■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話3
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エレーンは、恐る恐る振り向いた。そして、( ああ、やっぱりね…… ) と項垂れる。
ゆるゆる首振り、けっ、と不貞腐って、ぽそっ、と悪態。( ……キツネ男 )
「なんか言いましたか」
すかさず、ザイがぶっきらぼうに見た。
「べっつにィ?」
エレーンは、ぷい、とそっぽを向いた。これを聞き咎めるとは侮れん。キツネなだけに耳が異様に良いようだ。因みに、相も変わらず不機嫌そう。何がそんなに気に食わないんだか。──と、それはそれで置くとして、なんでコイツがこんな所にいるのだ……?
ジリジリ密かに後退り、エレーンは、むむぅ、と、痩せギツネを窺う。真っ暗な木立を背景に、いつの間にか、そこにいた。鋭い目をした薄い茶髪の痩せぎす男。いったい、どこから湧いたんだか。一難去って又一難。迷子もヤだけど、こいつも嫌だ。恐いし、怪しいし、なんでか目の敵にされてるし──。案の定ザイは、顔見た途端にジロジロ見やって、放り投げるように無愛想に言った。
「何してんです、こんなところで」
「関係ないでしょ? あんたには」
即刻、憎たらしく応酬してやる。初めから負けてしまいそうな雰囲気に、エレーンは、口を尖らせ前傾姿勢。長く伸ばした前髪の下、ザイの切れ長の鋭い目が、ニコリともしないで見返した。たった一言発しただけで、熱のない沈着な声に、紡いだ言葉の端々に、辟易とした嫌悪の情が見え隠れする。ザイが大きく嘆息した。「──まったく困ったお客さんだ」
言うなり、ぶっきらぼうに腕を取る──!?
「ちょ、ちょっとお──!?」
エレーンは、ギョッと飛び退いた。いや、飛び退こうとしたが、動けない。とっさに仰げば、こっちを見てさえいなかった。いやに手慣れた無造作な挙措。
ザイは、小首を傾げ、切れ長の目を僅かに眇めて、木立の先を眺めていた。探し物でもするような、値踏みでもするような無関心な視線だ。闇に沈んだ木立を窺い、いささか唐突に歩き出す。伴い、掴まれた二の腕が引っ張られ、エレーンも引きずられて、たたらを踏んだ。
「──どこ行く気よっ!?」
驚愕して、憤然と抗議。けれど、ザイは、
「さあて、どこっスかね」
シラっと、そっぽを見たまま空惚ける。エレーンは、ムッと見返した。さては、さっきの意趣返しか? ちょおっとツンケンしてやったから。でも、ちょっと大人げないぞ? このキツネ。野良猫だって、そんなことしない。
「放してよっ! 痛いじゃない!」
噛み付かんばかりにキーキー喚く。ザイは、足さえ止めずに背中で答えた。「離したら、即、逃げるでしょ?」
「……う゛」
図星である、この上なく。早速の嫌味の先制に、ぬぅ……と反論を呑み込んで、ギリギリ背中を睨み付ける。嫌われてる自覚はあるんじゃん。でも、だったら、この手は、どういうつもりよ?
ザイの力は、予想以上に強い。ぶんぶん振っても解けない。力を入れてる風でもないのに、節くれ立ったザイの手は、右腕を掴んだままでビクともしない。この握力の強さは、野良猫達の比ではない。どちらかといえば、妙な薬を嗅がされたあの先日の賊だとか、昼に遭遇した強盗だとかの問答無用の手荒さの方を彷彿とさせる。
不満たらたら( なにコイツぅー! ) と口の先を尖らせた。可能な限り体を逸らし、露骨な牽制でザイを見る。精一杯の虚勢を張って、なけなしの抵抗。結果から言えば、何の足しにもならなかったが。
このキツネ男は、かの短髪の首長の家来らしいのだが、あんなにも優しい彼の下にいるというのに、こいつは、ちっとも優しくない。全然友好的な態度じゃないし、そもそも、どうも胡散臭くて信用ならない。ああいう人の下にいるなら、もうちょっと人間が出来てたって良さそうなものなのに。
初めて顔見たその日から、コイツはからきし不得意だ。というのに、何故にちょくちょく出くわしてしまうのだろう。日頃の行いでも悪いのか? 今日だって、昼にいきなり出て来たし。よりにもよって、あんなにも深い樹海だというのに──
「……え?」
ふと、奇妙なことに気がついた。そういえば、この男、いつも、どこかしらで見かけていたような気がする。視界の端に、常に小さく写り込んでいるような……?
