■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話10
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吸い込んだ呼吸が、凍り付いた。息をつめ、全身を強張らせて、硬く硬く目を瞑る。首をすくめ、膝をつきそうになる体を支えて、グッと足を踏み止まる。押し潰されて転んだら、あっという間に圧し掛かられる。そうなったら一巻の終わりだ。爪の生えたぶっとい腕で、むんず、と体を掴まれて、頭からバリバリ貪り食われるに違いない。恐怖に全身を凍らせた。足なんか、とうに動かない。グイと、腕が引き寄せられた。
熊に。
( ……熊のくせに? )
微妙な行動である。瞼は硬く瞑りつつ、エレーンは、冷や汗びっしょりで首を捻った。なんか、ばかにフレンドリーな熊だ。いや、おかしくないか? うん、おかしい。絶対おかしい。いやしくも相手は、獰猛な熊、野生の獣である訳で──?
奇々怪々。自然の神秘というヤツか? 「やあ」 と片手を上げる可愛らしい熊のぬいぐるみを思わず想像してしまい、不思議いっぱいで首を傾げる。ビクビクしつつも目を開けて、自分のブーツが見える地面から、掴まれている左腕の辺りへと、ギクシャク視線を移してみた。黒い毛皮の鋭い爪を想像したが、周囲が暗いせいもあり、又、ゴツくて大きな借り物の上着に邪魔されて、どんな手なのか、よく見えない。相手を刺激しないよう、そぉっ、と後ろを振り向いた。視界をよぎるは、サラリ、と、しなやかな薄茶の直毛──?
「──あんたねえっ!」
一瞬詰まって、エレーンは、憮然と振り向いた。度肝を抜かれ両眉吊り上げたその顔には、止め処なく溢れ出た驚愕が ( てめーかよっ!? ) と、いささかハシタナイ言葉で綴られている。
右肩の上の方に、長髪の引き締まった顎があった。そう、真後ろからズッシリしなだれかかっていたのは、ばか高い樹の上で不貞寝を決め込んでいたあのファレスではないか。しかも、どうしてなんだか、ヤツの左の脇下に体がすっぽり嵌っている。肩に腕を回されていた──というより、酔っ払いに肩を貸すような態勢の「だらしない版」とでも言った方が適切か。いや、そんなことより何よりも、ほんの今まで高い樹上で寝そべってたヤツが、何故、今、目の前の地上にいるのだ? まさか──
( あの高さから飛び降りたっていうの!? )
唖然と、暗い梢を仰ぎやる。三階分の高さは優にある。地上まで距離があり過ぎる。しかし、現にヤツは、ここにいる。ざわざわと梢を揺らす枝の高さを再確認し、ぞっと背筋が凍り付いた。
( ……あ、あり得ない )
なんという命知らずな真似をするのだ。まだ微かにざわめいている大木の黒梢をそっと見上げて、背中に張り付く無謀な男に目を戻す。頭で何かを思うより先に、手が黒のランニングに掴みかかっていた。
「──けっ、けっ、けっ、怪我でもしたら、どうすんのよっ!? あんな高い所から飛び降りたりしてっ!」
心臓が口から飛び出しそうだ。あたふた梢を指差して、涙目でファレスに食ってかかる。だが、当人は見もしない。暗がりに視線を投げる横顔は、何事もなく平然とした顔。脚を押さえて蹲るでも、地面に転がってのた打ち回るでもない。着地した足にも別段異常はないようで、骨折等もない様子。肝心の当人が何ともないと言うのであれば、何を言っても詮ないこと。
「……も、……もう……女男のばかっ!」
せめて小さく罵倒して、エレーンは、小言を取り下げた。しかし、ずっしり圧し掛かる重みに気付いて、己の左肩に目をやれば、ヤツの腕置き場になっている。これが重い。実に重い。どうやら、樹の上から飛び降りる際に、足がかりならぬ手がかりとして利用し(やがっ)たらしいのだ。しかし、そういう無礼な利用のされ方は、乙女としては心外である。
「ちょっとお、さっさと離れてよっ! いきなり抱き付いたら、びっくりするでしょー!」
ほっと安堵した反動で、ランニングの胸板を容赦なく押しやる。だが、ファレスは、腕を肩に回したままで、一向に体勢を改めようとしない。端整な横顔は、別の場所を見ていた。木立の暗がりに目を凝らし、気配を窺っているような──?
