■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 5話2
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日没後の野営地に、虫の音が響いていた。灯火の揺れる黒い木立の方々から、僚友達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
バパは一人ゆっくりと、薄暗い林を見回しながら歩いていた。匪賊の出没が頻繁なこともあり、食後の散歩がてらに見回りに出たのだ。黒く切り取られた樹梢の先には、深い紺の遠い夜空とくっきり眩い銀の星ぼしが見えた。この辺りは、二つの領分の地境だ。無人の木立をしばらく挟んだその先には、もう一人の首長アドルファスの部隊が広く島を構えている。
ふと、足を止めた。月光の逆光の中、前から誰かが歩いて来る。野営地の者ではない。小柄な影だ。我が身をおどおど掻き抱き、歩く傍から後ろを振り返り、振り返り──。女のようだ。誰かを捜しているらしい。
バパは短く舌打ちした。周囲を一瞥、そちらに急いで足を向ける。あんなものが見つかろうものなら、蜂の巣突付いたようなお祭騒ぎは必定だ。このところの長引く行程で、皆退屈しきっている。しかも、向こうは他隊の領分。
「さっさと帰んな。こんな所をウロついてると危ないぜ」
人影が見るからにギクリと飛び上がった。慌てて振り向く小柄な姿が、冴えた月光に浮かび上がる。華奢な体躯、大きく瞠った黒い瞳、端整な顔立ちと背まで流した豊かな黒髪。若い女だ。街の女が着るような半袖の服を着ている。細い二の腕抱いて後退り、長いまつげをおどおど落ち着きなく瞬かせる。不慣れな様が一目で分かる。客を引きに来た
《 バード 》 などではないらしい。
あからさまな警戒ぶりに、バパは態度を和らげた。頼りなげな相手に合わせて、険しい警告から一転、ざっくばらんな笑みに切り替え、さばけた態度で腕を組む。
「こんな夜更けに、女の一人歩きとは感心しないな。ここの誰かに用でもあるのか。──ああ、あんたはあっちで待っていな。呼んできてやるよ。で、お目当てのヤツはどっちの島?」
目立たぬ木陰へ顎をしゃくれば、女が慌てて首を振った。
「あ、あの! 違うんです!──す、すみません。わたし、お名前まではちょっと──あ、でも、髪が長くて綺麗な人で……あ、でも、とても強くて、その……」
女は段々俯いて、たどたどしくもかぼそい語尾が消え入るように立ち消えた。
「ふーん。あんた、そいつに何の用?」
「わ、忘れ物を届けにわたし、……あの、助けてもらって、その人に服を貸していて……そ、それで、その時に……」
「ああ。あの服、あんたのか」
女は深く項垂れて足元を見つめ、耳まで真っ赤にしてモジモジしている。
「それで、こんな夜更けに、わざわざこんな所まで?」
「……はい」
蚊の鳴くような小さな声だ。バパはにんまり顎を突き出した。「渡しておいてやろうか」
「──い、いいえっ!」
女は慌てて首を振る。「い、いえ。……あ、あの、自分で!」
腕の荷物を掻き抱き、逃れるように後退る。バパは首を傾げて苦笑いした。その条件で捜される者など、ここにはあの男一人しかいない。しかも相手は年若い娘。とくれば、本当は何をしにきたのか訊くまでもない。
「多分、向こうのキャンプだな」
「……え?」
女は怪訝そうに首を傾げた。慌てて付け足す。「い、いえ、違うんです。確かにあの人、《 ロム 》 の服を着てたから、だから、ここに──!」
「ここには、いない。事情があってな色々と」
バパは笑って遮った。「ちょっと今、別行動を取っているんだ。で、ラギんトコで世話になってる。ここから少し南下した水場の──ああ、送ってやろうか」
「あ、いえ、わたし分かります。──あ、ありがとうございました。それじゃあ」
ぶん、と大きく 頭(かぶり) を振って、ペコリと勢いよく頭を下げると、女はそそくさ駆け去った。薄闇にバタバタ紛れていく。
「ま、無用の心配か」
