CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話1
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 声が、する。
 
 ぼそぼそ、ぼそぼそ……
 低い声。
 何か、話しているようだ。
 
「ファレス、向こうにつめてくれ」
 ケネルの声?
「……あー? なんで」
 かったるそうな応答。野良猫の声だ。
 声は聞こえているのに、目が開かない。金縛りにでも遭ったように、指先さえも動かない。
「ウォードの奴が、こっちで寝ると言って、きかないらしくてな。昨夜(ゆうべ)は大人しく戻ったのに、あいつ、急にどうしたんだか 」
「ああ? なんだってんだよあの野郎。又かよ」
 面倒臭そうな舌打ち。あいつってば、本当に柄が悪い。今日だって、こんな可哀相な怪我人の頭を、お構いなしにポカポカポカポカ──。別に痛くはなかったけれど。態度が悪くて横柄で、でも、前ほど嫌いじゃなくなったけれど。
「今はバパが引き止めているが、やはり一人じゃ心許ない。力で振り切られたら、どうしようもない」
「──了解、隊長。行ってくら」
 ガチャリ、と何かの金属音。人が立ち上がる衣擦れの音。動いた空気が頬を撫で、近くの気配が不意に遠のく。少し遠くから声がした。「あのガキ、ぶん殴ってでも寝かし付けてやる」
「何度も悪いな」
「しょうがねえだろ。あれが本気で暴れたら、他のヤツじゃ相手は無理だ」
 バサリ──と、フェルトの音がした。ひやり、と夜風が顔を撫でる。出て行ったらしい。ゲルって、すぐそこに外があるから、フェルトを開け閉めしただけで、外気がダイレクトに入ってくる。又、衣擦れの音がした。近くの空気が大きく動く。前髪に滑り込む乾いた感触──?
 寝ている真横に、気配があった。今度はケネルが座り込んだらしい。額の上に、無造作に乗せられた乾いた掌。その手は、じっと動かない。
 額をこんな風に触られるのは、どれくらい前のことだろう。浮遊する意識で記憶を探るが、もう思い出せもしないほどに遠い昔だ。多分それは、幼い頃。仕事で多忙な親の帰りを、いつでも一人で待っていた、いつでも、そればかり思っていたあの頃。あんなに忙しい親ではあっても、熱を出して寝込んだ時には、傍に付いててくれたから。だから、風邪をひいて帰ろうと、木枯らし吹き荒ぶ夕暮れの公園、涙ぐましい努力で粘りに粘って、ガチガチ震えながらも頑張ったものだ。もっとも、いつも結果は惨敗で、丈夫な体が恨めしかったが。
 額の上には、乾いた手。面と向かっている時は、ぶっきらぼうな態度のくせに、こっちが知らない寝入った時には、内緒でこんな風に気遣ってくれる。なんとなく、それには気付いている。だから、ケネルは信用出来た。一緒にいても、身構えなくていい。羽目を外しても、受け止めてくれる。ケネルは、決して敵対しない。決して危害を加えない。ケネルといると、気を抜いていられる。だから、安心して子供でいられる。
 手は、しばらく乗せられていたが、やがて、ゆっくりと引き上げられた。真横の空気が大きく動く。少し埃っぽい匂いと衣擦れの音。気配が消えて遠ざかる。もう行っちゃうの? 
 あまりの素気なさに、少し戸惑う。あっけなく取り上げられて、掌の感触が無性に恋しい。すぐにも起きて引き止めたいのに、体は、ちっとも動かない。歯がゆく、もどかしく思っていると、もう一度、フェルトを払う音がして──
 
 
 
