■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話4
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眠っている間に少し雨が降ったのだろうか。空気がひんやりと湿っぽかった。草を踏むブーツの先が、青葉が纏った露に濡れる。少し冷たい木立の風が、草を踏む頬にすがすがしい。久し振りに外へ出た気がした。草土の匂いが、むっとする。
木漏れ日漏れ降る雑木林に、鬱蒼とした野草に紛れて暗緑色のテントが見える。首長が使う立派なそれとは凡そ異なり、簡粗な造りの小さなものだ。方々の幹にはロープが張られ、シャツやらタオルやら靴下やら様々な洗濯物が吊られている。木立の遠くでは、折り詰め弁当の紙箱の山に何かをかけて燃やしている。
広い木立の方々に、野戦服の姿がぽつんぽつんと見えた。右手前に二人、やや離れた左に一人、ずっと奥の方にも一人が木陰で座り込んでいる。どこへ行くのか、ぶらぶら歩いている者もいる。遠くの方には、もっといる。それぞれ昼寝をしたり、雑誌を眺めたり、喫煙したり、寄り集まった円陣はダベってでもいるのだろうか。皆、寛いでいるようで緊張感の欠片もない顔、欠伸(あくび)交じりの昼休みのような長閑(のどか)さだ。気の抜けた、だらけたような、日暮れ前の中途半端な合間の時間。こちらと目が合った幾人かが「おっ?」というように見返して、隣に顎をしゃくって顔を見合わせた。だが、どちらも幹にもたれかかったまま、やって来ようとするでもない。ぽかんと見ている彼らの前を、たじろぎつつも会釈を返して、そそくさそのまま通過する。
昼時を過ぎ、午後も大分回った時刻だった。小鳥の囀りが頭上で聞こえる。短髪の首長のテントから、ひょんな事から脱出を果たして、エレーンは小首を傾げた腕組みでテクテク雑木林を歩いていた。ケネルの気配を木立の中に探りつつ、けれど、どうしても今の場面を──ファレスと小娘の鉢合わせシーンをシゲシゲ脳裏に思い浮かべてしまう。だって、
( なにあれ。どゆこと? )
野良猫のヤツ、引きつった顔しちゃって。いつもは、あんなにふてぶてしいのに。しかも結局、
逃げたし。
「怪しい」
エレーンは、ふーむ、と首を捻る。なんなのだろう。苦手そうなあの様子は。ヤツのあんなけったいな顔は初めて見た。右手と右足が同時に出そうな勢いだった。もしや食い逃げでも仕出かしたのか。結構日頃から意地汚いし。あ、それとも、さては野良猫のヤツ、
──借金か?
ありうる。
そうして踏み倒して逃げた、とか。なにせ、ヤツは案外セコい。ケネルが定期的にくれるお菓子なんかも、大きいヤツは絶対取り合いするくらいだ ( もちろん野良猫なんかに負けないが
)。ああいう素行不良の野良猫だったら、それくらいはやりかねない。ずぅぅっと追われてたみたいだし──。
穏やかに静まり返った木立の中を、あーでもない、こーでもない、とヤツを色んな悪者に仕立て上げ、( 結構楽しく ) テクテク歩く。まったく、ガサツで自己中でしょうがないヤツだ。さっきもヒトの頭をいきなり平手で叩いたし。もっとも、ヤツがあまりにも普段通りだったから、ナーバスな気分が一気にどっかへ吹っ飛んだ。あんな風に平然と踏ん反り返っていられると、うじうじしてるのが馬鹿らしくなる。何をしようが結局は、大して結果は変わらない。大丈夫だろう、となんとなく思ってしまうのだ気分的に。そう、ヤツに頭を叩かれた拍子に、夢の破片やケネルに対するモヤモヤが、ポンと外に飛び出した感じだ。無礼で不躾でぞんざいで、けれど、他人を寄せつけず常に周囲を冷ややかに警戒している野良猫の意識の端っこで、大雑把に見ている事は何となく分かる。あくまで片手間の