慌しいその背を月下の道に見送って、バパはやれやれと踵を返した。こんな夜半、街道から遠く離れたこんな林を歩いているというのだから、無論あれは街の女ではない。あんな成りはしていても紛うことなき同族の女、昼に賓客が着ていた服装から、草原を移動する遊牧の民 《 マヌーシュ 》 だろう。ならば、まさか徒歩で来た訳でもあるまい。草原で暮らす遊牧民は、乳呑み児でもない限り、誰であろうが馬には乗れる。
ふと足を止めた。
「まてよ。あの顔どっかで──」
女を振り向き、バパは片足に重心を預けて首を傾ける。しばしそのまま考えていたが、やがて 「──ああ、道理で」 と瞬いた。ゆっくりと腕を組み、遠くなった後ろ姿を合点した顔で、つくづく見返す。
「……へえ、」
短髪の頭を片手で掻いて、苦笑いで踵を返した。
「女ってのは化けるもんだな」
両手で枕を抱き締めて、エレーンはチラチラ盗み見ていた。視線の先には、腕組みで突っ立ったケネルの苦虫噛み潰した渋い顔。
《 マヌーシュ 》 のキャンプのゲルである。座り込んだ寝床の北側に、長い脚を片方投げ出し粗末な食器棚にもたれかかったウォードの無表情な顔がある。ケネルと二人の大変静かな夕食後、ふらり、と唐突に現れて、壁にぶっきらぼうに座り込んだかと思ったら、そのまま動こうとしないのだ。取り立てて用がある訳でもないらしく、立て膝の上に伸ばした腕を手持ち無沙汰にぶらつかせ、ぷいと、そっぽを向いたきり。目をさえ合わせようとしない。エレーンは密かに首を捻る。毎度毎度のことではあるが、彼の言動は、まっこと不可解、奇々怪々である。
「……ね、ねえ、ノッポ君?」
枕をポイと放り出し、ウォードの前へ四つん這いで移動。長い前髪で影を作った面伏せた顔を覗き込み、引きつり笑顔で訊いてみる。
「何か、あたしに用とかあったり?」
ウォードがぶっきらぼうに口を開いた。
「別にー」
案の定、見向きもしない。実にドライだ。
「も、もしかして、あたしのこと、怒ってる?」
このところの懸案事項も、そそ……っと便乗で出してみる。だが、こっちの問いは、軽〜く無視された模様で、返答さえもしてくれない。エレーンはイジイジ指の先をいじり出す。「……や、やっぱ怒ってる?……お、怒ってるよねえノッポ君。だって、こないだから、なんか様子が変だもん」
ウォードは鬱陶しそうに眉をひそめて、如何にも面倒そうにボソリと応えた。
「別にー」
更には、ぷい、と目まで逸らしてくれる有様。
身を乗り出した姿勢のままで、エレーンは引きつり笑いで固まった。打つ手なしとは、まさにこのこと。いつの頃からそうだったのか、ウォードはむっつりと黙り込んだきり、もう微笑みさえも浮かべてくれない。こんな時、鈍感ケネルが相手なら、癇癪起こして、んがーっ! と一暴れしてやるのもやぶさかではないのだが、背丈ばかりがひょろりと高い、何処か繊細さを感じさせるこの青年が相手では、どうも何となく気後れする。胸のモヤモヤが発散出来ずに密かにブチブチいじけていると、断固たる腕組みで突っ立ったケネルが、堪りかねたように目を向けた。「──ウォードに構うな」
「えー、でっもさあっ!」
エレーンは、むっ、と振り返る。突如ウォードが口を開いた。「オレ、今日から、こっちで寝るからー」
「──いい加減にしろ」
ケネルが辟易の溜息で却下した。「向こうに戻れ、ウォード。今頃バパが捜してる」
ウォードは緩々首を振る。「ここにいるー」
「ここで三人の寝泊りは無理だ。見りゃ分かるだろう」
ツレなくぶっきらぼうに言い渡し、ケネルがウォードの二の腕を取った。説き聞かせるのが面倒になったようで、力づくで腕を引っ張り上げる。だが、ウォードは頑なに拒んで動こうとしない。ケネルはやれやれと溜息をついた。「……本当に、でかくなったな、お前は」
ウォードが腕を振り払った。「ここにいるー」
「──だから、駄目だと言っているだろう」
ケネル隊長、持て余し気味。「だいたい、お前、何処で寝る気だ。北も南も埋まっているし、そもそも布団もないんだぞ」
「いいよー別に。オレ、エレーンと一緒にこっちで寝るからー」
「──はあっ!?」
ギョッと見返したのは、ふんふん頷き、成り行きを見ていたエレーンである。己の顔を唖然と指差し、あまりの言い草に口をパクパク。ケネルが脱力気味に嘆息した。「──馬鹿を言うな」
「ケネルの横だと、夜中に寝惚けて技かけてくるしさー」
そういう問題か?
