■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 4話8
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夢を見た。
どんな夢だか覚えていない。ただ目覚めた時には、全身汗びっしょりで、体が止めようもなく震えていた。
荒く息をついていた。喉がカラカラに渇いている。深夜の寝床に気怠い体を引き起こす。正体不明の不安に駆られて寝静まったゲルを見回せば、薄灰の蒼い暗闇の中、月光に照らし出され閑散と静まり返った土間の向こうに、こんもり盛り上がった夜具の膨らみが見える。ケネルだ。息を詰めて確認し、ほっと安堵の息をついた。身じろいで寝床を出、とりあえず左手壁際の水瓶の置いてある場所までゆっくり歩く。備え付けの柄杓で水瓶の水をカップに掬い、一気に喉を潤した。
得体の知れぬ夢の余韻がたちどころに払拭される。こっちに帰って来たって感じ。気分が少し落ち着いた。それでようやく人心地つき、再び夜具に潜り込む。
虫の声が静かにしていた。掛け布を肩の上まで引き上げて、異郷の天井をただただ眺める。夜の闇に沈んでいるのは、たくさんの細木が放射線に張られたゲルの天井。これを見ると、旅先なのだとつくづく思う。
「……うー、……眠れ、ない……!」
エレーンは枕を抱えて寝返りを打った。目が冴えてしまって眠れない。一度変に目覚めてしまうと、寝付かれなくなるものだ。いつの間にか、考えるでもなく考えていた。昼間交わしたケネルとの会話を。短命な子供、数少ない女性、特殊な能力、黒障病。エレーンは溜息をついて寝返りを打つ。一度思い出してしまえば、とても眠れたものではなかった。どれを取っても日常的な常識から遠く掛け離れてしまっていて──。気分が滅入って気持ちが塞いだ。きっと朝まで眠れない。そんな気がする……。諦めの溜息を一つつき、エレーンはついに起き上がった。
月光のみの薄闇の中、冷えた絨毯を踏みしめて、ケネルの寝床へゆっくり近付く。寝入ったケネルを起こさぬように、そっと身を屈めて寝床の脇に座り込んだ。ケネルは仰向きで眠っている。いつも寝床に入った途端に背を向けるのに。
夜気に冷えたゲルの中、何事もない寝顔を膝を抱えてしばらく眺める。気持ちがだんだん落ち着いていく。人差し指を伸ばしてそっと頬を突付いてみたら、煩そうに顔を背けた。そう、きっと大丈夫。ケネルがいれば大丈夫。どんな不安でもやり過ごせる。例え慰めてはくれなくても。どんなに不安でいっぱいになっても。ケネルがいるだけで安心出来た。それだけのことで落ち着いた。けれど不思議だ。当のケネルは「
大丈夫だ 」なんて気休めを言ってくれたことは一度もないのに。寝床の横に蹲り、膝を抱えて、いつもと変わらぬ寝顔を眺める。ただ眺める。
暗色の膨大な天幕群が脳裏で鮮やかに翻った。ノースカレリアの街の北デュナン草原を占拠するように一面を埋め尽くしていた《 遊民 》達の天幕群。同行しているケネル達だけでなく、こういう遊牧民の人達やローイ達芸妓団の人達まで含めたら、《
遊民 》と呼ばれる人々はかなりの人数に膨れ上がる筈だ。いや、それでも今認識している人達は全体からすればごく一部だろう。彼らの母親全てが "
町の女 " だというのなら、それは──。
生まれ続ける彼らの子供。《 遊民 》と呼ばれる膨大な人々。同族内の極端な男女比。それらが意味するところは、つまり──。
歪な何かがそこに在る。輪郭はぼんやり見えているのに本当の形が捉えられない。濃い霧の向こう側に黒い影が佇んでいる。手を伸ばしても伸ばしても届かない──そんな感じ。
『 子供は女にしか産めないからな 』
