CROSS ROAD ディール急襲 第2部 2章 3話1
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 半分開いた硝子戸の向こうは、真夏の太陽が照りつけていた。人けなく閑散とした通りは、最早BGMと化した蝉しぐれに包み込まれ、気休めに水打ちした道の煉瓦からは、陽炎の揺らめきが もわ〜ん……と気怠く立ち昇っている。
 調理場の火は落ちたまま、幾つかあるテーブルの上には、四脚の椅子が引っ繰り返されて上げられていた。風取りの為、表の硝子戸こそ開けてはあるが、暖簾の外された店内は、ひっそりと静寂に沈んでいる。
 どれだけ包囲中であろうとも、人間誰しも腹は減る。定期的な食糧補給は必須であるので、こうした飯屋には需要がある。そして、緊急時には、物価はたちまち上がるもの。そもそも後生大事に隠しておいたところで生鮮品なんかは腐っちまうし、今なら濡れ手に粟の余禄の旨みも見込めるし──となりゃ、稼げるもんなら梃子でも稼ぐのが、いっそカレリア商人の心意気ってなもんである。現に、街に立ち込める不穏な空気なんか物ともせずに、しっかり開店している商魂逞しい店もチラホラある。そして、まずまず繁盛しているこの飯屋も、ご多分に漏れず、普段ならば、そうした飲食店の一つであるのだが。
 しかし、昼日中の書き入れ時だというのに、ここには全く客の姿がない。もっとも、薄暗い店内で、突っ立って話をしている数人の人影を除けば、の話だが。
 白い割烹着姿の小太りの店主は、仏頂面で立っていた。腕まくりした太い腕を組み、その上で苛々と人差し指の運動なんかしながら。
 店の前の打ち水を終え、暖簾を出そうと思ったら、突如コイツラが押しかけてきたのだ。物陰から、ひょーいっと飛び出してきた三人の人影にギョッと怯んで思わず一歩引いたところへ 「「「 まあまあまあまあまあ──っ! 」」」と慰留とも感嘆詞ともつかぬ意味不明な連続音を発して畳みかられけ、有無を言わさず店の中へ押し込まれてしまった、と、こういう次第なんである。
 そして、くたびれた感じの黒革の手帳を、手首のスナップを利かせてスチャっと振り開け、その内の一人が店の伝票とつき合わせながら、のたまうことにゃ、
「昨日の昼時、店に出入りした人数は五十三人でしたが、……しかし、これだと十人ばかり足りないようですねえ?──ねえ、どうしてでしょうねえ? ご主人?」
「……さあてな、んなこと俺に訊かれてもな」
 鼻先に証拠を突きつけられて、太い腕を組んだ小太りの店主は、そっぽを向いて忌々しげに舌打ちする。
「いやあ、しかしですねーご主人、現にこうして──」
「知らねえもんは知らねえよ。あんた、出前の店員の数まで勘定に入れちまってるんじゃねえのかい」
 開店と同時に踏み込まれ、お陰で本日は営業取り止めなんである。商売上がったりの渋い顔の店主の前には、夏の暑さを物ともせずにキチンとスーツを着込んだラトキエ配下の三人の徴税調査官。
 
