■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話2
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彼は一人、空を見ていた。
真っ青に晴れ渡った真夏の空だ。その静かな茶色の瞳は、ただ空を眺めている。ズボンのループに指を引っ掛け、背中の方へ首を倒して、じっと仰いだまま動かない。いったい、どこで何をしてきたのか、頬には擦ったような白い跡、シャツは擦り切れ薄汚れ、ズボンにも靴にも白っぽい乾土がうっすらこびり付いている。何の音も、そこにはない。ただ時折ひゅるひゅると大地の砂を軽く巻き上げ、熱い風が吹き往くのみだ。
狭間窓のある分厚く高い石垣が広大な敷地を包み込み、長く静かに連なっていた。強い日差しを囲壁に遮られ影になった足元は、地面が黒く湿っている。鋸型の防衛線の頂きには、射手が身を隠す狭間の回廊がぐるりと巡り、中継地点には円形の塔が幾つもある。壮大な石造りの要塞だった。深緑の旗が翻っている。こうした物騒な施設にして不思議な程に閑散としている。遠い厩舎に馬が数頭見えるだけで、人の姿は見渡す限りない。奇妙に静まり返ったその様は、既に明け渡された抜け殻のように活気がない。石壁が作る日陰の中に、堅固な石の階段が遥か頭上にまで続いていた。あたかも天界へ続くそれのように。もしくは空への踏み切り台であるかのように。
灼熱の太陽が照り付けていた。彼はようやく身動ぎし、階段の一段目に足をかける。最後の賭けに出る為に。けれど、この階段を上りきってしまったら──。
彼にも分かっている筈だ。外壁の向こうで己を待ち受けているものは。夥しい数の軍勢が平原を埋め尽くして広がっているということは。外壁頂上の回廊に姿を見せたその途端、待ち構えた弓が一斉に撓(しな)り、矢刃の嵐に曝されるかも知れない。
彼は全くの素手だった。攻撃を防ぐ如何なる手立ても持ってはいない。飛矢を防ぐ盾も鎧も、彼の持ち物ではないからだ。不敵な態度で小首を傾げ、一人無言で空を見上げて、それでも彼は祈っているのだろうか。
これが最後の手段だった。望みの少ない賭けだった。包囲を狭める大軍勢を前に、だが、彼は逃れようとはしなかった。目を逸らしはしなかった。己が果たすべき責務から。
砂塵にまみれたシャツの端が、夏の日差しにはためいた。茶色の癖っ毛が向かい風に揺れる。硬い靴音を響かせて、苔むした石の段を一段一段上っていく。終着点の空を見上げて。
必死で水面に手を伸ばすのに、もがいても、もがいても、届かない。
青い大海の只中で、独り水に呑まれていた。太陽の煌めきをゆらゆら揺らして、そこにあるばかりの青い水面。絶望的なまでに美しい、青く明るい水の揺らぎ。どうにもならない焦燥と、目の前が塞がる絶望と。
あの階段を上りきってしまったら──!
不貞腐ったようなあの仕草、遠くを眺める不敵な目、風に靡く茶色の癖っ毛、あれは──。そう、夢にまで見たあの、
「──ダドリー!」
一生懸命叫んでいるのに、咽が詰まって声が出ない。苦しかった。とても。もがいても、もがいても、もがいても──。
溺れかけた深海から不意に喘いで浮上した。どうしても吸い込めなかった地上の大気が、やっと肺に入った感じ。だが、安全な"陸"に上るに従い、体はまともな重量を取り戻す。
( ……ここは、どこ? )
周囲の景色が一転した。霧はすっかり掻き消えて、明瞭な視界が目に映る。顔を横にしてうつ伏せで寝ていた。頬の下には布地の感触。何がなんだか分からない。世界がぼんやりと輪郭を取った。けれど、何か収まりが悪い。出し抜けに硬い陸地に投げ出され、体が馴染まず違和感がある。脈が速い。頭の中は切迫していて、体中が緊張していて、胸が早鐘を打っている。周囲はいやに薄暗い。当惑し、寄る辺ない思いで顔をビクビク上げてみれば、額から何か生暖かい物がずり落ちた。目が初めに認識したのは、向かいの壁に吊り下げられたくたびれたような白いタオル、ぞんざいに吊られたその生地が、薄暗い中、いやに白い。
薄日が差し込むガランとした部屋だった。外で小鳥の声がする。肩で荒く息を付き、付き上げる不安に怯えて見回す。どこにいるんだろう、自分は。何故、こんな所に──?
