■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 5話1
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目を開ける。
世界が見える。風、光、ホーリー、バパ、他のヤツ、緑、草木、空、太陽。
世界は、薄く、遠く淡く色づいている。
目を閉じる。
世界がなくなる。真っ暗になって、何もない。
世界はなくなる。全てなくなる。
全てはオレの中にのみ存在する。
世界はオレの周りにしか存在しない。オレに寄り添い、歩くに従い、オレの周囲に必要な世界が出来ていく。要らなくなった背景は、離れる傍から崩れるように消えていき、だから、世界はいつでも一定で、世界の量は、本当はいつでもオレの周りの一定量しか存在しない。それはオレが立っているこの周囲。目で見られるそこまでの範囲、手で触れる近くのもの、それは
" 世界 " に含まれる人間も同じだ。
世界は目に写る " 光景 " だ。見ることも出来れば、触ることも出来る。話すことも出来れば壊すことも出来る。けれど、今、見ている人間が本当にいるのかどうか、オレには絶対に分からない。それを " 人 " だと思うのは、たぶん誰かがそう言ったからだ。でも、それを聞いたのはオレの耳で、それを見ているのも、やっぱりオレの目で、結局のところ、そいつとオレとが繋がっているのは、全部オレを介してのことでしかない。
オレには、そいつの中身が分からない。何を考えているのか、何を見ているのか。オレに分かるのは一つだけだ。オレが自分で感じることだけ。他のヤツのことは分からない。だって、そうだろう。そいつがオレと
" 同じ中身 " を持っていると、どうやって知る?
見た目は同じに見えるけど、中身はただの空気かも知れない。本当は薄っぺらな紙一枚で、向こう側には、何もないかも知れない。" 本物 "
なのはオレだけで、他のヤツらはオレの頭が創り出した実体のない幻影だ──そうではない、と誰に言える?
瞼を閉じれば、世界はなくなる。すぐに存在しなくなる。そこにいたヤツらも含めて全部がだ。
そんな、すぐになくせる簡単なものが、オレと同じと言えるのか? この世で蠢く大勢のヤツが、その一人一人が実体の詰まった " 人 " であると、いったい誰に断言できる? それを知ってるヤツなんて、何処にもいない筈なのに。
本当は、きっと、こんなふうだ。
世界は青虫の餌が見てる夢。
丸々と太った巨大な青虫が、足元に何百匹も群がって、オレの体を足からバリバリ食っている。
オレの肩には、そいつらの親のデカくて綺麗な蝶がいて、細くて長い数本の脚で、ふんわり優雅にとまっている。口から伸ばした細長い管を、オレの耳に突っ込んで、ザラザラに掠れた白黒の夢を、ゆっくり、優しく、吹き込んでいる。餌が逃げたりしないように。だから、オレは夢を見る。
それは目覚められない仮の世界。" こっち "には、たくさんのヤツがいて、戦いがあって、怒鳴り声があって、叫び声があって、砂塵があって、いつも血が流れてる。食い物があって、バパがいて、ホーリーがいて、あの女が笑ってる。それは掠れた色の鈍い世界。ゆっくり動く退屈な世界。けれど、オレが
" こっち " 側で何かをしている間にも、オレに取り付いた緑の虫は、バリバリ、バリバリ、オレの体を食っている。足が食われ、手が食われ、胴が食われ、内臓が食われて、ついには肩から上を残すのみになった時、肩の上の綺麗な蝶は物語を語りやめ、翅を広げて大空の果てへと舞い上がる。餌には手も足もなくなって、何処にも逃げられなくなったから。
オレは圧し掛かる青虫の大群の中、一人だけで取り残される。その時になって、ようやくオレは、夢から覚めて悟るんだ。
この世界の " 本当の姿 " を。
【 恋 敵 】
草原を渡る涼風が、柔らかな薄茶の髪を靡かせていた。