( ……偶然、かな )
なんか変だな……? と怪訝に首を捻りつつ、エレーンは、テクテクついて歩く。野戦服の背は、ぶっきらぼうな足取りで、前をどんどん歩いて行く。因みに、ケネルもそうだが、コイツも結構な早足だ。ブラブラ歩いてるように見えてても、歩幅が全然違うから、ついて歩くの大変なんだけど。
腕をグイグイ引っ張られ、暗い夜道を連行される。そう、"連行"という言葉がピッタリだ。まったく、どうしてコイツらは、下手人でも引っ立てるみたいに、腕を不躾に掴んで歩きたがるのだ? ケネルにしても野良猫にしても、当人達は無自覚のようだが、引き回されるこっちの方は、それだけで嫌な感じだ。威圧的だし、従属させられたような卑屈さを感じる。実際には、移動しているだけなのに。まったく、レディをエスコートする際の心得ってもんがなってない。靴先に当たる小石とか、構わずザイに蹴り飛ばしながら、不平不満を内心でぶつけた。
( こう、もうちょっと優しくしてくれたってさあ〜! )
手をつなげ、とまでは言わないが。
ザイの背中を不貞腐って睨む。これじゃあ、まるで、悪い事して捕まっちゃったみたいじゃん? そもそもコイツら、気安くベタベタ触り過ぎだ。レディなのに。
魔物のような夜の木立が、ザワザワ不気味に鳴いていた。小立の先に垣間見えてた焚き火だとか洗濯物だとかの、ちょっと場違いな " 人の気配
" が歩くに連れて遠ざかる。どこへ連れてくつもりだろう。とりあえず、上司の所に届けに行くとか? こんな夜分に出くわすくらいだから、そう遠くはない場所に、他の皆もいるんだろうし。
エレーンは、ふ〜む、と上目使いで算段する。
( まあ、バパさんトコなら、行ってもいいや…… )
別段怒られはしないだろう。驚くだろうが。
心がちょっと軽くなる。あのおじさんは、お気に入りなのだ。闊達で頼もしくて包容力がある。ともあれ、これでキャンプには無事に帰れる。コイツと一緒ってのがちょっとアレだが、そこは不幸中の幸いってことで、まずまずラッキーな方だろう。無論、目の前のこっちとは勝手に犬猿の仲である。背けたままの冷淡な背が、たまりかねたようにボソリと尋ねた。「あんた、ここが何処だか分かってますか」
「──えー? だっからあー。バパさんとかがいるトコでしょー?」
ちょっと不貞腐れ、適当に応えを放り投げる。さっき意地悪された腹いせだ。腕は強く掴んだままで、ザイが辟易したように舌打ちした。「──ちゃんと分かってるんじゃないっスか」
振り向きもしない肩越しに、視線だけをジロリと寄越した。
「こんな所まで男を漁りに来たんスか。まったく、これだから甘やかされた女ってのは」
「──はあ!?」
思考がピタリと停止した。何を言い出すのだ、このキツネ!? 無礼なのにも程がある。最早、悪意以外の何者でもない。いくら、こっちが気に食わないからって──!