" 端っこで大雑把に " だけど。それにしても、
「──どこかな、ケネルは」
青葉生い茂る木立の左右を ( たぶん、こっちだと思うんだけどー ) と首を捻りつつキョロキョロ見回す。ケネルの姿を捜すのは、もう癖のようなものだ。ふと、ケネルを訪ねて来た例の小娘とのやり取りが脳裏にむくむく蘇り、無性にムカツキが込み上げた。
「 " 隊長さんはー? " って、なあによあの態度! 馴れ馴れしいったら!」
裏口で出くわすまでオドオド覗いていたくせに。なのに何。あの対抗心剥き出しの上から目線の高慢ちきな態度は! あんな夜更けにケネルをゲルから連れ出して非常識だ非常識だと思っていたが、やっぱりメッチャ非常識な女だ。そもそも初対面の他人に対して、あのぞんざいな態度はどうなのか。そーだ! 目上に対する口のきき方がなっとらん! ああいう小生意気な非常識女は一から教育し直すべきだ! つっけんどんに顎をしゃくられアタフタ取り乱した己の失態も併せてムクムク思い出し、今になって地団太を踏む。ああ、すんごいムカつく。
可愛いだけに。
それにしても、ケネルに何の用だろう。どうもあの女、野良猫だけじゃなくケネルの方とも知り合いらしい。しかも結構親しいカンジの──。ゲルに訪ねて来た晩も、ケネルは「見違えたよ〜」とか言っちゃって随分親しげに話していたし。そして、どうしてだか慌てた様子で、そそくさあの娘と出て行ったのだ。「ついて来るな」とか恐い顔で念押して。
いったい何者あの女? ケネルのあの口振りでは、古い知り合いのようだったけど、まさか妹ではないだろうし、それなら幼馴染みとか、知り合いの娘だとか、そうでなければ──。
ふと、見慣れた人影が視界を掠めた。生い茂った藪の向こう、右手の木陰だ。
大木の幹に寄りかかり、ひょろりと長い手足を投げ出し、長い指で小枝を弄んでいる。頭を気怠げにもたせかけ、前方の空をぼんやり仰いで、時折溜息なんかもついている。木漏れ日揺れる長袖の白シャツ。彼の柔らかな薄茶の髪が梢を渡る涼風に揺れる。
「──あ、ノッポ君だ〜!」
荒んだ気分が、ぱっと俄かに明るくなる。最近、大いにお気に入り。
「ノッポくぅ〜んっ!」
にんまっと笑ってヒョイヒョイ手を振る。ウォードが、ビクリ、と振り向いた。もたれた背を引き起こし、枝を持った長い腕を、立てた左の膝に置き、辺りをキョロキョロ捜している。
「こっちこっちぃっ!」
エレーンは満面の笑みで手を振った。彼のいる所まで少し距離が離れている。ふと顔を上げ、こちらを見つけて、ウォードが怯んだように見返した。て、何を動揺してるのだ? 何故か唖然とした顔つきだ。だが、半開きの口をすぐに閉じ、硝子のような綺麗な瞳で何を言うでもなく凝視してくる。
重苦しい沈黙が林に流れた。どこかやつれたような顔だった。こちらをじっと見つめたままで、彼は口を開かない。身じろぎさえしない。
「──な、なに? どうかしたあ?」
