〜 ディール急襲 第2部3章 〜
総勢六十騎からなる騎馬隊の、大地を蹴ちらす轟音が、無人の原野を駆けぬける。
晴れ渡った夏空の下、馬群は大陸を南下していた。
馬の手綱を淡々とさばく、あのケネルの横顔を、エレーンは寄りかかって見あげている。しきりに瞬きをくり返す顔は、そろそろ何か言いたげな模様。
案の定、手を伸ばし、くいくいシャツを引っぱった。「んねえ、ケネルぅ〜」
「飯なら食ったばかりだろ」
けんもほろろに、ケネルは返す。愛想もへったくれも相変わらずない。隊長は今、馬の運転で忙しいのだ。
むぅ、とエレーンはふくれっ面。本当に伝えたいことでもあったのか、その顔はいたく不満気で──
いや、にんまり、めげずに笑みを作った。
「う、ううん! そうじゃなくて。あのね、ちょっと喉が──」
「水なら、そこの水筒だ。そう言ったろ」
「……いや、だから〜、そーゆーことじゃなくってねえ……あ、あのねケネル──だから、その」
「なんだ」
「……うっ……だから、あの〜」
「まったく、あんたはさっきから!」
げんなり、ケネルが振り向いた。「少しは落ち着いたら、どうなんだ」
「あ、だって──」
上目づかいで、エレーンは口パク。「だってね──えっと──だから、そのぉ〜」
ぐぐっ、とケネルが手綱を握った。その額に、むきっと青筋。
「なんだっ!」
「お、おしっこ!」
ぱちくりケネルが固まった。
どよん、と微妙な空気の中、闊達にとどろく蹄音が、いやに虚しく、空々しい。
のろのろ額に手を置いて、ケネルはげんなり嘆息した。
「──ファレス」
並走している副長に、馬群停止の指示を出す。だって、これでは、どうしようもあるまい。
そそくさ目をそらした懐の客を、ケネルはしげしげ眺めやった。まだ出発したばっかりだ。何があったわけでもない。具合が悪いようでもない。まったくどうしてこの客は、そんなに馬を止めたがるのだ?
その明るい色彩は、暗色が占める傭兵団で、ひときわ周囲の目を引いた。
小柄な体に薄桃色のジャケット、中は白いブラウスに、同じく白のスラックス。あの副長に連れられて、緑の草原を歩いている。黒い頭髪を背まで伸ばした、二十代半ばのカレリア人。
「──たくよお。いつまで、こんなことが続くんだ」
苦々しげに頬をゆがめて、彼らは腐り気味に眺めている。出立してからずいぶん経つのに、まだ二日分の行程を消化したかどうかだ。そして、今日もだらだらと、時だけが無為に過ぎていく。
元凶は、あの女。領家の正妻、エレーン=クレスト。やっと走り出したかと思えば、すぐに客がただをこね、馬の足を止めてしまう。そして、なし崩しに休憩に入り、延々それのくり返し。
彼らは、暇を持て余していた。
とはいえ、行程中は酒色厳禁。そもそも気晴らしに行こうにも、こんな原野では、店など皆無だ。やむなく体を持て余し、苛立ちは更に募るばかりだ。
客が用足しに行くのだろう、風道の方へと歩いて行く。
樹海の入り口で足を止め、じろり、と副長が睥睨した。この無言の圧力は「総員、立入禁止」の厳命だ。これで誰も、森の西側には入れない。客が森から出てくるまでは。
「あの女、商都にお買い物に行くんだとよ」
口をくちゃくちゃさせながら、頬傷の男が木陰を見た。そこには五人の顔がある。
「へええ。こんな時に商都ってか」
「奥方さまは優雅だな。亭主の尻には火が点いてるってのに」
「つまり、俺らは足代わりかよ」
自嘲まじりに、頬傷が笑った。「上も上だぜ。なんで、あんなのを連れて行くかねえ。いくら方向が同じとはいえ。お陰で、ちっとも進みやしねえ」
今回の任務は護衛のはずで、つまり、今行程の目的は、姿を消した統領代理の捜索。それが、なぜ、あんな女に、いいように振り回されねばならないのか。首長が何故かふさぎこんでいるお陰で、馬群の配置も後方ばかり。それも、いささか面白くない。
「……どうしてっかなあ、あの大将」
寝転がって組んだ足を、頬傷の男が組み替えた。
「手荒に扱われて、いなけりゃいいが」
隣の男も、心配そうに眉をひそめる。
トラビアのある西空に、皆が視線をめぐらせた。