ケネルの口調を思い出し、エレーンは嫌悪に眉をひそめる。自嘲めいたあの言葉には冷やかな含みがあったような気がする。それはひどく不躾で、直截的で、即物的で、ドロドロと重苦しい印象を纏っていた。内容自体は当たり前の事実に過ぎないが、それだけ取り出して突きつけられると、ひどく動物じみていて嫌な感じだ。成り行きとはいえ、あんな生々しい言葉をまさかケネルの口から聞こうとは。
子供らの屈託のない笑顔が思い浮かんだ。どうして、そんな風になってしまうんだろう。欠けた体を、機能を抱えて生まれてくる子供達。まるで突出した能力と引き換えに体の一部が損なわれてしまった、とでもいうような。
「異能の力、か……」
そう言ったのはあの短髪の首長だったろうか。彼からあの時聞いたのは、常人には及びもつかぬ怪力を持った男の話。その力を目の当たりにした街の人に殺されてしまったガライという《
遊民 》の話。
「……そうか。なら、あれは、」
あの人はそういう人だったのか。
他人とちょっと違うどころの話ではなかったのだ。近くで見たなら分かった筈だ。はっきりと、全く違うのだ。力の質が。だから街の人達は彼を恐れた。その力の強大さを。きっと誰にも敵わないのだろうその
"力" 自体を。ましてそれが小さな子供で、力の加減が十分に出来ないのだとしたら。
「──ノッポ、君?」
唐突に気が付いた。もやもやと立ち込めていた不可解な霧がみるみる晴れて引いていく。
「だからみんな、ノッポ君には近付くなって、あんなに」
あんなにもしつこく言ったんだ……。
彼もああいう子供の一人だったに違いない。暴走したら止められないから、だからケネルは──。
『 どうして、あんなのが生まれて来ちまうんだろうな 』
もう一つの声がした。そう、短髪の首長が話してくれたのは、あのちょっと風変わりな長身の彼の話ではなかった筈だ。あの時話題になっていたのはあの彼のことではなくて、
「ケネ、ル?」
ようやく、そこに気が付いた。あれは喩え話などではなかったのだ。ちっとも大袈裟なんかじゃなかったのだ。彼は何も誇張していない。あの言葉は比喩なんかじゃない。息を詰め、身を乗り出して、薄闇に白く浮き立った頬の線をじっと見る。「もしかして、ケネル、も?」
バタン、とケネルが寝返りを打った。心臓がギクリと跳ね上がる。
「……すまない……すまない……ク……ス……」
ケネルは額に汗を浮かべていた。灯りの消えたゲルの中でもケネルの顔は苦しげで、魘されているのがはっきり分かる。誰かに必死で謝っている。
「ケネル?」
胸を両手で押さえつつ、エレーンは恐る恐る覗き込んだ。──誰?
誰に謝っているの?
そんなに必死に。懸命に。もっとはっきり聞き取ろうと四つん這いで身を屈める。
「え?」
エレーンは、ギクリ、と停止した。だって、
泣いている?
思わずギョッと後退る。エレーンはあたふた無人の周囲を見回した。見てはいけないものを見てしまった気がする。そりゃあケネルが泣いてもちっとも変ではないけれど、でも──。あまり見慣れないからだろうか。男の人が泣くとドキドキする。
( こ、困ったあ…… )
どうして良いのか分からない。このまま見てたら、いけないようで。そそくさ寝顔から目を逸らす。
( ──そ、そうだ。戻ろう )
慌しく決心し、一人コクコク無駄に頷く。早く陣地に戻ってしまおう。布団を被って寝てしまおう。そして見なかったことにする。うん、そうだ。一切見てない。それがいい!
「だ、大丈夫だからねケネル。あ、あたし、なんにも見てないしっ!」
うわ言のように一人ブツブツ言い訳し、腰を床からアタフタ浮かせて向こう側へと身を捩った時だった。ケネルの声がはっきりと聞こえた。
「すまない、クリ……ス……」
全身の血が一気に引いた。全身がどくどく荒く脈打つ。とっさに握った指先が震えた。頭の中は真っ白で何一つ満足に考えられない。ふと思い出した。あの赤ん坊の名を聞いた時にも、ケネルは確かに変だった。クリスって──
クリスって誰!?
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