CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話4
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 引き千切られ、投げ捨てられた細絹のリボンが、光沢のある端を舞わせて、暗闇の静寂に音もなく吸い込まれた。
「──口を塞げ」
「そっち! 足押さえとけよ!」
 雑木林は、騒然とした。怒号、蛮声が充満し、色めき立ち熱に浮かされたような馬鹿騒ぎにくぐもった悲鳴が掻き消される。囃し立てる野戦服、無尽蔵に掴みかかる無数の手、それらがない交ぜとなって抵抗の手を押さえ付ける。一同を見回し、野卑な笑いで覗き込んだ一人が、肌蹴かけた襟元に舌舐めずりで手を掛けた。
「さあて、お待ちかね、お楽しみの時間ですよ、奥方様?」
 子供をあやすような馬鹿丁寧な猫撫で声。
「こんなむさ苦しい所まで、わざわざご足労頂いたんだから? こいつは是非とも、ご期待にお応えしなけりゃいけねえなあ?」
「お役に立たせて頂きますよ奥方様?──なあ、みんな」
 どっと笑いが沸き起こる。嬉々とした歓声、飛び交う野次、薄絹が裂かれる無残な音──。
 熱狂の渦が湧き起こった。
 冷やかし、口笛、揶揄笑い。野営地から少し外れた闇の中、降って沸いた狂騒の宴。
「……なんだ、こりゃ」
 鼻白んだ声がした。
 集中する幾つもの視線を感じる。
 知らぬ間に固く閉じていた目を、エレーンは、ゆっくりと開けてみた。覗き込む人垣を、おどおど見回す。そこにあるのは、動きを止めた奇妙な沈黙……?
 何か様子が変だった。ある者は頭を掻いて目を逸らし、ある者はシゲシゲと、値踏みするように眺め下ろして──。一人が小さく舌打ちした。「──手負いかよ」
 それを機に、結束していた野戦服の輪が白けたように緩んだ。口は依然として塞がれたままで、エレーンは、ビクビク首を傾げた。
( て、ておいって何……?)
 彼らの視線の先を追い、我が身を恐る恐る眺め下ろす。黒梢から漏れ降る僅かな月光の中、フリルの薄絹が仄かに白い。前ボタンが弾け飛び引き千切られた生地の中、露わになった青白い肌が見えた。そして、左右の肩から鳩尾(みぞおち)にかけて固く巻かれたくたびれた布──薄汚れ、毛羽立った白い包帯。
( ……あ? )
 そうか。怪我してた。こんな出先じゃ診せる医師なんかいないから、すっかり忘れていたけれど、夜逃げも同然にあの領邸を抜け出して以来、ずっと巻きっぱなしになっている。突然こんな物を見せられれば、誰だって二の足を踏むだろう。でも、それならつまり、もう、これで……?
( ──せ、せーふっ! )
 内心だけで、ほー……っ、と額の汗を拭く。怪我の功名とは、よく言ったもの。まったく世の中、何が幸いするか分からない……。
 ばつ悪そうに頭を掻き、目を逸らした何れの顔も、興醒めしたような面持ちだ。唐突ではあるけれど、これでお開きになる模様。張り詰めた緊張の糸がプツンと切れた。しかし、よくよく考えれば、それも道理だ。柄こそ悪いが、彼らも普通の人間なのだ。いくら何でも怪我人相手に無体な真似などしないだろう。飢えさらばえたどこぞの野獣じゃあるまいし。
 淀んだ空気が大きく動く。詰めかけていた一同が、かったるそうに身を起こした。口を塞ぐ無骨な手も忌々しげな舌打ちと共に退けられて──。その場を動かずシゲシゲ見ていた人垣の一人が、仲間を振り向き、面倒臭そうに顎をしゃくった。「──平気だろ。こんなにピンピンしてんじゃねえかよ」
「ああ──?」
 散りかけた足がピタリと止まった。
「……そういや、」
 一同、かったるそうに振り返る。
 脚を踏み替え、小首を傾げて、改めてシゲシゲ眺めやり、そして、
「それも、そうか」
 
( ……え゛!?)
 ギクリと、背中が硬直した。
 
 ── 野獣だったかー!?
 