「……もお〜、ケネルってばあ! いつまでもいつまでも何してんのよお!」
 フェルトをずらした隙間から、エレーンは、左隣のゲルの様子を、密かにジリジリ窺っていた。畳んであった( ケネル用 )毛布も隅っこからズルズル引っ張り出して、寝巻きの頭からすっぽり包まり、準備万端スタンバイ。
 もどかしい金縛りがようやく解けて、一足遅れて布団を出、慌てて戸口に取り付けば、ケネルは、夜気に包まれて、ぶらぶら草原を歩いていた。夜更けにどこに行くんだろうと興味津々見ていたら、訪問先は、少し距離を置いたお隣のゲル。声をかける暇もなく、ケネルは、片手でフェルトを払い、ゲルの戸口で頭を屈めて、ひょい、と向こうに消えてしまった。それから、ずっと出て来ない。
 待てど暮らせど出て来ない。それにしたって、あの男、どうして、いつも、すぐにいなくなってしまうのだろう。知らないおっさんに殴られ蹴られて、こんなに哀れな有様だというのに。
「んもう! 置いてかないでよケネルのばかっ!……なによお……もっと、もっと、もっといっぱい、心配してくれたっていいのにさあっ!」
 奥方様は、大いに不服、こんな可哀相なアタシをほっぽってえ! と、一人ぷりぷりオカンムリである。夜間の草原に目を据えて、親指の爪を苛々と噛む。なあに油とか売っちゃってるワケえ? そうよ。あんな恐い目に遭ったんだから、今日くらい付いててくれたっていーじゃない。なのに、ケネルときたらば、いつもと一緒で、全く動じた風もない──。
「……うー、ケネルぅー」
 エレーンは、唇をギリギリ噛んだ。体中がうずうずする。くっ付いて行きたくて、うずうずする。すぐに行きたい。今、行きたい。てか、マジでホントに行っちゃうか? ほーらね、あたし、起きたから。ほーらね、ほーらね、この通り。──でも、
「む、むぅー……」
 視線を俯け、暗い靴脱ぎ場を、じぃっ、と見つめる。素足で踏ん付けたゲル備え付けのペッタンコ・サンダルを、無残に踏み潰してジタバタ足踏み。別に鍵がかかってる訳じゃない。内と外とを隔てる扉は、只の布キレ一枚だ。けれど、目には見えない堅固な壁が、そこには厳然と存在するのだ。そう、ゲルから出るな、と言われている。一人で出てはダメな決まりだ。それは、ケネルが引いた境界線。何かの呪でもかかったように、一歩たりとも踏み出せない。だって、ケネルと約束してる──。
 結局、どうすることも出来ぬまま、薄暗い戸口でジタバタうろうろ。
 あの後ケネルは、ファレスとぼそぼそヒトの頭上で話していたが、結局、野良猫のヤツに世話を押し付け、皆の所へ戻って行った。そして、ファレスと二人で森に残され、こっちはその後どうしたかといえば、草原を占拠していた同行者の馬群が全て去るのを見計らい、馬を駆って道を戻り、樹海の温泉に行ったのだ。といっても、連れて行かれた温泉は、崖下の秘境ほどには綺麗じゃなかった。キラキラ輝くエメラルドグリーンの水とかじゃなくて、むしろサルとかクマとかトカゲとか有象無象の動物達が森の各所から寄り集い、「いい湯だな〜」とかデコ手ぬぐいで行水してそな──そう、まんま野湯ってヤツだ。こじんまりとして水溜りっぽい、茶色い土の水底とかで、蔦とかシダとか枯れ木とかダランと不気味に垂れ下がってるし水スマシとか浮いちゃってるし隅っこの方なんかは枯葉が固まって蚊とかぶんぶん発生してるし──って、そっちはどうでもいいんだけどさ。
