CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 5話4
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 バン──! と何かが破裂した。
 反射的に首を竦めて、強く奥歯を食いしばる。我が身を強く掻き抱き、エレーンは固く目を瞑った。俯いた頭に、肩に、手足に、何かが激しくぶつかってくる。上からもバラバラと降ってくる。──通り雨だろうか。けれど、降り方があまりにも唐突で、雨にしては生暖かい。
 指輪の嵌った左手を庇い、可能な限り手足を縮めて、ただただ体を固くする。すぐにも降りかかってくるであろう壮絶な痛みに必死で備え、目は固く瞑ったままだ。今、目を開けたりすれば、打ち下ろされる恐ろしい凶刃を見てしまう。
 ビクビクしながらしばらく待ったが、だが、待てど暮らせど、いつまで経っても痛みが来ない。やがて、頬に風を感じた。緩い風、いやに静かだ。瞼は固く閉じたまま、エレーンは怪訝に首を傾げる。ふと気がついた。圧し掛かられた圧迫感が綺麗さっぱりなくなっているような? 閉じた瞼を恐る恐る開ける。
 エレーンは愕然と目を見張った。男が、いない。
「……ど、どういうこと?」
 たった今迄、物騒な刃物を振り上げていたのに。
 男の姿が掻き消えていた。ペタリと座り込んだまま恐る恐る背を起こし、おっかなびっくり辺りを見回す。森は穏やかに静まり返り、男の姿はやはりない。見渡す限りどこにもない。遠くの木陰にも人影はない。視界一面、漏れ降る木漏れ日。ただただひっそりと、穏やかに深い《 影切の森 》が静けさを湛えて広がるばかり。
 狐につままれた思いで、エレーンは呆けたように立ち上がった。とっさに呻いて膝をつく。全身が軋んで悲鳴を上げた。崖っぷちの危地が過ぎ去り、気の緩んだその途端、打ち据えられた傷の痛みが息を吹き返してしまったらしい。それでも、容赦なく襲いかかる未曾有の痛みを、動かない体をなだめすかして無理を承知で立ち上がる。この状況は奇異だった。人一人が目の前で、忽然と掻き消えてしまったのだ。虚ろな足が、一歩、二歩と前に出る。静まり返った森の木立を茫然と見回し、立ち尽くす。踏み出した足の靴の下、ピチャ、と小さな水音がした。水溜りを踏んだかと慌てて足を引き上げれば、野草の下の黒土が、どうやら濡れているようだ。ふと、空を仰いだ。
「……雨?」
 の筈はない。空は高く晴れている。他とは異なる黒の深さが、意識の何かに引っ掛かった。そういえば、周囲の木立も、幹が所々黒っぽい。水を浴びせ掛けられでもしたような。そう、なんだか濡れているような──。
 梢の先の晴れ渡った空を、もう一度確認して仰ぎやり、幹が黒ずんだ近くの木立へ何の気なしに足を向ける。
「あー、かかっちゃった? あたまにすれば、よかったな」
 ギクリ──と足を引き止めた。樹海に場違いな子供の声だ。怪訝に周囲を見回せば、すぐに出所は見つかった。背後の木立に、ひっそり佇む小さな影。
「あ、あんた……?」
 エレーンは当惑して首を傾げた。愛らしく稚い男の子だ。年の頃は五、六歳。たった一人で立っている。保護者らしき者はない。子供特有の柔らかそうな素直な髪が、森の微風にサラサラ揺れた。細い肩に、細い手足。袖と裾を折り返した随分寸法の大きな服。
「──ごめんね。ぼく、人は、、はじめてだったから」
 子供が戸惑ったように言い訳した。予定外だったと言わんばかりの口振りだ。だが、エレーンには何の話か分からない。ただただ、ぽかん、と顔を見た。
( な、なに? いきなり "ごめん" って何の話? それに、この子、いったい、どこから? 今まで誰もいなかったのに…… )
 静かな森をキョロキョロ見回す。子供は息を吐いて身じろぎし、困惑したように頭を掻いた。「そんなにいっぺんにきかれても、ぼく、こたえられないよ」
「……え?」
「どれから、こたえたら、いい?」
 エレーンはギョッと引きつった。
( 応答してる!? )
 こっちの " 心 " に。
 いや、これと似たようなやりとりが、以前どこかでなかったか。そういや、この子、なんか、どっかで見たような──? 子供の顔を、まじまじ見つめる。穴が空くほど。そして、
