CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話2
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 夜に塗り潰された木立の中は、月光に透かされた蒼霧がうっすら果てなく立ち込めていた。木々の間を移動するケネルの黒いシルエットは、深い木立の夜陰に紛れて、ともすれば見失いそうになってしまう。
 じっと見つめて後を追い、エレーンは、口を尖らせた。ケネルは、昨夜(ゆうべ)、あの女と出て行った。昼にだって、皆に内緒で逢い引きしてた。あの非常識女が現れてからというもの、何かが狂い始めてる。ケネルってば、いつも、どこか、そわそわしてるし──!
 不愉快な諸々を思い出し、額にはムキッと憤怒の表示、エレーンは、わなわな拳を握った。ちょおっと目を離すと、すぐこれだ。まっこと油断のならないタヌキである!
 どこまで行くのか当のケネルは、無頓着な足取りで、どんどん奥へと歩いて行く。今来た道を振り向けば、鬱蒼と黒い木立の影が、延々と立ち塞がるように続くばかり。視線を返せば、ブラブラ歩くジャンバーの背が、とある大木に向き合ったところだ。それなら、ここが
( 目的地──!? ) 
 慌てて木陰に隠れれば、しかし、肩を揺すって背中を向けた黒髪は、モソモソ何かやっている。そのまま停止、足は肩幅──
 ギクリ、と、エレーンは、目を逸らした。
「──ケ、ケネルってば、まったく、どーして、こんな時にっ!?」
 どぎまぎ赤面で、視線を下げる。
「も、もー信じらんないアイツってばぁ……!」
 カッカと逆上せた真っ赤な顔を、手のひらウチワでぱたぱた仰ぐ。けれど、文句を言っても詮ないこと。自然の摂理は絶対である。
「──ケネルのばかっ!」
 ばくばく高鳴る心臓を、両手でシカと押さえ付け、見てない相手に、いーっ! と内緒で舌を出す。勝手に後を付いて来たのは、確か己の筈ではあるが、粗相を仕出かした相手をなじる。
 耳を塞いで、小用を足してるケネルに背を向け、微妙な時間がジリジリ過ぎる。
 しばらくして、エレーンは、チラとそちらを窺った。用は済んだらしいのに、戻るような気配がない。藪からそぉっと見てみれば、ケネルは、ふい、と踵を返して、ジャンバーの背中を向けたところ。再び木立の奥へと歩いて行く。
( ──もおー! まだ帰んないのぉー? )
 隠れた木裏に取り付いて、エレーンは、ぶいぶい不満顔。ぶらぶら歩く黒髪の背に文句を垂れつつ、けれど、それでも付き従う。
 蒼霧たゆたう木立の真っ直ぐな黒影が、果てなく影絵のように続いていた。ジャンバーの背中は、時折ふと立ち止まり、後ろを怪訝に振り向いては、首を捻ってみたりして──。やっぱり、誰かを捜しているようだ。
( ……あのひとが来るのを待ってるの? )
 無防備な胸が射抜かれた。
 不用意に直視したのは、何気なく避け続けてきた認めたくない現実。エレーンは、苦々しく目を逸らした。思った以上に打ちのめされて、胸が強く締め付けられる。ケネルは、あの彼女のもの、あんな場面を見たのだから、それは分かっていたけれど、でも、こっちだってケネルがいないと困るのだ。こんな一人ぼっちの苦しい時に、ケネルを取り上げられてしまったら、とっても困る。切実に困る。だから、離れていきやしないかと、気になって気になって気になって──。でも、もしも、こんな事してるのがケネルにバレたら……
 はっと気付いて、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
( バレたら死ぬ…… )
 うむ、と頷き、拳を握って不退転決意。決して意図したことではないのだが、誓って"あれ"は、不測の不幸な事故ではあるが、アレを目撃したことが万が一にも発覚すれば、他人の用足しを覗きに来た変態女になってしまう。それはダメだろう乙女として。
( なにがなんでも見つかれないっ! )
 エレーンは、ぶんぶん首を振る。そう、こうとなったら後には引けない。何があろうが絶対に!
 ふと、追跡の足を止めた。
 前の動きが止まっている。なら、もしかして、ここが、
( ……待ち合わせ場所? )
 暗い木立をキョロキョロ見回す。両手でシッカと押さえた胸が、ドキドキうるさく騒ぎ出した。
 そういや、今更な話ではあるが、なんで、こんなことをしてるんだろう? ここに本当に彼女が来たら、その時は、いったい、どうするつもり……? そんでもって熱烈ラブシーンとか始まっちゃったら……?