 ディールに門前を囲まれ(ちまっ)たお陰で、今日も今日とて閑古鳥の鳴く商都カレリア、とある飯屋の中である。外光が遮られ薄暗くさえ感じられる閉店中の店舗の中では、先程から、そんなやり取りが続けられていたのだった。
 そう、ガサ入れの真っ最中なんである。そして、調査の名目で店中を引っ繰り返し、我が物顔で歩き回っている彼らは実に、それを担当する実行部隊の役人である。店主は大変嫌そうな顔だが、しかし、こうとなっては、最早どうにもなりはしない。彼らには強制調査の権限があるのだ。
 どうやら、街角で、じぃ……っと張り込み、店に出入りする客数を、雁首揃えてセッセとチェックしていたようなのだ。このクソ暑い中をまったくご苦労様なことではあるが、額に吹き出た汗を拭きつつ、手元の自筆メモと店の伝票に記された該当日の人数とを付き合わせ、不審点を鋭くしつこく追求してくる。
「あー、やっぱり見つかりませんねえ。僕の使った、、、、、一トラスト札が」
 店の奥から別の声がする。何をゴソゴソやっているのかと思いきや、あっちは店の現金を一枚一枚調べていたようだ。
「ねえ、ご主人? どこ行っちゃったんでしょうねえ? 僕の使った、、、、、一トラスト札は。ここにないと、おかしいんだけどなあ〜? だって、釣り銭に使える筈もないんだしぃ?」
 一トラスト札は、最高額の高額紙幣である。
「……さ、さあな。大方両替にでも出したんだろ」
 一瞬、う゛……!?と詰まったものの、辛くも答えを捻り出した店主は、突き出た腹を更に突き出し、そっくり返りそうなほどにそっぽを向いて、吐き捨てるようなぞんざいな返事。
 つまりは、こういう話である。印を付けた高額の札を、客を装ってこの店で使い、売上の中に紛れ込ませておいた。だから、それが発見出来なければオカシイ、と。──それ即ち"売上を不正に抜き取っている"ことになる訳だ。客卓に置かれる伝票に目印を付け、後で調べてみたりなんかもする。調査でその伝票が出て来なければ、やはり、それと同様 "不正を働いている" ことになる訳で……
 大抵彼らは、客を装い店内に侵入、店の様子をつぶさに観察し、実態を把握するなどして然るべき内偵調査を実施した後、こうして店に直接踏み込んでくる。更には、軽く世間話から入って探りどころを見つけ出し、そこからジワジワと攻めていくのだ。彼らとしても、他人の持ち物をこうまで荒らしといて「なんにも出ませんでした……」では帰れないんである。
 爪先で苛々と床を叩いて、店主はこの上なく不機嫌な顔である。不意打ちで押し入られ、いいように店を掻き回されれば、この反応も無理はない。──と、正門方向へと顎をしゃくった。
「まったく呆れた連中だな。外はあの通りひでえ有様だってのに。あんたら、ま〜だ、こんなことを続ける気かい?」
「ええ。それが我々の仕事ですし、業務続行は上からの指示ですから。──ああ、それと、ご主人? この日の伝票も見せて頂けますぅ〜?」
 店主の嫌味にも、彼らはニッコリ笑って動じない。
「……あんたら、なんで、ウチなんかに目ぇつけたんだい」
「はい。善良な市民の方から通報がありまして」
 あくまで朗らか&にこやかな彼らとは対照的に、店主はムスっと横を向いて舌打ちする。
 こうしたチクリは、実に多い。内部告発なんかも結構多い。そして極め付け、脱税摘発の情報を報奨金で促したりなんかもする。
 そう、密告・背信大歓迎。巷で売られる《 書き売り 》の内容から口の端に掛けられる風評・流説の類まで、日々情報収集に勤しむのが生業である。「あの店、なんか儲かってるらしい……」との語感に、彼らは実に敏感である。
 一人が妙にイソイソと、店主の渋い顔へと目を戻す。
「ああ、それで、ご主人。おたくはどちらの金融商をお使いで?」
 実をいえば、この彼ら、八分九厘は 見切り発車 だったりするのだが、さっきちょっと色良い反応なんかがあったりしちゃったものだから「もう逃がしませんよ〜♪」と言わんばかりの嬉しそうな顔つきだ。
「……そんなものは使ってねえよ」
 そう、金を預けておく金融商にまで出かけて行って、しつこく細かく調査したりなんかするのもコイツラの必殺得意技だ。当然のことながら、店主の返事は吐き捨てるようにぞんざいで。
 が、しかーし!
「またまたあ! これだけ繁盛してるのに、現金を手元に置いとく筈はないでしょう? カレリア広しといえども、まっさか、そんな
バカはいませんよね?そんなバカは。──ま、そっちは照会すれば、すぐに分かることなんですがね〜。でも、隠し立てなんかすると、タメになりませんよ〜?」
「──あのなあ、あんたら、本当に分かっているのか」
 堪りかねたように溜息をつき、店主は苦々しげに店の出口へと顎をしゃくった。
「こんなことをしている場合じゃないだろう。見ろよあれ。そんな微々たる金を徴収したところで、このままディールに占拠されちまったら、所詮は無駄になっちまうってもんだろうが」
 陽に照らされた煉瓦の道には、通行人の姿もなく閑散としている。しかし、伝票チェックに余念のない彼らは、目を上げようともしない。
「そんなことはありませんよ。我がラトキエが他家の手に落ちるなんてことは断じてありませんから」
「しかし、現にああしてビッシリ張り付いちまってるじゃねえかよ。ウチなんかのことより、まずはアッチをどうにかしろよ。アッチをよ」
 お説ごもっともな指摘である。
 ところが、どっこい、そうは問屋が卸さない。
 