務めて明るい口調で訊いてみた。だが、内心は予期せぬ反応にたじろいでいた。様子が変だ、明らかに。何故、何も言ってくれないのだろう。ウォードは押し黙ったまま、冷然と顔を見据えている。いつもの微笑みを浮かべるでもない。普段は感情の窺えない硝子のような綺麗な瞳は、憮然としているようにも気まずげなようにも、責めているようにも苛立っているようにも見える。何かを押し殺した無言の視線に射抜かれて、ドギマギしてきて居心地が悪い。
真っ直ぐな視線を、ウォードが外した。投げ出していた長い脚を引き寄せるようにして手前に折り、ひょろりと長身の背を折って、大儀そうに立ち上がる。こっちに来ようというのだろう。話し掛けてからかなり長い間が開いたが、やっと応じてくれる気になったようだ。
「具合はどうお? 体はもう大丈夫なのぉ〜?」
エレーンはここぞとばかりに笑顔を向ける。俯いた顔に、薄茶の髪が振りかかる。顔を上げ様、ウォードがクルリと背を向けた。
「え゛?」
長身の背が藪の奥へと歩いて行く。あたかも"場所を替える"とでもいうように。
分け入った草木がガサガサ鳴って、呆気にとられて見ている内に、後ろ姿が完全に消えた。エレーンはぽかんと見送ってしまい、ただただ愕然と立ち尽くす。何がなんだか分からない。気付いたら、一人ごちていた。
「……うっわあ、」
ヘコむ。
テントでお喋りしたあの晩は、あんなに仲良くしてたのに。なのに一夜明ければ、手の平返したようなツレない仕打ち? なんという気紛れ、なんという素気なさ、なんという……
( 青少年って謎だ…… )
エレーンは溜息で首を振った。やっと仲良くなれたと思ったのに。なのに、それも束の間、又も冷戦状態に戻ってしまった。しかも、ああいう率直さに不慣れな身には、そして何事にも波風立てない大人の対応に慣れた身には、社交辞令も何もない、剥き出しのあの態度は結構堪える。相手の気分に、斑気な一挙手一投足に、うろたえ、振り回されてしまっている。彼のご機嫌を窺ってしまう。反抗期の子供の母親にでもなった気分だ。でも、何故にいきなり──? 彼が去った藪の向こうを、いささかげんなりと眺めやる。なんとなく怒っていたように感じたのは気のせいだろうか。でも、怒らせるようなことを何かした?
あの晩の記憶を総動員して掻き集め、ふ〜む、と腕組みで考える。いや、別段問題はない筈だ。あの晩、彼はひどく体が辛そうで、しがみ付いてきた広い背中を結構真面目にさすってあげた。もっとも、色々話をしている内に、いつの間にか眠り込んではいたけれど──あ、途中で寝たのが気に入らないとか?──まさか、ね。頭を撫でても嫌がりもせずに、ウォードはじっと目を閉じていた。Tシャツだけで寒そうだったから、借り物の上着をかけてあげた。だから、こっちは夜間の肌寒いテントの中で、薄い寝巻き一丁でずっと背中を──。いや、待て、
「ね、寝巻き?」
ギクリ、と頬が引きつった。今しがた見てきたばかりの自前ネグリジェの有様が、脳裏にまざまざと思い浮かぶ。確かに繕ってはあったけど、あの時はボタンが弾け飛び、レースの胸元は破れていた。辛うじて上着で隠していたのに、うっかり忘れて脱いだなら、そして、突っ伏して寝ちまったら──!? そこまで考え、血の気が引いた。ならばつまり、あの惨憺たる有様で、彼の頭上に圧し掛かっていたということか。あんな淫らな格好で?