 でも、こんなとこまで来ておいて、今更後には引けないんである。混乱しつつも息を呑み、ドキドキしながら、しばらく、じっとしていると、やがて、暗い木立に橙(だいだい)色がポッと灯った。怪訝に思い、目を凝らせば、木々の間で突っ立った背が、俯き加減で何かしている。あれ? あの格好は──
( なんだ、煙草か…… )
 エレーンは、がっくり脱力した。単に、煙草に火を点けただけらしい。緊迫しただけに一気に気落ち。でも、めげることなくコソコソ覗き見していると、影が、ふと顔を上げた。て、
 何故にこっちを振り向くか──!?
( やばいっ! )
 ここで見つかったら、万事休すだ。
 背伸びの頭を慌てて引っ込め、藪にアタフタしゃがみ込む。膝を抱いて深く俯き、体を出来る限り小さくする。とっさにしゃがんで隠れたけれど、もう冷や汗たらたらだ。もしや、今ので勘付かれたか? つまり、それって、
( 変態女、確定か!? )
 気が遠くなりそうだ。エレーンは、ううっ……と項垂れる。それだけは、ご免こうむりたい。
 野草を掻き分ける音がする。編み上げ靴に踏みしだかれて、藪がガサガサ音を立てる。やっぱり捜しているらしい。真っ暗な足元を凝視して、体を固くし、呼吸を殺す。ドキドキする。心臓が口から飛び出しそう。ブツブツ悪魔払いを唱えつつ、意識を飛ばして、じぃ……っと路傍の石化していると、藪を掻き分ける気配と音が、次第次第に遠のいて行った。
 冷たい地面にヘタリと手を付き、ほー……っと安堵の溜息をつく。なんとか見つからずに済んだようだ。一生分の幸運を、これで一気に使い切った気分。もう地面にへばりつきそう……。
 ふぃー、と額を腕で拭って、潜んだ藪から立ち上がる。不意に話し声が聞こえてきた。
( 誰か来た──!? )
 元いた藪に、あたふた引っ込む。聞こえて来たのは微かな声。やはり、相手は、あの女だろうか。いや、まてよ? もしも、二人でこっちに来たら? そう、もしも、二人で覗き込まれたりしたら、どんな顔をしたらいい? 身の置き所がない、とは、まさにこのこと。しかもケネルに見つかり次第、変態女、確定で……
 ぼそぼそぼそぼそ低い声。何を話しているんだろう。胸の高鳴りが耳にうるさい。風が梢を吹き抜けた。ああ、何もこんな時に、風なんか吹かなくたっていいのにさ……。
 殊更に意識を凝らしても、声がするのが分かる程度で、内容までは分からない。気にはなるけど、見られない。ここで顔を上げたりすれば、一発でケネルに見つかってしまう。それは、ヤバいだろう。絶対ヤバい。うずうずイライラ、そわそわジレンマ。耳に全神経を集中し、じっと聞き耳を立ててみる。けれど、声は、既にすっかりやんでいた。
 膝を抱えて、しばし、そのまま様子をみる。木立はシーンと静まり返り、一人で凝固していると、このまま闇と同化しそう──。
 もう、何の音も聞こえない。足音さえも聞こえてこない。
 立ち去ったらしい。
 とりあえず、ためていた息を吐き出した。はー……っと胸を撫で下ろす。体の石化をモソモソ解いて、野草の隙間から窺いつつも、そおっと、そおっと立ち上がる。逢い引きしているケネルなんて見たくはない筈なのに、足は、勝手に前へと進む。得体の知れぬ力に引かれて、自分で自分が止められない。
「ケネルは、どこ……?」
 暗い木立をキョロキョロ見回す。そして、はた、と重大な事実に気がついた。
「──いない?」
 エレーンは、愕然と固まった。見渡す限り、木、木、木。人っ子一人いやしない。薄暗い林には、影も形もなくなっている。
 慎重を期すぎて、すっかりケネルを見失ってしまったらしい。そして同時に、抜き差しならない大問題が、ムクムク急速に浮上した。そう、
「……ここは、どこ?」
 ケネルの姿を慌てて探す。冗談ではない。こんな所で迷子になったら、シャレにも何もならないではないか。一心にケネルだけを追って来たから、どこをどう歩いてきたのか、今となっては覚えてない。この機を狙いすましたように、夜の林が不気味にざわめく。魔物のような木立の深さが、不意に一気に深まった。
「……どうしよう」
 黒い懐に抱かれて、どこかの高い枝の上、梟(ふくろう)が物寂しく鳴いている。辺りは不気味に静まり返り、時折、ガサリ、と正体不明の音がする。方角は、全く分からない。どこを見ても、紺と黒との似たような夜景で、どれも似たような木々の群れが、蒼霧の果てまで遠く限りなく続いている。林立する深い木立が、ざわめく黒梢を伸ばしていた。無防備に踏み込んだ侵入者を、あたかも封じ込めようとするかのように。
 静まり返った辺りを見回し、エレーンは、唇を噛み締めた。自分がここにいることは、誰も知らないことなのだ。寝床にいないと気付いても、こんな林の中なんて、誰も探しやしないだろう。なら、最悪、今夜は、ここで野宿か?
