CROSS ROAD ディール急襲 第2部3章 6話14
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 あの黒髪を慌てて捜す。あの横顔を遮二無二捜す。きっと、どこかにいる筈だ。この場に彼が来ない筈がないのだ。猥雑なざわめきの中、ケネルの気配を慎重に探る。揺らめくかがり火、立ち込める紫煙、どこだろう、ケネルは──。
 神経を研ぎ澄まして喧騒を探る。だみ声、歓声、客引き女の黄色い声、呼び声、咆哮、耳をつくざく唐突な嬌声、花火の爆音、硝子のビンがかち合う音、何かが崩れ落ちる重い音、パチパチ炎が弾ける音──。喧騒に紛れて怒号が上がる。甲高い金切り声、左の木立の暗がりだ。続いて鳴り響く張り手の音。女が抗議をしているようだ。酔っ払った無礼者でも出没したのか? それにしても、そもそも、ここには "催し物をする為に" 集合したのではなかったか? 皆してヘラヘラ酔っ払っていたら、試合どころじゃないだろう。これじゃあ、試合の最中に、テントの中でガーガー酔い潰れてる不届き者だって出てこないとも限らない。現に、木陰にだらしなく転がって、寝そべってる者もいるではないか。 だいたい、こういう場所に、ああした商売女を呼び付ける事からして、どうなのだ。いや、そんなことより、今は、ケネルだ。
 気を取り直して気配を探れば、微かに引っ張られているような感触があった。極々弱い異質さだ。でも、そこだけ違う。何かが違う。右手前方。胸が躍る。
 ケネルがいる──!
 雷に打たれたように、はっ、と顔を振り上げた。慌ててそちらを慎重に捜す。駆け出す足が地に付かない。視界が激しく揺れ動く。胸の高鳴りが煩くて邪魔だ。
 案の定、大勢が犇く雑踏の中でも、ケネルは、すぐに見つかった。会場右手の木立の中だ。かの短髪の首長と何事か話し合いながら、藪を掻き分け、こちらに出て来る。
 バパが軽く手を上げて、かがり火の賑わいへと足を向けた。ケネルは、人けのない右手沿道へと向かっている。薄暗い梢下の倒木に脚を組んで腰をかけ、無自覚な様子で懐を探り、煙草を取り出し、無造作な手付きで点火する。持ち上げた膝に頬杖をつき、こちらに軽く背を向けて、向こう側のかがり火を眺めている。
 エレーンは、困惑して足を止めた。なんだか、いつもと様子が違う。酷く近寄り難いのだ。膝に置いたケネルの手から紫煙がゆったり立ち昇り、薄く夜空に消えていく。ケネルの周囲そこだけが、ひっそりと静まり返っている。
 ウズウズする。飛んで行きたくて、ウズウズする。欲求が押さえ難く湧き起こった。今すぐあの首にしがみ付きたい。今すぐ懐に飛び込みたい。けれど、ケネルは、何事か考え込んでいるようで、軽く眉をひそめたままで冷ややかな空気を纏っている。全てを拒絶するような冷たい横顔── 。
(……何を、考えているの?)
 左手から、何かがケネルに近付いた。はっ、と見やれば、白っぽい紫のドレスの女だ。女は淫靡な品を作り、疎らな雑踏を早足に渡り、人波を縫うようにして近付いて来る。一人でいる寂しげなカモに、早速目をつけたらしいのだ。
 ケネルの肩に手をかけた。
 ──あの女! ケネルに!?