「管轄、違いますし」
 
「──お前らだって役人の端くれだろうがよ! どーにかしろよどーにかよ!」
「だって、まだ何も仕掛けてこないじゃないですかあ。違いますぅ? ね? そーでしょ?」
「だったら、あれは何だってんだよ」
「ああ、あれは進軍行進の──」
 何故か、三人揃って顔を上げた。
 
「「「 デモンストレーションですっ 」」」
 
「……(嘘をつけ)」
 しかし、ハモる声もピッタリに
き─っぱりと頷いてみせる彼らを前に、海千山千でならした強者(つわもの)の店主も、さすがにタジタジと無言になる。黒いものも白と言い切る彼らの一人が、ペンを振り振り、すかさずニコヤカに小首を傾げた。
「そもそも、我々がこうして普段通りに仕事をしているのが何よりの証じゃあーりませんか。──さあさあ、世間話はそれくらいにして。ご主人、この日の分の伝票を──♪」
 彼らが「誤魔化されませんよ〜?」とにんまり笑ったその時だった。
 目を戻しかけた彼らの視界を、サッと何かが横切った。手元の書類から、それぞれが、ふと目を上げる。その顔が、ギョッと驚愕に引き攣った。
 何気なく話をしつつも、いつの間にやらソロソロと立ち位置を移動していた店主が、卓上にあった数枚のメモを突如神風の如くの速さで引っ手繰り、ピョーンと一足飛びにその場を離脱。あんぐっと開けた口の中へ、ポイと投げ込んでしまったのだ。
 
 怪しいメモを食べられた──!?
 
「──ギャー!? ご、ご主人っ!?」
「ひ、卑怯だぞ!」
 しかし、主人は既に、脱兎の如くに店内を逃亡。ゴックンと一飲みされたら、一巻の終りだ。
 慌てて追うも、しかし、テキもさるもの商都カレリアの商売人。アタフタと追いかける三人を尻目に、小太りとは思えぬ異様に軽いフットワークで、無人のテーブルの脇を縫い、ヒョイヒョイ器用に逃げ回る。
「つ、捕まえろ!」
「みんな! 手足を押さえろっ!──おい、そっち! 鼻をつまめっ!」
 今日も、ガサ入れ現場はバタバタと賑わしい。
 太い腕を振り振り逃げ回る店主は、伏せた三日月形の両目でニッカと笑い、ふふん?どーだ♪と勝ち誇った顔。梃子でも口を開けないしぶとい店主に、彼らは慌てて取り付いたのだった。
 
 
 
【 追 跡 】
 
 
 
「上席徴税官殿。ドレーゼン卿から抗議がきています」
「内容は」
「……はあ、その……"若い調査員の態度が悪い。どういう教育をしているのだ"と。たいそうご立腹なご様子で」
 ギシリと椅子を鳴らして背もたれに背を沈め、ラルッカはウンザリと溜息をついた。この"ドレーゼン"というのは、ラトキエ門閥の一つである。そして、態度云々は言いがかり、詰まるところ、調査を中止せよ、との圧力なのである。
 軽く片手を振って、指示を出す。
「構わん、続行しろ。下らん戯言に付き合っている暇はない」
 