知らない場所だ。雑然としている。薄暗い室内、暗緑色のビニール製の壁。メッシュの窓から入り込む、光と風が揺れている。昼より大分弱まった日差し、ならば、今は遅い午後なのだろうか。壁際の薄暗がりに雑多な荷物が置かれている。大人が膝を抱えたくらいの大きなザック、食べ終わった弁当の残骸、短い丸太のようなビニールの寝袋、無造作に寄せられたアルミのコップ──。いや、知っている。この場所を確かどこかで見たことがある。朦朧とした頭で考えて、ややあって思い出した。何故ここにいるのかを。夜の雑木林を運ばれて、ケネルにここに連れて来られた。傍らで覗き込んでいるのは、今まで見ていた " 彼 " ではない。面食らったように見開いた目、膝に置かれた厳つい手、大柄で逞しい綿シャツの体躯。そして、見覚えのある黒い蓬髪。この人は──。
「──お、おう。大丈夫かよ」
傍らで胡座(あぐら)をかいていた彼が、困惑したようにそう尋ねた。分厚く厳つい彼の手が額から落ちた何かを拾い、枕元の桶へと持っていく。室内は静かだった。桶の水音だけが小さくしている。それを絞って向き直り、彼は前髪を押し退ける。ひんやり、と何かが額に置かれた。冷たい布の感触が火照った顔に心地良かった。タオルのようだ、とそれに気付いて、ずっとこうして付き添ってくれていたらしいことに気がついた。凶夢の余波に、鼓動は依然として昂ぶっている。怖気と焦燥に背を押され、彼の腕に縋りつきそうになる。けれど、
「あ、──」
伸ばしかけた手を握り、エレーンは辛うじて引っ込めた。この人の名前が出てこない。よく知っている人の筈なのに。片方の爪先が未だ向こうに留まって、向こうの土を踏んでいる。頭がひどく混乱した。黒い蓬髪が眉をひそめて心配そうに覗き込んでくる。「──苦しいのか?」
「あ、あの、──!」
自分の状況を説明しようと、まともに顔を見た途端、意識が目の前の彼に集中した。そういえば、随分無精髭が伸びている。疲労の色濃い頬はこけ、目も少し赤いようだ。少しやつれた、そう思う。でも、どうして、そんなに疲れている? どうして、そんなに憔悴して──?
「……アド」
張り付いた喉が、勝手にかの人の名を呼んだ。──そうだ、この人はアドルファス。大勢を率いる首長の一人、お父さんのようなあの人だ。それを認識した途端、はっきり現実に引き戻された。現在地を唐突に悟って、心が急激に凍り付く。ここは大陸北方、あの首長のテントの中だ。皆が野営をしている雑木林の中。ケネル達の馬群と共にトラビアに向けて南下中。現地にはまだ到着していない。ダドリーは、いない──。
「……うん……大丈、夫」
現実を一つ一つ確認し、震える息を細く吐いた。あのまま、もがきながら目を覚ましたらしい。アドルファスは立ち上がって壁の隅に向かい、水筒とアルミのカップを持って戻ってきた。元の場所に胡座(あぐら)を掻きつつ水筒を傾け水を汲み、「喉渇いたろ、ほら」と片手でカップを差し出した。エレーンは、もそり、と寝床に起きて、震える手でカップを受け取る。少しだけそれに口をつけ、伸ばした脚に掛かった毛布の上に、カップを持った手を置いた。胸が押し潰されそうな夢路から抜け出ることが出来なくて、頭がまだ、ぼうっとしている。少しでも気を抜けば、叫び出してしまいそうだ。それでもアドルファスは安堵したようで、額の汗を溜息混じりに腕で拭う。
「まったく肝冷やしたぜ。ずぅっと眠ったまんまで起きねえからよ」
優しい目を向け、ゴツい手を、ぬっ、と出し、エレーンの頭にゆっくり乗せた。子供をあやすように二三度叩く。「すまなかったな、怒鳴っちまって。まさか、あんたがこんなに熱を出してるなんて夢にも思わなかったもんだから」
不精髭の頬を指で掻きつつ、ばつ悪そうにそう詫びる。エレーンには何を謝られているのか分からなかった。この彼に怒鳴られた? あの晩の闘技場の記憶が、不意に脳裏に蘇る。ああ、そういえば、彼が今、ここにいる、ということは──?