長い脚を草上に折り、彼はぼんやり "それ" を見ている。いつでも何かを引っ掻いている手慰みの短刀は、今は、珍しいことに脚横の地面に放り出されている。放心したような視線の先は、馬達が放された緑の野原。そして、案の定、そこには蓬髪の首長と戯れる件の彼女の弾けるような笑顔。
「行って来りゃあ、いいのによ」
バパは苦笑いで声をかけた。休憩中のざわめきの中、ウォードが、ふと瞬いた。長身の体をのっそり動かし、声の方へゆっくり振り向く。バパはのどかな草原を眺めやり、笑いながら顎をしゃくった。
「中々似合っているじゃないか。ああ、髪も切ったみたいだな。──ほら、行って話してこいよ」
ウォードは迷惑そうに眉をひそめて、引き寄せた脚を緩く抱えた。
「……いいー」
膝に顔をなすり付け、緩々と首を振る。
「でも、気になるんだろ、あの子のことが」
「別にー」
「なら、どうして、いつも見てるんだ?」
「……だって、エレーン、光ってたからさー」
バパは素早くウインクした。「惚れた相手ってのは、大抵眩しく見えるもんさ」
ウォードが怪訝そうに首を傾げた。人差し指を突き伸ばし、彼女の笑顔を指で差す。
「なら、バパにも見えるー? あの緑ぃー」
「……緑?」
バパは、きょとんと訊き返した。足を踏み替え、彼女を眺め、困った顔で頭を掻く。「……残念ながら、俺には " 緑 " は見えないな」
「でも、本当はさー」
相手の困惑には露構わず、ウォードは諦めたように嘆息した。
「あれ、あの、おでこのおかーさんがやったんだよ。目の前で、あんな凄いことがあったのに、アドもジャックも、どうして驚かなかったか不思議だけどねー」
「 " おでこの、おかーさん " ?」
「だからー、いたでしょ、あの時、一緒におねーさんが」
バパは早くも持て余し、だが、ようやく話題の人物を特定した。「──ああ、クレスト公の妾のことか」
「他にいるー?」
話が中々伝わらず、ウォードは少しじれったそうだ。バパは顎に手を置き、ふむ、と彼女を思い浮かべる。「……そういや、あの子には跡取りの子供がいたっけな」
「だからー、そういうことじゃなくってさー」
ウォードは面倒臭そうに訂正した。
「あの人、初めから、おかーさんだよー」
バパは頭を掻いて降参し、肩を竦める。「毎度のことながら、お前の表現は変わっているな。──まあ、どうでもいいけどよ」
「バパー、オレさー、」
長いまつ毛を伏せたウォードから、戸惑ったような声がした。何か言いたそうだが言い難そうだ。途切れた言葉のその先を、しばらく待ってもいたのだが、ウォードは抱えた膝に顔をすり付け、グズグスしているばかりで要領を得ない。
「なんだよ」
ウォードは沈没したまま首を振った。「──やっぱ、いいー」
子供がむずかるような詮ない仕草だ。バパは頬を緩めて顎をしゃくった。
「そんなに気になるなら、さっさと行って話して来りゃあいいじゃないか。服でも髪でも褒めたらいい。見舞いに行った時にも喜んでたろ」
「……でもー、あれはケネルのヤツだしさー」
「ん? 別にケネルのものって訳じゃないぞ。ケネルは、あの子を預かっているだけだ。敢えて言うなら、クレスト公のものってとこだな。結婚してるし」
「 " けっこん "?」
怪訝な顔で、ウォードが膝から顔を上げた。バパは静かに目を向ける。
「街で暮らす連中ってのは、気に入った女とそういう " 約束 " をするものなんだ。──そうだな、つまり、こう、周りに宣言するんだな。"この女は俺のものだから、手を出すな"ってよ。で、約束が整った証として、こういう指輪を左の薬指にする」
左の手を持ち上げて薬指に嵌めた約束の指輪を見せてやる。ウォードは気味悪そうに身を引いた。
「……じゃあ、……バパも " けっこん " してる……?」
「あ、いや、そうじゃないんだ、ウォード」
バパは慌てて言い直した。「これは只の " 真似事 "だ。トレイシー のヤツにねだられちまってよ。──今度見てみな? あの子もしていた筈だから。で、役所に書類を出して認められると、その女はそいつのものになる。法的にもな」