「とんだ奥方様もいたもんだ。あんた、領主がどんな想いで、敵陣に突っ込んでったか知ってますか」
ビクリ──と、全身が硬直した。
思わぬ名前を持ち出され、内心うろたえ、動揺する。ザイは、ぶっきらぼうに続けた。
「あの " くるくる頭 "、いつも、あんたの話、してましたよ。勝ち目なんかねえってのに、勝機を捻り出そうとトラビアにまで突っ込んで、」
抑揚のないその口調に、唇を強く噛み締める。ざわめく胸を強く押さえる。
「挙句、無様にあのザマだ。あの男は、馬鹿じゃない。どれだけ無理して自国から出たか、あんな無茶を仕掛けたか。──あんた、本当は知ってんでしょ。それを、あんたときたら、チャラチャラ男を追っかけ回して」
ブラブラ前を歩きつつ、舌打ち混じりに吐き捨てた。
「気が知れねえ。こんな薄情な女の為に、犬死するこたねえのによ。あんたみたいな軽薄な女──」
視線だけを肩越しに寄越した。「見ているだけで反吐が出る」
蔑みの篭った冷ややかな唾棄だった。暗い足元を見つめたままで、エレーンは、浅く息を吐く。棘のある非難と敵視が、頭の中をグルグル回る。思わぬところからもたらされた、かの人の動静。夢にまで見た面影──。
俯いた視界に、かったるそうに足を運ぶザイの靴の踵(かかと)が見えた。甲にゴツいベルトが付いた少し風変わりな編み上げ靴が、暗い下草を掻き分け進む。この刺々しい口振りでは、ザイはダドリーに同行し、苦楽を共にしたのだろう。この素気ない男にして意外だが、たぶんダドリーを気に入っている。はっきり口にはしないけど。
又か、と思った。この男もだ。
ダドリーには、男友達が実に多い。背が高い訳でもないし、眉目秀麗な顔でもないし、関心のない相手には実に素気ない態度を取るから、異性には大してモテないが、同性からの支持は絶大だ。何故そんなにツルむ相手がいるのかと、つくづく不思議に思うほど。さばさばとしたダドリーは、持ち前の屈託のなさで、誰とでもあっさり打ち解け、すぐに仲間に入ってしまう。周りから祭り上げられ、いつの間にか群れのリーダーに収まってしまう、そういう稀有な才能がある。そこにいるというだけで人を引き寄せる常人には得難い資質、あれは出自というより天性だろう。恐らく、ザイもそうした一人だ。だから、こっちの態度を怒ってる。" チャラチャラ " してるのが許せない。彼を追いやった連れ合いが、泣き暮らしていないのが許せない──。
「……知った風なこと、言わないでよ」
他人の声のような呟きが、少し掠れて口から零れた。吐き出せぬ弱音と、後悔と──
夜毎の我慢と寂しさと、未だ捨てきれぬ微かな希望を拳に握って、もう一度ゆっくり息を吸い、そして、強く息を吐く。握った拳が小刻みに震える。ならば、泣けば、どうにかなるとでも言うのか──。
「……あたし達は、いつも、一緒だったんだから……アディーが逝った時だって、やっと、やっと、ダドと二人で乗り越えたんだから……!」
ぶつけようのない暗い怒りが、底の底から込み上げた。誰より、それは、知っている。世の中は、それほど甘くない。一人でしゃがんで泣いたって、助けなんか来はしない。むしろ弱れば弱るほど、狙い定めて殊更に追い討ちをかけてくる。商売の世界で叩きのめされ、嫌というほど知っている──!