「勝ったの? アド」
アドルファスは、きょとん、と瞬いて、ややあって苦笑いした。「──負けるかよ、若造なんかに。俺は奴らを率いる首長だぜ。後で顔見に行くって、あんたにもそう言っといたろ」
「……そ、そっか。約束したもんね」
エレーンは慌てて頷いた。そういや、なんという無礼な言い草なのだ。それではまるで、彼が負けるかも知れないと危ぶんでいたようではないか。彼は紛れもなく、名実共に大勢を率いる首長なのだ。アドルファスは胡座(あぐら)の両膝に手を置くと、気を悪くした風もなく、ニカッと豪快に笑って見せた。
「おうよ。俺は、約束はきちんと守る男だぜ。だあが──!」
間髪容れずに真面目に見返す。「頼むから、もう飛び出してくれるなよ。人垣ん中にあんたの顔を見つけた時には、いつ又飛び込んで来るんじゃねえかと、ずっと気が気じゃなかったが、そうしたら、やっぱり案の定だ。まったく、あん時ゃ心の臓が止まったぜ。俺の寿命を何年縮めりゃ気が済むんだ?」
「ご、ごめんなさい!」
エレーンはどぎまぎ頭を下げた。賊から庇ってもらった時にも、同じお小言を食らっている。返す言葉もなく項垂れていると、頭にずっしり手が載った。上目使いで窺えば、当のアドルファスは明後日の方向へ目を逸らし、等閑(なおざり)に鼻を擦っている。「ここだけの話だが」と言い置いて、チラと素早く目を向けた。「──ありがとな。実は、ちょっと嬉しかった」
ぼそぼそ照れ臭そうに内緒話。
「う、うん……」
引きつり笑いをそれに返して、エレーンは、さりげなく見回した。テントの中には誰もいない。彼一人だけのようだ。それを見て取り、ふっと微笑うと、アドルファスは膝を崩して立ち上がった。「──よおし。待ってな。今、連中を呼んで来てやる」
頭の手をグリグリ撫でると、緊張の緩んだ声で言い置いて、テントから、やれやれと出て行った。
蓬髪の背が間仕切りの向こうに消えてしまうと、エレーンは震える息を細く吐いた。気張りのなくなった唇がわななく。震える腕を掻き抱き、強く奥歯を食いしばる。何故あんな夢を。
「……ノッポ君の、せいだ」
質の悪い悪夢の余韻がそこにあった。胸がまだ、ざわついている。彼に言われたあの場面とそっくり同じ夢を見てしまった。あたかも輪郭をなぞらえるように。胸に迫る夢の段──。
ひっそり静まった間仕切りの向こう、テントの出入り口で物音がした。すぐに入口が雑に払われ、外のざわめきが入り込む。ドヤドヤ踏み込む複数の気配。間を置かず間仕切りシートが雑に払われ、先頭の男が飛び込んできた。ささくれ立った空気を撒き散らす矢も盾もたまらぬ足取り。早足に靡く薄茶の長髪、切羽詰ったような鋭い双眸。セカセカ大股で室内を突っ切り、ズカズカこちらに近付いて来る。寝床にしゃがみ込んだ動作に伴い、彼の長髪がサラリと零れた。柳眉をひそめた端整な顔。薄い唇が何事か言おうともどかしげに開く。
「──女男っ!」
とっさに首にしがみ付いた。馴染みの顔を見た途端、押し寄せた不安が堰を切って溢れる。爪先立ちで体重を支え不安定に覗き込んでいたファレスが、抱き付かれた勢いにまともに押され、受け止めた格好で尻もちをついた。汗臭いランニングにしがみ付き、エレーンは顔を擦りつける。片手で後ろ手を付きながら、ファレスは唖然と見ていたが、ややあって上体を支えていた利き手を持ち上げ、懐の肩にゆっくり置いた。「──どうした。どっか痛いか」
ピリピリ苛立ち昂った入室時の慌しさに比べ勢いの削げ落ちた困惑気味の問いかけだ。エレーンは否定を示して首を振る。だが、それなら何だ、と問われても、掻き乱された心と頭が混乱し、上手く説明できる自信がない。
「──もういや、こんなのっ!」
結局、口から出たのは、ずっと我慢してきた癇癪だった。ファレスは何を言うでもなく見下ろしている。問うでもなければ諌めるでもない。少しやつれた顔は無表情に近く、何を考えているのか読み取れない。エレーンは強く苛立った。「──なんで、あたしばっか、こんな目に遭わなきゃなんないのよ! もういやよ、こんなの!」
「行くの、やめるか」
ギクリ、と体が硬直した。思わぬ乾いた声だった。淡々と、けれど真面目に、今、希望を問われている。自分がこの先どうしたいのか。ノースカレリアに帰りたいのか。
「ち、違う! そうじゃなくって!」
顔を振り上げ、慌てて首を横に振った。ファレスは何か誤解をしている。そういう意味で言ったんじゃない。そうじゃないのだ。そうじゃなくて、
「ダドリーに会いたい」