ウォードは首を捻って固まったままだ。理解し難い話であるらしい。そうして、しばらくの間、怪訝そうな顔で見ていたが、やがて、のっそり身を起こした。
「強いヤツから、好きな女順に取ればいいじゃん」
「あっちじゃ、そういう風にはなってない。皆が皆、俺達と同じって訳じゃないのさ」
「なんで、わざわざ、そんなことしなくちゃなんないのー?」
「──さあな。だが、周囲にそいつを認めてさせておけば、留守にしても他の奴に取られる心配しなくて済むだろ」
「そんなことしなくたって、強い奴のには誰も手なんか出さないけどなー」
「強い奴はそれで良くても、他の奴らはそれじゃあ揉める。現に《 春来の郷 》じゃ、いつも喧嘩ばかりしてるだろ」
バパは辛抱強く言って聞かせる。だが、鞘当てや小競り合いとは無縁のウォードに、そうした理屈は通じない。
「だったら、そいつも強くなればいいだろー?」
バパは溜息をついた。「……簡単に言うなよ」
「なら、やめればー?」
そろそろ飽きてきたようで、ウォードは退屈そうに目を逸らしてしまう。バパは苦笑いした。
「それが出来りゃ苦労はないさ。お前さんには分からないかも知れないが、大抵の奴は "一番目のヤツ"を独り占めにしたくなるもんさ。子供が産まれりゃ可愛いしよ。何より、そういう女が決まっていると、世話を焼いてくれるから楽ができる」
利点を幾つか挙げ連ねる。ウォードはやはり、ピンとこない様子だ。
「そんなの《 春来の郷 》 でもしてくれるじゃん。どのおねーさんも優しいよ?」
バパは虚脱気味に首を振った。
「何処の家へ上がりこんでもいいって訳じゃないんだ。……うーん、なんと言ったらいいのかな。……だから、女郎の話じゃなくてだな、飯を作って、そいつのことだけ待っていてくれる」
「じゃあ、他所へ食べに行ったら駄目なんだー?」
「もちろんだ。──そんなことしたら、大変なことになるぜ」
バパは何を思い出したか、げんなりと目を逸らす。ウォードは頭をガリガリ掻いた。「もういいよー。面倒臭い」
「でも、" 帰る家 " が出来るぞ」
「……ふーん」
一応相槌は打つものの既に興味を失ったらしい。ウォードの応えは我関せずの投げやりだ。バパは徒労に頭を掻いた。
「だからだな……なんで、こんな話になっちまったんだ?……ああ、そうそう。つまり、あの子はクレスト公とそういう約束をしてるってことだ。だが、まあ、話すくらいは構わんさ」
ウォードは組んだ脚をぶらつかせ、既に相手を見向きもしない。「どのみち、そいつ、すぐ死ぬよ。そうしたら、やっぱケネルのもんじゃん」
「……まだ、必ず死ぬとは決まっちゃいないさ。ケネルにも、その気はなさそうだし」
今のところはな、と付け足して、バパは腑に落ちなさげな顔にウインクする。「だが、くれぐれも用心するんだぞ。あの子は "卵"
だ」
「──やっぱ、いいよー。だってオレ、たまにエレーンのこと、」
護身刀を引っ掴み、ウォードはぶっきらぼうに立ち上がった。「滅茶苦茶に壊したくなるしー 」
目元を覆う長めの髪を、草原の風が浚っていく。硝子のような薄茶の瞳は、草海で戯れる彼女の姿を追っている。
「そうか。なら、もう触るな」
ウォードがゆっくり視線を返した。バパは素っ気なく言い渡す。
「見るな、触るな、近寄るな。ケネルがあの子をどうしようと、お前は一切関わるな」
ウォードの顔には凡そ表情と呼べるようなものは浮かんではいないが、周囲を取り巻く空気が淀み、若干鈍く、重くなったようだ。節くれ立ったウォードの利き手が掴んだ短刀を握り締める。関節が白く浮き立って、固い拳が僅かに震える。バパは苦笑いした。「……だったら、まずは
" 手加減する " ってことを覚えなけりゃな」
ウォードが虚を突かれた顔をした。バパはゆっくり腕を組む。「どうしたらいいか教えてやろうか」
