■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 1話5
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自分の罵倒で、飛び起きた。
茫洋と広がる闇を見据え、エレーンは震える指で肩を抱く。
「お、お父、さん……」
へたりこんだ、鼓動が激しい。
頬を涙が伝って落ちる。寝巻きの膝にうつむいて、わななく唇を噛みしめる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
色褪せた古い記憶。最後に会った、あの日の父の──。
あんなことが言いたかったんじゃない。
あの頃は知らなかったのだ。時間は無限にはないのだと。やり直しは利かないと。夢にも思いはしなかったのだ。あのまま会えなくなるなんて。
あの別れから数日後、祖父から事情を聞かされた。商談先のノースカレリアで、荷を積んだ馬車が横転したと。
崩れた膨大な荷をどけて、ようやく両親が助け出された時には、二人ともすでに事切れていた。
二十年も経った今になって、なぜ、あの日のことを夢に見るのか。いや、理由はわかっている。あの日と同じ過ちを、自分はまた、くり返そうとしている──
「……ダド、リー」
寝床の膝にうつむいて、エレーンは肩をかき抱く。
夏虫の声がした。
夜闇に沈むゲルの壁。天窓からの月あかりが、中央の土間を照らしている。
深夜のゲルは寝静まっていた。夜の暗がりに一人ぼっち。あの頃と同じように。
いつだって、一人だった。友達はいたけれど、日暮れには、みな帰ってしまう。家族が待つあたたかい家へ。
両親が事故に遭った後、家族として残されたのは、老いた祖父ひとりだった。祖父のことは大好きだったが、祖父は常に多忙だった。家長の父を失った今、一度は引退いた大店の主に復帰せざるを得なかったからだ。だが、それも、数年後には寝込みがちになり、無理が祟って寝付いてしまった。
寂しい、などと言っていられなくなった。店の切り盛り一切が、肩に圧し掛かってきたからだ。
そこそこ裕福な商家の一人娘であったから、当然、然るべき学業を修めるものと思っていた。周囲の友がそうしたように。だが、他に稼ぎ手のいない状況では、否も応もなかった。
戦いが始まった。生き抜くための戦いが。
周りはすべて敵だった。手を差し伸べてくれる同業者などいない。父母がまだ健在の折りには親しくしていた顔見知りの中にも。
世の中は奪い合いなのだ、と初めて知った。同じ土俵に上がってしまえば、男も女も、年齢の上下もないのだと。皆、仕事に全力を注ぎ、真面目に、必死に生きているのだ。自分の身を養うために。大切な家族を養うために。他人の取り分を奪ってでも。
弱肉強食とは、このことだった。共存共栄など奇麗ごと。大店が一たび傾けば、顧客と利潤の取り分をめぐって熾烈な争いが勃発する。お零れにありつこうと、虎視眈々と狙っているのだ。
まさに恰好の標的だった。物怖じして気を呑まれ、まごついている素人などは。
右も左も分からぬ中、必死で経営に取り組んだ。商いが大きい分、些細な誤算が命取りにもなりかねなかった。身の振り方一つ誤れば、全てがふいになってしまう。
古参の使用人に教えられ、毎日、死ぬ気で勉強した。あらゆることを。生きるために。狡猾な商売敵を相手に、多少なりとも理論武装ができればと。
様々な書物を掻き集め、端から端まで読み漁った。必須事項がどこかの行間に埋もれていないか、どこかで使える技や知識が、ひょっこり顔を出してやしないか──。
理屈は、やはり理屈でしかなかった。
海千山千の商店主には、全く通用しなかった。商売敵には欺かれ、使用人には裏切られ、家業は次第に傾いた。大勢いた使用人も、一人、二人と店を去り、最古参の仕入担当者にまで見限られた。彼らをつなぎとめる求心力など、若い娘には望むべくもなかった。
店を手放そうと決意した。
親の財産を食い潰す前に。決定的な負債を抱えこむ前に。このまま財産を失くしたあげく店が人手に渡ってしまえば、祖父と二人、野垂れ死だ──。
ラトキエ領家の公募を知り、飛びついたのはこの頃だ。
領邸で働く使用人を募るものだった。
詰めこんだ知識が、思わぬところで役立った。最難関で知られる採用試験を、死にもの狂いで突破した。一人や二人の採用枠に、商都中の若者が殺到する狭き門を。
ある意味、それは当然ともいえた。大勢の手だれに入り混じり、歯を食いしばって生きてきたのだ。いく度も他人に踏みにじられて、都度、気力を振り絞り、自力で底から這いあがってきた。ぬくぬくと環境に甘んじてきた、温室育ちとは元より違う。
