■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 4話7
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ゲルの戸口を呆然と見つめて、エレーンはなんとなく溜息をついた。
子供達が引きあげて、ゲルに静寂が戻ってきた。開け放った天窓からは、午後の日ざしが降りそそぎ、明るく照らされた室内を、涼しい風が吹きぬけて──
「どうした」
苦笑いの声がした。
あわててエレーンは振りかえる。ケネルはあぐらで身をよじり、無造作に手を伸ばしていた。その先には、絨毯に放り出した白っぽい革切れ──刃物の手入れに使う何かの革だ。子供が暴れて、蹴り飛ばしてしまったらしい。
背けたままのケネルの背が、淡々と続ける。「何か言いたそうな顔だな」
「う、ううんっ! 別になんにもっ!」
エレーンは力一杯首を振った。だが、ケネルの反応はそっけない。
「構わない。どう言いくつろおうが、片端(かたわ)は片端だ」
「──ち、違うったらっ! そんなの、全然平気だもん!」
即座に、エレーンは全否定。ケネルの歯に衣着せぬ物言いは、こっちの方が動揺する。確かに、身内のことではあるのだろうが、あまりに露骨で、あけすけだ。
しなやかな薄革をつかむようにして拾いあげ、ケネルは上体を引き起こした。
「下手な同情はやめた方がいい。引っ込みがつかなくなるぞ」
「ど、同情なんかじゃないってばっ!」
エレーンはむきになって言い募る。ケネルは時々意地悪だ。
ケネルは口の端で笑いつつ、柔らかそうな手入れ用の革を、半分に、それを又半分に、と大雑把に畳んでいる。
「子供に建前は通じない。何事も額面通りに受けとるからな。好意的な態度をとれば、連中も慕って、すり寄ってくる。そうなってからでは、追い払うのも一苦労だ」
「そ、そんなの平気よ! あたし、あの子達のこと、嫌じゃないもん!」
「……そうか」
ケネルはやはり、苦笑いのままだ。
「そうよっ!」
エレーンは殊更に言い切った。だが、気分がどうも落ち着かない。彼らの欠けた手足を見て、正直なところ、うろたえた。けれど、ケネルには知られたくない。自分でさえも、障害者を蔑む人に、敵意にも似た強い嫌悪を抱くのに、ましてケネルは彼らの身内だ。認めてはいけない。絶対に。
「も、もう! あたしを誰だと思ってんの。見くびらないでよ」
「分かった。そう、むきになるな」
ケネルは軽くいなして受け流した。間に受けていないことは明らかだ。エレーンはもどかしい思いで唇を噛む。
「あたしはただ、子供がみんな、ああいう風じゃ、お父さんたちは大変だなあって、ちょっと、そう思ったから──」
「あれは、実の親じゃない」
「え?」
思わぬ言葉に隣を見れば、ケネルは淡々と戸口を見ている。
「他の子供と一緒にすると、苛めの標的になるからな。それで、ここで面倒をみている。あいつらが天寿を全うするまで」
「え、天寿って」
不吉な含みを語感に感じて、エレーンは戸惑って横顔を見つめた。
「──いや、何でもない」
ケネルは身じろぎ、あぐらを崩して立ちあがる。どこかへ出かけるつもりなのだ。
とっさに、エレーンは振り仰いだ。「──あ、でも!」
「だから、何でもない」
「でも!」
このまま出かけられては、後味が悪い。ケネルには嫌われたくない。軽蔑されたくない──!