 問題なのは、温泉に着いたその後だ。到着するなり問答無用で、お湯に頭ごと突っ込まれ、ガシガシ乱暴に洗われた。そして、濡れた髪の毛、湯上りみたいにタオルでグルグル巻きにされ、ここのキャンプにすぐさま直行。それでも、到着したのは、ほぼ夕方。もちろん、気持ちの悪い血まみれの服は、すぐに脱ぎ捨て、白い寝巻きにモソモソ着替え、野良猫交えて三人一緒に、お皿を並べて、いただきまあす!──と、そこまでは覚えているのだが、その後のことは、何故だかさっぱり記憶にない。
 気付いたら、そこの布団でぐっすり寝てた。きちんと肩まで毛布を掛けて。因みに、髪とか丁度切ったばかりで、早く乾いたのは不幸中の幸い──。
 ケネルは、まだ、出て来ない。
 戸口のフェルトに引っ付いて、ソワソワしながら帰りを待つ。けれど、やっぱり出て来ない。ゲルに動きは、全くない。ここのキャンプのおじさん達と世間話で盛り上がってるんだろうか。それにしたって、ずいぶんだ。こっちはか弱い乙女だというのに、鍵のかからないこーんな開けっぴろげ且つ無用心な建物に、一人ぽつねんとほっぽり出しておくなんて! こっちのことは心配じゃないワケ? いくら一人で退屈したからって、そんな呑気にダラダラしてて、もし、強盗とかに襲われちゃったら、いったい、どうしてくれるのだ! 見てない時にはコソコソ内緒で構ってくれるが、ケネルの配慮は、あっさりし過ぎているのか難点だ。
 足がそわそわ覚束ない。胸が理由なく高鳴ってくる。動きのないゲルを見つめて、親指の爪をジリジリ噛んだ。
「──んもお、何してるのよケネルってばっ! 早く帰って来なさいよお。いつ迄ほっとくつもりなの!?」
 静まり返った仄白いゲルを、輪郭がぼやけてくるまで凝視する。「早く、帰って来てよ、ケネル……だって、あたし、ケネルがいないと……」
 ザワザワ揺れる樹海の端に、何か物騒なものが潜んでいるような気がして落ち着かない。暗闇に沈む草原と黒い木々に視線を走らせ、見知らぬ気配をビクビク窺う。冷えた足元から這い上がる不安に、フェルトを握った手が震えた。知らず知らずに唇を噛む。あんな暴行を受けたのは初めてで、恐くて恐くてたまらない。思い出しただけで、まだ震える。いや、今だからこそ尚更か。
 あの時は、驚きと怯えで何も考えられはしなかった。圧倒的な恐怖に晒され、胎児のように手足を縮め、されるがままになっていた。けれど、道理も、自負も、人としての尊厳も、全てを吹き浚う暴力という名の嵐の底で、固く居残った芯がある。それは、いつの頃にか芽生えた疑問。つまるところ、自分が置かれたあの状況が、単に釈然としなかったのだ。
 何をした覚えもないのに、名も知らぬ他人から、暴行を受ける理由が分からない。
 明らかに他人の所持する持ち物を、面と向かって「寄越せ」などと言う、その根拠が分からない。
 一つだけ、はっきりしていることがある。同じ指輪をしていても、自前の服を着ていれば、きっと無理強いしなかった。街を歩く市民なら、きっと声さえかけなかった。相手が《 遊民 》だからこそ、あの強盗は襲ってきたのだ。ああした不当なごり押しが罷り通ると思うのは、こちらを格下と見なしたからだ。
 理解し難い身勝手な理屈が、今更ながら胸をえぐる。
 