「──あんたになんか、わかんないわよ、どれだけ彼に会いたいか!」
やっとのことで絞り出した声が、押さえようもなく、わななき、震える。俯き、こらえた喉の奥が熱い。喉元を迸る激情のままに、冷淡な背中を睨み据えた。
「知った風なこと言ってんじゃないわよっ! あたしは一日だってダドのこと──!」
大仰な溜息が、面倒そうに遮った。
「少し黙ってくれませんかね」
「──なっ!──なに、よ──!」
カチン、ときた。
ザイは、我関せずで暗い雑木林を眺めている。帰り道でも探してるような涼しい顔で。「──あんたの声は、やかましい」
むっかあ──! と怒りが込み上げた。
「ケンカ売ったの、あんたでしょー!? そんなに嫌なら、その手放せばいいじゃない! いったい、どこに連れ込む気よ!」
「どこに連れ込んで欲しいんスか。なんなら、いくらでも、お相手しますよ」
ぶっきらぼうに切り返され、「う゛──」と、すぐに返事に詰まった。
言った傍から逆襲される。軽く往なされ、やり込められる。実にあっけない。見た目飄々としているくせに、なんでか勝てない、このキツネ。正直コイツにだけは会いたくなかった。しかし、言うに事欠いて、なんてこと言うのだ、この男……。
はっ、と、エレーンは、瞬いた。遅まきながら、とんでもない大問題に気がついた。
( ふたり、きり……? )
視界の右半分を塞いでいるザイのジャンバーの無骨な背中を、今更ながら、まじまじと見やる。
如何にも二人っきりだった。雑木林は水を打ったような静けさだ。人影さえも見当たらない。不信と疑惑の眼差しで、ジリジリ、ザイから後退る。そういや、この男、こんな人けのない夜更けの林に、何故、突然現れたのだ? 皆と離れて一人っきり、こんな何もない所で何をしていた? 偶然にしては出来すぎている。考えられる可能性は──
( キャンプからずっと、尾行けてきた──!? )
怖気がゾワリと這い上がる。背中を愕然と見返した。樹海にしても、この場にしても、偶然出会えるような場所じゃない。
ザイは、面白くなさげな様子で、かったるそうに歩いていく。腕を引っ張るジャンバーの背は、時折立ち止っては、何かを探すように周囲に視線を走らせるだけで、気遣うどころか振り向きもしない。この男もケネルの部下ではあるけれど、あの優しい首長の部下ではあるけれど、同行してくれている群れの一人ではあるけれど、でも、この男の態度からは、好意の欠片(かけら)さえも感じ取れない。もし、今の言葉が冗談なんかじゃなかったら──?
不吉な仮定に、ギクリと全身が身構えた。引きずられて歩く足が、小さく微かに震え出す。ザイは飄然としているし、"調達屋"のように痩せてはいるが、ヘナチョコな感じは全くない。つまり、そう簡単には逃げられそうにない。あの首長はとっても良い人だけど、その家来までが良い人だとは限らない。腕を引っ張られて歩きながら、おろおろ周囲を見回した。
( ど、どうしよう……何をする気……? )
張り付くように咽が渇く。そういや、さっきから、いったい " 何を " 探しているのだ? こんな何もない雑木林で──
( ……場所? )
ギクリ、と心臓が躍り上がった。
こちらの顔を見た途端、問答無用で腕を掴まれ、あっという間に捕まった。面と向かって、あからさまな悪意を叩きつけてきた。前からずっと、つけ回していた節がある。これまでは、誰かしらが傍にいたから目的が果たせず、やむなく引き下がっていたのかも知れない。けれど、ここには誰もいない。ケネルも、ファレスも、庇ってくれたあの彼も。
昼の暴行を思い出し、みるみる緊張が込み上げる。嫌な冷や汗が背を伝った。
──この男、危険だ。
怖気が足の先から駆け上がる。汗ばむ拳を握り締めた。逃げないと……
( 早くコイツから逃げないと! )
腕力では敵わない。手段を選んでいる暇はない。腕を拘束する固い手に、ありったけの力で噛み付いた。とっさに放した右腕を、必死に全力で振り払う。踵を返して猛然とダッシュ!
不意を衝かれて怯んだザイが、噛まれた手を二三度払って、苛立ったように舌打ちした。ギロリと忌々しげに睨みつけ、足を踏み出し追ってくる。もの凄い勢いだ。──って、やっぱりかー!? あのキツネ!?
ついに、本性現した──!?
あたふた急いで踵を返した。
あれは善意の顔じゃない。そんな親切なもんじゃない。保護してやるとか送ってやるとか、そういう好意的な態度じゃない。ここで運悪く捕まったら、
何をされるか分からない──!