 冗談のような急展開に、エレーンは内心、両手を上げて悲鳴を上げる。
 事態急変、だが、既に弛緩し脱力した身は、すぐには機敏に動かない。逃げ出す暇も、悲鳴を上げる間もなかった。
「構うこたねえ、引っ剥がせ!」
 悪乗りの歓声が湧き起こった。
 白いドレープが暗闇に舞う。
 瞬く間に、左右の腕を押さえ込まれた。助けを呼ぼうと口を開けた途端、不躾な手に塞がれる。辛うじて動く両脚で遮二無二(しゃにむに)撥ね退け、力の限りに抵抗する。だが、こうとなっては、如何なる努力も無駄だった。
 フリルを邪魔そうに掻き分けた手が、容赦なく裾を捲くり上げる。膝を撫で上げた硬い掌が、ドレープを撥ね退け滑り込んでくる。麻痺した頭が朦朧とした。うねるような高唱低唱、おちょくり冷やかす猥雑な野次、飢えた野犬に集(たか)られて貪り食われるような本能的な絶望感。四方から突き伸ばされる無骨な手──!
「何してんだ。楽しそうだな」
 どこかで聞いた、声がした。
 怒鳴るでもない、止めるでもない呑気な声音。だが、それは一声にして、蠢く無数の手を、ピタリ、と止めた。圧し掛かる熱気が僅かに和らぎ、遠のいていく。一斉に振り返る気配がした。
「……どうして、こっちに」
 決まり悪そうに一人が尋ねた。今の呼びかけに応じたらしい。訝るような警戒の声音だ。
 朦朧としつつも目を開ければ、立ち尽くした人垣の向こう、背中を向けた野戦服の隙間に、進行している光景がよぎる。だが、すぐさま視界から消え失せた。野戦服の背が場所を移動し、視界を素早く遮ったのだ。それは、ほんの一瞬のことだった。けれど、はっきりと分かった。呼びかけた相手の正体が。
 暗く遠い大木の下、ぽつんと一人で立っていた。彼らと同じようなアースカラーを基調とした無骨な風体、樹幹に腕組みで寄りかかったあれは──
 こちらの存在を背中の後ろに覆い隠して、野戦服達は、互いに素早く目配せした。口を押さえ付ける手に、尚いっそうの力が篭る。このまま誤魔化し、やり過ごそうというのだろう。こんなに距離が離れていては、向こうには多分、こちらの姿が見えていない。キャンプを無断で抜け出て来たから、今、自分がここにいるのは、誰も知らないことなのだ。無論、あの彼も含めての話。何とかして伝えなければ、
 ──ここにいる、ということを!
 エレーンは、必死で首を振る。
 けれど、精一杯もがいても、口を塞ぐ手は外れない。体はちっとも動かない。すぐそこに、あの人がいるのに──!
 ザワつく周囲 に構うことのない、穏やかな声が聞こえてきた。「俺に、譲ってくんねえか」
「そりゃないっすよ、バパさん!」
 不服の声が、相手の名を呼ぶ。
「こっちは俺らの島っすよ?」
「そうっすよ。いくら向こうの頭(かしら)でも、そりゃあ横暴ってもんでしょう。そんな理不尽は聞けませんよ」
 非難と反発が相次いだ。物騒で刺々しい不満の表明。断固死守の構えだ。敵愾心を燃やした一同は、暗闇を冷ややかに睨んだままで、誰一人として動こうとしない。反発に沸く人垣を、真後ろのバリーがやんわりと制した。苦笑混じりに暗闇の先へ目を向ける。
「お引取り願いたいんですがねえ首長殿? 俺達はあんたの部下じゃない。そっちの腰抜け相手なら、そういう我がままも通るんでしょうが、生憎とここは、あんたんとこの島じゃない。管轄違いもいいところっすよ。こっちのことは、ほうっておいてもらいましょうか。そもそも時間外に何をしようが俺らの勝手、あんたみたいな余所者に──」
 嘲るように吐き捨てた。
「とやかく言われたかねえんだよ!」
「いいのかよ、アドの客だぜ」
 場が、一瞬にして静まり返った。