「俺だって、ご免だよ。お前と一緒の布団なんか」
「いいよーオレ、狭くても。エレーンと一緒にこっちで寝るー」
「……はっ!?」
突き落とされた絶句の奈落から、エレーンは急遽復活を遂げた。
「な、な、なに言ってんの!? 小さな子供じゃあるまいし!」
食ってかかっとく。とりあえず。
「いっ、いっ、" 一緒に "って──あ、あんた、いくつよっ!?」
わなわな動揺、思わず叫ぶ。ウォードがのっそり見返した。「十五―」
「……じゅ、十五?」
一瞬、何のことやら理解出来ない。
「たぶんねー」
ウォードがこっくり頷いた。全く普通の受け答えだ。からかっているようには到底見えない。思考と動作が一挙に停止し、エレーンは、ぽかん、と石化した。だって、世間的に
" 十五歳 " といえば、細い手足でキャイキャイ元気に駆け回る十歳児のガキンチョ仕様から僅か五年ばかりを経過した地点にいる子供達のことをいうのではないのか? ぱちくり瞬き、ウォードを見返す。そして、
「ええーっ!? じゅうごおっ!? ノ、ノッポ君って、まだ十五歳だったのおー!?」
大きく 眼(まなこ) を見開いて、ケネルをあたふた振り向いた。ケネルは額に手を当て、項垂れている。エレーンはあんぐり口を開け、愕然とウォードを見、そして、ケネルに目を戻す。「ほ、本当に?」
もっかい訊く。念の為。
「──ああ」
ケネルは素っ気なく肯定した。開き直ったようだ。
「で、でもっ!……だ、だって、だって、ノッポ君って、だって──!」
成人男性そのものである。"少年"などという可愛らしい見た目では既にない。アチコチ見回し、交互に指差し、エレーンはケネルに訴える。「だって、ケネルより背え高いし、女男よりアドより背え高いし、なのに、な、なんでノッポ君──!」
「うーっす!」
バサリと戸口が跳ね上がった。片手でフェルトを押しやって、誰かが頭を屈めて入ってくる。「たあく。毎度毎度騒がしいな、ここは。今度は何で騒いでんだよ」
辟易した声で屈み込み、編み上げ靴の靴紐を緩める。俯き零れた長髪が屈めた足元でサラリと揺れた。「あー、今夜は俺、こっちで寝るわ。毎日木の上じゃ、さすがに背中が痛くてよ。──おい、あんぽんたん、お前、ちょっと布団つめろよ。ケネルの横だと、コイツ夜中に寝惚けるからよー」
「──ファレス」
ケネルの呆気に取られた呼びかけを、だが、ファレスは、心得てるよ、と言わんばかりに片手を振ってあしらった。「ああ、問題ねえって。飯もアッチも街道で済ませてきたからよ──」
ふと顔を上げた。脱ぎ散らかされた靴の多さに気付いたらしい。屈めた背を引き起こし、首を傾げて腕を組んだ。
「なんで、ウォードがこっちにいんだよ」
座り込んだウォードを眺め、突っ立ったケネルを物問いたげに見る。ケネルは組んだ腕をゆっくり解いて、ファレスに向けて歩き出した。怪訝そうに突っ立った肩を、ぽん、と叩いて、すたすた通過。
「後は任せた、副長」
「あ?」
たった今到着したファレスには、何のことやら不明である。だが、きょとん、と首を傾げた隙に、ケネルは己の陣地に引き上げる。通り過ぎ様、詳細を指示。「ウォードをヤサへ連れて行け」
「──お、俺がかよ」
我に返って、ファレスは愕然と己を差した。「お、おい待てケネル。なんで俺だよ」
