CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 5話3
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 馬を下りた野戦服が、緑野の方々に群がっていた。賑やかなざわめきの中、各々折り詰めを受け取っては、樹海の木陰へと思い思いに散っていく。彼らの中心、間隔を空けて突っ立っているのは旅装姿の調達班。
 昼の休憩に入った草原である。昼飯片手に通りかかり、セレスタンは気さくに声をかけた。
「──へえ、楽しそうっすね、隊長」
 綺麗に剃り上げた頭の両横で、ピアスの金リングがシャラリと揺れる。群れの旗頭を前にして全く臆した風もない。
 セレスタンは短髪の首長バパの部下である。「親の顔が見たい」とは巷でよく聞く台詞だが、かくしてかの人の配下にも、人を人とも思わぬような飄々としたおちゃらけタイプが得てして多い。頭目を前に直立不動で屹立し、熱く忠誠を誓っちゃったりするのは、大抵アドルファスの所の部下である。因みに、この彼、かの副長が十把一絡げに命名したところの件の " たんぽぽ隊 " の一員でもある。
 木陰の樹幹に寄りかかり、ケネルは薄青い紙を眺めていた。無造作に広げた紙を見つめる口端が、苦笑いの形を作っている。彼のこんな顔は珍しい。凡そ手紙の類いには、無表情で目を通すのが、この隊長の常だから。もっとも、連絡事項の大抵は無味乾燥な文面だから、楽しい気分になれという方がいささか無理な注文ではある。
 セレスタンは立ち止まり、禿頭を、ひょい、と傾けた。
「なあに見てんすか」
 気安い態度に気分を害した風もなく、ケネルは手にした薄青の便箋を折り目の通りに畳んでいく。「──これか。これはな」
 弁当片手に突っ立った部下に、チラと目を向け、ざわめく周囲を素早く確認。ちょっと、おいで、と手を振って、突っ立った相手を呼びつける。怪訝に寄ってきた耳元に、片手で囲って口を寄せた。
「俺への熱烈なラブレター」
「──え゛?」
 セレスタンは引きつった。まじまじケネルの顔を見る。予想だにしない応えである。ケネルが顎を突き出した。
「なあんてな」
 にんまり笑って、セレスタンの胸を件の手紙でポンポン叩き、上着の懐へ無造作に突っ込む。
「……タ、タイチョー?」
 セレスタンは絶句で突っ立っている。狐につままれたような顔。確かに、日頃無口な隊長が軽口叩いてみせるなど、そう滅多にあることではない。いや、こんなの多分初めてだ。
 剃った頭をポリポリ掻いて、内心、ううーむ、とセレスタンは唸る。何せこの隊長は、街でもらった恋文でさえ、碌すっぽ開けもしないまま、ぽい、と、どこぞへ捨てちまうような神をも恐れぬ不届き者。そんな勿体なくも罰当たりな所業を平気で仕出かす折り紙付きのバカ──もとい面倒臭がり屋なんである。それが手紙を捨てずに持ち歩いていたのみならず、あろうことか読み返してニヤニヤしているというのだから、まさに驚天動地の大事件。いや、半端に一応打ち消したところをみると、冗談よん、との位置付けなのか……?
 二の句が継げないその顔に、ケネルは何を思い出したか、苦笑い。「まあ、 " 二つとない " には違いない」
 滅多なことは言えないセレスタンは、金の輪っかをシャランと揺らして、ツルツル頭を傾げるばかり。何せ相手は、一緒になってオチャラケて、うっかり怒らせでもした日には、シャレにならない御仁である。
「──つまり、」
 混乱し始めた頭を整理し、セレスタンは慎重に言葉を選ぶ。「それほど大事なものってことっすか」
 窮余の一策で無難な回答。しかし、基本的に人の悪いケネルは、知らん顔で聞いている。セレスタンは答えの精度を更に高める。
「大切な人からの手紙、とか?」
 ケネルは澄ました頬を綻ばせた。「……まあ、そんなところだな」
 手紙をしまった懐を見やって、ケネルの目が慈しむように細められる。だが、すぐに瞬き、顔を上げた。じぃ……っと様子を窺う物珍しげな上目使いに気付いたらしい。丸刈り頭に手を置くと、「さてと、こっちも昼飯にするか」と平手でグリグリ擦り撫でて、手を突き放した反動で寄り掛かった背を起こす。
 予期せぬ相手に弄ばれて、セレスタンは唖然と固まった。弁当片手に下げたまま後ろ姿を眺めやる。それを後目に隊長ケネルは、「うーん、そろそろ空(す)いたかな〜……」などと、のんびりまったりのたまいながら、人も疎らになってきた昼飯配給の列の方へと、一人ぶらぶら歩いて行った。
 