「ケネルってば!」
「あんたには関係ない」
「でも──でも、ケネル!」
立ち上がりかけた中腰で、ケネルが小さく嘆息した。動きを止めて振り返る。
「分かった」
ぱちくり、エレーンは瞬いた。いやに今日は物分かりがいい。もっとも、苛立ち混じりのその顔は、面倒臭げな表情だが。
( いつもだったら、絶―っ対、口を割らないんだけどな……? )と、まじまじケネルの顔を見る。ケネルが口を尖らせた。「分かったから、放してくれ」
「え?」
自分の手元を、くい、とケネルは顎でさす。
「どうせ、聞くまで放さないんだろ」
ケネルがさした視線の先を、エレーンは怪訝に目で辿る。
「……あらあら、まあまあ。いつの間に」
知らぬ間に、上着をつかんでいたらしい。足でも、ズボンを踏ん付けてるし。全体重かけて。
ケネルが変な中腰で、ベルトを引っ張りあげてるなあ、とは思っていたが、これでは動こうにも動けない。
ケネルは、ずり落ちたズボンを引っ張り上げて、「まったく、あんたは、ホントにもう──!」と己の腕を奪還した。
やれやれと戸口を見やって「さっさと挨拶に行かなきゃならないんだがな……」とぶちぶち文句を垂れつつも、膝に手を置き、大儀そうにあぐらをかいた。
「でなんだ。何が訊きたい」
諦めたようだ。
エレーンは指をいじくり、小首を傾げる。「──あ! じゃあ、今の " 天寿 " がどうとか、っていうのは?」
「三歳、六歳、九歳」
ケネルはぶっきらぼうに口を開いた。
「あいつらには受難の年が三度ある。ああいう子供は弱くてな。大抵は長生きしないんだ。この三歳、六歳、九歳の年齢になると、どういうわけか発病し、大抵の子供が死に至る。この時期を、やり過ごすことができさえすれば、後は何事もないんだが」
「ま、またまたあっ!」
ちょい、と手を振り、エレーンは思わず突っこんだ。
「やーねーケネルってば。それって、どういう冗談よ。普通の顔して、からかわないでよ。にしたって、そういうのはちょっと質悪いでしょ質が」
ケネルの表情に変化はない。上目使いで、それをうかがい、気まずく小声で念を押した。「冗談じゃ、ないの?」
「ああ」
ケネルは率直に肯定した。冗談などではないらしい。
不謹慎な態度に冷や汗をかき、エレーンは視線を泳がせた。
「う、嘘よお、そんなの。だって、みんな元気そうだったし──だ、だって、どこもそんな風には見えなかったし──だって、あの──」
言葉が詰まった。それらが意味する事柄が、不意に、ひしひし身に迫る。仮の親、不自由な体、短命の子供たち、子供を預けっぱなしの身勝手な親──子供らの苛酷な日常が、克明に浮かび上がる。つまり、彼らは、あんな風に生まれてきたから、親に切り捨てられたということか? 切り捨てられた子供達。
──見捨てられた、子供。
エレーンは唇を噛みしめた。その物悲しいイメージは、胸の深い場所で眠っていた、古い記憶を揺り起こす。
──がらん、と広い夕刻の部屋に、一人つくねんと、たたずむ幼女。
刹那よぎったセピア色の断片が、癒えない心を鋭くえぐり、古傷をなぶって刺激する。
「じ、実の親は何してんのよ! 自分が産んだ子供なのに、知らんぷりしてるだなんて! あたしが親なら、あんな想いは絶対させない! あの子達があんなに人なつこいのは、いつもいつも寂しいからよ! 親のぬくもりが恋しいからよ!」
痛いほどに、しがみついて来たのだ。小さな、あの手の平で。
「体が弱いなら尚のこと、そばにいなくちゃ駄目じゃない! 守ってあげなきゃ駄目じゃない! なのに、放りっぱなしにするなんて!」
「母親が同行するケースはあるかも知れんが、大抵の女は 《 バード 》だからな」
「だから何? 仕事してたって世話はできるわ!」
エレーンは攻撃的に言い返した。淡々と諭すケネルの言葉が、身内をかばう弁護に聞こえて、腹立たしいことこの上ない。及び腰に思えて許せない。
「そんなの、親の怠慢でしょ! どこにだって連れて行けば──!」
「体力的に、無理がある」
きっぱり、ケネルが遮った。面食らったように見返して、訝しげに続ける。
「どうした。あんたが怒ることでもないだろう」
「だって! そんなの、ひどいじゃない!」
「ああした子供に、巡業は無理だ。周囲のペースについていけない。そもそも、同族のガキでさえ、面白がって囃し立てるんだぞ。まして相手が、街の連中というのでは、見世物にされるのが関の山だ」
「そ、そんなことは──」
「嫌がらせを受けるのは、当の子供に限らない。一座の者も同様だ」
「なら、せめて、身内の誰かに預けるとかさあ! あ、ほら、お父さんとか」
「父親が誰かは分からない」
ぴしゃりと言いきり、ケネルは上着の懐を探った。箱を揺すって一本くわえ、眉をひそめて点火する。