 エレーンは、瞬時に身構えた。
( 触んないでよっ! 汚らわしいっ!? )
 気付いた時には、駆け出していた。すぐ目の前に立ち塞がられて、ケネルが、ふと物思いから顔を上げた。覗き込むように話し掛けられ、苦笑いで紫煙を吐きつつ、煙草を踏み消し、纏わり付いた女を仰ぐ。これまでの無表情を困ったように綻ばせ、何事か女と話している。女は、ただをこねるような甘えた仕草で、何事かねだるように身をくねらせ、ケネルの左の腕を取る。
「──離れてよっ!」
 肩を、力任せに突き飛ばした。突然押されて、女が大きく仰け反った。それに気付いた通行人が、両手を掬い上げるようにして、後ろ向きに飛んできた女を引っくり返る寸でのところで受け止める。背後の男に両腕でもたれて、女は茫然自失した表情だ。しばし、呆気に取られて見ていたが、すぐに事情を悟ったらしく、助け起こされ身を起こしながら、ギロリと憎々しげに睨みつけてきた。だが、こちらと目が合った途端、ビクリ、と見るからに後退り、及び腰でたじろいだ。紅を塗った真っ赤な口が「な、なによ……!」の形に憎々しげに歪んでいる。だが、結局は、そそくさドレスを翻し、尻尾を巻いて逃げて行った。
( おっし! 勝ったあ! )
 鼻息荒く拳を握り、エレーンは、勝利のガッツポーズ。ケネルは、前のめりに身を乗り出して、逃げ去る女を呆気にとられて見送っていたが、浮かした腰をゆっくり下ろして、膝に手を置き、怪訝そうに身を捩った。途端、弾かれたように振り返る。
「どうして、あんたが、ここにいるんだ!」
 唖然と目を瞠り、ケネルは、心底驚いた様子。
「ど、どうして、って、言われても〜……?」
 エレーンは、とっさに引きつり笑った。随分過剰な反応だ。そんなに驚くとは思わなかった。ケネルは、息を呑んだまま、まじまじと顔を見返している。苛立たしげに嘆息した。「──俺の後をついて戻って来たのか。無事だったから良かったようなものの!」
 ここでの再会は予定外だったようで、眉をひそめて持て余した様子。苦りきった顔で目を向ける。
「勝手に動くな、と言ったろう!」
「ちっ、違うっ!──違うからっ!」
 エレーンは、驚いて目を瞠った。
「あたしは、ちゃんと、あそこにいたもん! 言われた通りに、あそこにいたもん! でも! でも、女男がこっちに来たから!」
 そう、とんでもない誤解である。
「ファレスが?」
 ケネルは、面食らって言葉を呑んだ。だが、すぐに舌打ちで続ける。「ファレスのヤツは、どこにいる」
「……あ、……あの、さっきまでは、近くにいたんだけど、……なんか、どっか行っちゃって……」
 不機嫌に訊かれて、あたふた応える。ケネルは「──何やってんだ、あいつは!」と腹立たしげに吐き捨てると、上着の懐を渋い顔で漁り、煙草の箱を取り出した。苛々と息を吐きつつ、一本抜き出し口に咥える。エレーンは、とっさに見咎めた。「あ、煙草は嫌って──」
「嫌なら、寄るな」
 ぶっきらぼうに一蹴し、ケネルは、構わずマッチを擦る。ケネルの思わぬ気の立った様子に、エレーンは、困惑して立ち尽くした。何故、叱られているのか分からない。煙草を口に咥えたままで、ケネルが一瞬、じっと見た。
「な、なに……?」
 エレーンは、首を捻って訊き返した。何かを量るような、探るような面持ち、得体の知れぬものでも見るような視線だ。
「──いや」
 短く応えて目を逸らし、ケネルは、煙草の先に点火した。気を落ち着けるように深く長く息をつき、往生したように頭を掻く。とんだ番狂わせだと言わんばかりだ。煙草を指に挟んだ利き手を、持ち上げた膝の上に置く。「──どうした。何か用なのか」
「え?」
 はっ、と、エレーンは、我に返った。そう、用といえば他でもない。
「なによー! ケネルってば! 今、あの女にくっついて行こうとしてたでしょう!」
 女が消えた雑踏を、気色ばんで指し示す。エレーンは、プリプリ膨れっ面。こっちには、怒るに足る正当な理由があるのだ。ケネルは、煙草を咥えたままで、こちらの顔を怪訝そうに見やった。口から煙草をゆっくり取り去り、やはり億劫そうに、ぶっきらぼうに言う。
「してない」
「嘘っ! してたもんっ! なによ! ケネルってば、鼻の下伸ばしてデレデレと!」
 両の拳を握り締め、エレーンは、ぶんぶん首を振る。ちゃあんと目撃したんである。女の手が離れた途端、ケネルは、立ち上がって追おうとした。だが、ケネルは、しれっと顔を突き出して、
「してない」
 ──むむ!? とぼける気か!?
「してた!」
「してない」
「してたっ!」
「してない」
 どうあっても引かない気らしい。エレーンは、ムカつく憤りをなんとか堪えて、むむぅ、と口を尖らせた。この白々しいタヌキのヤツを、ぎゃふんと言わせて、とっちめてやる!
 大きく息を吸い込んだ。
「絶対してた! してましたあーっ! 絶対、絶対、してましたあーっ! だって──だってケネル、確かに、後を追いかけようと──!」
「してた」
 ほんの短い肯定に、鋭く胸を射抜かれた。
 ケネルは、賑わう広場を眺めやり、紫煙をゆっくり吐いている。何事もないその顔に、冷えた怒りが込み上げた。
 ──そんなの、絶対、許せない! 