 穏やかな午後の昼下がり、ダドリーと別れ、職場に戻ったラルッカは、精力的に日常業務をこなしていた。
「──これは売上を抜いているな。仕入先をあたれ」
 報告書を持ってきた調査員を前に、長い指先で書類を叩く。
「もう一度、取引の整合性を調べさせろ。それに雇い人の数が多過ぎる。下段の定額は恐らく特定関係人への手当てだろう。帳簿と残高を照合して、合ってなければ引っ張って来い」
 脱税の手口は数々あれど、ここ商都での税の誤魔化しは、収入隠匿と経費のでっち上げがほとんどだ。
「しかし、これは先方が出してきた正規の帳簿なんですが──」
「予め用意してある帳簿や書類を重視するな。何年も続いた老舗の名簿が、こんなに真新しい訳がないだろう。もう一度、業務記録を検めろ。準備されているということは、調査用に整えた物だということだ。そんな物を鵜呑みにしてどうする。原始記録を探すよう実行部隊に指示を出せ」
「──はっ!」
 指示を受けた調査員が、バタバタと慌しく部屋から出て行く。原始記録──つまり、従業員のメモや進行状況を記したノートの類いのことである。取引先と共謀でもしない限り、これらの偽装は難しい。
 
 こんな剣呑な時だというのに、ここでは実に、全く普段通りの通常業務なのである。
 そうした指示が、上の方から出ているからだ。何せ、ここ商都カレリアは、その名の示す通りに商取引の盛んなお土地柄。徴税対象になる店舗・商売人の宝庫である。公平課税の名の元に、すべきことは山のようにある。調査の準備から、実地調査、反面調査、そして、調書作成に至るまで。
 
「──まあ、君の話も分からん訳ではないのだがね」
 呼ばれて出向けば、革張りのソファに踏ん反り返っていたのは、恰幅の良い紳士だった。どこかで見たような顔でもある。時計の金鎖を腰の脇に垂らし、見るからに上等なスーツに身を包んでいる。この馴れ馴れしげで尊大な口振りからすると、或いは個人的に話したこともあるのかも知れないが。
 相手をそつなく観察しつつ、ラルッカは小さく首を傾げる。もっとも、相手が同じ門閥に属しているからといっても、その裾野はあまりに広く、末端の末端に連なる者まで須らく把握するのは困難だ。社交の場には多くの者が集まるが、余程の有力者でもない限り、手蔓を求めて引き合わされる何十何百という縁遠い縁故の一人一人に至るまで記憶に留めておくのは難しい。
 心の余裕からくるものか、五十絡みの恰幅の良い紳士は、年若き徴税官へと穏やかな目を向け、下に着込んだベストがはちきれそうな腹の上で、ゆったりと太い指を組んでいる。
「今回、指摘を受けた分については認めてあげてもいいのだが、──いや、しかし、どうかね、君。私も支配人に請け負ってしまった手前があるのでね。ここはひとつ、私の顔を立ててもらう、、、、、、、、、、という訳にはいかんものだろうかね」
 卓上の葉巻に手を伸ばす素振りでさりげなく身を乗り出してきた紳士が、余裕綽々の態度で思わせ振りに目配せする。