肩で風を切って生きていた。弱みなど見せられなかった。誰も信じられなくなっていた。
そんな時だった。あの娘、アディーと会ったのは。
領家が保護する病人で、その世話を言いつかったのだ。
彼女アディーは、真っ暗な縁を覗きこんでいた心を、深淵の底まで降りてきて、笑って迎えにきてくれた。
『さあ、帰りましょう? エレーンさん』
"家族"のように迎えてくれた。当たり前のように手をひいて、仲間の輪に入れてくれた。やっとできた"家族"だった。
妹のようなそのアディーも、病であっけなく逝ってしまった。自分をひとり、この世に残して──。
大事に思う者はなぜ、皆いなくなってしまうのか。大好きだった父母が去り、慈しんでくれた祖父が去り、妹のようなアディーが去った。
気の狂いそうな混沌の受け皿になってくれたのは、仲間の一人、ダドリーだった。
領家の身軽な三男坊は、両親の店を買い戻し、共に暮らそう、と言ってくれた。けれど、そのダドリーも──
あの翠石を、握っていた。
震える指に、力がこもる。
「──"望めば叶う"というのなら」
寝巻きの膝を凝視して、エレーンは奥歯を食いしばる。
「人の望みを叶える力が、お前にある、というのなら──助けて! お願い! ダドリーを助けて! 今すぐ、ここへ連れてきて!」
夏虫の音が、耳に戻った。
天窓からの月あかりが、白々と土間を照らしている。
「……そう、よね」
こわばった肩の力を抜いた。
闇の中、翠石がきらきら輝いていた。なんの反応も示さない。
高ぶった鼓動だけが、とくとく耳元で鳴っていた。嗚咽がこみあげ、物言わぬ翠石を抱きしめる。
「叶うわけ、ないよね。にせ物だもん──」
そんなことは、わかっていた。本当に一番欲しいものは、いつだって手には入らない。まして、こんな石ころ一つに、翻弄されるなんて滑稽だ──。
それでも、やはり祈ってしまう。移動の馬上で、深夜の居室で、寝静まったゲルの中で。毎日のように。毎晩のように。起きるかも知れない奇跡を夢見て。淡く儚い希望を託して。そんな素晴らしい石を手に入れたのに、まず"それ"を一番に、願わぬはずがないではないか──。
"家族"という名の幻想は、捕まえられない、遠い望みだ。やっと掴んだと思ったら、握った指の隙間から、さらさら砂のようにすり抜けてしまう。
声を押し殺して泣きじゃくった。夜にまぎれて、目元をぬぐう。心が、破れてしまいそうだ。
はっ、とエレーンは顔をあげた。今捕らわれているトラビアで、ダドリーが逝ってしまったら──
ぞくりと腕が粟立って、腰が寝床から浮きあがる。そうしたら、自分は、また
──ひとりになってしまう。
狼狽した目が、やみくもに探した。壁に視線をめぐらせる。
土間を越えた暗がりで止まった。寝静まったゲルの南。
ゲルの丸い天窓から、静かに月光が射していた。暗がりの中、しん、と冷え切った中央の土間を、薄蒼い光が照らしている。そして、その向こう側に──
ひんやりした絨毯を踏みしめ、土間をまわって、おずおず近づく。
暗がりにケネルは寝転がり、手足を投げて眠っている。規則正しい、人の寝息。一人ぼっちの暗がりに、予期しなかった他人の気配。それだけで、とても安心できる。
ケネルの寝床のかたわらに、エレーンはのろのろへたり込む。普段と変わらぬケネルの寝顔──。得体の知れぬ焦燥が、不意に胸につきあげる。
「……ケネル……ケネル……ねえ、ケネルぅ〜……」
名を呼び、彼の腕をゆする。
凝視する目に、涙があふれた。ひと気のない夕暮れの家で、母の姿を捜しまわった、あの遠い日の心許なさ、言い知れぬ飢餓感を、ケネルはなぜか抱かせる。
「……起きてよぉ、ケネルぅ」
更に腕をゆすりつつ、エレーンは唇をわななかせた。
「……鈍感!……人でなし!……薄情者!……ケネルの、……ケネルのバカぁ……!」
子供のように目をこすり、肩を震わせてしゃくりあげる。されるがままに揺すられて、ケネルに起きる気配はない。昼の移動で疲れているのか、本当に深く寝入っている。
そう、知っている。夜中に目覚めて涙にくれても、ケネルは目を覚ましはしない。まして、彼が、慰めてくれるはずもない。
知っていたはずではないか。しょせん、わかるはずがないのだ。切り裂かれた心は、外からは見えない。
「──もう、いいっ!」
癇癪を起こして顔をあげる。
駆け戻ろうとしたその腕が、ぐい、と強く引き戻された。
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