 震える拳を握り締め、鋭くケネルを睨め付けた。
「ケネルっ!」
 小首を傾げて、ケネルは、静かに見返した。
「そう言わなけりゃ、あんたは満足しないんだろう?」
 エレーンは、詰まって唇を噛んだ。なんだか、いつもと様子が違う。なんだか、いつもより意地悪だ。そう、何故だろう? ケネルがなんだか余所余所しい。あの女を追い払ったから? さっき思わず、ぶったから? もしや、約束破ってキャンプを抜け出て来たからか──? 思い当たるフシは、幾らもある。取り成す術もなく唖然と言葉を失っていると、ケネルは、大儀そうに続けた。
「──あんたが突き飛ばしたりするからだろう。後ろに人がいたから良かったようなものの、悪くすりゃ頭を打っていた」
「そ、そ、それは、あの女が──!」
 むう、と、エレーンは、頬を膨らませる。だって、悪いのは、あの女だ。
「だって、あの女、ケネルに──!」
「そう、うるさく目くじらを立てるな。あいつらはあれが商売だ。あれで飯を食っている」
 冷静な言葉に、思わず切れた。
「なんで、あんな女の肩をもつのよ! だいたい、なんで、あんな人達がここにいるのよ!」
「……ああいう輩は何処からともなく現れるな。どこで聞いて来るんだか」
「現れたんじゃないでしょう!? わざわざ連れて来たんでしょう!? 馬車があそこに停まってるじゃない!──そんな簡単に誤魔化されないもん! ケネル達って、いつも、こんな事しているの!?」
 ケネルは、困ったように苦笑いした。「──いつも、じゃない」
「じゃあ時々?」
 間髪容れずに、エレーンは、鋭く切り返す。ケネルは、応えを渋ったままで、面倒そうな面持ちだ。ダンマリを決め込んで、やリ過ごそうというのだろう。けれど、そうは問屋が卸さない!
「ケネル!」
「──まあ、長期の遠征に出る際に、」
 渋々ケネルが口を開いた。「町で幾人かと契約して、しばらくの間、雇い入れる事はあるな」
「な!? なんで、そんなことすんのよ!?」
 つまり、雇用目的は、そういう、、、、用途ということか!? 
 予想を遥かに越える答えだ。だが、ケネルは、静かに紫煙を吐き出すばかりだ。
「何故と訊かれれば、必要だから、と答えるしかない。因果な商売柄、流しの女は危なくてな 」
「だ、だからって!」
「寝首をかかれたヤツがいる」
 絶句で文句を呑み込んだ。不測の言葉に、返事に窮する。けれど、
「──で、でも! 好きでもないひととそんなこと!」
 それなら、ケネルもそういう女と……? 
 そんなの、絶対、納得出来ない。そんなの、絶対、許せない。
「信じらんない! そんなの不潔よっ!」
 ケネルは、やれやれと溜息をついた。
「どう思おうが勝手だが、あんたが世話したラトキエの女も似たような素性じゃなかったか」
「──な!? アディーは!」
 彼女らとは違う! と否定しかけて言葉を呑んだ。
 否定出来ない。アディーは娼婦だ。それも、最高級の娼館の。病気になって、残り時間が少なくなって、屋敷に身請けされて来た。それは事実だ、紛れもなく。でも──
 まじまじと、ケネルの顔を見た。
「……なんで、ケネルがそんなことまで知ってるの?」
 ケネルは、一瞬詰まって、苦笑いした。「──周知の艶聞はなしだと思うがな。ラトキエが娼婦を身請けして、屋敷の隅に囲っていた、というのは」
「そんな筈ないわ。あたし、そんなの聞いたことないもん」
「あんたはラトキエの使用人だからな。誰もそんな話はしないだろ。知らぬは身内ばかりなり、だ」
「──でも!」
「ラトキエに、面と向かって喧嘩を売るような馬鹿はいない」
 日頃悠然と構えるケネルにしては珍しく、カリカリと苛立った態度だった。反論を性急に退ける、楔(くさび)を打ち込んでしまおうとする頑強な様が、エレーンには何か腑に落ちない。ふと気付いて、顔を上げた。
「……もしかしてケネル、前にアディーと会ったことがあるの?」
 訊いてしまってから、(しまった──!)と思った。彼女は、高級娼館の娼婦だったのだ。逃亡を防止する為、外出する自由はない。つまり、彼女と会う事の出来る場は、娼館の中に、、限られる。
「あっ! や、──だ、だから、あの〜……?」
 ばつ悪く赤面して、エレーンは、目を瞠って取り繕った。色を失い周章狼狽していると、先回りして、ケネルが答えた。
「生憎と俺は、白亜の館に出入り出来るほど、ご大層な身分じゃない。それほど暇という訳でもない」
 素気なく辺りを見回し、膝の煙草を靴裏で踏み消す。「──仕方ない。ファレスを捜すか。そろそろ始まる」
 ハッと、エレーンは、思い出した。彼らが集う目的を。
 そう、ケネルの過去を詮索している場合じゃない。連中の非常識なモラルのなさを非難している場合じゃない。
 ──アドルファスの試合が始まるのだ! 