硝子のような薄茶の瞳で、ウォードはじっと見つめている。表情からは如何なる感情も読み取れない。バパは言い聞かせるように口を開いた。
「あいつらの皮は薄くて脆い。だから、あの子に触れたかったら、お前は間違っても力を入れちゃいけない。あれはお前よりずっと脆い生き物なんだ」
ウォードは僅かに眉をひそめ、戸惑いがちに訊き返す。「……ホーリーよりもー?」
バパは頬を綻ばせた。
「そうだ。ホーリーよりもずっと脆い。ここにいる俺達よりも、戦地で相手にしている連中よりもだ。だから、お前は、生まれたての鳥の卵を拾う時のように、そっと慎重に扱わなけりゃならない。うっかり忘れて力を入れ過ぎたりすると──」
「いなくなるー? いつものおねーさんみたいに」
「……よくできました」
バパはげんなり苦笑いする。白目を剥いて泡を吹いた無残な女を発見し、大慌てで医者の元へと担ぎ込み、平身低頭平謝り──それが世話係の日常なのだ。悪いことに、このウォードは、優しげに見えるらしい外見からか、女から声をかけられる機会が滅法多い。本人もホイホイついて行くから、いつの間にか、いなくなってしまうことがしばしばだ。終いには、じれた女が怒り出し、あっさり捨てられ終結するのが常ではあるが。もっとも、それだけならば、実害はない。危険なのは、相手の女を気に入ってしまった場合だ。こうした事態は稀ではあるが、そうなると大抵、不幸な事故が発生する。もしくは相手の女に飽きた頃。
口を噤んで小首を傾げ、ウォードは考え込んでいる。やがて、小さく嘆息した。「……やっぱ無理―」
「どうしてだ」
「だって、オレさ―」
軽く広げた手の平を、突っ立ったままで眺めている。自信なさげな途方に暮れた面持ち。戸惑っているらしい。ぐずぐずしている珍しい様に、バパは微笑んで顎をしゃくった。
「だったら、守ってやればいい」
ウォードが瞬いて顔を上げた。「オレがー?」
「そうだ」
大きく頷き、ためらう背中を押してやる。
「なんでオレー?」
「お前には簡単なことだろう?」
「……でもなー……オレ、そういうの、したことないしー……」
「助けてやったろう。あの子がネズミどもに襲われた時に」
ウォードは硝子の瞳を僅かに眇め、小首を傾げて聞いている。先日の盗賊らとの乱闘については、とうに忘却の彼方らしい。意識を凝らして記憶の底を掘り返さねば、もう思い出せもしない程に印象の薄い、些細な出来事でしかなかったようだ。
「あの時みたいに助けてやれよ、あの子を害する全てのものから」
「でもさー、オレ、たぶん、エレーンのこと壊したくなると思うしなー」
「そうじゃない。壊すんじゃなくて守るんだ。お前が守る。一度はしたんだ。出来るだろう?──なに簡単なことだぜ。お前の中にある苛立ちを、外に向けて揮えばいい」
「──でも、オレはさー」
「あの子が泣いても、お前はいいのか」
かったるそうに、そっぽを向きかけていたウォードの顔が、むっ、としたように向き直った。
「な? そうだろう」
バパは笑って見返した。
「あの子は、今、大変でな。理由はよくは分からんが、ネズミどものターゲットになっちまってる。" 黒い髪の街の女が、領邸から財宝を持ち逃げし、俺達の中に潜伏している
"──ネズミどもにそう触れ回った馬鹿がいる。だから、ああした襲撃は今後も度々起こるだろう。恐い目に遭えば、あの子が泣くぞ。だが、お前なら退治できる筈だよな」
身じろぎ一つするでもなく、ウォードは眉をひそめて聞き入っている。話の中身を吟味している様子だ。
「どうする、ウォード。そうしたら、あの子も笑ってくれるぞ。一石二鳥じゃないか」
ウォードは困惑しているようで、訝しげに息を吐き出した。頭を片手で乱暴に掻いて、無言で考え込んでいる。向こうの木立をしきりに眺めるその様はそろそろ逃げ出したい様子だが、反面、立ち去り難い心情というのもあるらしい。所在なく突っ立った自分の足と地面を眺め、自分の片手を広げて眺め、アドルファスと戯れる彼女の笑顔を草原に眺める。整った横顔に表情はなく、遠く眺める硝子の瞳にも感情らしきものは浮かんでいない。