 
 
 疾走する栗毛の馬が、清涼な草原の風を切る。
 時は遡って、その日の朝、手綱を握る馬上のケネルは、向かい風に髪を靡かせ、進行方向に目を向けながらも、腹にしがみ付いた同乗者の様子を、時折チラチラ窺っていた。
「……何をそんなに怒っているんだ」
 堪りかねて理由を訊く。けれど、奥方様は、ぶっすう〜と拗ねてオカンムリ。ケネルの口調は困惑気味、若干面倒臭げな色も混じっている。実はこの問い、朝から既に三度目なんである。だが、只今膨れっ面継続中の奥方様は、やっぱり今度も、
「しらないっ!」
 短くなった髪を払って、ぷい、と、そっぽを向く始末。ケネルは小さく嘆息した。今朝方、集合場所の草原で、顔を合わせてからこっち、ずっと、この調子なんである。トゲトゲ頬を膨らませ、明らかに 「 あたし、今、すんっごく怒ってますからっ!」 と全身を使ってビシバシ宣言しているくせに、訊けば、無下にそっぽを向く。
「……あんたが考えることは、よく分からないな」
 ケネルは辟易と肩を竦める。そして、
「勝手にしろ」
 とうとう匙を投げたのだった。
 
 
 無礼この上ない野良猫とは違い、タンポポ隊の面々は 「ちょおっと、あたし憚(はばか)りに……」 とオホホ……と笑ってやったらば、特別追いかけては来なかった。金鎖中年も、カリアゲ君も、ツルツル金ピアスも、アゴヒゲ親父も、ダラダラ男も──扇形にカードを広げて円陣を組んだ一同は、肩越しに 「 あー、はいはい……」 とぷらぷら手を振っただけ。皆須らく、金の賭かった目の前の勝負に夢中である。もっとも、ついて来るって言ったって、適当に撒いてやるつもりだったけど。
 今日は彼らとお昼ごはん。別誂品の可愛いランチをるんるん受け取り、すわ、ご飯──! と野良猫を誘いに行ったらば、何やら用があるらしく、偉そうな態度で追っ払われたのだ。
 前に続くは細くうねった崖への道。早足で歩いて、草原の木陰から風道に入る。さっきケネルが入って行くのを見かけたからだ。両手を振ってズンズンと、乾いた地面を踏ん付けて歩く。エレーンはブチブチごちていた。
「……なによお、ケネルの女たらしぃ!」
 " ぷりしら " だけでは飽き足らず!
 昨夜ゆうべ、ケネルは、知らない女と妙にソワソワ出て行った。あの女が何なのか、きっちりヤツを問い詰めてやろうと、シンシン寒いゲルの中、ケネルの毛布に包まって、ずぅっと、ずぅっと待っていた。それなのに、待てど暮らせど戻って来やしない。付いて来るなと言い置いて、女と出てって、それっきり。その内、包まった毛布がヌクヌクしてきて、ついついうっかり横になったら、いつの間にやら夢の中。布団に残ったケネルの気配で、安心しちゃったらしいのだ。
 妙に心地良くうたた寝し、そして、んがーっ! と本格的に眠りに就いて、眩しい朝陽と小鳥の声とで、は……っ!? と気付いて目覚めた頃には、ケネルはもういなかった。こっちの陣地の北側の寝床は畳んで寄せてあったから、知らん顔してヒトの布団で寝(やがっ)たらしい。何たる不覚! 
 だったら、ご飯の時にとっちめてやろうと準備万端待ってたら、ケネルはやっぱり帰って来なくて、エサを食いに来た野良猫と、わーわーギャーギャー朝ご飯。そして、いつもの如くに食べ終わり、集合場所まで、これ又いつもの如くに、しょっ引かれるようにして連行された。結局ケネルと会ったのは、皆との合流地点で馬に乗った時だ。
 ケネルのヤツをとっ捕まえて、訊いてやろうと思ってた。あの女が何なのか。だって、あんな夜中に外で話すなんて普通じゃない。そうよ、どういう関係よ。そもそも、あの女もあの女だ。あんな夜中に押しかけて来るなんて。あー、なんか、すっごい非常識に思えてきた! ケネルとすれ違って訊けなかったけど、周りに人がいて訊けなかったけど、
 