 慌ててケネルに取り付いた。
「そんなのやめて! 取り止めて!──ね、お願い! ケネルなら中止に出来るでしょう?」
 " ヴォルガ " という木刀試合は、過去、死者さえ出したという物騒極まりない代物なのだ。開始前の今ならば、きっと中止に出来る筈。ケネルは、面倒そうに応じた。
「開催に関して異論はない」
「あたしが反対してるでしょー!?」
 エレーンは、両手を振り回し「ほらほら、ここにいるでしょ見えないのー!?」と真摯にアピール。
「アドが怪我をしてるのに、そんなの無茶よ馬鹿げてる!」
 ケネルが嘆息して目を向けた。
「あんたが被害を受けたと言うから、アドルファスがあんたに代わって制裁しようとしてるんだろう」
「だったら、あたし取り下げる! そんなの、すぐに取り下げちゃう! こっちのことは、もういいから!──だから、ねっ!?」
 だが、ケネルの応えは、素気ない。
「既にあんただけの話じゃない。首長の威信の問題だ」
 そして、やれやれ、と目を逸らす。その普段と変わらぬ冷静さが、焦れた神経を逆撫でた。
「──威信だとか何だとか、そんなの全部、どうだっていいわよ!」
 そう、制裁を望んだ訳じゃない。面子だとか体面だとか、そんな大袈裟なことじゃない。もっと、ずっと単純なことだ。ただ傍にいて労わって欲しい。懐に包み込んで慰めて欲しい。
 ──こっちだけを見て欲しい。
 ケネルが扱いかねたように目を向けた。
「どうして、そんなに我がままを言うんだ。本来これは、全く無用の催しなんだぞ。そもそも、あんたがこんな所へ来なければ、不祥事自体起こらなかった」
「……どうして、そんな意地悪言うの?」
 声を紡ぐ唇が震えた。
「だって、ケネルだと思ったんだもん。林に入って行く時は、確かにケネルだったもん。だから、あたしは──!」
 ケネルは、首を振って嘆息する。
「そいつは手土産を届けに来た調達班だ。座長がバパを訪ねると言うから、そいつが野営地まで送って行った。俺は林には入ってない。つまりは、あんたの勘違いだ。──まったく、何故すぐに確認しない」
「どうして、いつも、そんなふうに言うの? あたし、本当は恐かった。ずっとずっと恐かった。なんでかいきなり追っかけられるし、アドは恐い顔で出て行っちゃうし、バパさんは止めてくれないし、女男があの人達をぶって、蹴って、人が変わったみたいに恐くって、皆で恐い顔で集まって、どんどんどんどん大ごとになって──!」
「……だから、あんたが招いた事態だろう」
 ケネルは、どこかうんざりと、苦々しげに異を唱える。制御出来ない感情が、胸に熱く込み上げた。
「みんなケネルが悪いんじゃない! あたしのこと放ったらかして、どっか行っちゃうから悪いんじゃない! ケネルがいたら、行かなかったもん! ちゃんと傍にいてくれたら、あたし、どこにも行かなかったもん! 恐い目に遭ったの知ってるくせに! 心細いの知ってるくせに! ケネル、ちっとも分かってない! 敵討ちなんか、して欲しかったんじゃない! そんなこと、あたし、頼んでない! あたしは、ただケネルに──!」
 熱い塊が胸に詰まって、無理に絞り出した声が震える。「ただ、ケネルに──」
 ふと、ケネルが振り向いた。驚いた顔で立ち上がる。
 ざわざわガヤガヤ、ざわめきが周囲を取り巻いた。酒や花火で賑わって、薄暗い林道の片隅になど全く無関心な楽しげな喧騒──。ケネルは、戸惑った顔で立ち尽くしている。やがて、一歩踏み出した。ケネルの右手が頬を撫でる。何事にも動じぬ泰然自若の瞳には、微かに入り混じった狼狽の色。もう一方の手が持ち上がり、こちらの項(うなじ)に滑り込む。驚いてケネルを見つめると、乾いたその手が自分の肩へと引き寄せて──
「あー!? あーんな所にいやがった!」
 ……どこぞで聞いた喚き声?