( ……あれか、原因は )
がっくり一気に項垂れる。あーそうか、そういう話なわけね。なら、あの冷ややかな態度も頷ける。おん年十五のいたいけな青少年があんなものを目にした日には、目覚めた途端にギョッと跳ね退き、すっ飛んで逃げたに違いない。いや、驚いただけなら話はまだしも、悪くすると、
( ……軽蔑、されたかも )
はー……、と打ちひしがれて嘆息した。しょぼくれ果てて、とぼとぼ歩く。なんというヘマ。なんという不覚。そんな事態に陥っているとは露知らず、グースカ無神経に寝てたとは。しかし誤解だ。誤解もいいトコ。あれは不幸な事故なのだ。誓って言うが、誘惑しようだなんてそんな邪悪な企みは、これっぽっちもなかったのだ。それこそ母のような大らかな気持ちで背中をさすってあげていた。それともこっちが知らぬ間に、彼に何かしたんだろうか。何かとっても気に触るようなことを。そういや眠りに落ちる直前に、何か途方もない大事件があったような気もするし──。
「……思い出せない」
しばらく真面目に考えて、脱力の溜息で首を振った。けれど、それはとても重大な事柄だった筈だ。辛くて切なくて泣いた気がする。そういう胸が締め付けられるような感触だけは、未だにずっしり残っている。なのに肝心の記憶がない。
そこだけポッカリ欠落していた。存在感は厳然としてあるのに、すっかり霧散してしまっている。どれほど丹念に探っても、欠片さえも掴めない。それとも、また、悪い夢でも見たのだろうか。
このところ、いやに頻繁に夢を見る。今朝方見た夢の前にも、何か別の夢をずっと見ていた。それらは眠りに落ちるとやって来て、幾つものシーンを繰り広げ、目を開けた途端に消え失せてしまう。"それ"があった痕跡だけを残して。いや、初めからそこにあるものが、意識を現実と遮断した途端、たちまち目の前に立ち現れる、そんな感じだ。そうした夢の大抵は、見通しの利かぬ霧の中、不明瞭なぼやけた輪郭で現れて、何を見ているのか分からない。けれど、ひどくリアルで生々しい場面が、ずっと続いていた事は、肌身に感じて知っている。息詰まるような、心臓がドキドキ脈打つような、全身の血がざわざわ騒ぎ立てるように恐ろしく、けれど自分は、その先に何があるのか切実に知りたいと渇望している。そして、夢に溺れ、喘ぐようにして目覚めても、しばらくの間は夢と現の境が判然としない。後味の悪い不吉な幻──。嫌な自覚が胸を射た。そう、自分はあれらの夢を、
──知っていたのではなかったか。
予め結末を知っていて、改めて事の起こりの場面から筋立てを辿って眺めている。未来を俯瞰するように。
遠くにあったざわめきが、徐々に輪郭をとりつつあった。ぼんやり見えていた"それ"の像が、だんだん明確になってきている。全貌はまだ分からない。けれど、"それ"は堪らなく心許ない気分にさせる。心をひどく困惑させる。不気味で不明瞭な夢の像。不安で不安で堪らない。とある夢は既に尻尾が見え始めている。それは必ず、姿の見えない男の声の、この言葉で終わるのだ。
『 ──用意はいいか、クラウン 』
「──お前のお陰で助かったよ」
闊達な声が飛び込んだ。我に返って足を止め、慌てて右手を振り返る。だって今のは、
「……ケネル?」
声がしたのは鬱蒼と生い茂る藪の向こう、誰かと話しているようだ。ケネルは気負いのない明るい声。いつもみたいにぶっきらぼうじゃない話し方。誰だろう、相手は──。
そろそろ声の方に近づいた。青葉揺れる木立の中に、幹にもたれて喫煙しているケネルが見えた。右の手前に誰かいる。フードにかかる肩までの直毛、しなやかな体躯、旅装に包まれた華奢な肩。見覚えがある。あの旅装は──。
( あの女!? )
息を飲んで瞠目した。休憩時間に抜け出したケネルと樹海で密会していた非常識女ではないか。──あ、いや違う。非常識女の正体はテントを覗いていた小娘だ。いや、だったら、あの旅装の女は何者なのだ。もしやケネルの仲間とか? けれど、昼には見かけない。馬群の中にはいなかった。そもそも女性は同行者にいない。ならば何故、又しても、こんな所にいるのだろう。しかも今度も、皆に隠れるようにコソコソと。ざわめき出した波打つ胸に、嫌な確信が広がった。もしかして、彼女は、
──ケネルと頻繁に会っている?
いや、それだけじゃない。馬群の移動に合わせて、彼女も単独で馬を駆り、
──付いて来ている?
ドキン、と胸が大きく鳴った。ケネルのことを追いかけて? ケネルとこうして会う為に?