 絶対、白状させてやる──!
 
「──どこ行ったのよー、ケネルのヤツぅ〜!」
 拳を握った腕を振り、地面を踏みしめ、ズンズン進む。木立の先をキョロキロョロ見回す。ケネルが席を立ってから、それほど時間は経ってない。樹海の中は広いけど、見つけられる自信はあった。どうしてなんだか、ケネルだけは、どこにいたって大抵分かる──
 ふと、エレーンは足を止めた。
「……ケネル?」
 藪から不意に漏れてきたのは、微かな笑い声だった。でも、何かしっくりこない。だって、あのケネルが笑ってる、なんて。
 思わぬ事態に困惑する。人違い?──でも、間違える筈はない。多分ケネルだ。左の樹海に気配を感じる。
 茂みの先を透かし見て、足音をひそめて、そっと近付く。誰かと一緒にいるらしい。でも、確かにさっきは一人きりだったのに。
 風道を逸れて樹海に入り、そこで話しているようだ。まるで人目を憚るように。
 ──引き返そうか?
 踏み込む足を、ふと、ためらう。進むに進めず、両手を握ってジタバタ逡巡。心臓がどきどき速まった。無人の周囲をそわそわ見回す。だって、なんか、すっごい怪しい。わざわざ引き篭もって何の話? これって、まんま密会とかじゃ──? でも、
( 誰と、会ってるの……? )
 ふと、興味をそそられた。
 爪先立って、木立の先に目を凝らす。そもそも、こんな目の前まで来ておいて、おいそれとは戻れない。ここで鉢合わせになったとしても、近くで休憩してるのだから、そんなに不自然なことじゃない。偶然通りかかった振りで割り込めばいい。笑い声が聞こえたくらいだから、深刻な話じゃないんだろう。それに、ケネルは怒らない。何をしたって怒らない。ケネルにピッタリ張り付けば、相手も多分、譲ってくれる。
 だって、ずっと我慢してた。冷たくされた昨日の今日で、本当は一時だって離れてなんかいたくない。しっかリケネルにしがみ付いてないと、不安で不安で堪らない。休憩が終わって集合すれば、きっと、うやむやになってしまう。ケネルが出て行った昨夜ゆうべから、胸が重たくわだかまって、息苦しくて仕方がないのだ。ケネルの口から 「なんでもない」 と答えを聞いて、早く安心したいのだ。だって、昨夜ゆうべのあの女、
 ──あの女、誰?
 足が勝手に前へと進んだ。会いたい気持ちが躊躇に勝った。意を決して進んで行くと、大木に寄り掛かったケネルが見えた。煙草を利き手の指に挟んで、寛いだ様子だ。まだ少し距離があるから会話の内容までは分からないが、顔は親しげに笑っている。ケネルの左斜向はすむかい、手前の木陰に、誰かいた。部隊の人ではないようだ。木立の向こうに少しだけ見える服装が、ケネル達の服とは違う。地味な色合いの風避けの外套──あれは旅装サージェだ。ケネルの方を向いているから、顔は全く分からない。随分と小柄だ。ケネルの肩までの背しかない。
 不意に、木陰の旅装が身じろいだ。後ろ姿が半分見える。肩までの真っ直ぐな髪、フードは被ってない。刹那、ケネルを仰いだ横顔が、一瞬だけ垣間見えた。
(──きれいなひと!? )
 心臓が、鷲掴まれた。
 不測の事態に立ち尽くす。肌の白い整った顔立ち。肩まで伸ばしたサラサラの髪。華奢な体躯の繊細そうな美人だ。当惑してたじろぎつつも、ふと、それに思い至る。もしかして、あの人、
( まさか、昨夜ゆうべの──!? )
 危うく声が出そうになって、慌てて両手で口を押さえる。ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
 
 ──夜遅くに押しかけて来た、あの非常識女か!?
 