「少し事情があってな。俺達の場合は」
一服吐いて、その手を、あぐらの膝に置いた。
「同族に、女は元々少ない。出生自体が少ない上に、成人するまで育たない。両親ともに同族だと、子供はほとんど生まれない。稀に子供ができはしても、高い確率で、体のどこかしらが不自由だ。いわゆる、ああした奇形児だ。盲(めくら)だったり、唖(おし)だったり、白痴だったり、片端(かたわ)だったり──」
思わぬ話に、エレーンは呆然と息を呑んだ。つまり、あの子達の母親は、芸妓団に属する踊り子だということか。
苦々しく紫煙を吐いて、ケネルは続ける。
「初めは誰も気付かなかった。そういう風になっているとは。《 バード 》も少し前までは、そうした子供を巡業に連れ歩いていた。もっとも、それが気味悪がられて、街の奴らが忌み嫌う一因になったんだろうが」
エレーンは口を開きかけ、その口を無為に閉じた。迂闊なことは言えない気がした。
紫煙が立ち込め、目に染みた。このところの禁煙で、遠ざかっていたから尚更だ。
ケネルが煙草を喫っていた。これまで、そんなことはなかったのに。たぶん無意識なのだろう。そのことに、本人は気付いていない。嫌だと言えば、すぐにもケネルは、火を消してくれるだろう。それは分かっていたけれど──。
その簡単な一言が、何故だか今は言い出せなかった。そっと彼から目をそらし、膝の拳を握り締める。
「でも──それでも酷よ。あんな小さな子供たちを、親元から引き離すなんて。親が恋しい年頃なのに、長くは生きられないのが分かっているなら──」
「あんたも見たろう、奴らの顔を」
意外にも、さばさば、ケネルが言った。怪訝に思い、目をあげれば、ケネルは戸口の野草を眺めている。
「猶予がないなら尚のこと、その間ずっと泣き暮らすより、笑って生きた方がいい。ここには連中を貶める輩はいないし、みなが同じように不自由なら、何も気にせず、のびのびやれる。それに──」
一服、ケネルが吐き出した。
「ああ見えて、そう捨てたものでもない」
気のせいだろうか。その言葉がどこか苦々しげに聞こえたのは。
「ああした者には、特殊な能力があることが多い。目の不自由な者は、卓抜した聴力を活かして、地下の水脈を言い当てたり、新たな源泉を見つけたり──。そのお陰で、俺達は確実に井戸が掘れるし、水の恩恵にも与れる」
「井戸って──なら、みんなが使ってるあの井戸も、ああいう子達が見つけたの?」
「そうだ。先読みや星読みができる者いる。ああ、星読みというのは──」
「あ、知ってる。女男から聞いた」
ケネルが面食らったように口をつぐんだ。
「……そうか」
意外そうな顔はしたものの、特に何を言うでもなく、向こうを向いて紫煙を吐く。遠くを眺めて、淡々と続けた。
「一度聞いただけの楽曲を、完璧に弾きこなす盲目の子供もいたし、一度見ただけの分厚い本を、諳んじてみせる子供もいた。初めから終わりまで、一字一句たがうことなく。もっとも、内容は理解していなかったが」
「……すご、い」
エレーンは驚愕に目をみはった。そんな話は聞いたこともない。
「そんなものは序の口だ。遠くの物を動かしたり、手さえ触れずに壊したり、他人の心を読みとったり、そんなことができる変り種も、稀にいる。連中は成りこそ小さいが、脆弱な体の内側には、とてつもない力を秘めている。もっとも、それでも子供は子供だがな、心も体も」
不意に、ケネルが目をすがめた。
「俺達はあいつらを守ってやらねばならない。だが、何かの弾みで──苛めや何かで暴走すれば、思わぬ事故を引き起こしかねない。そうなれば、桁外れの力を持つだけに、常人の手では止められない。それを始末するのは結局のところ──」
ふつり、とケネルが口をつぐんだ。
何を考えているものか、たゆたう紫煙の行く先を、遠い瞳で見つめている。
「……あ、……" 結局のところ "、なに?」
エレーンは恐る恐る促した。
ふと気付いて、ケネルが瞬く。
「いや。なんでもない」
首を振り、紫煙を吐いて、苦笑いした。
どこか自嘲気味な笑みに思えた。随分と苦々しげな表情に思えて、それ以上無闇に立ち入ることは憚られる。
「何れにせよ、」
息を大きく吸い込んで、ケネルは口調をかえて、さばさばと言った。
「そう長い年月のことじゃない。最期は皆、首の後ろに黒点が現れ、それが広がり、肩まで達して、高熱と激痛に苦しみながら、成す術もなく死んでいく。それは誰にも、どうにもできない」
「黒、障病?」
ふと、ケネルが見返した。エレーンは目をみはって、くり返す。
「それって、もしかして黒障病?」
「……知っているのか。驚いたな」
ケネルは煙草を挟んだ口元の利き手を、膝の上へゆっくり下ろす。エレーンは大きく頷いた。