「……に、に、逃げないとっ!」
大至急!
藪に飛び込み、必死で逃亡。もう、足が痛いとか服が汚れるとか構ってられない。木の根を蹴って、野草を掻き分け、泥水蹴散らして、しゃかりきに逃げる。ザイが手を伸ばした寸でのところで、辛くも藪の切れ目に滑り込み、突き出た小枝に引っ掻かれながらも、向こう側に滑り込んだ。鬱蒼と立ち塞がる分厚い茂みに邪魔されて、ザイは、案の定、立ち往生している。狭く小さい抜け道は、上背のあるザイには通れない。
ひとまず、安堵の息をついた。けれど、のんびりしてはいられなかった。ザイが舌打ちして踵を返した。迂回して、こっちに来ようというのだろう。時間を稼いだこの隙に、更に奥へと駆け込みつつも、そわそわ周囲を見回して、肩越しをヤキモキ振り向いて──そうだ、さっきの焚き火だ! 火を熾しているなら、人がいる。さっきの火の所に、人がいる。
あそこまで行ければ、逃げ切れる──!
今来た道へと地面を蹴った。暗い雑木林を全力で走る。暗がりの所々で、炎がチラチラ揺れていた。一番近い焚き火を目指して、一目散に駆け急ぐ。夜気を切る頬の横で、藪が騒がしく鳴っていた。息があがる。裾が絡まる。荒い呼吸しか聞こえない。
「……な、なんの因果で、……こんなこと……っ!?」
喉の奥が焼け付くように熱い。今日はなんだか、こんなのばっか──!
ハラハラしながら振り向けば、ガサリ──と鳴った藪を掻き分け、ザイが姿を現した。手足に絡みついた枯れ蔦を忌々しげに叩き付け、こっちに降り立ち駆けて来る。今は、大人を縦に並べて十人分は優に離れているけれど、今にも追いつかれそうな勢いだ。──て、あのキツネってば、
「足、速やっ!?」
もうちょっと猶予があると思ってたのに!?
震え上がって、視線を戻す。──と、出し抜けに何かにぶつかった。
顔全面に強い衝撃。右肩の上に、青痣のある手の甲 が見えた。誰かが樹裏から飛び出してきたらしい。お陰でこっちは、相手の懐に、意図せず、いきかがり上、飛び込んだ形。
「──ご、ごめんなさい!」
とっさに謝る。慌てて仰げば、長身の男が小首を傾げて、こっちを見ていた。ガッチリした体格の若い男。知らない顔だ。口端が笑いの形に吊り上がった。
「これはこれは奥方様」
「……あ、どうも」
そわそわしつつも、とりあえず、ペコリと頭を下げた。近頃見慣れた身形から、同行者の一人とすぐに知れる。でも、この人……?
エレーンは、密かに首を捻った。声の調子に変なニュアンスを感じたが、気のせいだろうか。そもそもこの声、前にどこかで聞いたような──?