既にケネルは布団に足を突っ込んでいる。もそもそ掛け布を引っ張り上げて、肩の上まで引っ被り、ぷい、と一同に背を向けた。
「きったねえ。押し付けやがった……」
ファレスは地団駄踏んで痛恨の舌打ち。毎度のことだが、実に間の悪い男である。
ファレスはブチブチ言いつつ入室し、朝食時の定位置に、どかっと柄悪く 胡座(あぐら) をかいた。定位置とは、つまるところ、北に敷いた寝床の横、かの賓客の陣地内である。エレーンはウォードの隣に興味津々そそ……と移動。
「ねー、ノッポ君て本当に十五?」
遥かに年下だった横顔を、真横からシゲシゲ覗き込み、体育座り実行中。
「うん」
「本当に十五?」
「そう」
「ホントーにホントーに十五歳?」
「……しつこいなー」
ウォードは鬱陶しそうに身じろいで、嫌そうな顔でそっぽを向いた。エレーンはしげしげ眺めやる。因みに、相手が年下だと分かった途端、態度が一転横柄になるのは姑息な小市民的根性ゆえか。にしても、十五歳って、子供ともいえず大人ともいえず中々微妙な年頃だ。確かに、お肌なんかもツルっツルのすべっすべで肌荒れ一つない綺麗なものだが……。作りが雑ではない感じ。けれど、そうした一方で、粗雑なお肌の大人軍団に混じっても、すくすく育った体格ゆえに見てくれ的には遜色なし。不思議といえば摩訶不思議。八割方は納得しつつも、未だ驚き冷めやらず、不貞腐って懐を漁る向かいのファレスにしつこく確認。「女男、ホント?」
「──ん、ああ、そうだよ」
ぶっきらぼうに応答し、ファレスは喫煙道具の準備中。実行の都度、九分九厘の高確率で阻止され続けているにも関わらず、まったく懲りない奴である。無論、他人の喫煙が只でさえムカつく禁煙中のエレーンは、飲み残した珈琲片手に速やかにすっくと起立して、天敵目掛けてツカツカ近付く。ふと、剣呑な気配と行動目的に気付いたらしい野良猫ファレスが、慌てて背を向け火種を庇うも、しかし、エレーンは隠した肩をむんずと掴んで引き戻し、「あんたってホントどういう神経?あたし禁煙してるってあんなにあんなに言ってんのにっ!」 「知るかよ!てめえの勝手だろ!その手を放せ!あんぽんたん!」 とキーキーギャーギャー掴み合い、乱闘寸前やかましく揉み合うことしばし、
「オレさー」
ウォードが唐突に口を開いた。「ちょっと、エレーンにお願いがあるんだけどー」
既に野良猫の背中に乗っかっていたエレーンは、噛み付き攻撃を、ぴた、と収めて、慌てて声に振り向いた。「──な、なあに? ノッポ君っ!」
すとん、と降り立ち、はしたなく乱れた白い寝巻きをパタパタはたいて、にーっこりとスタンバイ。この小首を傾げた満面の笑みの対応は、両手を投げ出し、ぜえぜえ突っ伏した床の野良猫相手とは雲泥の差。北壁のウォードは、そうした小競り合いには、まるで関心なさげな面持ちだ。
「知らない人には、もう、ついて行かないようにねー」
エレーンは己を指差し、瞬いた。どうも、この前、助けてもらった盗賊騒ぎの一件のことを言っているらしい。でも、それにしたって──。 エレーンはあんぐり口を開ける。
( 十五のガキに諭された──!? )
顎が落ちるほどに愕然と氷結。下手すりゃ、己の子供の世代である。
「──で、」
結局、煙草をカップに漬けられ、今回も敗北を喫した野良猫ファレスは、グシャグシャにされた頭を振りつつ、崩れた胡座(あぐら)で座り直した。体勢を立て直してウォードを見やる。「お前、ここで何してんだよ」