『 《 遊民 》ってのは、何人殺したところで、別段罪には、ならねえんだぜ? 』
 
 あの無法な強盗を首尾良く詰め所に引っ立てたとしても、突き出した者が《 遊民 》の身なりである限り、何の罪にも問われない。その場で無罪放免だ。例え、警邏の足元で、息も絶え絶えな被害者が、犯罪の一部始終を洗いざらい告発していたとしても、治安を維持する当の警邏が、現場をその目で見ていたとしても、だ。
 寒気がした。そんなとんでもないことが、自分の暮らす平和な国で、現に、公然と罷り通っているというのだ。この国は《 遊民 》を保護しない。多分、それは事実だろう。あの強盗の言った通りに。
 《 遊民 》の名で呼ばれる人達に、正直それほど関心はなかった。世間の薄暗い端っこで細々と生きている少し風変わりな荒んだ人達──その程度の認識だった。そうした彼らが引き起こす厄介な問題の数々は──空恐ろしく浅まい小競り合いなどは、別世界に属する疎ましい出来事、そう勝手に位置付けてきた。けれど、永遠(とわ)に続くかとも思えた暴行に一人じっと耐えてる内に、白々と冷め切った胸の空虚な奥底に、沸々と湧き出たものがある。
 " 怒り "だ。
 この国には " 迫害可能な民 " がいる。そうした一方、" 市民 " の肩書きを持つだけで、ああした無法な強盗風情が真っ当な市民として大通りを堂々と歩いているというのだから、何かがおかしい、狂ってる。異邦人に対する扱いは、国が取り決めるべき事柄で、個人には手の届かぬ遠く隔絶した領域にある。けれど、だからといって気付かぬ振りで目を瞑り、引き下がってしまっていいのだろうか。
 問題は、あまりに大きく深刻だ。明らかに自分の手に余る。けれど、他人任せで本当にいいのか? 彼らは恐らく日頃から、理不尽な攻撃に晒されて、命さえもが脅かされている。悪びれもしない強盗の誰憚ることのない口振りでは、あれと同様の襲撃は、日常的に起きている。自分は運良く助かったものの、あんな風に扱われるなら、あのまま殺された人だって、過去に幾人もいた筈だ。それなら、被害に遭うのがアド達ならば、どうなのだ。それでも我関せずの見て見ぬ振りで、頬被りしていられるか? ウォードなら? ファレスなら?
 ──ケネルなら?
 心臓が躍り上がった。
 体の底が一気に冷えて、頭の中が膨張する。鼓動が飛躍的に速くなり、胸が激しく圧迫されて吐き気をさえ覚える。視界がグルグル回リ出し、もう何も捉えられない──。
 思わず、フェルトに掴まった。" 殺意 "の、ありのままの意味を知る。閑散と暗い空っぽな心に、苦い荒廃がザラリと広がる。赤の他人の取り決めで、筋の通らぬ等閑(なおざり)な理由でケネルに危害を加えたら、あたし、絶対に──
「許さない」
 漏れ出でた声で、我に返った。
 それは、予期せず殺伐と響いた。己の低音に動揺し、エレーンは、とっさに目を逸らす。
「や、やだっ! それじゃあ、あたしが、まるであのケネルのことを……い、いや! 違う! 絶対違う! だ、だって、あたしにはダドって人が──!」
 ぶんぶん首を振り、エレーンは、すぐさま否定する。一人ブチブチ言い訳し、怪しい気分を全力で払拭。他ならぬ己に言い聞かせる。
「そ、そうよ、ケネルは保護者みたいなものだから……だから、なんか身内みたいで……今、いなくなったら困るから、だから、あたしは……だから……」
 体中から力が抜けて、へなへなと床に座り込んだ。今、何かが壊れた気がする。シンと冷たい絨毯の上に、ペタリと尻を落として座り込み、寝巻きを飾る絹のリボンを手慰みにいじる。
「……ダド、」
 体を、ふわり、と包み込む薄いレースの白いネグリジェ。……違う。それは違う。そう、この自前の白い寝巻きこそ、深い想いの証ではないか。ゆったりとドレープを描く滑らかな生地に、片手を伸ばして、そっと触れた。
「──あたし、きっと、会いに行くから」
 秘めた決意を新たにする。ウェディング・ドレスと見紛うヒラヒラのこれは、商都の老舗・高級服地店 "フローラ" にて、コツコツ貯めた貯金をはたき( 内心オイオイ号泣つつも )一大決心で購入した曰くつきの品なのだ。優雅に着飾った礼儀正しい店員に、店の最奥に飾ってあったこのドレスを指差して「 あれ下さい 」 と言った時には、足と指とがプルプル震えちゃったくらいに高価で極上の品なのだ。
 だって、こっちは、一介の庶民に過ぎないメイド風情だ。「 お嫁においで 」 と言ってくれた彼の分不相応な厚意に報いるには、これくらいしか出来ることはなかった。何も要らないとは言われたけれど、人並み以上に裕福に育ったあの彼には、気付かぬくらいに些細なことかも知れないけれど、傍に知られれば失笑さえも買いかねないけれど、それでも、これが、あたしに出来る精一杯。