ガサリ──と藪が大きく鳴った。
慌てて見やれば、色素の薄いサラッとした茶髪が、暗がりを切って飛び出してくる。鋭い狐目の痩せた男。素早く見回した目を止めて、ザイが視線を振り向けた。
「──わっ!?」
直視に射抜かれ、弾かれて飛び退く。背中が固い壁に当たった。ザイの視線が背後へ移る。その眉を、ふと、ひそめた。
「──渡してもらいましょうか。こっちの客だ」
有無を言わせぬ剣呑な物言い。背中の男が頭上で応えた。
「俺には逃げ回っていたように見えたがな」
「見間違いっスよ」
間髪容れず、ザイは、ぬけぬけと言い返す。同時に、一歩踏み出した。
譲るつもりはないようだ。少し距離を開けて対峙したまま、挑むように男を見据えている。後ろで、男が苦笑いした。「……さあて、そいつはどうだかな。どう見ても、嫌がってるようにしか見えねえだろ」
「俺が先に見つけたんスよねえ?」
荒んだ視線で睨み据え、ザイが険悪に声を落とした。「横取りはねえだろ。こっちが先だぜ」
声の調子が凶悪さを帯びる。エレーンは、ギョッと震え上がった。ノラクラしてるのかと思いきや、さすが無頼な傭兵稼業、脅しつける口調は極道そのもの。語気を荒げて凄んだ様には、如何にも手慣れた感がある。大して動じた風もなく、後ろの男が身じろいだ。
「なら、奥方様に訊いてみようぜ。本当にそっちに行きたいか」
言うなり、視線で選択を問うてくる。ザイも鋭く目を向けた。ギクリと弾かれて飛び退り、エレーンは、あたふた首を振る。男の上着をシッカと掴み、頭を振って思い切りイヤイヤ──。
喉を鳴らして、男が苦笑った。「──嫌われたもんだな、鎌風の。あんたんとこには行きたかねえとよ」
「──おい、どうした」
横から声が割り込んだ。
見れば、野戦服の男が二人、暗がりからブラブラやって来る。突っ立ったままで睨んでいるザイを、怪訝にジロジロ見やりながら。後ろの男とは懇意のようだが、ザイを見る目は明らかに険しい。でも、この人達って仲間じゃないのか? このザイも含めて皆似たような身形をしてるのに。
背中で、男の声がした。
「三対一だな。──どうする。やるかよ。もう潔く諦めちゃどうだ。しつこい男は嫌われるぜ」
勝ち誇ったような口調だ。火花を散らす両者を見比べ、エレーンは、後ろの男をこっそり見上げた。やっぱり、気になる。どこかで見たような気がしてならない。この声といい、下から見上げるこの角度といい、確かどこかで……?
諍いのキリをつけるかのように、後ろの男が顎をしゃくった。
「てめえのヤサへ、さっさと帰んな。ここは、あんたんトコの庭じゃあない」
予期せず現れた援軍を、ザイは、苦りきった顔で眺めていたが、忌々しげな舌打ちを吐き捨て、暗い木立に踵を返した 。その背が闇の中へと紛れて行く。
それをシカと見届けて、ほー……っ、と安堵の息をつき、エレーンは、胸を撫で下ろす。ふと、後ろの存在に気が付いた。「──あ、ありがと! 助かっちゃった。あの人、なんか、しつこくって」
「どう致しまして」
男も視線を下げて恭しく応える。何故かニヤニヤしているようだが?……ああ、ザイをやり込めたから、溜飲を下げたのか。あのキツネ、仲間にまで嫌われてるらしい。でも、それにしては……?
「──あ、あのぉ? あたし、もう大丈夫だから、その、──手は、もう放してくれていいんだけど……?」
そう、何故だか、いつまで経っても、二の腕を掴んで放さないのだ。ザイは、尻尾を巻いて逃げたというのに。
作った笑顔が若干引きつる。さりげなく腕を引っ張るが、解ける様子は全くない。( なに、こいつぅ…… )と口を尖らせ、無礼者を、むっと見上げる。危ないところを助けてもらって、こんなことを言うのもアレだけど、なんか馴れ馴れしいぞ? この男。すり抜けようと身じろけば、いっそう力が篭ってしまう。男は、にやにや笑って見下ろすばかりだ。他の二人も、どういう訳だかニヤついたままで見ているし──。
得も言われぬ焦燥が、胸にザワザワこみ上げた。「──ちょっとお! いい加減に手ぇ放してってば!」
「どうかしたのか。騒がしいな」
又も、別の男が現れた。やはり、同じような野戦服姿。ザイが去った暗闇を窺い、用心するように歩いて来る。手に痣のある背中の男に目を戻し、訝しげに顎をしゃくった。「レッド・ピアスんトコの若いのか? チョッカイかけてきたのかよ」
「──いいや?」
男は、可笑しそうに笑って応えた。こっちに向けて顎をしゃくる。「そんなことより、お客さんだぜ」
「……はあ?」
エレーンは、( あたしのことー? )と見返した。無論、遊びに来たような覚えはない。( あんたとは、たった今、ここで会ったばっかでしょーが?