「あんた、誰だっけ?」
 うっかり訊いた。本人に。
 長いまつ毛を瞬いて、子供は「え?」と小首を傾げ、呆れたように息をついた。
「だから、──ケインだってば! ぼく、ちゃんと、そういったよ?──ちゃんとおぼえてよ、おばちゃん!」
「 " けいん " ?」
 阿呆のように復唱した。一昨日世話になったキャンプの子供だった。
 
 思いがけない再会に、エレーンは茫然と呟いた。
「で、でも、なんで、こんな所に……」
 あまりに意外で唐突だ。ケインは屈託なく言う。「ぼく、おばちゃんに、あいにきたんだ」
「あ、会いに来たって、あんた……」
 エレーンは当惑した。どう考えても不自然だ。このだだっ広い樹海の中、まさにこの場所、この地点に、場所を誤ることなく現れるなんて、滅多なことで出来る芸当ではない。投宿予定のキャンプに現れたというなら話はともかく。樹海の中など、これ以上ないというくらいに人捜しには不向きな場所だ。風道を外れて樹海に潜れば、気心知れた同行者でも、居場所の特定は困難だ。そもそも、こちらは大陸を南下している最中なのだ。この子が身を置く遊牧民のキャンプは、夏営地目指して北上している。互いに真逆に進んでいるから、経過した日時の分だけ距離が離れている訳で──つまり、遠く離れたキャンプの子供が、今時分こんな森にいる筈がないのだ。考えあぐねて、もてあまし、戸惑い気味に顔を覗く。「──あ、あのね、ケイン。誰か大人と一緒に来たの?」
「ううん。ぼく、ひとりだよ」
 きょとん、と見やって、子供は、ちがう、と首を振る。
「一人って……。でも、もしも、森で迷子になったら、一人で来たら危ないでしょ」
 はっ、と物騒な懸念を思い出した。「そ、そういえば、あの人は──」
 あの強暴な物盗りが、まだ近くにいるかも知れない。あの男は《 遊民 》を殺すことなど何とも思わない残忍な輩だ。こんなところが見つかれば、この子が顔を見てしまったら、この子も危ないかも知れないではないか。
 生い茂った野草の陰で、あの男がじっと息を殺して様子を窺っているように思えて仕方がなかった。一度そう思えば、穏やかな森の静けさが却って不気味に思えてくる。潜伏者の影に怯え、足の先まで震え上がって、森の木立をとっさに見回す。
「いないよ」
 甲高い声が唐突に応えた。声が聞こえて来たのは、前方、胸の下辺り──。ケインだ。小さな口を尖らせて、自分の足元を睨んでいる。吐き捨てるように憮然と続けた。「あんしんしていいよ、おばちゃん。あいつはもう、いないから」
「い、いないって、」
 断言した幼い声は、微かな怒気さえ孕んでいる。
「──どうだっていいじゃない、あんなやつのことなんか」
 呆気にとられて見ていると、「そんなことよりさ」と振り向いた。不自由な足を引き摺って、もどかしげに駆けて来る。細い腕を大きく広げて、ケインが強く地を蹴った。
「おばちゃん! だっこ!」
 満面の笑み。
「──だ、だっこぉ!?」
 出し抜けに腹に飛びつかれ、エレーンはギョッと後退った。「な、な、なんで、あたしがそんなこと──!」
「おばちゃん、ぼくのこと、すきって、いった!」
 間髪容れずに、ケインは断固、強硬抗議。駄々をこねるようにそう言って「ちがうの……?」と小首を傾げた。
「……う゛」
 エレーンは成す術もなく硬直した。それについては身に覚えがある。あの朝、出掛けに、これ見よがしなケネルの嫌味に対抗し、近くの子供をダシに使った覚えがある。多分この子だ。調子に乗って頭をすり撫で、こねくり回し、熱烈歓迎したような覚えも、うっすら記憶に残っている。だから、ケインの言い分ももっともで、それはもう紛れもない厳然たる事実である訳で──。
「おばちゃん! ぼく、あいたかったよ!」
 小さな両手が腹にシッカと抱きついてくる。
「……う゛」
 エレーンは進退窮まり固まった。ケインは、おへその辺りに顔を埋めて上機嫌でスリスリしている。ずり落ちた上着の袖の下に、包帯を巻いた手の甲が覗いている。 急な話に困惑しつつも、エレーンは小さな頭に手を置いた。