怒りの矛先は、この理不尽な現実だ。じっと顔を見下ろしたままで、ファレスが頬を硬直させた。後ろで見ていたアドルファスも、足を踏み替え苦々しげに目を逸らした。重い沈黙が立ち込める。ファレスは何も応えない。溜めていた息を一気に吐き出す重々しい溜息が聞こえた。アドルファスのようだ。室内が静まり返っていた。誰も何も応えてくれない。元よりの恐怖と苛立ちを、それが更に煽り立てる。不安が胸いっぱいに広がって、ファレスを強く揺さ振った。「──なんか言ってよ女男! ねえ、ダドリーに会いたい! ダドリーに会いたい! ダドリーに会いたい!」
左手の影が身じろいだ。エレーンは、はっ、と口をつぐんだ。もう一人、誰かいる。ファレスの右肩の向こう、突っ立ったアドルファスの左側、入口寄りだ。
慌てて振り向き、息が止まった。愕然と見つめた視界の中、彼は何とも言えない表情を浮かべ、少し離れて立っていた。動揺と焦燥が込み上げる。言い訳したい衝動に駆られる。だが、目が合ったのは一瞬だった。
「──外に、知らせてくる」
ケネルが左へ踵を返した。黒髪の背が部屋を横切り、二室を区切る間仕切りシートを片手で払い、瞬く間に視界から消える。心が強く鷲掴まれた。いささか呆然とそれを見送り、エレーンは何か訊かれていることに気が付いた。
「……あ、なに? なんか言った?」
これ迄の切迫感がいっぺんに抜け落ちてしまい、上の空で見返せば、話しかけていたのはファレスだった。柳眉をひそめて言い直す。「──だから、具合の悪いところはねえのかってよ」
ファレスは釈然としない顔。意外な真剣さにたじろいで、エレーンは慌てて首を振った。
「あ、ううん、平気! 大丈夫! そっちは全然平気なんだけど──」
やきもき入口を盗み見る。今の言葉、ケネルはどう受け取っただろうか。
「けど?」
促され、はっとファレスに目を戻した。
「あ、ち、違うの、ごめん! 今のは別に何でもなくって! ただ──!」
とっさに引きつり笑いで両手を振る。「ただ、ちょっと変な夢見たから、それで!」
「夢ぇ?」
かったるそうに語尾を上げて復唱し、ファレスは呆れた顔をした。そして、
「ガキか、てめえは」
持ち上げた平手で頭をはたく。カチン、とエレーンは見返した。
「──なんで、ぶつのよ!?」
ファレスはわざとらしく溜息を付く。
「くっだらねえ。ケツの青いガキじゃあるめーし、夢見たくらいでぴーぴーメソメソしてんじゃねえぞコラ。何事かと思ったじゃねえかよ」
「めっ、メソメソなんかしてませんんーっ!?」
叩かれた頭を手でさすり、エレーンは口を尖らせた。「そういう言い方はないでしょーそういう言い方は! あたし、ものすごーく恐かったんだからあー!」
だが、野良猫は小首を傾げて冷ややかな目。ケッと柄悪くそっぽを向いて「ち! アホらしい」と舌打ちしている。引き続き膝の上に載りつつも、エレーンは(
くっそお!? )と拳を握った。まったく、こいつにはデリカシーってもんがない。だいたい夢如きというけれど、当人にとっては大問題なのだ。まして、あれは奇妙にリアルでおどろおどろしい夢だ。白けてそっぽを向いていたファレスが、かったるそうに身じろいだ。膝の上から体を押し退け、大儀そうに立ち上がる。床の上へと転げ落ち、憮然とそちらを見上げると、ファレスは、テントの隅へと歩いて行き、何かを持って戻って来た。身を屈め、エレーンの前髪をぞんざいに払い、額に無造作に手を当てる。もう一方の手をぶっきらぼうに突き出した。
「熱はねえな。なら、帰るぞ」
大きな手提げ袋をすぐ鼻先に突きつけられて、エレーンは面食らってファレスを仰ぐ。
「──なによ、帰るってえ」
「向こうのゲルに決まってんだろ。こんな所にいられっかよ」
面倒そうに顎をしゃくられ、エレーンは袋をしげしげ覗く。畳んであるのは件の衣装? 土やら血やらでドロドロになっていた筈だったが、綺麗に洗濯してあるようだ。(
へえ? 誰が洗ってくれたのかしら〜……? )と見ていると、ファレスがギロリと腕組みで凄んだ。
「いつまで寝惚けてんだ。とっとと着替えろ。済んだら呼べよ、外にいっから」
「えーだってえ! 起きたばっかなのに、そんな急に歩けな──」
「歩けねえ、とか甘ったれたこと抜かしやがったら、担いででも連れて帰るからな! 勝手にこんな所まで来やがって」
「う゜っ。……な、なによお……」
間髪容れずに先手を打たれる。袋から取り出した指定のお出かけ着を握り締め、エレーンは、ぶちぶち見返した。ファレスは眦(まなじり)吊り上げて 「
グズグズしてんじゃねーぞコラ!」 といつもの如くに凄んでいる。まったくデリカシーがないったら! テキはどうあっても羊飼いのキャンプに戻る気らしい。
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