯えながら、それでも過ちを許してくれた。雨後のぬかるんだ池の縁まで、不自由な足で迎えに来てくれた。本当の笑顔で笑いかけてくれたのは、いつの頃からのことだったろう。
 目を閉じれば、今でも鮮やかに思い出せる。春風のような柔らかな声を。子供のように無垢な笑顔を。差し伸べられた白い手の細さを。芝を渡って吹きゆく風に、あの彼女の笑い声がまだ紛れているような気がする──
 執事がうやうやしく振り向いたのは、赤い屋根に白い壁の、南の別棟の前だった。かけがえのない夏の日々をすごした、あの懐かしい建物だ。 
 掃き清められた風吹く窓辺で、彼は力なく微笑んでいた。窓に寄せた寝台に脱力したように腰をかけ、前屈みの両肘は左右の膝の上にある。
 緑に浄化された清々しい風が、西の窓から吹き込んでいた。風はテラスへ抜けていくのか、立ち入り禁止の別棟は、存外気持ちの良い涼風で満たされている。
 節くれ立った彼の手には柔らかそうな白布があり、それが右の膝を覆っている。膝から零れた布の端が、風にわずかに揺れている。何やら見覚えがあるような気がする。
「……これは驚いたな」
 彼は困惑したような苦笑いを浮かべた。
「まさか君が、僕を訪ねてこようとはね」
 詫び入る執事をゆったり眺め、労をねぎらい、下がらせる。彼はゆっくりと見返した。
 天窓からの午後の陽に、彼の茶髪が柔らかく揺れる。
 怜悧というよりはむしろ優しそうだと評されることの方が多かろう面持ち。その端整な顔立ちは、若い女性のみならず、出会う者全ての心を瞬時につかんでしまう。年齢は確か、二つか三つ年上だったように記憶している。
 すらりとした贅肉のない体躯に、気品のある物腰。襟足にかかる茶色の髪、それと同色の思慮深げな瞳。とりたてて華美というのではないが、仕立ての良さの分かる服。
 アルベール=ラトキエ。当主が病に倒れた今、静かに微笑むこの彼こそが、ラトキエ領家を取り仕切る商都の実質的な支配者だ。
 
 
 
【 談 判 】
 
 
 
