■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 2話6
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「信じらんない! ケネルのばか!」
わなわな左右の拳を握り、エレーンはケネルを振り仰ぐ。
「ケネルの鈍感! ケネルのスケベ! ケネルの、ケネルの──」
よよ、と片手で目元を覆い、ダッとばかりに駆け出した。
「ばかーーーっ!」
「……」
ぱちくり、ケネルが取り残された。
俺……? と指さすその横へ歩き、ファレスは黒髪の背に目をすがめる。「逃げたな」
「ああ、逃げた」
すっ飛んで駆けこむ行く手には、緑梢ゆれる大樹海。
「どうしちまったんだ? あの阿呆は」
げんなりファレスは嘆息した。
「ほんのつい今しがたまで、お前に引っついてたくせしてよ」
ふと、足元を目線でさす。
「覗いたろ」
茶髪が寝そべり、雑誌を見ていた。頓着なく広げた紙面には、つややかな美女の豊満な肢体。
「……ちょっと、な」
ぽりぽり、ケネルは頬を掻く。とはいえ、ここでは珍しくもない代物だ。
「たく。ほっとくわけにもいかねえか、森ん中ってんじゃよ」
ファレスが舌打ちで踏み出した。「ちょっと行って、連れ戻してくら」
「ご苦労さん」
風道に向けて、長髪が遠のく。
ひらひらケネルは手を振って「まったくもー、めんどくせーな」と駆け去るその背を見送った。
木漏れ日ちらつく風道で、額に浮いた汗をぬぐう。
はあはあ乱れた呼吸を整え、かたく目を閉じ、首を振った。今はまだお昼時、他人が大勢周りにいるのだ。気を抜いてしまって良い時ではない──
エレーンはうなだれ、小石を蹴った。足元の影を見、溜息をつく。
「……なんか、疲れた」
だって、周りは男だらけ。常に一対多数の劣勢だ。
皆が自分の居場所で寛ぐ中で、自分一人が浮いている。彼らの目の前を通る度、口笛で冷やかされたり、意味深に目配せされたり、何かひそひそ囁かれている気がして、いつも、じろじろ見られている気がして──。あからさまな冷やかしの視線、品定めでもするような。そうでなくても、彼らの見せるぞんざいな態度が、許せなくなってきているのに。
初めの内こそ、身構えていた。だが、朝から晩まで一緒にいれば、肩肘張った気負いがとれて、彼らの言うこと、することなすこと、鼻に付くようになってくる。
男は野蛮だ。無神経だ。卑猥な本を平気で見るし、下品な話を平気でするし、汚れた服をいつまでも着てるし、ズボンに手を突っ込んで歩いたり、お腹をぼりぼり掻いていたり、人のことをじろじろ見たり、人前で服を脱いだり、そのままの格好でうろうろしたり──。
彼らは違う。感覚が違う。感性が違う。大きな図体が寄り集まると、それだけで息が詰まってしまう。ただでさえ威圧的な成りなのに。
息苦しくて、たまらない。
群れに埋もれて、じっとしているのが、たまらなくなる。不意に叫びだしたくなる。急に無性に逃げ出したくなる。いつも、どこかで苛々して、何かが胸につかえている。けれど、逃げ場はどこにもない。ここは原野のただ中だ。癇癪を起こして飛び出しても、戻れる所は、あの群れしかない。
無性に同性と話たかった。一人でも女性がいれば、もう少し気が楽だったろうに。毎日毎日そばにいて、ケネル達には慣れたけれど、親しくするにも限度がある。どんなに慣れても、ケネルは男だ。ああは見えても、ファレスも男だ。
ふと、地面から目をあげた。
戸惑い、エレーンは辺りを見まわす。「……誰?」
視線を感じた。こちらを見ている。
かさ、とどこかで夏草が鳴る。
高い梢、午後の日ざし、木立はのどかに静まっている。ゆるやかな風の音、青い梢のこすれる音、鳥の羽ばたき、甲高い鳴き声──
ほっ、とエレーンは息をついた。
「……なんだ、あの子か」
茶色のリスが、立ちあがって見ていた。左向かいの根の上で、か細い両手を口元に、鼻とひげをひくつかせている。
まん丸の黒い目で、じっとリスはこちらを見ている。
ふさふさのシッポをひょいと持ちあげ、機敏に動いて、木の裏に消えた。
愛くるしい姿を見送って、エレーンは再び歩き出す。どこかで又、藪が鳴る。
それには気づかぬ振りをして、そっとエレーンは微笑んだ。今度の連れは、どの子だろう。小鳥? ウサギ? それとも──。森の小さな動物に、近ごろ、なぜだか人気がある。
木漏れ日ちらつく静かな樹海を、一人でゆっくり散策した。