ケネルと何度も言い合って、いい加減面倒になったのか、ウォードは口を開こうとしない。なので、エレーンが代わってカクカクしかじか──。沈黙には耐えられない質なんである。
事情を聞き終え、ファレスげんなり額を押さえた。胡座(あぐら) を崩して、かったるそうに立ち上がり、有無を言わせず、ウォードの二の腕を引っ掴む。
「てめえ。いつまでも四の五の言ってやがると、お前のあの馬、サクラ鍋にして食っちまうぞ」
副長ファレス、卑劣な脅し。彼の日常が窺える。ウォードがムッと顔を見た。「……ファレスって、本当にやるからなー」
果たして効果はあったようだ。ウォードも渋々、壁から仕方なさげに立ち上がり、その時だった。
ばさり、と唐突に音がした。南の寝床だ。一同、怪訝に振り返る。刹那、真横を閃光が走った。カッ──と固い音を立て、何かが壁に突き刺さる。灯火を反射する銀光は、木棚に突き立った短刀の白刃──?
ケネルが寝床で身を起こしていた。座ったままで身を捩り、じっと一点を見つめている。視線の先は、己で突き立てた短剣だ。
「ケ、ケネル……?」
エレーンは唖然と呼びかけた。ケネルは壁を見据えたまままで、そちらの方を見向きもしない。
「……ちょっかいを出すなら、覚悟をしておけ」
ケネルが僅かに目を眇めた。
「誰であろうと、斬り捨てる」
一同、ケネルを見つめて、「……は?」と呆然。時が止まって、奇妙な間があく。
「俺かー!?」 「オレー!?」 「あたしぃー!?」
氷解後、一同、己を指差した。何があったか不明だが、斬り捨てられては堪らない。突然凄まれた一同が唖然と様子を見守る中で、ケネルは、よいしょ、と掛け布を足の方へ押しやると、もそもそ寝床から這いずり出た。立ち上がるのも億劫なのか、床に手を突き四つん這いで移動、自分で突き立てた短刀を棚から引き抜き普通に回収、寝床に再びモソモソ戻る。そして、布団を被って背を向けた。
「……な、なんだったの、今の?」
エレーンは唖然とファレスに訊く。ケネル隊長、謎の行動。
「さあな、寝惚けたんだろ。どうせ又、変てこな夢でも見てんだろうぜ。にしても、──」
ファレスはやれやれと頭を掻いた。「たく。なに壁相手にガン飛ばしてんだよ。人騒がせな寝惚け方してんじゃねえよ……」
ファレスは戻って来なかった。 野営地にいる短髪の首長の元へ、ウォードを連れて行ったきりだ。
ひんやり冷えたゲルの中、背を丸め膝を抱えて、エレーンは、南の寝床に蹲る。不安に晒される夜半になると、ここにじっと身を寄せているのが、このところの日課になっている。冷えた肩を抱き締めて、エレーンは小さく嘆息した。目が冴えてしまって眠れない。ケネルの馬に揺られつつ、昼間うたた寝したからだ。
「……ちょっとお……誰よお、クリスってえ」
何事もない平和な寝顔に、暇にあかして恨み言。けれど、昼には一睡もしない隊長は、今夜も早い内から熟睡している。
「──ケネルの、ばか」
膝に頬を擦り付け沈没する。寝言を聞いたあの晩以来、気になって気になって仕方ない。そうかといって、まさか本人に訊けはしないから、胸の燻りが尚のこと募る。
黒く塗り潰された見知らぬ女の横顔が、塞ぐ胸をチラと過ぎった。疎外感が胸を焼く。この感覚には覚えがある。愛する家族を赤の他人に奪い取られるような絶望的な焦燥と寂寥。"ケネル"