 ──不正を素直に認める代わりに、追微課税をまけてくれ、という訳か。
 内心で相手の意を翻訳し、ラルッカは書類を束ねて立ち上がった。
「お引取り願いましょうか」
 思わぬ肩透かしを食らったようで、紳士はポカンと見上げている。ラルッカは端整な笑顔で、そつなく相手に微笑みかけた。
「お忙しいところ、ご足労頂いて申し訳ないが、そうした取引には応じかねます。確定金額については、追って商館の方へご連絡を差し上げますので。──さ、ドレーゼン卿をお送りして」
 最後の一言でソファーの背後に控えていた若い部下へと指示を出してしまうと、ラルッカは有無を言わさず話を早々に打ち切った。
 ラルッカは、調査対象が同じ門閥の息がかりであろうが容赦はしない。現に、側仕えの任用にあたっても、そうした弊害を極力排除すべく、有力貴族の子弟を無条件に下に据えるという、これ迄当然のように罷り通ってきた因習を排して、独自に選考試験を実施したくらいだ。
 現に、この手の無茶な圧力が効を奏すことは往々にしてあり、こうした利権の集まる場所には、不正を見逃して袖の下を取るような浅薄な輩が徘徊するのも、又、動かし難い事実ではある。
 こうした風紀の乱れは、とある人物の罷免により箍が緩んだことの顕著な表れでもあるだろう。常に不正に目を光らせ、特権的な地位を持つ彼ら徴税官を厳格に指揮監督していたドロッギス=ロワイエが、統括の地位を追われて以来の体たらくである。
 仕事に対するラルッカの厳格な姿勢は、彼らロワイエ一門が一貫して打ち出してきたものであり、代々、脈々と受け継がれ、家の名誉にかけて守ってきた信念である。そして、これこそが市井からの尊敬と信頼を集め、長らく領民達に支持されてきた所以でもあるのだ。その信用たるや、徴税官吏"ロワイエ"の名が"公明正大"の代名詞ともなった程だ。かつての統括徴税官ドロッギス=ロワイエの名は、カレリアに住む者ならば子供であっても知っている。
 そんな彼が失策を犯したとすれば、それは言わずと知れた、往年の政権転覆劇の失敗──現当主クレイグの資質を甘く見て、彼の領主就任に異議を申し立てたことくらいのものだろう。
 過去、ドロッギス=ロワイエは、時の領主に反旗を翻し、領主の直系継承についての異議を申し立てた。現当主クレイグに領主としての資質を見出せず、実子サイモスを擁立しようと画策したのだ。
 しかし、結局、政権奪取に失敗し、長らく安泰だった特権的な地位を剥奪されて、息子共々閑職へと追いやられる羽目になった。
 ラルッカのこうした厳格な対処には、本人の資質もさることながら、そうした雪辱をすすぐ為にも、ようやく復権を遂げたロワイエ家の名誉挽回に躍起にならざるを得ない側面もある。
 しかし、何を勘違いしたものか、こうした手合いは、まま現れる。もっとも、ロワイエ家は元々ラトキエ家門NO.2の由緒ある家柄であるだけに、彼らには格下の他家に指図される謂れも媚びる必要もありはしないのだが。
 