「壊すんじゃなくて守るんだ。──どうだ、出来るな」
ウォードは黙って突っ立っている。やっと、小さく溜息をついた。
「──わかったー」
ぼそり、と上の空で返事をする。ズボンのポケットに手を突っ込み、木立へぶらりと踵を返した。何事かブツブツ復唱しながら樹海沿いに歩いて行く。ホーリーの所へ相談しにでも行くのだろう。ぶらぶら遠ざかる背中を眺め、バパは肩を竦めて嗜好品に点火、にんまり笑って紫煙を吐いた。
「ほい、一丁上がりっと」
「アレを稽古台に使うなよ」
唐突な非難が背に掛かった。おや、とそちらを振り向けば、立っていたのは呆れた顔のケネルである。胡散臭げに様子を窺い、ツカツカ早足でやって来る。バパは軽く肩を竦めた。「……聞こえてた?」
「大体な」
ケネルは近くまで来て足を止め、遠ざかる長身の背を眺めて顎をしゃくった。「首長自ら焚き付けるとは、どういうつもりだ。物騒だな」
「言ったろ。俺はいたいけな青少年の味方だってよ」
バパは変わらず澄ましたもの。
「喜べケネル。今度ばかりは脈アリだぜ。だって見たかよ、あの健気なことを。あんなに素直なウォードは初めて見たね。これまでも何百ぺんとなく、こっちが飽きるくらいに言い聞かせてきたが、今日は逃げ出すどころか関心を示して、ヤツの方から訊き返してきやがった。聞く耳持たないあのウォードがだぜ」
普段のウォードは、何事に関しても凡そ無関心で無頓着だ。それはつまるところ、当面の問題もしくは目の前の相手に対して、惜しげもなく捨ててしまえる程度の些細な価値しか認めていないからに他ならない。譲れない拘りがあればこそ不都合も躊躇いも軋轢も生じる。つまり、今のウォードの中には、そうした芽生えが確かにあるのだ。ケネルは腕を組んだまま依然として渋い顔だ。
「練習相手なら別のを選べよ。預かり物だけは絶対に駄目だ」
「誰でもいいって訳じゃない。分かってるくせに」
間髪容れずに言い返されて、ケネルはムッと文句を呑んだ。抗議の肩を気楽に叩いて、バパは軽く揉み解す。「ま、丁度いい機会じゃねえかよ。避けて通れる道じゃなし」
「事故でも起きたら、どうする気だ。取り返しがつかないぞ」
「だーい丈夫だって」
煙草を噛んだまま笑い飛ばして、バパは木陰のシートへ歩き出す。「あの子は、いつもの " お友達 " とはわけが違うさ。見たろ、お前も。あの子はヤツの宝物だぜ」
「そいつが一番問題だろうが。その " お友達 " じゃない、ってところが特に」
バパが肩越しにケネルを見やった。「ウォードが初めて " 名前で呼んだ女 " だぜ?」
「……分かっているさ」
後に付いて歩きつつ、ケネルは小さく嘆息する。バパは木陰の居場所に辿り着くと、防水シートに腰を下ろしながら、意味ありげに目配せした。
「ヤツにとって、あの子の存在は特別だ。──大丈夫だって。誰だって惚れた女を抱き潰したかないだろう。それとも、お前は違うのか?」
「──どういう意味だ」
ケネルは不愉快そうに吐き捨てて、苦々しげに目を逸らす。「ヤツもそうだとは限らないだろう。こっちの常識は通じない。ヤツの頭はイカれてる」
バパはチラと目を向けた。「そのイカれた野郎を " 処分 " しないで引き取ってきたのは何処の誰だよ、隊長さんよ」
ケネルは憮然と立っている。苦りきったその顔を見やって、バパはシートに寝転んだ。靴のままで脚を組み、頭の下で指を組む。
「情けをかけて拾ってやったは良かったが、まさか、ああまでデカくなっちまうとはなあ。今じゃあ、迂闊に手出しも出来ねえ。お前のお陰で俺達は、とてつもなく厄介な代物を背負い込む羽目になっちまってるんだぜ? あの頃のひ弱な小さな子供ならいざ知らず、ヤツはもう、誰にでも始末出来るお手軽サイズじゃないんだからな。──ま、やれってんなら、やるけどよ」