( ……どういう、こと? )
ドキドキ心臓が高鳴った。見つめる視界が狭くなる。呼吸さえ満足に出来なくなる。答えはたぶん分かっている。それを認めたくないだけだ。
唖然と見つめる傍らで、梢が、ざわり、と大きく揺らいだ。ケネルの手が、彼女の髪先を無造作に摘む。ケネルの手が細い肩に回る。彼女を見るケネルの目は優しい。藪を一つ隔てただけのこんな近くにいるというのに、ケネルは全く気付かない。ここにいる、という事に。
胸が苦しいほどに締め付けられた。足から力が抜けてしまって、今にも膝を付きそうだ。そういえば心当たりがある。いつもファレスに預けっぱなしにする理由。ケネルが夕方まで別行動を取る理由。たまにファレスに預けたままで深夜までゲルに戻らない理由。それなら、あれは、みんなみんな、
( あの女と会っていたから? )
緑に囲まれた木漏れ日の中で、ケネルは紫煙を燻らせ笑っていた。見るからに寛ぎ、気の抜けた仕草。気負いなく話しかける気安い言葉。煙草を指に挟んだ片手を、背を向けた小柄な肩に笑いながら差し回す。女は身を捩って、その手を避けた。ケネルは心外そうに口の先を尖らせる。「──おい、逃げなくたっていいだろう。まったく、お前はツレないな」
肩を抱こうと試みるが、女はやはり、身を捩って逃げようとする。じゃれてでもいるのか、意外にも邪険な態度だ。利発そうな涼やかな目、端整な白い横顔。食い入るように我知らず見つめて、ふと、それに気が付いた。
( あの女の顔、どこかで──? )
ふとした角度の横顔に、微かばかり見覚えがあった 。けれど、どこで見たのか分からない。ノースカレリアの片田舎に、あんな美女はいなかったように思う。いれば目立つだろうし、たぶん覚えてもいるだろう。垢抜けた女の多い商都なら、それ程目立たないかも知れないけれど。なら、商都だろうか。街の大通りですれ違ったとか、飲み屋で近くに座っていたとか。けれど、そんな些細な遭遇を、果たして覚えているだろうか。なら、行きつけの店の店員だったとか──。
静寂の中、梢を揺らして小鳥が飛んだ。昼過ぎの木立の中は、ごく静かで穏やかだ。しつこくじゃれ付くケネルの手を、女は依然として払い続けている。鬱陶しげにその手をかわして、ふと振り向いたその刹那、女と目がかち合った。
ギクリ、と頭を引っ込めた。藪の隙間から窺えば、女は小首を傾げて怪訝そうな顔だ。やはり見つかってしまったらしい。
( どうしよう )
逃げ出したい。なのに、足が震えて言うことをきかない。女は不審に思ったか、ケネルを適当にあしらいながらも、柳眉をひそめて鋭い目付きだ。
「──どうした?」
女の異変に気付いたらしく、ケネルの怪訝そうな声がした。困惑したような、労わるような、普段聞かない類の声。女は視界の端でこちらの気配を捉えつつ、肩に回されたケネルの腕を、ついに苛立たしげに退ける。ツカツカこちらに歩いてきた。
とっさに慌てて踵を返す。飛び出した背後で、生い茂った藪がガサガサ鳴った。彼女がこちらを捜している。覗き見されて怒ったのかもしれない。
木立の中を闇雲に走った。少しでも遠くに離れたい。緑が視界を流れ飛ぶ。何も考えられない頭の中で、今の光景がグルグル回る。心臓はドキドキ煩く喚き、頭の中は膨張し、どこをどう走っているのか分からない。
( なんで、あたし、逃げてんの……? )
情けない想いが渦巻いた。
なんで、あたし、動揺してんの? なんで、こんなに恐がってんの? 自分はケネルの同行者なんだから、普通に挨拶したら良かったじゃない。「その人、誰?」って、普通に訊けば良かったじゃない。そうしたら案外、妹とかって答えるかも知れないし、そうよ、可能性はたくさんある。そうでなければ、単なる幼馴染みとか、知り合いだとか──。
……違う。本当は分かっている。分かっていて、気付かなかった振りで誤魔化している。ケネルが時折、一人で遠くを見ている理由。端のよれた古い手紙を大事そうに持ち歩く理由。