 愕然と見やった耳元で、女の声が蘇った。昨夜ゆうべ、戸口の向こうから聞こえてきた、慌てたような細い声。鈴を転がしたような、か細い声──。
 ケネルの態度は無造作だ。煙草の手を持ち上げて、何事か熱心に話しかけている。エレーンは、むっ、と拳を握った。なあによ。こっちの時には、何を話しても碌に聞こうともしないくせに! 
 ケネルの顔は和やかだ。寛いだ様子で楽しそう。話を聞いていた向かいの女が、呆れた仕草で身じろいだ。途端ケネルは困った顔で頭を掻いて、女に向けて足を踏み出す。腕を差し回して、なだめるように肩を抱き──。
 クルリ、と踵を返していた。唇を強く噛んだまま、逆方向へ歩き出す。今来た藪を急いで突っ切り、行き当たった風道も、足を止めずにそのまま横断、向かいの樹海に一直線に逃げ込む。道なき道を、ひたすら進んだ。だって、あんなケネルは見たくない。邪魔な野草を両手で掻き分け、歯を食いしばって、がむしゃらに進む。
「──たっ!?」
 とっさに手を引っ込めた。
 手の甲が切れていた。草を考えなしに掻き分けたからだ。鋭い傷がヒリヒリ痛んだ。でも今は、少しでもあそこから離れたい。
 エレーンは構わず歩き出した。前方に広がる森の景色は、目では見ている筈だけど、全く見えてはいなかった。たった今、目撃してきた二人の親密な光景が、打ち消してしまいたい談笑が、悪夢のようにグルグル回る。女の肩を抱いて夜の草原に出て行った、昨夜ゆうべのケネルの背中とダブる。
「……絶対に、昨夜ゆうべの女だ」
 すさんだ確信が口をついた。突き進む前方を睨んだままで、親指の爪を苛々と噛む。昨夜ゆうべ、二人で出て行った時に、こっそり落ち合う約束したんだろう。でも、何もあんな風にコソコソしなくたって! そうよ、堂々と会えばいいじゃない! そんなに皆に知られたくないの? そういう内緒の相手だから──? はっ、と唐突に思い出した。
( あの手紙の、差出人──? )
 ケネルの手元を覗き込んだら、慌てて隠した青い便箋。多分ケネルは肌身離さず持っていた。ずっと大切に持っていた。紙が毛羽立って薄汚れ、四隅が擦れて丸まる程に。それ程までに思い入れの強い便箋、
 ──思い入れの深いあいて
 ケネルは照れたように笑ってた。こっちといる時には、いつでもムッツリしているくせに。そうよ。ケネルは、いつだって、あんなに優しく笑いかけたりしない。声を張り上げて怒っても、優しくなだめてくれたりしない。
 あの女にしていたように。
「……ケネルの馬鹿!」
 声を飲んだ喉の奥が、熱い。固く握った拳が震えた。
 ケネルの馬鹿! ケネルの馬鹿! ケネルの馬鹿──!
「おい、お前!」
 ギョッとエレーンは飛び上がった。いきなり、ぞんざいに怒鳴りつけてきたのは、荒っぽい銅鑼声、全く知らない男の声だ。でも、見渡す限り周囲は無人で、どう考えても自分を呼んだようにしか思えない。
 慌てて、そちらを振り向けば、鬱蒼と生い茂る藪の向こうに、男が三人立っていた。やはり、どの顔にも見覚えはない。無論、草原で休憩している部隊の人達でもない。そもそも格好が全く違う。三人は着古したジャンバー姿、薄汚れたシャツで、腰には短剣、どことなく柄の悪そうな風体だ。どこか荒んだ雰囲気は、先日襲ってきた強盗団のそれに近い。
「……な、何か」