彼は得がたい友だった。護衛の任務で同行したため、彼の人となりは熟知している。人を決して分け隔てしない、そのさばけた人柄も。北カレリアの領主、ダドリー=クレスト。本来、傭兵などには手の届かない、雲の上の存在だ。
かの地トラビアでは、潜入目前で投降される、という手痛い番狂わせも食らったが、その不可解な行動も、戦に不慣れな者の甘さ、素人ゆえの小胆さ、とみな寛大に受け止めていた。
お陰で彼らは包囲網を突き破り、立ち込める戦塵から脱出する羽目に陥ったが、死守すべきものはなく、我が身一つで逃げていいなら、朝飯前の芸当だ。
「どうなっているかな、トラビアは」
「ま、陥落は時間の問題だろうな。ラトキエが進軍している」
「哀れだよなあ、大将も。あんなに嬉しそうに話していたのに」
長丁場の道中での、かのダドリーの新妻自慢は、同行者全員の知るところだ。
「──しょせん、メイドあがりってことか」
一人が憎々しげに舌打ちした。「一緒になったのは財産目当て。大将の方はオマケってか」
「とんだ女狐に引っかかったもんだな、大将も」
中だるみの雰囲気に、冷え冷えとした空気が流れこんだ。
「暇、だよな」
誰かの落とした呟きが、含みありげな余韻で響く。
頬傷の男が、何かを狙うように身を起こす。「おあつらえ向きの"暇潰し"が、そこに服着て歩いているぜ?」
のどかに静まる風道を一瞥、頬傷は仲間に目をすがめる。
「ちょっと懲らしめて、やるべきだよな」
鬱憤晴らしの的にするには、"それ"は手頃で、ちょうどよかった。
副長という適度に手ごわい障害も、暇潰しには格好だ。ぶん殴られるくらいは安いもの。己が素行不良は棚にあげ、副長が横槍を入れてくるのは、今に始まった話ではない。
地面にガムを吐き捨てて、にやりと頬傷の男は笑った。
「おい。あの女、いただくぞ」
ファレスはすぐに背を向けて、喫煙を始めるのが常だった。
道すがらは文句を言うが、どんなに待たせても、急かしはしない。ずっと、ああして、風道の道端で待っている。
今もファレスは煙草をくわえ、かったるそうに喫煙していた。さらりとつややかな薄茶の長髪、黒皮のベルトに細い腰、直線的な長い足、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編みあげの靴。
馬上で着ている上着は脱いで、今は黒っぽいランニング姿だ。こうして見ると、細身ではあるが、ひ弱ではない。肩など意外に筋肉があって、引き締まっているのがよく分かる。それに、背丈は、頭一つ分高いから──
ぎくり、とエレーンは引きつって、肩越しの視線をあわてて逸らした。
木漏れ日ゆれる木立の中を、真っ赤にのぼせて、そそくさ歩く。「も、もう! ケネルのばか。あんな変なふざけ方するから!」
お陰で、あれ以来どうも苦手だ。異性を変に意識してしまう。話すくらいは普通にできるが、ぎゅうぅ、と拳固を知らない内に握っている。手のひら汗びっしょりで。
もっとも、あんなことを仕出かした、当のケネルは別なのだが。
長い"尻尾"を引きずって、エレーンはずんずん藪を掻き分け、だいぶ風道から分け入った適当な場所で立ち止まった。まったく、用足しひとつにも苦労する。
周囲の無人を確認し、胴の固い結び目をほどく。腰に縄が巻かれているのだ。無断で散歩に行って以来、ファレスがすっかり警戒している。
作業をしながら、エレーンはごちる。だが、それは、縄を硬く結び付けたファレスに対する呪詛ではない。
「なによお、ケネルってば、やな感じ。あんなに怒んなくたって、いーじゃないよ。そりゃあ、いきなり声かけたあたしだって、ちょっとは悪いかも知んないけどさ、でも、あわてて隠すくらいなら、あんな所で見なけりゃいいじゃん……」
なんの気なしにケネルの手元を覗いたら、ぎょっとケネルが飛びあがり、あわてて懐にしまい込んだのだ。そして「なんでもない!」とあわてて隠した。実に実に迷惑そうな顔で。だが、誤魔化したって無駄なこと。急ごしらえの嘘なんか、逆立ちしたって見破れる。
やっとの思いで結び目をほどいて、大木の根元から生えている若枝の真ん中に結びつけた。幹に結んでしまっては、ちょっと手応えがあり過ぎる。ファレスが気紛れに引っ張った時に、少し揺れるくらいがいい。奴は時々引っぱって、本当にいるかどうか確認するから。