)と内心呆れて見ていると、ザイとの諍いを聞きつけたのだろう。黒く塗り潰された雑木林の向こうから、一人、また一人と、寛いだ格好の男達が怪訝な顔で集まって来た。ある者は太い首からタオルをぶら下げ、又ある者はくたびれたランニングシャツ一枚で、何れも見た目は例の野戦服を着崩したバリエーションだが、まとう雰囲気は、昼とは違う。皆、例外なく視線が鋭い。警戒態勢を敷いているような厳しい雰囲気。欠伸(あくび)をしながらゴロゴロだらしなく寝転がり、のんびりたむろしている昼の様子とは、全く違う。
怪訝に見回しながら集まってきた彼らはしかし、こっちの存在を認めた途端、面食らったように足を止めた。互いに素早く目配せする。エレーンは、戸惑って見回した。集まった数人に瞬く間に囲い込まれ、体格の良い男達に逃げ道を塞ぐように周囲に立たれる。とっさに後退れば、すぐさま堅い何かにぶつかった。ザイを追い払ってくれたあの男だ。そういやコイツ、いつまでもいつまでも腕を放そうとしないのは何故なのだ?
なんだか様子が変だった。
そろり、と逃げ足、引きつり笑顔で言ってみた。「あ、あのぉ、……そろそろ、あたしは、お暇(いとま)を……」
突然、腕が捩じ上げられた。
「──痛たっ!?──ちょ、ちょっと! なにすんのよっ!」
驚いて、後ろに厳重抗議。振り解こうとはしたものの、だが、腕を一本取られただけで、ピクリとも体が動かせない。
「これは失礼、奥方様?」
背後の男が、おどけたよう笑った。内緒話でもするように、耳元に口を寄せてくる。「さてと、楽しく遊ぼうぜ。邪魔者も消えたことだしな」
「……え?」
「とぼけんなよ。俺達と遊びに来たんだろ?」
二の腕は依然掴んだままで、男は足を踏み替える。伴い、これまで陰になっていた顔の向こう半分が、明るい月光に曝け出された。
( あれ、あの傷、どこかで……? )
ふと、" それ " に目が行った。
左の頬に傷跡がある。刀か何かで斬られたような、大きく物騒な古い傷。ああいうの、前にも見たことあるような……?
ギクリ──と、全身が強張った。
息を呑んで、目を瞠る。賊の残党に襲われた小道、口を塞いだ大きな手、頭が痛くなる薬品の強烈な甘い匂い、意識が途切れるその刹那、視界に写った"
不吉なもの "、あれは──!
不意に蘇る記憶の奔流。そう、だって、あの傷は──!
呼吸が一気に浅くなる。
( なんで、あの賊が、こんな所に!? )
頭がひどく混乱した。頬の傷から目が離せない。
「──しかし、まさか、奥方様の方から出向いて下さるとはな」
包囲の一人が苦笑いした。取り囲んだ男達が品定めするように眺め回して、ブラブラ包囲を狭めてくる。隙なく囲まれ、逃げ場がない。野卑な笑いを浮かべた一人が、一同をグルリと見回した。
「なら、今回は勝者なしってことで決着だよな。残念だったなあ、バリーよお」
最後の呼びかけで、頬傷の男へと顎をしゃくる。どこかで聞いた名だ。
「──ざけんな、てめえ。なに言ってんだ」
バリーと呼ばれた頬傷の男が、不服そうに言い返す。「俺の勝ちだろ。現にこうして捕まえたんだからよ。後でちゃんと払えよ、お前ら」
毟るようなバリーの手が、寝巻きの襟ぐりを無造作に掴む。エレーンは、驚愕に目を瞠った。雑木林の暗がりに、降って湧いた狂騒の宴──
幕が、切って落とされた。
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