 反射的に笑って小首を傾げた。堅気じゃないのは分かったが、とっさに、へらへら、お愛想笑い。これも元庶民ゆえのさがなのか。もっとも、今回は、いつの間にか取り囲まれてた強盗事件とは事情が違って、ちょっとばかり余裕がある。幸い、相手との間に距離があるし、障害物の藪もある。出来ることなら、ああした手合いは穏やかにやり過ごすのが一番だ。そもそも、まだ何にもされてはいないのに、喚き散らす訳にはまさかいかない。よって、いつでも助けを呼べるよう喉の調子だけは密かに整えスタンバイ、ビクビクしながら様子を窺う。
 三人は小首を傾げて突っ立ったままだ。どうしてなんだか近寄って来ない。中央の男が薄汚れた紙を持ち、訝しげに目を眇めて、しきりにこっちと見比べている。こっちの顔をチラチラ見ながら、「……いや、まさか違うだろ」「でもよ、こんな所にいるならアレっきゃねえだろ」「でもよ、あんな変てこな頭だぜ?」等々感じ悪くもヒソヒソぼそぼそ、怪訝な顔で密談している。
 二の足踏んだ様子から、強い躊躇が伝わってくる。しばし、男達はこっちの顔を名残惜しげに見ていたが、
「もういい、行け」
 結局、左端にいたムサい無精髭に、シッシ、とぞんざいに手を振られた。一同、やれやれ、と散って行く。「お前はそっちを捜せ」「なら、俺はこっちだ」などと互いに声をかけ合いながら。すっかり興味が失せたらしい。無駄足だったと言わんばかりだ。木立に紛れていきながら、左に進んだ不精髭が「ちっ!」と肩越しに舌打ちした。「──紛らわしいってんだよ 《 遊民 》が! こんな所をウロつくんじゃねえ!」
 身勝手この上ない捨て台詞。
「──はあっ!?」
 エレーンはムッと拳を握った。なにそれ失礼。呼び止めたのは自分じゃん! 
 まったくもって理不尽である。けれど、あいにく多勢に無勢、見知らぬオッサンに喧嘩を挑み、凄まれちゃうのは、チト恐い。よって、ガサガサ去り行く三人組には決して絶対見えないように、「いーっ!」とあっかんべで報復し、真逆に踵を返してやった。
 けれど、怒りは収まらない。むしろ、この種の負け惜しみ的ムカつきは、大抵後から来るものだ。エレーンは大地を踏み鳴らして歩き出した。踏んだり蹴ったりだ。よりにもよって、こんな時に。しかも、あんなムサいオッサンにまで変てこ呼ばわりされる始末だ。
「……んもおっ! なんなのよっ!」
 むかむかする。
 今日は碌なことがない。いや、碌なことがないのは昨日からだ。髪の毛切られて変な頭にされるわ、ケネルは非常識女と逢い引きしてるわ、無礼なオッサンには妙な因縁付けられるわ──!
 込み上げる怒りに大手を振って、見知らぬ森をぷりぷり進む。全く知らない森ではあるが、そんなこと、どうだっていいんである。だって、構っていられる気分じゃない。背後で何やら野良猫が 「 野郎!? ネズミ──! 」 とか怒鳴ったような気がしたし、ドカッ、だとか、バキッ、だとか、妙な音とか悲鳴とか色々聞こえた気もしたが、構ってられる気分じゃない! 緑溢れる前方を睨み、地面を思い切り踏ん付けて、ただただ森をズンズン進む。
「……みんな、ケネルのせいなんだから!」
 込み上げた涙で視界が滲んだ。堪えた胸がグッと詰まる。足を止め、唇を強く噛み締めた。
 しばし、そのまま立ち尽くす。腕を持ち上げ、目を拭った。
「──ケネルの、ばかあ」
 