もっとも、こちらに来ることはないが。また逃げるだろう、と分かってはいても。
結び終えた枝を離して、そっとエレーンは溜息をつく。
「……そんなに大事なもの、なのかな」
ケネルが見ていた薄青い手紙。
差出人は誰だろう。何が書かれているのだろう。いつも仏頂面のあのケネルが、珍しく頬をゆるめていた──。
「ケネルの、ばか」
枯葉の積もる地面にうつむき、靴先の石を軽く蹴る。こっちはケネルしか、いないのに。なのにどうして、よそ見なんかするのだ。なんで、そんなに鈍いのだ。
ケネルはいつだって面倒そうで、呼んでいるのに無視したり、途中で話を打ち切ったり、すぐに理詰めで話をまとめ、さっさと片付けてしまおうとする。落ちこんでいたって慰めるどころか、そもそも、それに気づきもしない。具合が悪くて心細くても、すぐにどこかへ行ってしまう。ケネルは、冷たい。
「……なんか、疲れた」
うなだれた口から、溜息がこぼれた。
周りは屈強な男ばかりで、気が休まる暇がない。居場所なんか、どこにもないのだ。誰も彼もが、いつだって余所者を見るような目つき──。
ひっそりと、森は静かだった。
濃淡あざやかな樹海の緑。梢の先の、空が青い。
ばさばさ羽ばたきに目をやれば、鳥が枝に集まって、せわしなく首を傾げている。
森の中で一人になると、こうしたことがよくあった。ウサギやリスなど小さな獣が顔を出し、いつの間にか遠巻きにしているのだ。初めは少し驚いたが、何度も出くわして、もう慣れた。とはいえ今日は、それにしても、いやに騒がしい。又、どこかで茂みが鳴る──。
うつろにそれを聞きながら、エレーンは木立に足を踏み出す。ダドリーのことを思うと、気が塞いだ。この我が身の現状が、更に気鬱に追い討ちをかける。
青くかがやく梢の先に、夏の空と雲があった。
不意に、何かが視界を横切る。青空にくっきり白い輪郭──鳥だ。翼を広げ、旋回している。何かを探しているように。
ふと、それが気になって、エレーンは足を止め、指をひらいた。無意識に握っていた石のかけら。不恰好に欠けた翠石の。「夢の石」のまがい物。
いつの間にか、癖になっていた。事あるごとに握るのが。悲しい時、苦しい時、つらくて恐くて不安な時。この緑のお守りを。木漏れ日を弾いて、翠石がきらめく。
ふと、エレーンは首をかしげた。石が、いやに温かい。それに、かすかに震えているような。
そう、石がかすかにざわめいている?
右手の方角が、気になった。
なぜか、そわそわ落ち着かず、いても立ってもいられない。
衝動に駆られて、踏み出した。
強く惹かれる何かがあった。なぜ、こうも、自分はこちらに行きたいのだろう。たぶん、大陸の端に向かっている。つまり、この先にあるのは、どこまでも広い
──大海原。
それはずいぶん、魅力的な場所に思えた。視界いっぱいの空と海、そして、境の水平線。空でかがやく真夏の日ざし──。
この辺りは、見たこともない海のはずだった。なのに、無性になつかしい。
切なさが突きあげ、気が急いた。ここにいては、呼吸ができない。広い場所に行きたい。
今すぐに。
裾が汚れるのも構わずに、憑かれたように、がむしゃらに歩いた。
張り出した木の根につまずいた。悪い足場によろめいた。だが、一心不乱に足を踏み出す。もどかしさが、足を速める。早く──早く行かないと! そこに行けば、楽になれる。
──そこに行くのが正しいのだから。
がくり、と視界が大きく揺れた。
足を取られて、たたらを踏む。
はっとして、エレーンは我に返った。腕を、誰かにつかまれている。引っぱり戻すような強い力で。とっさに視線を走らせれば、右の二の腕に、節くれ立った男の手。
冷や水を浴びせかけられたように居すくんだ。
無我夢中で歩いていた、うつろな意識が、立ち戻る。耳元で、脈を打っている。すっかり体が硬直し、振り向くことさえ、ままならない。息を呑んだ視界には、生い茂る木立しか写らない。エレーンはどうにか唾を飲む。
(……誰?)
ファレスであれば、罵倒で呼びかけ、走ってくる。ケネルであれば、気配でわかる。つまり、これは、
知らない手だ。
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