 これは、彼に示せるありったけの誠意。あたしの一番の宝物。だから、これだけを持ってお嫁に来たのだ。我が身一つと " 真っ白な心 " だけを持って。
 だから、持参した服は商都時代の普段着だけど、寝巻きだけは、高価なこれを、特に選んで持ってきた。生死の境にいる彼を、少しでも近くに感じる為に。彼への想いと、いつでも共に在る為に。
「……でも、」
 四つん這いで、そそっ、と戻って、冷えたフェルトを、こそっ、とめくる。
 静まり返った隣のゲルを、チラ、と見やって、エレーンは、「む、むぅー……」と苦悩した。動きは、未だ全くない。すっく、と再び立ち上がり、戸口の前をイライラうろうろ。気になる。やっぱ気になる。すんごく気になる──!
 結局、うん! と頷き、元の戸口にかぶり付いた。だって、現実問題、それとこれとは話が別だ。そもそも、こんな半端なく恐い目に、何度も何度も遭遇するのは、他ならぬダドのせいなんだし、こっちがピンチになったって、いない相手は守ってくれない。なら、
「問題なし!」
 うむ、許す! と一人勝手に目こぼしし、これにて本件、一件落着。
 戸口の定位置に張り付いて、偵察体勢にコソコソ戻る。やがて、夜目にも白い件のゲルから、室内の灯りが暖かに漏れた。ガヤガヤ楽しげな賑わいと共に、室内なかから零れ出た光の中に、誰かが出て来る。
 人影を、とっさに凝視した。
「ケネ──!?」
 あ、いや、二人だ。二人いる。
( ぅおっと危ねえ……! )と出かかった頭を、慌てて引っ込め、エレーンは、密かに冷や汗を拭う。けれど、頭を隠して引っ込んでしまうと、向こうの様子がよく見えない。
 適当な頃合を見計らい、ひょこっと頭を又出した。再び参戦、返り咲き。そろり、と様子を窺えば、ゲルの丸壁に見え隠れしている黒髪・ジャンバーのあの姿と、もう一人そこに、誰かいた。あのラフで着古した普段着は、このキャンプの人らしい。ずんぐりむっくりの遊牧民──顔の下半分を覆うあの特徴的な白ヒゲは、多分、キャンプに着いた時、ダン とかいう名で紹介された、ここの座長のおじさんだ。ゲルから外に出てきた二人は、少し歩いて立ち止まり、何やらボソボソ話している。──と、白ヒゲのおじさんが片手を上げて踵を返した。ケネルと別れて一人だけ、こっちの方へ戻ってくる。そして、ずんぐりむっくりの体を折って、大儀そうに頭を屈め、ゲルの中へと引っ込んだ。
 どうやら、おじさんの方は、ただの見送りだったらしい。一方、頷いて応えたジャンバーの背は、向かいの林へ歩いてく模様。──て、どこへ行くのだ? こんな夜中に。こっちのゲルとは、むしろ真逆の方向だ。もしや、これから散歩でもするのか? でも、地面が平らな草原の方が、断然歩き易いと思うけど。そうよ、こんな夜中に、なんで、わざわざ林なワケ? ん? もしかして、ケネルってば──
 はた、と、それに思い当たって、エレーンは、ひくり、と引きつった。
「……また、誰かに会いに行く、とか?」
 上目使いの疑惑の脳裏に、森でコソコソやっていた昼の悪夢が蘇る。そう、ケネルってば、もしや、また──!?
( あの非常識女と逢い引きか──? )
 そうだ。そうに違いない。こんな夜更けの林になんか、用なんて他に、ある訳ない──!
 すわ、追跡!──と、弾かれたように立ち上がる。頭から被ったケネルの毛布が、冷たい床にハラリと落ちた。ゲルから外には出ない約束。だが、吸い寄せられるように踏み出したエレーンは、
「……ぬぅー……ケネルぅ〜っ!」
 構っちゃいない。
 奥方様、ケネルにつられて、あっさり越境。憤然と拳を握り締め、口を真一文字に引き結び、フェルトをどけて戸口を潜る。まったくもって忌々しい。履ききれていないブーツの先を、つんのめりそうにトントンし、ジャンバーの背中を凝視する。ああ、靴を履くのももどかしい。"ケネル"は、生きた強力磁石、どこへだって付いて行くのだ。
 両手を振ってずんずんと、夜の草原を、エレーンは歩く。ゲルから外に飛び出せば、夜風が頬に冷たかった。やきもき前に向けた目は、後ろ姿に釘付けだ。もっとも、バレてしまっては元も子もないから、時には忍者の密偵の如く、ささっ、と樹裏に隠れたりしながら、慎重にも慎重を重ね距離を開けて尾行する。
 ジャンバーの背は、特別気付いた風もない。一人だからか珍しく、いつもみたいにテキパキせずに、ぶらぶらだらだら歩いて行く。それでも、足取りに迷いは、全くない。只の散歩などではない、目的地が決まっているのだ。躊躇もなく無造作に、ケネルは、暗い木立へ踏み込んで行く。エレーンは、気付かれないよう後に続いた。
 
 
 
 

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