 しばらく、ゴシゴシ目を擦り、エレーンはのろのろ歩き出した。森は静まり返っていた。何処かの高い梢の先で、甲高い鳥の声がする。あてどなく森を彷徨った。どこへ行っても、荒立った気持ちの持っていき場がない。
「……海が、見たい」
 ふと、エレーンは振り向いた。波打ち寄せる海音が、微かに耳に届いていた。樹海の東は大陸の端、その先には海がある。
 吸い寄せられるようにして足が出た。躊躇いがちの足取りは、すぐにも小走りするまで速まった。息を喘がせ、両手を振って、立ち塞がった大木を避け、節くれだった樹幹を左に回る。
 ドン、と何かにぶつかった。樹や岩ではない。そんなに硬いものではなくて、強く顔にぶつかったのは、硬くはあれど、布地の感触。
「──ご、ごめんなさい!」
 慌てて顔を振り上げる。でも、かなり奥まで入ってきたのに、こんな所に、まだ人が──?
「……なんだあ?」
 忌々しげに振り向いたのは、薄汚れたジャンバーの男だった。顔は厳つい無精髭。──て、この顔何処かで見たような──。向こうも、すぐに気付いたようだ。
「又、お前かよ……」
 辟易とした表情で、不愉快そうに舌打ちする。「とっとと失せな。目障りなんだよ。たく、邪魔っけだったら、ありゃしねえ」
 さっきの怪しい三人組、その内の一人だった。他の二人がいないから、別行動をとったらしい。不躾で無礼な男の態度に、エレーンは、むっ、としつつも、男を避けて歩き出す。男は忌々しげに見ていたが、何かに興味を引かれたらしい。足を止めて振り向くと、ツカツカ目の前まで歩いて来た。
 出し抜けに、左手首を掴まれる。
「……へえ。まともな銀だぜ。お前、《 遊民 》 のくせに、中々いいもん持ってんじゃねえかよ」
 値踏みするように目を細め、男が左の手を眺めていた。強い握力に顔をしかめ、エレーンはそれに気付いて息を呑む。この男の目当ては、
 ──" 指輪 " だ。
 血の気が引いた。クレストの家紋が見つかれば、大変なことになってしまう。掴まれた手をとっさに払って、左の掌を握り込む。右手で指輪の家紋を隠して、素早く背を向け、そそくさ離れる。
「待ちな」
 男が肩を掴んで引き戻した。案の定、言った。「その指輪、こっちに寄越しな」
「な、な、なに言ってんの!? 冗談じゃないわよっ!」
 喉が引き攣り、声が裏返りそうになる。男の手が左手に伸びる。エレーンは身をよじり、手足を振り回して抵抗した。だが、腕力の差は歴然だ。庇った右手を引き剥がされるのに大して時間はかからなかった。
「…… " 昇り竜 " ?」
 左手を荒っぽく持ち上げた男は、指輪に彫られた装飾を見つけて、面食らった顔をした。「こいつは確かクレストの──。なんだって、《 遊民 》 風情がこんなもの、」
 指輪から、怪訝な顔で目を返す。「──まさか、このアマ、手配書の!?」
 いきなり胸倉を掴まれる。男の無精髭が近付いた。
「てめえ、この指輪、どこから盗んだ?」
「……し、失礼ね! あたしのよっ!」
 エレーンは必死で首を振る。容赦なく吊るし上げられ、靴の先が浮いていた。気道を強く締め上げられて、息が苦しい。冷ややかな揶揄で、男が嘲笑った。「嘘をつけ。こんな小洒落た銀細工、羊飼い風情の持ち物じゃないぜ」
 片手を手荒く突き放す。大木の根元に蹲り、エレーンは激しく咳き込んだ。気配を感じて反射的に振り向く。男がすかさず乗りかかってきた。はっ、と見やったその途端、左の頬に激しい衝撃──。
 何が起きたか分からない。痺れた頬の異様な熱さに、今、頬を張られたのだと少し遅れて気が付いた。だが、見知らぬ赤の他人から、何故こんな目に遭うのか分からない。
 呆然と見返し、背筋が凍った。その顔にあるのは剥き出しの敵意。あからさまな害意を叩きつけられ、全身が居竦まる。それだけで心が萎えそうだ。けれど、
 エレーンは唾を飲み込んだ。
 ──ここで引いたら、お終いだ。
 左の拳を必死で庇った。屈服を望む弱い心を叱咤して、圧し掛かる相手を睨み据える。男が憎々しげに目を眇めた。
「《 遊民 》 風情が生意気に!」
 再び胸倉を掴まれた──と気付いた直後に、左の頬に強い衝撃。続いて右。続いて左。一方的な殴打に息もつけない。殴られ蹴られて、痛みで気が遠くなりかける。せめて体を丸めて左手を庇った。指輪の感触を確かめる。食いしばった口の中に、鉄の味がじわじわと広がる。
「……強情な!」
 忌々しげな舌打ちが聞こえた。うつ伏せた頬に、硬い地面がひんやり冷たい。意識が朦朧として、体が上手く動かない。ぐい、と後ろ髪が掴まれた。幹に手荒く叩きつけられる。肩で荒く息をつき、やっとのことで薄目を開ければ、男が地面に唾を吐き、利き腕を面倒臭げに動かして、
 スラリ──と短刀を引き抜いた。
「おい、知ってるか、薄汚ねえ遊牧民」
 鋭利な刃に息を呑む。野卑な笑いで、男が嘲笑った。
「ここカレリアじゃあ、《 遊民 》風情殺したところで何の罪にもならねえんだぜ?」
 耳を疑った。
 