「珍しいこともあるものだな、ダドリー=クレスト。僕の所へ来るなんて、どういう風の吹き回しだい」
 不躾な客に困惑したか、アルベールはぎこちなく微笑みかけた。「商都へは視察で? だが、災難だったな。物騒な時に当たってしまって」
「久し振りだな、アルベール」
 ダドリーはぶっきらぼうに、相手の労わりを遮った。ズボンのループに指を引っかけ、寝台にぶらぶら足を運ぶ。胡散臭そうに眺める顔は、不機嫌を隠そうともしない仏頂面だ。
 寝台の端に座ったままで、アルベールは相手をゆるやかに目で追う。
「元気そうで何よりだ。ああ、細君は元気にしているかい? 今や君もクレストの当主か。慣れない執務で、さぞや気苦労が──」
「そんなことより、アルベール」
 ダドリーはうるさげに遮って、少し離れて立ち止まった。片足に重心を預けて、若き当主の顔を見る。
「ディールに囲まれちまってるのに、何もする気がないらしいな」
 アルベールは小首を傾げて苦笑いした。「……血相変えて何事かと思えば。一体誰がそんなことを」
「ラルから聞いた。お前、正気か」
 せかせか答え、ダドリーは冷ややかにねめつける。
「何故、早く指示を出さない。ディールの狙いは商都の街だ。兵糧攻めで、お前らを追い落とそうとしているんだぞ」
「……分かっているさ」
「だったら、どうにかしたらどうだ。お前は当主の代行だろう。こうまで無様な有様なのに、引きこもっていられる立場かよ。何故、何がしか指示を出さない。何故、何ら手を打たない! 今、お前が成すべきことは山のようにあるはずだろう! このまま事態を放置すれば、遠からず街で暴動が起きるぞ!」
 アルベールは小さく嘆息した。「……大声でわめかないでくれないか」
「領民がどうなっても、お前はいいのか!」
「君が気に病む必要はない」
「だが! 市民の間に、不安が広がり始めている!」
「ここはラトキエの土地だ」
 議論を切りあげるように言い置いて、アルベールは困ったように微笑んだ。
「ダドリー=クレスト。君は勘違いをしていないか。ここは君の領土じゃないだろう」
「だが!」
「身の振り方は、僕が決める。他家のことは放っておいてもらいたいな」
「──お前はそれでも領主なのか!」
 ダドリーはついに声を荒げて、アルベールの胸倉を引っつかんだ。
「ラトキエの沽券など知ったことか! いつまで甘ったれたことをほざくつもりだ! そりゃあ、お前はいいだろう。だが、お前の無策が、どれほど民を苦しめると思う!」
 ぎりぎりアルベールを吊るし上げる。されるがままになりながら、アルベールは苦しげに顔をしかめる。「──君には、関係ない」
「指揮を執れないなら、ラルに代われ! あいつならまだ、なんとかできる! 見栄をはってる場合かよ!」
「……乱暴は、よせよ」
 寝台に座り込んだまま、アルベールは迷惑そうな面持ちだ。ダドリーは焦れて舌打ちし、床にアルベールを叩きつけた。
 アルベールはしたたかに膝を打ち、床に転げ、尻餅をついた。だが、理不尽な仕打ちに抗議するというでもなく、視線をめぐらせ、かたわらにのろのろ手を伸ばす。
 それを床からたぐり寄せ、懐深くに抱きしめる。無法者の狼藉から、我が身をていしてかばうように。アルベールが両手で抱きすくめていたのは、膝からすべり落ちたあの布だ。
 そのあまりの体たらくに、ダドリーは後ろ頭を掻きむしる。彼は床にへたりこんだ無様さより、布きれの方が気になるらしい。
「立て!」
 布に顔を埋めんばかりのその腕を、ダドリーは乱暴に引っ立てる。ふと、アルベールが顔をあげた。「……何をする気だ」
「いいから、さっさと立ちやがれ! お前を執務室にぶち込んでやる!」
「……執務室に?」
 アルベールが怪訝そうな顔をした。「ダドリー、君は何を言って」
「俺が連れてってやるって言ってんだよ! お前の今在るべき場所にな! さあ、部下がお前を待っている! さっさと指示を出してこい!」
 強引に出口に引っ立てる。アルベールはなすがままに引きずられ、だが、床でこすれる白布を、眉をひそめて見つめている。
「……ダド、リー」
「なんだ!」
 苛立ち、ダドリーは振りかえる。
「やめてくれ」
 ダドリーは面食らって足を止めた。思わぬきっぱりとした口調だった。
 だが、アルベールは依然として床にへたり込んだままだ。腕をとられた体勢で、疲れたように嘆息した。
「ここでの諍いは、やめにしないか」
 ダドリーは焦れた。「お前な! 誰のせいで、こんなことをしていると──」
「喧嘩をすると、アディーが悲しむ、、、、、、、、
 ダドリーは頬をこわばらせた。胸倉をつかむ手の力が抜けかかる。
 床に足を投げ出して、アルベールはうつむいている。体のどこにも、まるで力が入っていない。立ち上がる気力さえないらしい。
「……アルベール」
 名を呼ばれ、ぼんやりと顔を仰いだ。あたかも愚昧な白痴のように。
 忌々しさが胸にこみあげ、ダドリーは乱暴に突き放した。
「目を覚ませよ、アルベール」
 大きく息を吐き出して、もどかしい思いで首を振る。「どうしちまったんだ、その様は! お前らしくもない!」
「僕は行かないよ、ダドリー」
「──アルベール!」
「発令権の放棄もしない。ラトキエには、僕の他に直系はいないからね」
 意外にもきっぱり言い放ち、アルベールは白布を大切そうにかかえこむ。
 ダドリーは眉をひそめて嘆息した。手応えというものがまるでない。覇気も生気も失せ果てている。こうまで無下に扱われても、抗議どころか怒りもしない。
 床に足を投げ出して、彼はひっそりと静まり返っていた。まるで水をたたえた湖面のように。水面に石を投じれば、一時波紋を広げはするが、すぐにひっそりと戻ってしまう。水は形を変えることなく、元の平面へと収まりゆくだけ。後に残るは、何ら変わらぬ永劫の静寂──
 それはあまりに変わり果てた姿だった。見るに耐えない有様だった。やりきれない思いで首を振り、ダドリーは深く息をつく。虚しさを握り潰すべく拳を握った。
「……いい加減にしろよ、アルベール。とぼけるにも限度があるだろう。──なあ、お前、本当に分かっているか。足元に火がついているんだぞ。他でもない、お前のその足元にだ。こんなことを続けていれば、いずれ、領民から吊るしあげを食う。いや、それも時間の問題だ。そんなこと、お前にだって、本当は分かっているんだろう」
「僕は、行かない。ここにいたいんだ」
「一体どうしちまったんだ!」
 ダドリーは声を荒げて腕をつかんだ。アルベールの顔を食い入るように凝視して、力任せに体を揺さぶる。
「あの頃のお前はどこへ行った。俺が知っているアルベールは、もっと前向きでしたたかだった。ひたむきでまともな奴だった! 今の抜け殻みたいな様を見たら、アディーだってきっと──」
「それはすまなかったな。ご期待に添えなくて」
「アルベール!」
「出て行ってくれないか」
「──なに」
 ダドリーは気色ばんで絶句した。呆然としたその顔から、ふい、とアルベールは目をそらす。
「ここから出て行ってくれ。この場所から」
 アルベールは足を投げたまま、天窓から降りふる日ざしを眺めた。ひっそり静かな別棟に、視線をゆっくりめぐらせる。
「ここは特別な場所なんだ。神聖で不可侵な、僕のかけがえのない場所なんだ。このささやかな平穏を、もう誰にも邪魔されたくない。あの清らかな思い出を、不躾に掻き乱されたくはない」
「──そうかよっ!」
 ダドリーは手近な椅子を蹴り飛ばした。のろのろと振り向いたアルベールを、腹立たしげにねめつける。
「見損なったぜ、アルベール。いつからそんな腰抜けになった。ああ、ああ、そうかよ! だったら、いつまででもそうやって屋敷の奥深くで震えているがいい! そんなに嫌なら、領主なんか辞めちまえ! お前に領民を預かる資格はない! ディールがそんなに恐いのか! 臆病者の腑抜け野郎が!」
 ダドリーは憤然と踵を返した。
 足取り荒く部屋をつっきり、中庭へのドアを叩きつける。
 ぼんやりうつむいていたアルベールは、ゆっくり、ひとつ瞬いた。服の汚れを軽く払い、おもむろに床から立ちあがった。
 