「ねえ、ケイン、あんた、どうやって、ここまで来たの? 馬で来たの? 荷馬車に乗せてもらったの? あんたがこっちに来てること、あそこの人達は知ってるの?」
「ぼく、ときどき、おばちゃんのこと、みてた」
 相手の困惑に構うことなく、ケインは自分の事情を説明する。「ああいうふうにしてもらったの、ぼく、はじめてだったから」
 エレーンはギクリと狼狽えた。冷や汗がタラリと滴り落ちる。 " ああいう風 " とは、あの時の愛情過多なじゃれ合いのことを言っているのだろう。けれど、あれは、ほんの些細な戯れに過ぎないのであって……。
 あれについてはキッチリ終わったつもりでいたのに、真摯な思慕を明かされて、ドギマギ狼狽え大いに当惑。だが、身勝手な都合は子供には通じない。子供は相手の言動を額面通りに受け取る生き物。裏に潜んだ思惑を、気を利かせて汲んだりしない。
「あんなことしてくれるひと、いままで、だれも、いなかった。ああやってギュッとしてくれたの、ぼく、おばちゃんがはじめてで、だから、おばちゃん──なんか、かあさんみたいで」
「え?」
 胸を突かれた。照れたように付け足された最後の言葉に、彼の事情が窺えた。そう、あのキャンプの子供らは、親と離れて暮らしているのだ。その寄る辺ない身の上は、日々多忙な両親を持ち一人置き去りにされていた遠い記憶と重なった。少年の母を慕う切実な想いが、幼い頃に満たされなかった己の想いと共鳴する。二の句が継げずに立ち尽くしていると、顔を擦り付けながら、ケインは続けた。
「きょうも、みたんだ、おばちゃんのこと。そうしたら、あいつが、おばちゃんのこと、ぶって、いじめて!──だから、やっつけてやったんだ!」
「" やっつけた " ?」
「うん! だから、もう、こわがらなくていいよ、おばちゃん!」
 仰いだその顔は、褒めてくれ、と言わんばかりに得意げだ。エレーンは恐る恐る訊いてみた。「……ケインが、やったの?」
「うん、そうだよ。ぼくがやった」
 コクリと頷き、ケインはあっけらかんと肯定する。返事の内容を受け止めかねて、エレーンは戸惑い、首を傾げる。
「でも、どうやって? どうやって、やっつけたの? どこに行ったの? あの人は」
 ケインは面食らった顔をした。困惑されたのが意外だったらしい。一瞬応えを躊躇って、だが、やはり、ぶっきらぼうに言う。
「けしたんだ、ぼくが。──だいじょうぶだよ。わるいヤツは、もう、いないから」
「……け、消したって」
 返事に窮して、エレーンは唖然とケインを見る。確かに、あの男は煙のように消え失せた。けれど、この子の言う " 消した " の意味が分からない。ケインは俯き、口を不満気に尖らせている。
「……ぼく、たすけてあげたのに」
 小さな体を激しく揺らして、頭上の手を振り払った。小さな拳を固く握って、間癪を起こして歩き出す。
「なんで、そんなかおするんだよ! なんで、そんなふうに、ぼくのこと、みるの?」
 引き摺る足で、もどかしげに歩き回り、苦しげに顔を歪めて縋る視線で訴えた。
「おばちゃんも、ぼくのこと、きらい?」
 閃光が森に走った。
 背後からの突風が、清涼な空気を鋭く切り裂く。ケインがいるその場所を目掛けて。
「──ケ、ケイン!?」
 エレーンは目を見開いて見直した。何が起きたか分からない。ケインがいなくなっていた。その場所を入れ替わり、凝視の先には、刃を振り切った前屈みの背。見覚えのある白いシャツ。
「ノッポ君!?」
 愕然と、エレーンは見返した。あのウォードだ。長身の背をのっそり起こし、踏み込んだ足を元に戻して、ウォードは面食らったように自分の足元を見下ろした。
「……あー、転んだのかー。運いいねー」
 見下ろすウォードの視線を辿れば、ケインが尻餅をついていた。こちらも目を見開いて、何が起きたか分からない様子。軽い体が凄まじい風圧で吹っ飛ばされてしまったか、不自由な足が地面の窪みに取られたか、何れにせよ、ペタリと尻餅をついたまま、ウォードを仰いで目を瞠っている。
「小さいヤツはやり難いなー」
 口の中で小さくごちて、ウォードは頭を掻きながら、足元のケインに近付いた。ケインはジリジリ後退る。視線はそちらを捉えたまま、ウォードが短刀を無造作に振った。「エレーン、ちょっと向こうに行っててー」