 この人は、何を言ってるの……?
 
 愕然と男を見返せば、研ぎ澄まされた切っ先が、ゆっくり目の前を通過する。
「お前、命は惜しいかよ」
 慄然とした。
 
 ……本気だ。
 本気で自分を殺そうとしている──!?
 
 自分が置かれた状況を、不意に正確に自覚する。過度の緊張がせり上がり、喉を鳴らして唾を飲む。今すぐ、ここから逃れたい。何もかも全部差し出してしまいたい。それで命が助かるなら。命あってのモノダネだ。でも、──
 道端に積まれた夥しい青が、怯えた脳裏を不意に過ぎった。折り重なった軍服の屍。全てを焼き尽くす戦火の炎が、街を包んで燃え上がる。
 エレーンは切れた唇を噛み締めた。この指輪は自分のだけど、自分だけのものじゃない。これには、クレスト領家の家紋がある。そん所そこらの指輪じゃない。こんな男に渡ったら、何が起こるか分からない。そうよ、
 
 ── あたしは、クレスト領家の " 奥方様 " だ。
 
 恐怖で喉が凍りつき、叫び声さえ出なかった。蛇に睨まれた蛙のように、逃げ出そうにも足腰が立たない。それでも、わななく唇を噛み締めて、脅す男を睨み返す。
「そいつを寄越しな、遊牧民。お前と遊んでる暇はねえってんだよ」
「……い、嫌よ」
 男がギロリと殺気立った。
「とっとと、こっちに寄越しやがれ!」
「渡さないっ!」
 とっさに叫び返していた。男の顔が獰猛に歪んだ。
 刹那、鋭く振り被った白刃が、穏やかな木漏れ日に翻った。
 
 
 
 右手の白い包帯が、野草の海を歩いていた。
 柔らかな髪を風に靡かせ、足を引き摺る少年は、世界の果てを遠く眺めて立ち止まる。
 風吹き渡る常夜の草海、昏く澄んだ水底が、ごぼり、と一つ泡立った。
 深く苔むした原始の森で、
 永久とわに続いた白夜の果てで、
 開かれたドアを無限に映す、冷たい静寂の鏡の向こうで、
 白く透き通った首をもたげて、蒼い獣が目を覚ます。
 
 キン──と冴えた心の芯を、吹き往く風に撫でられて、
 緑梢の下、一人、膝を抱えたウォードが、思索の縁から顔を上げ、
 報告を受ける副長ファレスが、退屈な調べこえから意識を解き、
 戯れ、差し回した腕を止め、ケネルが肩越しに息を殺して、
 樹海の南を振り返る。
 
 よく晴れた昼下がり、
 木陰で寝ていた野戦服の肩が、欠伸(あくび) をしながら、寝返りを打った。
 落ち降る木漏れ日、
 遠く怠惰な密やかな喧騒、
 
 ざわり、と木立がざわめいた。
 
 
 
 
 

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