 ぱっ、と両手が引っ込んだ。
 一瞬にして置き去りを食らい、エレーンが( んもおー! 何よおー! いいところでー! )と殺気さえ覚えて振り向けば、案の定、そこにいたのは、人込みを掻き分ける長い直毛。苛立った顔で駆けて来る。到着するなり、眦(まなじり)盛大に吊り上げた。
「てめえ、こんな所でちゃっかり何していやがんだ! 油断も隙もありゃしねえ。すーぐ、いなくなりやがってよ!」
 小言が終わったその直後、拳が脳天を直撃した。ゴン──! と鈍い打撃音と共にめり込んだ頭頂部を両手で抱えて、エレーンは、涙目で睨み上げる。
「なあにすんのよっ!?」
 引っ掻き攻撃スタンバイ。ケネルが溜息で目を向けた。「何故、こんな所へ連れて来る。とうに戻ったと思っていたのに」
「──ああ?」
 掴みかかる攻撃の手をウザったげに片手で押さえて、ファレスが心外そうにケネルを見た。「てめえが招集かけたんだろうが」
「……俺が?」
 ケネルは、腑に落ちなそうな面持ちだ。己の指示を思い出しているのか眉をひそめて顎に手を置き、小競り合いを眺めやる。ややあって「──ああ、そうか」と合点したように目を戻した。
「すまん。除外するのを忘れていた」
「──" 忘れてた " だあ?」
 ファレスは、呆れたように復唱し、忌々しげに舌打ちした。「なら、こっちに来たのは徒労かよ。たく、何をぼさっとしてるんだ」
「悪い」
 ケネルは、ばつの悪そうな顔。凡ミスのとばっちりを食った副長ファレス、ここは一番クレームの嵐か、と思いきや、しかし、ファレスは、つくづくケネルを見返した。
「珍しいな、お前がヘマとは」
 面食らったような顔。
 結局、一言だけ非難を言い置き、この話を切り上げる。今来た背後を、舌打ちと共に振り向いた。「にしても、ハゲもハゲだぜ。ったく。女の番一つ満足に出来ねえのかよ」
 ガヤガヤざわめく喧騒の中に 「 しっかりしろー!? せれすたんんーっ! 」 とロジェの喚声が混じっているから、既に張っ倒してきたらしい。ファレスは、一頻り愚痴を零して振り向くと、ふと口をつぐんだ。
「──どうした。ケネルに苛められたか?」
 ケネルに向けて顎をしゃくり、怪訝そうに問いかける。
「え?」
 相手の視線の先を追い、エレーンは、あたふた頬を触った。指先にしっとり水の感触……?
「あ、──な、なんでもないから!」
 即行ファレスに背を向けて、腕で顔をゴシゴシ拭う。感極まって泣いていたらしい。なら、ケネルのさっきの行動は、いきなり泣かれて動揺したのか……。
 ファレスは、不審な顔でジロジロ窺うように見ていたが、どうでもいい、と思ったらしく、肩を竦めて隣のケネルに目を戻した。「──で、どうする。あっちに連れて戻るかよ」
 キャンプの方角へと顎をしゃくる。
「そうしてくれ」
 ケネルは、一も二もなく即答した。
「ここに置いておく訳にもいかんだろう。悪いがファレス、もう一度──」
「あ、あたし、ここにいるからっ!」
 エレーンは、慌てて割り込んだ。話をまとめかけていたケネルとファレスが、怪訝そうに目を向ける。自らを励ますように大きく頷き、エレーンは、顔を振り上げた。
「あたし、ケネルと一緒に帰るから! ケネルが戻るまで、ここにいる!」
 両手を握り、きっぱり宣言。断固引かない決意である。ケネルが溜息で見返した。
「ファレスと戻れ。あんたのいるような場所じゃない」
「いや!」
 エレーンは、断固、首を振る。ケネルは、持て余している様子。「──聞き分けのないことを言うなよ。頼むから」
 けれど、もちろん、エレーンは、
「嫌ったらヤっ! イ、ヤ、よっ!」
 むー、と頬を膨らませ、拒絶を示して、ぷい、と、そっぽを向いてやる。だって、ケネルを一人にしたら、タッグを組んだ女どもがワンサとたちまち寄って来て、誘惑すること請け合いだ。そうなれば、ケネルだって、女の色香に惑わされ、後について行くかも知れない。本人は否定をしていたが、他の男どもと同じようにフラフラくっついてくかも知れない。
 ──そんなの断じて許せない!