「……頭(かしら)の?」
 人垣の男達が、凍りついた顔を見合わせる。
 動揺の波が立ち込めた。だが、それが不意に、ふつり、と途切れる。気まずい沈黙が暗闇に降りた。口をつぐんだ人垣は、覇を競う二大派閥の領袖の出方を逡巡しつつも窺っている。だが、当のバパは、只の一言ほうっただけで、先を続ける気配はない。畳み掛けるでも、解放するよう促してくるでもない。人垣の一人が落ち着かない様子で、左右の仲間に目配せした。
「……またまたあ、いったい何の冗談ですか。人が悪いんだから、バパさんは」
 機嫌を窺うゴマすり口調。隣の男も、取って付けた愛想笑いで同調する。「そ、そうですよ。だいたい、なんでウチの頭(かしら)がバパさんと──」
「そこの座長のダンってのが、俺達の古い馴染みでな」
 特別気負った風もなく、バパの声が頓着なく応えた。「近くまで来たから、久し振りに一杯やろうって話になってよ。で、そこのお姫様も招待したんだが──。あんまり遅せえから、迎えに来たって寸法だ」
 話の真偽を量りかねているらしい。一同は、胡乱な牽制で依然冷ややかに取り囲んだままだ。周囲に立ち込める重苦しい空気、隙あらば咬み付かんばかりの殺伐とした雰囲気。それは、相手が堅気であれば、とうに逃げ出しているだろうほどの剣呑な威嚇だったが、そうした視線を一斉に向けられても、受け応えるバパの口調は、終始一貫、平然としていて淀みがない。視界を遮る人垣の一人が、無造作に足を踏み替える。「……そういや、さっき、酒瓶抱えた《 マヌーシュ 》のオヤジが、そこらをうろついてなかったか?」
 身じろいで出来た隙間から、向こうの様子が垣間見えた。動きを止めた人垣に向け、短髪の首長は、威圧するでも急かすでもなく、穏やかにこちらを眺めている。遠くの見慣れた人影が、小首を傾げて、深い暗闇の先、木立の先へと顎をしゃくった。
「大将の客にまで手出しするとは、そっちの若いのは威勢がいいな。だが、さっさと寄越した方が身の為だ。お前らだって知ってんだろ、その子はアドの秘蔵っ子だぞ。身内も同然の掌中の珠だ。これがあいつに知れてみろ。お前ら全員ヤバいんじゃねえの?」
 思わせ振りに、語尾だけを強めた。物言いこそ穏やかなものだが、えげつない脅しに他ならない。
 頭上で、忌々しげな舌打ちが聞こえた。ふっ、と手足が軽くなる。
 視線は向こうに向けたまま、無数の手が引き上げられて、拘束が徐々に解かれていく。苦しい程に押し付けられた手が、口の上から退けられた。
「──わかりましたよ、仰せのままに」
 人垣の結束が完全に解けた。
 目算が狂い、白けた嫌味で踵を返す野戦服達。思い思いの方向にブラブラ散り始めた彼らの向こうに、あの闊達な姿が見える。寄りかかった大木から背を起こし、ゆっくり踏み出し、歩いて来る。裂かれた胸元を掻き抱き、エレーンは、呆然とそれを見た。
「バ、バパさん……」
 踏み出しかけて、けれど、ふと、ためらった。
 震える足で立ち尽くし、相手からぎこちなく目を逸らす。だって、きっと軽蔑される。こんな無様な有様だ。惨めな姿を見られたくない。寝巻きは切られてボロボロで、藪中逃げ回って、あちこち擦り傷や引っ掻き傷だらけで、力任せに首を振ったから、そそけた髪なんかもボサボサで──
「おいで、エレーン」
 あの声が聞こえた。
 立ち止まり、短髪の首長が手を広げている。普段と何ら変わらぬ穏やかな笑顔で。頬に一筋、涙が伝った。
「──バパさんっ!」
 気付いた時には、地面を強く蹴っていた。
 
 
 
 
 

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