は、今、たった一つの拠り所なのだ。それなのに──。
土間の炉が、パチパチ小さな音を立てていた。中央に灯した炉火だけが、薄暗いゲルをゆらゆら揺する。寝入った頬を人差し指でツンツン突付くが、ケネルは目覚める気配もない。
「……ケネル〜」
抗い難い寂しさに襲われ、ケネルの肩に手を伸ばした。躊躇いがちに、ゆさゆさ揺する。けれど、一度こうして寝入ったケネルは、余程のことでもない限り、決して目を覚まさない。泣こうが喚こうが同じこと。ただ煩そうな顔をして、取り付いた腕を無造作に払った。身を返したその拍子に、掛布がバサリと捲れ上がる。
ケネルの腕がヌッと動いた。その手がシャツの捲れ上がった腹の辺りを、ぽーりぽーりと掻き毟り……。
「ぬ──!?」
大口開けた呑気な顔に、むっかあ──! と腹が立ってきた。ひとが窮状を訴えているのに、こんの鈍感無神経厚顔タヌキは〜っ!
どんっ! と片膝立てで踏み込んで、寝巻きの腕をグイと荒々しく捲くり上げる。いっそ、その鼻つまんでやろうか。それともデコに書き書きするか──!?
パキ──と微かな音がした。薪の崩れた音ではないような? エレーンは何気なく顔を上げる。
ふと、ケネルが目を開けた。すっと滑らかに身を起こし、横の短刀を引っ掴む。視線は戸口に向けたまま、素早く寝床を立ち上がったと思ったら、ほんの数歩でゲルを突っ切り、フェルトを捲り上げていた。
「誰だ」
静かだが厳しい声で誰何する。
エレーンは息を飲んで驚いた。だって今のは、部屋がこんなに静まり返っていなければ絶対に聞き取れなかったろうほどの微かな音だ。すぐ傍にいたこっちのことなど、ケネルは眼中にない様子。又、さっきみたいに寝惚けてでもいるのだろうか。戸惑いつつも呼び止めようと口を開きかけた時だった。
「──あんた、」
ケネルの背から声がした。驚いたような、戸惑ったような、拍子抜けしたような声だ。本当に誰かいたらしい。こんな夜中にいったい誰? と、エレーンも中腰で身を乗り出す。
肌寒い夜風が吹き込んで、土間の炉火がゆらりと揺れた。立ち尽くしたケネルの体の向こう側、黒と紺とに塗り潰された空と草原の夜景の中に、小柄な影が垣間見える。乏しい灯りを背に受けて、動きを止めたケネルの横顔が僅かに見えた。片手でフェルトを掴んだままで絶句している。ふっ、と、表情が緩んだ。
「驚いたな。──いや、見違えたよ。まるで別人だ」
照れたように頭を掻いて、苦笑いしている。外にいるのは知り合いらしい。エレーンは、とっさに問い掛けた。「……ケネルぅ、誰なの? こんな夜中に」
ふと、ケネルが振り向いた。足を踏み替え、驚いた顔で首を傾げる。
「なんで、あんたが俺の寝床にいるんだ?」
今さら気付いたようである。
「ねー、そんなとこに突っ立ってないで、早く中に入ってもらえばー? もう遅いし、外は暗いし、」
「……ん、ああ、……まあ、な」
何故かケネルは気まずそうに返事を濁し、戸口の外へと目を戻す。ケネルの肩先に、客の頭の輪郭が見えた。随分と小柄な相手だ。ケネルは入口で対応している。こんな夜半にも拘らず、ゲルの中に招き入れようとはしない
。小柄な影が慌てたように動いた。
「あ、あの、わたし──!」
鈴を転がしたような、か細い声。
( 女の人!? )
呼吸が引きつり、一瞬止まる。