 
 ラトキエ領邸正門を出ると、街路の木陰にもたれた男が待ちかねたように背を起こした。
「──どうするよ、大将」
 辺りをはばかるように声をかけ、歩く隣にさりげなく並ぶ。上背のある若い男だ。年の頃は二十代後半、肩にかかるほどの長さのある赤茶色のザンバラ髪、荒っぽい身形に包まれた体躯は、見るからに鍛えられている。辺りを抜かりなくうかがう視線は、さりげなく鋭い。
 ダドリーは行く手を睨みすえ、足を止めずに赤髪に応えた。
「ラトキエは、動かない」
「は! 無駄足だったな、ご領主さんよ」
 赤髪は苦々しげに頬をゆがめた。「こんな北の街外れまで、わざわざ出向いてやったってのに」
 ぶらぶら足を運びつつ、呆れた顔で天を仰ぐ。
「ラトキエの跡取りは大した腑抜けだ。てめえの領土がこうまでひどい有様だってのに、なんら手立てが打ち出せず、そうかといって街を明け渡す度胸もない。見るも無残な体たらくだぜ。邸に引きこもって震えていりゃあ、災難の方が勝手によけて、頭上を通過してくれるものとでも思ってんのかねえ」
「一体どうしちまったんだ! あんな抜け殻みたいになっちまって! あれじゃあ、まるっきり別人だぜ」
 ダドリーはたまりかねて吐き捨てる。はっと気づいて顔をあげた。
「そうか、あの布はアディーの服の──アディーがいなくなったから、それであいつは──」
「ほう、どこぞの女に振られでもしたか。上に立つ奴が女々しいと、下々はまったく不幸だな」
 赤髪の皮肉は揶揄混じりだ。ダドリーは穏やかな街並みをねめつけた。
「──そんなはずは、ないんだがな」
 どうにも納得がいかない様子で、難しい顔で眉をひそめる。
「あいつはそんな奴じゃない。俺の知ってるアルベール=ラトキエは、そこまでひ弱な奴じゃない。もっとタフでしたたかだ。あの臨終の朝でさえ、顔色ひとつ変えないで、離れから俺達を追い払った。それが何故、ここへきて、今さらあんな醜態を──」
「てめえの命が急に惜しくでもなったんだろうさ。まったく不甲斐ねえ野郎だぜ」
 赤髪は面倒くさげに言い捨てた。だが、ダドリーは耳に入っていないようで、思案顔で顎をなでる。
「そうだ。何故、手を打たない。ディールの好きにさせている? この屈辱的な状況に、いつまで、あいつは甘んじているつもりなんだ。矜持の高いあの男が」
「なら、閑古鳥が鳴いてるザマは"ディール如き相手にしねえ"って自己顕示のつもりかよ。だが、肝心要の戦力が、街なかに突っ立った"オマワリ"だけってんじゃあな。こっから挽回できるとは、さすがに到底思えねえな」
 今も敵兵がひしめいているであろう西門の先を眺めやり、赤髪は茶化して苦笑いする。
 ぶらぶら歩くザンバラ髪が、西日に赤く透かされていた。その髪がかったるそうに振りかえる。
「ここまできちまっちゃ、どうしようもねえよ。大将、あんたも妙な義理立てはほどほどにして、さっさと北にズラかっちゃどうだ」
「だが、それにしては変なんだよな。あいつの眼はまだ──」
「ラトキエは無策だ! 現に、この体たらくだろうが!」
 赤髪が辟易してまくしたてた。
「まったく大したご領主様だぜ。それに引きかえディールの奴らは、不安の募る街を見て、面白おかしく飲み食いしながら、陥落するのを待ちゃあいい」
 ダドリーは訝しげに眉をひそめ、依然釈然としない面持ちだ。その横をかったるそうに歩きつつ、赤髪は高くそびえる邸壁を仰いで、面白くもなさそうに唾を吐いた。「──勝負あったな、この戦」
「カーシュ、出かける。用意をしてくれ」
 ふと、赤髪が足を止め、怪訝にダドリーを振り向いた。
 
 
 
 
 

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