「あたし、前にラトキエの屋敷で働いてたんだけど、母屋の離れに《 黒障病 》の娘が住んでいて、世話をする係だったから」
ケネルが目を見開いた。「ラトキエ? 黒障病?──二年前、か」
確認するように繰り返し、最後の言葉を、ぼそり、と呟く。エレーンは目を丸くした。
「どうして、ケネルが知ってるの?」
結婚以前にラトキエでメイドをしていたことは知っていてもおかしくないが、あの"彼女"のことや彼女が亡くなった年月などは誰にも話したことなどなかった筈だ。ケネルはしばらく顔をまじまじと見ていたが、不審な表情に気付いたのだろう、ふと我に返って目を逸らすと「──いや」と短く無理やり話を切り上げた。体を向こうに逸らすようにして、ケネルがゆっくり身じろいだ。向こう側にある右膝を立て、煙草を手にした腕を置く。それきり口を開こうとしない。不愉快そうな横顔だ。怒らせたりはしてない筈だし、仲違いをした訳でもないけれど。
ぶつ切れの語尾が中途半端に居残って、消化不良の不審だけが残る。エレーンは後味の悪さに唇を噛んだ。横座りの自分の膝と赤い絨毯が視界に写った。今迄気にも留めなかった絨毯の柄や織りの一本一本まで細かに見える。気分がなんだか落ち着かない。気まずい空気がしばし流れた。こういうのはなんか嫌だ。
「……潰し合い、か」
苦々しい声に、はっ、とした。独り言のようだ。見れば、膝上の腕をダラリと下げた隣のケネルは、天窓の先──丸く切り取られた青い空を首を落として仰いでいる。
「苦難が次から次へと降ってかかる。俺達は案外 " 世界 " に疎まれているのかも知れないな」
「そ、そんなこと──!」
とっさに否定をしようとするが、ケネルの言う " 疎まれる " の意味が分からない。言葉を呑んで見ていると、ケネルは紫煙を吐いて淡々と続けた。
「どんなに稼いでみたところで、子孫を残せなければ一代限りだ。築き上げた繁栄は維持出来ず、やがては全員が死滅する。子供は女にしか産めないからな」
「え?」
思わぬ言葉に、ギクリ、とした。最後の言葉に微かな含みを感じたのだ。それは苦く奇妙なものだった。けれど、核心が掴めない。
「ケネル、それってどういう──?」
何かが執拗に引っ掛かる。ケネルは素っ気なく答えた。「どうもこうもない。言葉通りの意味だ」
「……でも、」
女性は子を産み、男性は産まない。確かにその通りではあるけれど──。ぶっきらぼうに切り捨てられて、不機嫌らしい相手の顔色を思わず窺う。「──あ、でも、どうして、そういう子供が生まれてきたりするのかしら」
口にしてから気がついた。似たようなことを前にも誰かが言っていたような気がする。ケネルは投げやりな様子で、そっぽを向いたままだ。「さあな。俺には分からない。知る訳がない」
「でも、奇形の子が多いっていうなら、どうしてケネル達はそんなに普通で──あ、だってみんなはどこも何ともないみたいだし──だから──!」
言ってしまってからマズイと思った。けれど、立ち入り過ぎたと気付いた時には遅かった。内心焦ってケネルを振り向く。
「俺達の母親は町の女だ」
「え?」
意外な返事に面食らった。何かが引っ掛かって口を開きかける。その時だった。
「──いやあ! すみませんねえ隊長さん!」
見知らぬ声が突然会話に割り込んだ。開け放ったゲルの戸口だ。慌てて、そちらを振り向けば、眩しいほどの外光を背負って、男が一人立っている。
「お休みのところ、子供がお邪魔したようで」
中年の男だ。陽に焼けた逞しい腕に、さっきの子供とは又別の愛くるしい顔をした女の子の赤子を抱えている。薄くなりかけた頭をすまなそうに下げながら、土間へと続く絨毯の切れ目を使い古した革サンダルで擦るようにして無造作に歩いて来る。
「一応注意はしたんですが、子供の考えることはなにぶん突飛で、その上中々すばしっこくて、わたしどもでは追いきれませんで」
「……いや、構わないさ」
ケネルは苦笑いで男に応えた。意外にも鷹揚な返答だ。エレーンは( え゛? ) と振り返る。いつものケネルに戻ってる。いや、むしろ愛想が良過ぎる。ケネルは小首を傾げて男を仰いだ。「手を止めさせてすまなかったな。本当なら俺が出向くのが筋なんだが」
男は慌てて手を振った。
「いえ、ご足労頂くなんて、とんでもない! それより、本当にご迷惑じゃなかったですか。あの通りのやんちゃ盛りですし」
「いや、別に」
ケネルはきっぱり首を振る。さっきの邪険な態度はおくびにも出さない。つつがないやり取りを交互に眺めて、エレーンはあんぐり口を開けた。だってケネルってば、
( おじさん来たら豹変し ( やがっ ) た──!? )
最初はあんなにツレなくしたくせに。あんなに無下にしたくせに。なのに、今は全く微塵も──!