 ──虫とか、トカゲとか、ウヨウヨいるのに!?
 ふっ、と、灯りが視界を過ぎった。
 直立する黒い樹影に、ほんの微かな小さな炎。一瞬、錯覚かと目を擦る。けれど、消えはしなかった。そう、あれは──
「……たばこの、火?」
 ケネルだ。ケネルが喫ってたあの煙草。
「助かったあ〜……」
 膝がヘナヘナと砕けそうになる。なんてラッキー。こんなピンチに辛くも現れる救世主。日頃の行いがいいのかも知んない。ああ、そうだ。きっと、そうだ。だいたい、こんな薄気味悪い林の中で、たった一人で野宿だなんて、もちろん真っ平ご免である。
 ケネルは、一人でいるようだ。周囲に人影は、全くない。なら、さっきの話し声は、なんだったんだ? 独り言?
 首を傾げつつも、いそいそと追う。喉元過ぎればなんとやら、である。もちろん、距離は慎重に開ける。あんまり近くに寄ったりすれば、尾行がバレてしまうから。
 生い茂った黒い木立に黒い人影──全てが黒い世界の中で、橙色の光点が一定の速度で移動する。その只の一点が上手い具合に目印になって、むしろ、今までよりも分かり易い。これまでは、周囲と同色の人影が、すぐに木々の影に紛れそうになって、見失わないよう懸命に目を凝らしていたのに。いつもは迷惑な煙草だけれど、たまには役に立つではないか。
 エレーンは、テクテク付いて行く。もうとっくに、一人じゃ帰れなくなっている。
 足元を、何かが駆け抜けた。
「──い゛!?」
 危うく叫び声を上げそうになり、慌てて口を両手で押さえる。なんだ!? 今の!? トカゲとか!? いや、でも、ここは木立の中。ここには、こんなのが普通にいっぱいいるんだろう。もし、蛇とか黒虫とかに遭遇したら……と気付いたら、冷や汗が、どっと背中を伝った。サクサク草を踏みしめて、ケネルは、無言で歩いて行く。歩き出してから随分経った。相変わらず、人っ子一人いやしない。あのキャンプも随分遠くなってしまった。こうなると、どっちから歩いて来たかも分からない。
( ……いったい、どこまで行くんだろう? )
 ふと、不安に襲われる。前後左右を見回して、エレーンは、唇を噛み締めた。
 もう降参して、声をかけてしまおうか。だって、足が痛くなってきた。どこまで行っても、誰に会うような気配もないし──。
 秘めていた弱音を一たび吐けば、もう、いてもたってもいられなかった。襲いかかる不安に背を押され、闇の中の木立を落ち着きなく見回して、
( ダメ! 限界──! )
 よし、行こう! と己を励まし、意を決して踏み込んだ。そもそも、夜の林は、散歩に不向きだ。一人で歩くには、尚のこと不気味。件の「変態女」事案に関しては、こっちも散歩してて偶然会ったことにでもすればいい。ちょっと設定に無理があるけど、きっと、なんとか回避出来る。なにせ、ケネルの鈍感は真正だ。
 早足の視界に、ケネルの姿がどんどん近付く。天井の梢が、急に途切れた。久し振りに見たジャンバーの背が、降り注ぐ月光に曝け出される。ケネルの姿が浮かび上がった。いや──
「……どうして?」
 駆け寄る足が停止した。訳が分からず、エレーンは、愕然と小首を傾げる。
「ケネルじゃ、ない」
 ただただ呆然と立ち尽くした。そこにいたのは、全くの別人。背を丸めた姿勢から、ずんぐりむっくりの体型から、ラフで着古した衣服から、何から何までケネルと違う、似ても似つかぬ中年男。いや、あの人の顔は見たことがある。そう、顔の下半分を覆う、あの見事な白ヒゲは、
( 座長の、おじさん? )
 なんで!? 