気分が大分落ち着いてきた。ひとつ、大きく息を吐く。体の強張りが、少しとれた。知らぬ間に力んで、身構えていたのがわかる。
一度、二度と、ゆっくり深呼吸を繰り返す。ケネルに当り散らした、沸騰した頭も冷えてきた。なぜだろう。自分で自分を止められない。自分でも分からない。なぜ、こんなに苛立っているのか。
つい、ケネルに当り散らしてしまう。彼は何も悪くないのに。それが自分でも分かっているから、余計にやりきれない気分になって、それで、もっと苛々して──。
ケネルは何を言うでもない。黙って好きにさせておく。ケネルは本気で怒らない。文句も言わなければ、やり返しもしない。無関心というのとも違う、わかった上で受け入れてくれる。
土道に落ちた影を見つめ、エレーンは唇を噛みしめる。胸が大きくざわめいた。こんな所をのん気に歩いていていいのだろうか。こんなことをしている間にも、トラビアではダドリーが──。どうして自分は、まだ、ここに、
──こんな所にいるんだろう。
鼓動が激しく打ち出した。
呼吸が浅く、速くなる。なぜだろう。面影がよぎった。亡き父の面影が。かあっと頭に血がのぼり、どうしていいのか、わからなくなる──
「──いけない」
唇を噛み、ぐい、と目尻を強くぬぐった。
震える指を握りしめ、そわそわ足早に歩き出す。いつでも心の片隅に、焼け付くような焦燥があった。けれど、それは見ないようにしている。それを認めてしまったら、直視してしまったら、世界が壊れてしまうから。
それは、封じ込めてきた密やかな祈り。
口に出した瞬間に、一気に、現実が押し寄せてしまう。
──海が、見たい。
渇望が胸をついた。
今となっては馴染みになった、理不尽なほどに強い欲求。短髪の首長に邪魔されて、あの時は果たすことができなかったけれど──。
もどかしい思いで、踏み出した。
無性に海が見たかった。なぜ、こんなにも惹かれるのか分からない。広い場所に、とにかく行きたい。静かで、誰もいない、圧倒的に広い場所。大きな青空と広い海、二つの青が交わる境界線。青くまっすぐな水平線──。
重苦しい胸のつかえを、早く吐き出してしまいたい。洗いざらい。一刻も早く。
この心のもやもやを、わけの分からぬ苛々を、思い切り叫んでしまいたい。全部吐き出し、すっきりしてから、又、この場所に戻ってこよう。
見たこともない懐かしい景色が、行く手を見つめる脳裏をかすめる。風道をたどる足が速まる。だって、海が、
海が、呼んでる──!
「奥方さま、ゲットぉ!」
がくん、と体がつんのめった。
踏みこんだはずの爪先が浮き、地面をかすって宙を掻く。
(な、なに!?)
エレーンはあわてて目をみはった。勝ち誇った野卑な声。愉しげに高揚した──
体が、引っ張り戻される。
真後ろに、硬い筋肉。薄い綿地の胸板に、耳と頬とを押し付けられる。
上背のある男の体が、後ろから抱えこんでいた。とっさに振り仰いだその途端、何かが口を強引にふさぐ。
ツン──と強烈な甘い匂い。噎せ返りそうな、嫌な匂いだ。
顔を丸ごとつかむようにして、布切れを持った大きな手が、鼻と口とをふさいでいた。その手に両手で取りつくが、爪を立てても外れない。首を振るが、ほどけない。
未知の脅威に、闇雲にもがく。とっさに息を吸いこむと、手足が一気に冷たくなった。体が熱くなってきて、キーン……と嫌な耳鳴りがする。口を押さえる力が強くて、息ができない。
意識が朦朧とし始める。
「俺の勝ちだな!」
知らない声が快哉を叫んだ。体をねじって、誰か他の者に呼びかけている。
意識が逸れたわずかな隙に、力いっぱい噛みついた。
「──痛て!」
振り払った男の胸板を、無我夢中でエレーンは突いた。よろけた足を踏みしめて、男の懐から転げ出る。
ぐっ、と髪をつかまれた。
力任せに引っ張り戻され、男の素手が口をふさぐ。顔を鷲掴む手荒い手。首を振ろうが、足を蹴ろうが、全力で抗っても、びくともしない。
「──ち! なんだよ、利かねえじゃねえかよ!」
憎々しげな独り言が聞こえた。「たく。せっかくガメてきたのによぉ」
ガサガサ、藪が方々で鳴った。どんどん音が大きくなる。真後ろで、忌々しげな舌打ち。
「たく、とんだジャジャ馬だぜ」
息が、止まった。
目の前で火花が散り、ぐらり、と行く手の地面が傾ぐ。まばゆい緑を背景に、こちらを覗きこむ男の顔──。
意識が途切れるその刹那、嘲笑にゆがんだ口元に、不穏なものを見た気がした。
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