何の反応も戻って来ずに、エレーンは、いささか、ばつが悪い。拍子抜けして、押し付けた両手を渋々戻す。そうこうする内、藪の賑わしいざわめきが、又一段と大きくなった。それは微かに「
おーい 」 と聞こえる。こちらにやって来るようだ。今、ファレスが飛び降りて枝が盛大に鳴ったから、聞きつけて来たらしいのだ。藪に分け入る、目標を見定めた足音。案の定、それから幾らも経たぬ間に、
「──おーい、そこ、誰かいるのか?」
はっきり聞き分けられる人の声で、まともにこちらに問いかけてきた。
ギョッ、とエレーンは引きつった。この状態は、如何にもマズイ。今、背中にはファレスがべったり張り付いているのだ。こんな暗がりでこの体勢じゃ、何を言われるか分からない。いや、後ろ指さされるに決まってる。絶対、変な誤解をされる!
「は、は、離れてよっ! 早くっ!」
引っ付いた体をグイグイ押しやる。だが、ファレスは、やはり、ビクともしない。片手だけしか使ってないのに、どうしてどうして外れない。藪の鳴る暗がりを手に汗握ってハラハラ見やって、エレーンは、焦燥に唇を噛んだ。デカい体を引っ剥がそうと、肩を抱くその手に遮二無二取り付く。身を捩り、両手総動員で攻勢をかける。だが、当のファレスは、何のつもりか全くその手を放そうとしない。それどころか、逃れようと暴れた途端、殊更に力を手に込めて、ガッチリ拘束し(やがっ)た。
──どーゆーつもりよ!?
このヤバン意地悪フシダラ吊り目が。
なんで突然こんなこと!? 仲良く肩組んだことなんて、一度もないのに!?
「──女男! あんたねえっ!」
ふざけんなよ!? と、ギッと睨む。いや、小競り合いしている場合じゃない。そうこうしている間にも、気配はどんどん近付いて来るのだ。
募る焦燥に拍車がかかった。無礼な腕を引っ剥がすべく肩を揺すってジタバタ暴れ、全力で脱出を試みる。けれど、当のファレスは知らん顔だ。いや、それどころか、
「おう、ここだ。どうした」
事もあろうに、平然と相手を呼び付け(やがっ)た!?
「──あ、副長!」
やって来たのは、部下らしい。見慣れた野戦服の男が一人、藪から姿を現した。見知った顔だ。──どころか、あの個性的な風体は、特徴があり過ぎて、すぐ分かる。ツルツル頭の金ピアス、短髪の首長バパの配下、件のタンポポ隊の一員だ。性格的には結構サバけて気さくだが、あの存在感の薄い眉毛とノペっとしたツルツル頭が、チロチロ舌出す蛇の顔を連想させる。ツルツル頭は、ファレスを認めて真面目な顔で駆けて来ると、面食らった顔で立ち止まった。
「──あ、すいません副長。とんだお邪魔を」
ぱっ、と気まずげに目を逸らす。この赤裸々な有様に、やはり気付いてしまったらしい。無論、エレーンは、即刻、断固、訂正した。
「ち、ち、違うからね!? これはっ!」
けれど、どもる。とっさに、どもる。本当のことだが、ちょっぴり動揺。だが、相手の反応は、
「……はあ」
やはりと言うべきか、芳しくない。目を逸らしたまま、ポリポリ頭を掻いている。これというのも、ずっしり重たい左の腕をヤツが引き上げようとしないからだ。エレーンは、ギロリと振り向いた。
「ほらあ! どーしてくれんのよっ!?」
因みに、ツルツル頭は、何かあったか、意気消沈した様子。そっと溜息なんか、ついている。
「──あんたねー! もう、いい加減に」
「ぅおーい! どうしたあ? 誰かいたのかあー?」
正当な抗議をしていると、突如、ガラガラの銅鑼声が覆い被さった。発生源は、右手の藪だ。今は是が非でも目撃されたくないエレーンが ( 又なんか来た──!?
) と飛び上がって振り向けば、今度は、ハゲの仲間の金鎖だ。
「せれすたんんーっ!」
焦れたように、金鎖が叫ぶ。無駄にデカいダミ声で。なんの呪文だ?