「それなら問題ないだろう。対抗できる手段はある」
「確かに、生殺与奪の権はお前にある。だがなあ、ケネル、コイツだけは覚えておけよ」
煙草を口から取り去って、バパは空を仰いで紫煙を吐いた。
「ヤツは獣じゃねえんだよ。心もあれば変化もある。怯えもあれば猜疑もある。こっちの都合でどうこう出来ない一人の生身の人間だ。ウォードは今、途方に暮れて戸惑っている。いわゆる " 春の目覚め " ってヤツだな。こいつは人生初の不可抗力で、生まれて初めて立ち塞がる聖なる奇跡の障壁だ。しかし、こいつばかりは相手のあることだから、どんなに順調に来た奴でも思うようには舵が取れない。手札の中に答えはなく、自分のテリトリーじゃ戦えない。だから、掴みどころのない五里霧中に一人足を踏み出して、誰にも頼らず手探りで歩いて行かなけりゃならない。そいつの前に立ち塞がるのは果ての知れぬ圧倒的なまでに深い森だ。──ケネル、お前にだって覚えがあるだろが。理不尽なまでののっぴきならない馬鹿でかい不安と疼くようなトキメキってヤツによ」
ケネルは隣に腰を下ろして、仏頂面で懐を探る。煙草を銜え、片手で囲い、煙草の先に点火する。苦虫噛み潰した苦々しげな顔だ。憮然とした反応を視界の片隅にそっと留めて、バパは続ける。
「ウォードは今、" 未明の縁 " に立っている。未知の領域に踏み込んで行こうってんだから、そりゃあ恐いさ。足も竦むし、怯み、たじろぐ。人智の及ばぬ特大級の災難を前に人は無力だ。しかも、勇気を振り絞って踏み出しても、何処に辿り着くものやら結末は杳として知れない。人ってヤツはそうして初めて、思い通りにならない " 他人 " ってものの存在を嫌というほど思い知ることになるのさ。奴の身柄を引き取った以上は、そういうところも全部引っ包めて、人として面倒をみてやらなくっちゃよ。お前は奴の"人生" を丸ごと引き受けてきたんだぞ」
「──分かっている。あんたに言われるまでもない」
眉をひそめて紫煙を吐き、ケネルはぶっきらぼうに吐き捨てる。
「そうか。なら、話は早い」
バパが隣を振り向いた。
「そういうことなら俺達は、奴の恋路を温かい目で見守ってやろうじゃないか。──ああ、そんな嫌そうな顔をするなよケネル。無様だろうが不恰好だろうが構わないじゃないか。これぞ眩しいほどの青春ってヤツだな」
ケネルは堪りかねた様子で向き直る。「──しかし、バパ」
「大丈夫。お前が考えているようなことは、万が一にも起こりゃしないよ。ああ、こいつだけは断言出来るね。奴はあの子には手を出せない。なんなら賭けるか? 三枚でどうだ」
ケネルはげんなり溜息をついた。
「俺は遊んでいられる心境じゃないね。奴が本気で暴れたら、大の男でも止められないってのに。それを何が " 宝物 " だ。あんたの神経疑うよ。本当に分かっているんだろうな、アレが誰だか。あんな風でもクレスト領家の歴とした──あ、さては、あんた──」
急に勘付いた様子で愚痴を取りやめ、ジロリと隣を振り向いた。
「あんた又、俺を困らせて面白がっているな? あんたは首長じゃなかったか? 隊を仕切るのが役目だろう。どうして、そんなに波風立ててくれるんだ」
「……おーやおや。どうして悪い方へと取るかねえ?」
心外そうに目を見開いて、バパは悲しげに首を振る。「可愛い息子を困らせる筈がないだろう?」
「俺には、あんたの息子になった覚えはないがな」
「俺達は背中を預ける盟友じゃないか。有能にして忠実なる部下がそんなに信じられないと?」
「それは時と場合と 相手 によるな」
断固たる態度で腕を組み、ケネルはきっぱり首を振る。懐柔工作が不調に終わって、バパはやれやれと肩を竦めた。
「どっちかっていうと感謝して欲しいものだがな。隊の平穏を取り戻そうと、こんなに尽力してるってのに。俺は優秀な番犬を、一匹増やしてやったんだぜ?」