ものっすごく外面のいいヤツだ。
ズル賢くも食わせ者のケネルは温厚な大人にさっさと変身、異議を唱える密やかな突っ込みもバッサリ無視して、男の首にしがみ付いている幼い女児に目を向けた。「──へえ、可愛いな。いくつになる?」
「ぬ……?」
エレーンは横目でケネルを見た。今度は子供に話を振るか。まったく外面のいいヤツだ。
本当はどうでもいいくせに。
むずかって暴れる腕の幼児を絨毯の上に降ろしてやり、中年の男は笑顔で応えた。「ええ。一昨日、二つになったばかりでしてね」
絨毯に降り立った幼い子供は、作業着の脚の後ろにすぐに隠れた。しばらくもじもじケネルの顔を見ていたが、片手をオズオズ差し伸ばし、ケネルに向かって歩き出した。
「──お? くるか」
自分に興味を示したらしいその様を、ケネルは苦笑混じりに眺めやった。こっちの後ろから腕を伸ばして、土間の窯(かま)へと煙草を弾く。子供は覚束ない足取りだ。頭が大きいのでバランスが悪く、今にも引っ繰り返ってしまいそう。それでも倒れ込むようにして胡座(あぐら)の膝まで辿り着くと、上着の裾を小さな両手でシッカと掴んだ。青みがかった黒目がちの瞳で、じっと顔を覗き込む。あたかも見知らぬ男の正体を問い質してでもいるように。
子供の両脇を持ち上げて、ケネルは胡座(あぐら)の膝に抱き上げた。懐に収まった幼い子供は不思議そうにキョロキョロしている。華奢な人差し指を突き伸ばし、あちこち無闇に振り回してはケネルに何事か訴える。ケネルのシャツを引っ張ってみたり、その手を口に持っていってしゃぶってみたり、小さな両手をパチパチ叩いて一人で喜んではしゃいでみたり、そうかと思えば、頭を撫でるケネルの顔を熱心に覗き込んでみたり──。様子を見ていた中年の男が困ったように苦笑いした。
「……すみませんね隊長さん。どうも、気に入ってしまったようで」
「珍しいんだろう、俺の身形が。あんたらとは大分違うから。──おいこら、お前、なんて名だ?」
髪を引っ張り出した子供の柔らかな頬っぺたを、ケネルは人差し指で突っ付き、あやす。中年の男が微笑いながら応えた。「クリスティン──クリスといいます」
「……クリス?」
ケネルの頬が強張った。けれど、それはほんの一瞬のことだった。ケネルはすぐに元の淡々とした顔に戻って、キャッキャと笑いはしゃぐ柔らかな髪をゆっくり撫でてやっている。
「どしたのケネル。どうかした?」
エレーンは怪訝に覗き込んだ。様子が如何にも変だった。顔色も明らかに変わっていたし。
「なにそんなに驚いてんのよ。"クリス"なんて、よくある名前じゃない。あ、さては〜?」
はっはあ〜ん? と顎に手を当てる。
「……なんだよ」
ケネルは口を尖らせ嫌そうな顔。クイと顎を突き出して、エレーンは思わせ振りに、にんまっ、と笑った。
「おんなじ名前の女の人にフラれたこととかあったりしてえ〜?」
おらおら白状しなさいよー、とここぞとばかりに冷やかしてやる。さっき意地悪された仕返しだ。ケネルは苦笑いして目を閉じた。「……そんなところだ」
膝の子を男に渡して、立ち上がる。無理に引き離された幼子が、ケネルに両手を突き伸ばし、嫌だと泣きわめいたが、ケネルはもう、振り向かなかった。
※ 本章には不適切・差別的な表現が含まれますが、口語表現の一として用いているのみであり、他意は一切ございません。文意・趣旨をお汲み取り頂き、あしからずご了承下さい。
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