「そうか。やはり駄目だったか……」
 戻って来た部下からその報告を聞き、ラルッカは目頭を揉んで椅子の背に寄りかかった。
「ご領主様をお見舞いになった後、アルベール様は執務室には向かわれず、別棟の方へとお戻りになりました」
「──そうか」
 小さく落胆の溜息をつく。このところ、彼はいつもそうなのだ。しかし、立入禁止のあの別棟に引き篭もられてしまっては、進言しようにも話が出来ない。そう、幾度けんもほろろに門前払いを食わされてきたことか。
 両端に書類の置かれた大振りな執務机の前、様子見にやった小柄な部下が神妙な顔で控えている。やれやれと首を振って目を返した。
「それで、クレスト公の方はどうした」
「はあ、たいそう憤慨されて出て行かれたようですが、詳しいことは分かりかねます」
「そうか、怒っていたか。──そうだろうな」
 血相変えたあの形相を思い出し、ラルッカはふと苦笑いした。あの男は、こと領民に塁(るい)が及びそうになると、我を忘れて激昂するから。それが領家の危機であれば、平気な顔で見捨てるくせに。
 薄暗い地下の備蓄庫で、ダドリーに掴みかかられていた。それは、正義感からくるものなどではない。元より、後ろ暗いところなどいささかもない高潔な身の上だ、などと厚かましいことを言うつもりは毛頭ない。だが、物心ついた頃から領主になりたくて仕方のなかったあの男にとって、渇望の末にやっと与えられた領民は、盾になり我が身に代えても守るべき、かけがえのない大切な宝物なのだ。あの男は、生まれついての"領主"なのだ。そう、クレスト領家に生れ落ちたその瞬間から。彼ら領民の存在なくして、領主などというものは存在し得ない。
 不幸にして領家の三男坊などという半端な立場に生まれてしまった者が、どれほど惨めな存在であるのか、それを考えてみればいい。常に領主の椅子に程近い位置に置かれながら、それには決して手が届かないのだ。かつての役職を剥奪され政務の中心から遠ざけられたロワイエ家次子として生まれたラルッカには、その忌々しい程のもどかしさが、よく分かる。実際、街の酒場で、クレスト前領主の訃報とダドリーの次期領主決定の吉報がもたらされた時など、「ついに刺客を放ったか」と一瞬真面目に勘繰ってしまったほどだ。いささか物騒だが、ありえない話ではない。何せクレスト領家は、そうした血を引く一族だから。
 しかし、あの時のダドリーの驚きようと嘆きようは、疑いようもなく本物だった。無論、次兄に遠慮して辞退するなどという慎ましやかな真似など、決してしない。
 ダドリーは、欲しいものに対して正直だ。物見櫓の上から落ちそうになったアディーを見て、後先考えず空中に飛び出してしまったことさえある。当然、庇った彼女の下敷きになり、右腕を折る羽目とはなったのだが。今にして思えば、あの高さから地面に叩き付けられて、よくもああして生きていたものだと感心するが、もっとも、あの男のそういう無鉄砲なところも嫌いじゃない。
「……あ、あの、上席徴税官殿?」
 目の大きな若い部下が、上目遣いで小首を傾げていた。次の指示を乞うているらしい。
「ああ、ご苦労。下がっていい。仕事に戻ってくれ」
 ペコリと勢い良く頭を下げ、側仕えの部下が、隣接した事務室へとキビキビと足を向ける。
 彼が出て行ったのを確認すると、ラルッカは再び落胆の溜息を落とした。ゆったりとした背もたれに背を預け、三階の窓の外に広がる閑散とした道と等間隔に植えられた歩道の並木を眺めやる。ダドリーをけしかけ、主の元へと怒鳴り込みに行くよう仕向けてはみたが──
 しかし、芳しい成果は上がらなかったようだ。同じ領主からの進言ならば、或いは耳を貸すかも知れぬと期待したのだが。
 そう、期待したのだ、あのダドリー=クレストの地位と力量に。
 あの別棟は立入禁止であるのだが、相手がクレスト領主では無下にも出来まい。領主直々に出向かれたとあっては、如何なアルベールであっても招き入れざるを得ないだろう。そうなれば、説得の可能性も生まれる。頑固なあの男はこちらの言うことになど全く耳を貸さないが、密かに反目していたダドリーに挑発されれば、待機・静観の姿勢を改め、あの硬直した態度を軟化させるのではないか。この膠着状態を脱することが出来るのではないか。いや、そこまでは無理でも、あの別棟から彼を引き摺り出してくれるのではないか、と。
 しかし、全ては徒労に終わったようだ。彼はやはり、考えを変えない。
「……さて。これから、どうしたものか」
 ディールはああして取り囲んだまま全く動かず、クレストは静観、そして、援軍のあてはない。八方塞だ。そういえば国境だって、何時までも閉鎖しておく訳にもいくまい。物流が滞るというだけでなく、こんな状態が長引けば、隣国が不審に思うだろう。
「国境、か」
 重要なことを見落としている気がする、そんな気がしてならないが。
 不意に、危機感にも似た剣呑なイメージが頭の中を掠めたが、それはごく一瞬のことで、素早く過ぎった影の裾を掴み損ねる。それは恐らく、とても大切なことだ。けれど、その正体がどうあっても掴めない。
 机上に広げた書類の一点をじっと見つめ、ラルッカはしばらく動きを止めて考えていたが、やがて、頭の中からそれを締め出すように、ゆるゆると首を振り、知らぬ間に潜めていた息を吐き出した。
 そんなことより、今は、散々焚き付けてしまったダドリーの方の収拾だ。この決裂で短慮を起こしたりしなければ良いのだが。そう、普段は冷淡なくらいに飄々としているくせに、意外と血の気の多いところがあるから。
 