 なんで、あのおじさんが、ここにいるワケ? さっき、ゲルに帰ったではないか。
 狐につままれた気分だ。でも、あれは、確かに、ダンとかいうおじさんだ。なら、つまりは今迄、あのおじさん相手に熱〜い視線を送っていたというワケか? いや、この際そんなことは、どうでもいい。そんなことより、それならケネルは──
( ケネルは、どこ? )
 未だ混乱冷めやらぬままに、闇に閉ざされた夜間の木立を、成す術もなく呆然と見回す。何故、こんなことが起こるのだ? この林に入った時には、確かにケネルだったのに。
 ずんぐりむっくりの普段着の背は、ゆっくり木立に紛れて行く。でも、誰もいないこんな所で、昼に一度あったばかりの、よく知りもしない赤の他人に、声をかけるのは躊躇われる。
( ……どうしよう )
 足が、動かない。気がつけば、暗い木立のあちらこちらに、明るく灯(とも)る火が見えた。焚き火のようだ。歩きづめに歩いてきたから、もしや、街道に出たのだろうか。けれど、馬での移動中、そんな気配は全くなかった。垣間見ることさえ一度もなかった。なのに、徒歩で行き着ける近距離に、果たして街道などがあるものだろうか。
 真っ暗な大木の根元の方に、何かの影が幾つもあった。 付近の暗がりをよくよく見れば、木々の間のあちらこちらに、何かがダランと吊られている。何か布っぽい長い物。あの感じは、タオルとか、シャツとか、靴下とか……辿り着いたゲルの外に、ケネルがあんな風に吊るしているのを、毎日のように見かけている。そう、多分あれは──
「洗濯物?」
 唖然と、エレーンは、周囲を見やった。
 でも、どうして、あんな洗濯物が? こんな無人の林の中に──?
「何してるんスか」
 ギクリ、と、全身が縮こまる。
 どこかで聞いた、声が、した。
 
 
 
【 野 営 地  】
 
 
 
 薄闇に沈む丸壁に、黒い影が蠢(うごめ)いた。ゲルの暖かい室内には、歓談する楽しげな声が、のんびりガヤガヤ満ちている。
「──で、飯の途中で倒れ込んでな」
 炉火の向かいの顎ヒゲが、上目使いで窺った。「……あの娘さんが、かい?」
「ああ。糸が切れた人形みたいにパタッとな。たった今まで、くっ喋ってたと思ったら──。あれには、さすがに驚いた」
 その頃、ケネルは、土間に灯した炎を囲い、和やかに一同と話していた。
 一日の仕事をようやく終えた遊牧民のキャンプである。赤々と燃える焚き火には、珍客を囲んで六人ほど、男ばかりが集っている。寛いだ彼らの指先には、紫煙を上げる嗜好品。炎の照り返しを顔に受け、円陣の一人が心配そうに尋ねた。
「おい、隊長さんよ、こんな所で呑気に話してていいのかい? そんなら付いててやらなきゃよ──」
「いや、寝てた」
 ケネルは、ふぅーと紫煙を吐いた。
「は?」の顔で固まる一同。「それがな──」とケネルは、苦笑いで補足する。
「引き起こしてみれば、何のことはない。ただ眠っただけだった。唐突だったが、色々あって疲れたんだろう。元が怪我人で、体力もないしな。そんなことより問題なのは、あの時、あいつ、吸い物の椀を持ってたからさ」
 身を乗り出し、内緒話でもするように顎の先をクイと突き出し、一同の顔を「あのな?」と見回す。「倒れ込んだ拍子に、膝に中身をぶちまけちまって」
 一同は、顔を見合わせ、苦笑い。
「……そいつは災難だったねえ、隊長さん」
「そりゃあ、さぞや熱かったろうて。なんなら、そのズボンも洗濯するかい? 朝までには乾くと思うが──」
「いや、副長なんだ、かかったの」
 ふるふると首を振り、ケネルは「 なんて間の悪いヤツ…… 」とつくづく嘆息。
「……あの、、副長さんの、……膝の上に……?」
一同は、顔を見合わせた。一瞬にして、場が薄ら寒く凍り付く。引きつり顔の面々が、おお、とどよめき、おののき、ざわめく。どの顔も心なしか青ざめたようだ。壁掛け時計の時刻を見やって、ケネルは、利き手の煙草を土間で無造作に擦り消した。