思い詰めたような切迫した声だった。顔は見えない。ケネルの陰に隠れてしまって。
「──あの、隊長さん! わたし!」
「出よう」
靴を突っ掛け、フェルトを払い、ケネルは頭を屈めて戸口を潜る。エレーンは思わず乗り出した。「ケネ──!?」
「ついて来るな」
肩越しに、鋭い一瞥で制される。
「すぐに戻る。あんたは絶対に外に出るなよ」
厳しい口調で言い置くと、ケネルは抱いた肩を促して、月夜の草原へと出て行った。
満天の星が、草原を包んで降っている。あの夜も、たしか、こんなきれいな星空だったっけ。
ここに来る前は、夜更けに外に出たりすれば、すぐに大人に叱られた。でも、ここでは、うるさいことは言われない。ここの大人は、みんな優しい。だって、ここはボクらの
" ついのすみか " だから。
町に母親がいるのなら、親の家にいられたけれど、ボクらみたいに近くに親がいない子は、 《 フォーラム 》 に集められて育てられた。だけど、どうしても母さんに会いたくて、会いたくて、会いたくて、会いたくて──、だから、こっそり抜け出して、夜の町に行ったんだ。もしかしたら、母さんが来てるかもしれないと思って。
でも、町に着いて、驚いた。
そこで見たのは、夜の暗い道ばたに立ち、はだけた服で男の腕を引く、真っ白い顔の女達。冷やかし歩きの野戦服の肩に、笑いかけ、ぶら下がり、もたれかかって、媚びを売ってる赤い口の女達──。
ガランと寂れた昼の様子とは、町は、まるで別世界だった。恐くて、慌てて逃げ戻った。
前方の一点に、意識をこらす。
じっと目をこらしていると、空間がだんだん変化して、空気の密度がいびつに濃くなっていく。よどんだ空気が入り混じって闇が溶け込んでいくような──
やがて、光の点が現れる。
それは、ゆっくり平らに広がり、光の境界を作り出す。そこに、影が浮かびあがった。光壁の向こうに、あの黒い頭が見える。
ああ、あのひとだ。あのひとがいる。だれかと、はなしているみたい。
かみのけ、すこし、きったかな? ちょっと、まえより、みじかくなった。たぶん、あれは " おかっぱあたま " というやつだ。
……さあ、できた。
目の前には、宙に浮いた完全な光壁。この鏡の中に踏みこめば、つながった空間の向こう側に行けるはず。
きっと、行ける。だって、それを知っている。ぼくには " それ " ができるってこと。そのちからがあるってこと。
そばに、いきたい。あのひとのそばに。
もっと、いっぱい、なでてほしい。もっと、いっぱい、だきしめてほしい。あのときみたいに、つよく。やさしく。
ぼくは、わがまま?
でも、あのひとのそばに、いたいんだ。いいでしょう? だって、ぼくには
──じかんが、ないから。
右手を光壁に突き伸ばす。
「──うわ!?」
手を押さえて転がっていた。
目の前は真っ暗だ。
草の中につっぷしている。ぶつけた肩が、ずきずき痛い。頬の下の地面が、ひんやり冷たい。
押さえた右手が、どんどん赤く染まっていた。たくさんの血が手首を伝って、袖を黒く濡らしていく。すごく怖い。火がついたみたいに、手が熱い──!
閉じゆく光の向こうから、"あのひと"の低い声がした。
『 ちょっかいを出すなら、覚悟をしておけ。誰であろうと、斬り捨てる 』
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