 ラルッカは、決裁箱の書類の山から、一番上の案件を取り上げた。
 役所は何処(いずこ)も、通常通りの業務を続けていた。それが当主代行アルベールの指示なのだ。一日たりとも業務を滞らせてはならない。窓口を閉鎖してはならない。そうして敢えて平常を保つことで、領家の地位にいささかも揺るぎがないことを暗に示して、市井の不安に歯止めをかけようとの狙いだろう。
 しかし、まったく甘い判断だ。そんな時間稼ぎをしたところで、ラトキエ側に勝算はない。所詮は無駄な悪足掻きだ。もっとも、この状態では、打てる手など何もない。不当な侵攻に対抗しようにも、武力など何処にもありはしないのだから。
 そう、打てる手など何もない。
 分厚い書類を捲って内容に目を通し、指摘事項を検める。一つ浅い溜息をつき、担当の部下を呼び付けた。
 若い声の返事と共に椅子を引く音が慌しく聞こえ、ややあって、隣の事務室へと続く右手のドアが引き開けられた。先程とは別の素直な顔立ちの側仕えが、キビキビとした足取りで入って来る。
「お呼びでしょうか、上席徴税官殿」
「却下だな。調べ直せ」
 素っ気なく言い渡して、執務机前に立った相手の胸元へと、手にした書類を突き返す。書類の表に素早く目を走らせ、部下が慌てて顔を上げた。
「し、しかし、上席徴税官殿──」
「こんな紛い物は受理出来ない。この仕入れの額で売上がこんなに少ない筈はないだろう。しかも、使途不明な経費が多すぎる」
「……しかし、……お言葉ですが、上席徴税官殿、この店はグラハム卿の息がかりで──」
「それが何だ」
 言葉を濁し、困惑顔で立ち尽くす部下に、ラルッカは静かに目を向けた。
「何度言ったら分かるんだ。そうした下らない不正は己の首を締めることになる。心得違いをするなよ、ロルフ。因果は巡り巡って我が身に戻る、それを努々忘れるな」
「……しかし、それでは上席徴税官殿のお立場が」
 額の汗をそっと拭きつつ、癖のない栗色の髪の部下は、上司の端整な顔をチラと見る。グラハム家とは、同じ門閥、同じ徴税官を務めるお家柄、つまり、事ある毎に何かと反目する間柄なのである。正直を言えば、あまり刺激したくない相手だ。
 しかし、机上で手を組んだラルッカは、
「無用の心配だ。そんな些事より大局を見ろ」
 如何にも「下らない」とばかりに小さく溜息をつき、噛んで含めるように言い聞かせる。
「いいか。我々の仕事は不正を糺(ただ)すことであって、作ることではない。我々は領民から大切な財産を徴収している。よって、税は何処からも公平に取らなければならない。我々は常に健全であらねばならない。これは政務に携わる者全てに通じる鉄則だ。公明正大であるべき役人が身内に手心を加えたとあっては、当家の名誉と誇りに傷がつき、領民からの信頼が揺らぐ。そもそも、そんな不正が罷り通れば、真面目に税を納める者などいなくなる。領家の財政は税収に負う部分が大きい。そうした腐敗に嫌気がさして、他領へ流出されでもしたら大打撃だ」
「──じょ、上席徴税官殿!」
 彼らの日常のやり取りを、けたたましいドアの音が遮った。
 見るからに慌てた小柄な部下が、転がり込むようにして執務室へと駆け込んで来る。
「どうした。何事だ。騒々しい」
 しかし、余程急いで走ってきたのか、両手を膝にうつ伏せた彼は、辿り着いた執務机の前で、息切れした肩を大きく上下させ、荒れた呼吸を整えている。だが、渇ききった喉にゴクリと唾を飲み下すと、もどかしげに顔を振り上げた。
「ダドリー=クレストが動きました!」
「──やはりか、ダドの奴!」
 その報告に小さく舌打ち、立ち上がる。ラルッカはコート掛けからスーツの上着を引っ手繰った。
 
 
 
 
 

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