「じゃあ、俺は、そろそろ戻るよ」
 膝に手を置き、雑談を切り上げ立ち上がる。それを見た円陣の一人、顎ヒゲの男が、よっこらせ、と腰を上げた。「なら、あれを持ってってくれや。もう乾いているからよ。──ああ、これだ」
 壁際から紙袋を一つ取り上げて、ケネルに向けて笑顔で手渡す。
「出来る限り落としてはみたんだが、全部は綺麗に取りきれなかった。血ってヤツは、時間が経つと、落とすのが中々厄介でね」
「──ああ、これで十分だ。すまないな、手を煩わせて」
 袋の中を検めて、ケネルは、笑顔でそつなく応える。顎ヒゲが申し訳なさそうに窺った。
「本当に、入用な物はないんかね? 連絡くれれば、もっと色々こっちも用意出来たのにさ。あの娘さん、本当に平気かね。だってよ、服なんか血まみれで、怪我もしていたようだったし」
「いや、見た目が派手なだけで、それほど大したことはない。ただ、ああいう傷だらけの女を見ると、興奮する馬鹿がいるからな。──いや、突然押しかけて、すまなかった。あんたらの午後の予定を潰しちまって」
「いや、こっちこそ悪いな。なんか良いもん貰っちまってよ。──ああ、さっきの若いもんにも、よろしく言ってくれな? わざわざ夜分に、こんな遠い所まで来てもらってよ」
「調達班は、あれが仕事だ。気にしなくていい。──じゃ、ダンにも、よろしく言ってくれ」
「ああ、奴さんは今頃、バパさんと一緒に一杯やって上機嫌だろうさ」
 ケネルは、座長のゲルに暇(いとま)を告げた。受け取った洗濯物をぶら下げて、今夜の寝床、彼女の眠る投宿先へとブラブラ歩く。濃紺の大空に、欠けた月がポツリと出ていた。木立が黒く沈んでいる。草原の夜風が頬を撫でた。
「たぁく、驚かせやがってあの野郎。安らかな顔でグースカ平気で寝てやがってよ」
 静まり返ったゲルを眺めて、ケネルは、小さく一人ごちた。そういや、この話をした時に、炉火を囲んだ面々が震え上がっていたようだが、どうやら又も副長が、寝床の要請に来た際に、柄悪く凄んで脅したらしい。もっとも、度重なる行程変更で、彼は、いつにも増して機嫌が悪い。しかも今日は、自分の保護する対象をみすみすネズミに齧られて、近年稀に見る大嵐。最悪だ。
「──そういや、あいつ」
 ふと、ケネルは、顔を上げ、件の副長のいる待機方向、右手の木立を振り向いた。「珍しくキレなかったな」
 熱い汁ごと胡座(あぐら)の膝に倒れ込まれて、さすがに驚愕していたが、叩き起こしたりはしなかった。それどころか「ケネル、布団」と上官を顎で使い立て、寝入った彼女を起こさぬように、そっと抱き上げ移動した。考え込むように眉をひそめて、じっと傍で寝顔を見ていた。野営地からの応援要請が届くまで。珍しいことがあるものだ、と、ケネルは、口端で小さく微笑う。そんなことをしようものなら、通常、問答無用で袋叩きだ。相手が眠っていようとも。
 冷えたフェルトを静かに退けて、頭を屈めて戸口を潜る。室内の暖気が顔を撫でた。天窓から降る冴えた蒼い月光の下、土間の炉火がゲルを赤々と暖めている。粗末なランプの灯る中、彼女の一張羅の洗濯物──遊牧民の件の衣装を靴脱ぎ場の隅に下ろして、靴を脱ごうと屈み込み、ふと顔を上げた。
「……なんで、こんな所に毛布があるんだ?」
 靴脱ぎ場付近の床の上だ。奇妙な形に毛布が山を作っている。ケネルは、怪訝に見回した。薄闇の中、意識が何かに引っ掛かる。北の寝床だ。
 すぐに異変に気が付いた。寝ていた筈の、彼女がいない。
「──馬鹿が! 外に出たのか」
 踵を返し、フェルトを払い、ケネルは、ゲルを飛び出した。
 
 
 
 
 

( 前頁 / TOP  / 次頁 )  web拍手
 


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》