 ひゅん、と剣呑な刃の音。
「な、何する気なの、ノッポ君」
「コイツ、ちゃんとやっとかないとねー」
「──や、" やる " って何!?」
 ケインは奥歯を食いしばり、ウォードの顔を睨み付けている。ウォードは、小首を傾げて銀の抜き身を弄ぶ。
「失敗して悪かったね―。でも、次はたぶん大丈夫」
 ケインの小さな体の後ろ、地面についた包帯の右手が、ぐっと固く握られた。ウォードの足がピクリと止まる。
 ザン──! と木立が激しく鳴った。エレーンは、ぽかん、と辺りを見回す。「……ど、どこに行ったの、ノッポ君は」
 ウォードがいなくっていた。たった今迄、ケインの前に立っていたのに。
 姿が忽然と消え失せていた。尻餅をついた小さなケインが仰向いた体をゆっくり起こし、膝を折って立ち上がる。少し離れた周囲の茂みで、草木がガサガサ音を立てていた。唐突に上がる音の軌道を、ケインは静か追っている。エレーンには何がなんだか分からない。おろおろケインに踏み出した。「……ケ、ケイン」
「どいてて、おばちゃん」
 ケインが鋭く一喝した。有無を言わさぬ強い口調だ。肩幅に開いた脚の横、ケインは両手を握り締める。藪が動いたその直後、パシン──! と凄まじい音を立て樹幹が鋭く抉られた。エレーンは驚愕に目を瞠る。
( 今のなに!? 何があったの!? )
 誰も何もしていない、その筈だ。跳ね飛ばされた野草が舞った。固く乾いた音を立て、樹幹が鋭く弾け飛ぶ。四方に飛散した木片が、地面にバラバラと降りかかる。パシン──! と大きな音を立て、枝がバサリと落下した。幹の側面が弾け飛び、歪(いびつ)に深く抉られる。森の奥の大木がメリメリと重厚な音を立て、梢を揺らして倒れていく──。
 エレーンは息を飲んで見守った。懸命に目を凝らしても、何が起きているのか分からない。周囲の樹木が勝手に鳴っては壊れていく。一人じっと立っていたケインが、やがて力を抜いて身じろいだ。包帯の手をゆっくり持ち上げ、腕で額の汗を拭く。小さな肩が乱れた呼吸を整えている。
 カサ……と小さく茂みが鳴った。ケインの背後、左の茂みだ。ふとケインが見やったのと、藪が大きく鳴ったのは、ほぼ同時だった。
 陽光を遮り高く跳躍した白い何かが、ケインの小さな背中を目掛けて、獰猛な勢いで踊りかかった。はっと気付いて、ケインが振り向く。だが、既に遅い。華奢な肩を掴んだ何かが、小さな体を背中から地面に引き倒していた。あれは──。
「ノッポ君!?」
 背中を強かに打ちつけられて、転がったケインが顔を歪めて小さく呻いた。仰向いたその顔を、間髪を容れずにウォードが掴む。
「オレの勝ちー」
 楽しげな快哉を上げ、ウォードが獲物の顔を覗き込んだ。「これで失くなったろー、お前のセカイ 」
「……せかい?」
 唖然としつつも、エレーンは大仰な言葉に首を傾げた。何を言っているのか分からない。薄笑いを浮かべたウォードの顔は、ふざけているようにも、戯れているようにも受け取れる。頭側に膝を折ったウォードの手前で、ケインは手足を振り回している。片手で頭ごと目隠しされて、小さな体が目茶苦茶に暴れる。死に物狂いだ。頭を押さえるウォードの姿は剥き出しの野生を感じさせた。力尽くで押さえ付ける前屈みのしなやかな姿は、獣の狩りを見るようだ。
( 早く誰かに止めてもらわないと! )
 助けを求めて、エレーンはそわそわ見回した。ウォードが何を意図してこんなことをしているのか理解出来ない。
( ……どうして、あんなことを? あの子にじゃれて遊んでいるの? ううん、違う。そういうんじゃない )
 利き手の刃が鈍く目を射た。
 
 ──あの子を殺す気!?
 
 エレーンは慄然と硬直した。鈍く光る冷たい刃。立ち込めていた不安が顕在化し、体の芯が一気に冷える。ウォードは短剣を放り上げ、逆手に無造作に持ち替える。銀の刃が木漏れ日を弾く。利き手を高く振り上げた。
「だめえっ! ノッポ君──!」
 気付いた時には飛び込んでいた。
 
 
 
 
 

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