「──ああ、ロジェ。こっちだ、こっち」
ツルツル金ピアスが振り向いた。どうやら、金鎖のおっちゃんは、ロジェという名前であるらしい。( ふーん、おっちゃんのくせに可愛い名前〜 )と、エレーンがつくづく眺めていると、
「おおっ! そこかっ!……お?──おお? 副長ぉ―?」
ガッシリした図体で、ドタドタこちらへ駆けて来た。若干、がに股。いやに上機嫌だ。というより、あの赤ら顔は、
( ……完璧酔っ払ってねえ? )
エレーンは、ジトリ、と( 羨望混じりに )横目で見やる。酒は大の好物であるが、このところは、ずっと、ご無沙汰。何を隠そうケネルから、禁酒を言い渡されている。ロジェのおっちゃんは、ひょこひょこ目の前までやって来ると、笑って、ひょい、と背を屈めた。そして、
「奥方様、こんばんはぁ〜──たあく、相変わらず、かあーいらしい ( = 可愛らしい ) 顔しちゃってまあ!」
開口一番、よく分からないイチャモンをつけられる。ロジェおじさんは、上機嫌。飲むと陽気になるらしい。アドルファスから借りたブカブカの上着が目を引いたようで、「お……?」と言いつつ、太くて無骨な指を伸ばす。
「ありゃ寒いぃー? こーんなゴツいの着込んじまって」
いささか不躾な酔っ払いの手が、革の上着の襟へと伸びる。だが、触れようとしたその途端、
「こいつに触るな!」
鋭くその手が弾かれた。と同時に、グイ、と力任せに引っ張られる。
押し殺した剣呑な威嚇。ファレスだ。警戒の体勢で足を引き、自分の後ろに押しやって、ギロリと睨み付けている。えらい剣幕だ。何の気なしに手を出したロジェは、叩き落された手を、きょとん、と引っ込め、小首を傾げて手の甲を擦った。
「……はあ、こいつは相すいません。──でも、珍しいっすね。副長がこの程度で苛つくなんざ」
だが、殊勝な言葉とは裏腹に、大して堪えてはいなさそうだ。赤い顔で、ひぃぃっく、と一つしゃくり上げると、ひょい、とエレーンを覗き込んだ。
「仲いいんすね、奥方様と」
にんまっ、と笑い、思わせ振りな横目。
「……はあ!?」
ギョッと、エレーンは、目を丸くした。
「だからっ! それは違うんだってばっ! 全然違うーっ!」
ぶんぶん首振り、ジタバタ足掻く。更に「違うから! そーじゃないからっ!」と追い縋るように連呼で訂正。俄然、訂正。しかし如何せん、如何なる努力も無駄であった。肝心の体勢が依然としてこの有様では、説得力は皆無である。肩に体重を存分に預けてのらくら寛いでいる野良猫を、ギッと肩越しに睨み上げるも、隣のガサツな張本人は、何のつもりか、どこ吹く風の知らん顔。ファレスとこちらを交互に見やって、酔っ払いの赤ら顔は、へー、とか、ほー、とか、楽しそうにニマニマしている。
( ……ああ……やっぱし…… )
エレーンは、がっくり項垂れた。これというのも、みんな野良猫のフシダラな気紛れのせいである。しかし、誤解だ。誤解もいいとこだ。確かに肩こそ抱いちゃいるが、これは、そんな色気のある話じゃないのだ。そう、どっちかっていうとホラ、仲良し装ってカツアゲされてる学生の気分。にしても、このおっちゃんもおっちゃんだ。これじゃあ、頼もしい傭兵というより只の陽気な酔っ払いではないか。隣に突っ立ったツルツル金ピアスは、呆けたように、ほけっと見ている。
「どうした、セレスタン。報告しろ」
ファレスがぶっきらぼうに顎をしゃくった。思わせ振りにヘラヘラ囃し立てられて、少し苛ついてきたらしい。顎先で無下に促され、セレスタンと呼ばれたツルツル金ピアスが、はっ、と俄かに我に返った。一転、真面目な顔で襟を正す。
「至急、中央に集合っす。あ、うちの頭(かしら)のテントの前っす。" ヴォルガ " をやるってんで、えらい騒ぎになってますよ」
「"ヴォルガ"を? これからか?」
ファレスは、面食らったように一瞬詰まった。夜の木立を訝しそうにゆっくりと見回す。「陽は、とうに暮れてるぜ。──あの野郎、マジでこれから、やろうってのかよ」
最後の方は、独り言に近い。だが、セレスタンは、ファレス同様、闇に沈む周囲を見回し、彼の不審に律儀に応じた。
「ええ。俺も、こんな暗い中での " ヴォルガ " は初めてっすね。隊長が特別に許可したとかで」
赤ら顔の酔っ払いも、一つ頷き、話に加わる。
「しかし、よりにもよって、行程中に " ヴォルガ " とは。──いや、勝手にそんなことして、上の方は大丈夫なんすかね」
そうこうする間も、エレーンは、奮闘努力中。顔を押し付けられた脇の下から何とかして脱出すべく一人密かに努力継続。重たい腕を押し退けるべく、奥歯を食いしばり、ぐぬぬ──と踏ん張る。だが、ファレスは、二人と頭上でやり取りしつつも、捕えた腕だけは放そうとしない。既に肩で息つくエレーンは、せめてヤツの足でも踏ん付けてやろうと、持てる全力で踏み込んだ。姑息にも、直前で避けられたが。