「狂犬の間違いだろ。ウォードが手勢に噛み付いてみろ。下手すりゃ揃って共倒れだぞ。そもそも真っ先に餌食になるのは、あんたんとこの部下じゃないのか」
「おい。ウチのをそんなに見くびるなよ」
ふぅー、と一服吐き出して、バパはジロリとケネルを睨む。「ああは見えてもあの連中、逃げ足だけはアドんトコのに負けないんだからな」
ケネルは「あー、そーかよ」と顎を突き出す。舌でも出しかねない勢いで。バパはニヤニヤ笑って紫煙を吐いた。「まあ、冗談はさて置くとしてもだ」
アドルファスと戯れる賓客の笑顔を、目を細めて眺めやる。
「ウォードに我慢と手加減を覚えさせるには、こいつは又とはない絶好の機会だ。他人に関心を示すことそれ自体が奴には滅多にないからな。これを逃したら、お次はいつになることやら」
「──しかし、な」
チラと草原に視線を投げて、ケネルは隣へ目を戻す。「やはり、危険は危険だろう」
依然として渋い顔だ。バパは着々と説得を続ける。
「このまま行ったら、奴の相手をする女は、ことごとくあの世に行っちまうぜ。そっちの方が遥かに危険ってもんだろう。それでもいいのか隊長さんよ。奴をここへ引き取った手前、そいつはちょっとばかりマズイんじゃないの?」
「──いや、しかし、だからといって、よりにもよって今でなくても」
「言った筈だぜ。 " 誰でもいいって訳じゃない "」
ケネルはとっさに反論に詰まる。バパは横目でチラと眺めて、かったるそうに身を起こした。
「こういうことはタイミングってもんが大事なの。こんなチャンス早々転がってるもんじゃない」
だらけた胡座(あぐら)で項(うなじ)を叩き、ふとケネルの顔を見る。「ああ、そんなに心配だってんなら、お前が見張ってりゃいいじゃねえかよ。お姫様のスカートにヤモリの如くに張り付いて、何時でも何処でも四六時中よ」
ぴくり、とケネルの片頬が引きつった。
「どーして俺が!?」
ケネル隊長、迸る反問を疑問形で咆哮。バパは変わらず澄ました顔。ぽっかり、まあるく紫煙を吐く。
「食客の監督は総体の責任。隊長はお前だろ? ケネル?」
ケネルは「……む」と絶句した。恨みがましい上目使いは( 何処かで聞いた台詞だな……? )と記憶をたぐっているようだ。そして、かくなる上は、間違っても流行ったりしないよう切に願っているに違いない。
パパはニッと笑ってケネルの首を引っ抱えた。平手で頭をグイと沈めて手荒くガシガシ揉みくちゃにする。「おいこら若造。もう少し目上を信用しろよ。こちとら人生の先輩だぞ。この手の色恋を何十年、温かく見守ってきたと思ってるんだ」
「──" 参加してきた " の間違いだろ!」
首を取られて沈没したケネルが、しつこいその手を跳ね除けて、飛び上がるようにして浮上した。
「こら、火傷するだろう! 悪ふざけはよせよ。この女誑しのイカサマ色事師が」
火口(ほくち)を敷物の外に出し、掻き乱された頭を振って、ケネルは服を「……もう、いきなり何するんだよ」と迷惑そうにはたている。バパは煙草を銜えて苦笑した。
「しかし、ウォードに何人抱き潰されようが顔色一つ変えないお前が、血相変えて飛んでくるってんだからなあ……」
「──なんだよ、何が言いたい」
服に俯き、ケネルは飛び散った灰を払っている。
「あーあー可哀相にな。あーんな頭にしちまってよ。髪は女の命なんだぞ」
「……あんなものはすぐに伸びる。少し切ったところで支障はない」
「そんなにあの子が心配かよ。何をカリカリしてんだかねえ?」
ケネルが堪りかねたように顔を上げた。振り向きざまのその顔に、バパは人差し指を突きつける。
「今のお前は御し易い。気をつけろよ。あの子が命取りにならないように」
「──なんだって? 俺は別に、」
「ウォードのことなら大丈夫」
不服気な肩をポンポン宥めて、バパは素早くウインクした。
「信じろよ。俺の見立てに狂いはない」
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