 絶対、阻止する。ケネルの傍で見張っているのだ!
 当のケネルは「──まったく、あんたは」と困った顔で頭を掻いている。何を考えているものか、しばらくシゲシゲ見ていたが、やがて、足を踏み替え、ファレスを見た。
「仕方がないな。もうしばらく頼む」
 ケネル隊長、新たな指令。だが、ケネルのポカでワリを食ったファレスは、頭の後ろで手を組んで、そっぽを向いて不服顔。目だけでケネルをチラと見た。
「なー、夜はお前の当番じゃなかったか?」
 空疎な確認と嫌味の視線。出鼻を挫かれ、ケネルは、む……と気勢をそがれた。ケネル隊長、痛いトコ突かれる。だが、すぐに林道中央を、ひょい、と指差し、
「あ。俺は " ヴォルガ " の行方を見届けないとな」
 後はよろしく、と肩を叩いてバトンタッチ。そそくさ、すかさず脱出を図る。
「──ち! フケやがった、あの野郎」
 ファレスの忌々しげな舌打ちが聞こえた。ぽかん、と何となく見送ってしまい、エレーンは、はっ、と我に返った。
「ど、どこ行くのっ!?」
 即行、慌てて大地を蹴る。一人でどっか消える気だ!
「待ちなさいよケネルっ!──こら、ケネルーっ!?」 
 何とか服の端っこでも捕まえようと、思い切り片手を突き伸ばす。冗談じゃない。やーっと、こうして捕まえたのに! 
 ──みすみす逃がしてなるものか!
 だが、その途端、
「チョロチョロすんなっ!」
 グイ、と手荒く引き戻された。
 なあにすんのよ──!? と苛立ちと共に振り向けば、むんず、と首根っこ掴んでいたのは、言わずもがなのファレスである。イライラ眦(まなじり)吊り上げて、何故だか機嫌が悪い模様。けれど、こっちだって事情は同じだ。「えー、だってさあ!」と膨れっ面で食ってかかり、ビシッとケネルを指差した。
「だってえっ! ケネルがあ!」
「" だって " じゃねえだろっ!」
 ついに沸点を越えたようだ。即刻、怒鳴り返される。しかし、こうして小競り合ってる間にも、ケネルの黒い頭は、ひょいひょい通行人をすり抜けて、雑踏の中へと紛れていく。そして、あれよあれよという間に姿を消した。なんという素早さ。
 一方、立ちはだかったファレスの方は、咬みつかんばかりの形相だ。そういやコイツ、左の頬っぺに赤い"モミジ"が?
 ……何かあったか、野良猫よ?
 ふと、さっき轟いた張り手の音がムクムク脳裏に蘇った。そして、目の前には、ぷるぷるゲンコを震わせた苛立った様子の野良猫が……?
「てめえのせいでなあ! てめえのせいでなあ!──てめえのクソ下らねえ人騒がせのせいで、こっちがどんだけ迷惑してると──!」
 ぐい、と胸倉掴まれて、ぶんぶんガクガク揺さぶられる。頭がもげて飛んできそうなほど。憤怒の印を額に貼り付け、ファレスが息巻いた時だった。
 ふっ、と周囲が明るくなった。
 道の左右の薄暗かった沿道に、背の高いかがり火が幾つも等間隔に灯っていき、ざわざわ犇く雑踏が、林道に設えられた大きな二つのかがり火に向けて、速やかに二つに割れていく。
 会場になると思しき中央が開けた。のんびり怠惰な空気が変わる。木立に揺蕩う夜霧の如くに、ざわめきの底には、何かが密かに宿っている。淀んでいるのは密やかな予感。地を這うような期待と興奮──。
 野戦服の人垣で作った即席会場が出来上がっていた。道の先の左右から二つの人影が現れる。アドルファスとバリーだ。
 二人の姿を認めた途端、咆え猛るような大歓声が巻き起こった。どちらも片手に木刀を無造作に下げている。
 かがり火の焚かれた林道に、興奮と熱狂が放たれた。
 
 
 
 
 

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