「今回の対戦は、向こうの大将とバリーだとかって話っすよ」
「……ほう」
「なんでも、バリーの野郎が大将の女に手ぇ出したとかで。──しかし、いくらなんでも、そりゃあヤバいってもんすよねえ」
情報をもたらすセレスタンの顔を、ファレスは、無感慨に眺めやり、口先だけで短く等閑(なおざり)に相槌を打つ。つい今しがたまで自分こそが現場にいたのだ。目新しい情報は一つもない。もっとも、話の細部は若干違うが。
大して関心を示さないファレスを見やって、二人が顔を見合わせた。酒焼けの濁(だみ)声で、不思議そうにロジェが言う。
「あらら、興味ないんすか副長は」
「──そんなこたねえよ」
素気ない様子に肩をすくめて、ロジェがセレスタンを振り向いた。
「にしても、正気の沙汰じゃねえよな隊長も。負けたら、その場で首長交代だってんだからよ」
「交代?」
ふと、ファレスが聞き咎めた。唖然と、絶句で二人を見返す。慌ててセレスタンが付け足した。「──あ、いや、副長。こっちはガセかも知れませんがね」
「いや、ヤツならマジでやりかねねえ。──おい、こら。そこんところは、どうなんだ」
捕えた左腕で軽く小突いて、脇の下のエレーンに突如確認。重たい腕を押し退けるべく奮闘していたエレーンが、挟まれた腕に押し潰されそうになって、「なによー?」と迷惑そうに顔を上げた。
「だから、今の話は本当かよ」
突然、皆に注目され、エレーンは、聞き流していた話の流れを思い出す。
「……あーなに? アドが負けたら、どうとかってアレのこと? そういえばケネル、そんなことも言ってたみたいな……? あ、でもねー! そんなことより問題なのは、アドは腕が──!」
ファレスが軽く舌打ちした。
「あんのタヌキが!──どうあっても、おっさん自ら野郎を潰させようって魂胆かよ」
二人のやって来た方向を見やって、続けて一人ごちている。「あの野郎、俺より、よっぽどえげつねえな」
「ねー! そんな事よりケネルを止めてよ! " ぶっ叩く " とか絶対ダメよ! あんた、もういなかったけど、あの後ケネル、すっごい意地悪だったんだからー!」
ファレスがかったるそうに目を向けた。「お前、今頃気づいたのかよ」
「──女男っ!」
「無駄だな。ヤツは言い出したら聞かねえよ。ケネルの決定は覆せない。──しかし、こいつは見ものだな」
足を踏み替え、二人の男に目を戻す。
「この勝負、案外いいとこいくかも知れねえ。バリーにとっちゃ伸るか反るかの大博打だ。それこそ死に物狂いで仕掛けるだろうぜ。アドを下せばヤツの天下だ。そうなりゃ一気に──」
思わせ振りに目配せした。
「下克上だぜ」
思案するよう腕を組み、セレスタンが形の良い禿頭を逸らして、今来た方向をつくづく見やった。
「……へえ? マジで交代するんすか。なら、今回ばかりは、あの大将も、バリバリ本気ってことっすね」
「へっ! あの野郎、いい気味だぜ」
セレスタン同様そちらを見やって、ロジェが得々と話に割り込む。「精々大将にぶっ叩かれるがいいさ。だいたい、あの野郎は、日頃からいい気になり過ぎなんだよな。この前だってよ──」
「ご苦労。すぐ行く。戻っていい」
ファレスは、素気なく遮った。「こっから先は、誰もいねえよ」
突然話を切り上げられて、二人は、面食らったように口をつぐんだ。だが、すぐに一礼して踵を返す。しばらく歩いて足を止め、ふと、セレスタンが振り向いた。「──ああ、で、副長は、どっちに?」
何やら意味深に笑いかける。ファレスは、少し考えた。そして、
「アドルファスに三クチ」
ズボンのポケットから小銭を取り出し、セレスタンの胸へと放り投げる。片手でそれをキャッチして、セレスタンは苦笑いした。「──ああ、やっぱ義理ってヤツっすか。大将同士、色々大変っすね」
「──そんなんじゃねえ。義理なんかあるか」
「でも、いいんすかー、そっちの方に賭けちまって」
赤ら顔のロジェが、したり顔で話に割り込む。
「" 砕王 " の大将、利き腕がイカれてるらしいって専らの噂っすよ? で、左の方も確かダメでしょ。ほら、こないだ、ネズミに斬られたばっかだし」
「──いんだよ、それで。俺は負ける戦はしない主義だ。四の五の言ってねえで、さっさと戻れ」
鬱陶しそうに、ファレスが手を振る。相手をするのが面倒になったらしい。
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