彼女を見つめるケネルの目は、いつも自分に向けられるような他人行儀なものなんかじゃなかった。ざっくばらんな親しげな目だ。彼女を構うケネルの手は、少し強引なくらいの何の気兼ねもない無造作さ。そこには、今更確認するまでもない揺るぎない無言の信頼がある。どう見たって彼女はケネルの、
──恋人。
急に力が抜け落ちて、息を弾ませて立ち止まった。
「……やだ。……なんか、あたし、バカみたい……」
こんな所までケネルを捜しに来るなんて。でも、だって、あんな " 傷ついた " みたいな顔をするから──。なのに、ケネルの方では、
何とも思っていなかった。
ずきん、と胸が鋭く痛んだ。肩で荒く息をつき、息苦しさに唇を噛む。羞恥と侘しさと居たたまれなさの入り混じったぶつけようのない激高がお腹の底から突き上げて、走って熱くなった体中を駆け回る。日頃のケネルの澄ました顔を思い出し、怒りで胸がムカムカした。大地を踏み締め、ずんずん歩く。
( なんで、あたしが、こんな惨めったらしい想いをしなくちゃなんないのよ! )
思い出せば思い出すほどに腹が立つ。あんな楽しげな顔、こっちには絶対見せないくせに──! 眦(まなじり)吊り上げ、拳を握り、大きく息を吸い込んだ。
「ケネルのばかあっ!」
ドスン、と何かが落ちて来た。右側の樹の下だ。
え? と振り向き、反射的に固まる。だって、
「……靴?」
いや、違うだろう。靴らしからぬ音だった。でも、現にこうして地面にめり込んでるし。
靴が。
下草の上に転がっていたのは、編み上げ靴の片方だった。ケネル達が履いているゴツくて黒いあの靴だ。もっとも少々風変わりで、甲の所にゴツいベルトが付いてるけれど──。エレーンは、あれ? と首を捻った。こういう靴を以前どこかで見たような気がする。地面にしゃがんでしげしげ眺め、何の気なしに靴紐を摘む。
「──わっ!?」
地面から僅かに持ち上がった途端、とっさに手を離していた。地面にめり込んだ靴を見やって、エレーンはあんぐり口を開ける。尋常じゃない。靴の重さでは全くない。片手で持ち上げるのも難儀する、いや、そもそもこんなの履けるのか? いったい誰がこんなもの──。
嫌な予感がヒシヒシとした。けれど、確認せずにはいられない。靴の落ちて来た樹の上を、恐々そろりと振り仰ぐ。果たして高枝の上に人影があった。靴の持ち主、この靴を落とした張本人だ。
「──げ!? キツネ男!?」
エレーンは驚愕の顔で凍り付いた。二度と会いたくなかったのに。無論、彼らが寝起きしている敷地内にいるわけだから、ばったり会っても、おかしくない。そりゃ、おかしくはないけれど──。
我が身の不運をサメザメ嘆き、助けを求めてアタフタ見回す。他にも人は大勢いるのに、なんで、よりにもよってコイツなわけ!? だが、木立は閑散と静まり返り、今しがたまで、あれほど見えていた野戦服の姿は、今となっては、どこにもない。いつからこんなに人けがなくなっていたのだろう。一心に駆けて来たから、周囲の変化にまるで気付かずにいたらしい。ということは、もしや、あのキツネしか、この近辺にはいないとか──?
( ……ま、まずい )
戦慄が走って、血の気が引く。突然怒鳴られ驚いたのか、高い樹上で振り向いたザイは、面食らったような顔つきだ。顔を上げ、木立をキョロキョロ見回している。ザイの動向から目を離さぬよう、後ろ向きにジリジリ後退。動揺で真っ白な脳裏に、未だ恐怖も生々しい、追い回されたあの晩の記憶が、嫌な動悸と共に蘇る。上役の短髪の首長には断固抗議をしたけれど、結構いい加減な態度だったし、なんといってもこのザイは、ケインが賊を追い払った時にも、ぬけぬけと虚偽の報告をしたような油断のならない二枚舌野郎なのだ。そんな嘘つきギツネがちょっとお小言食らったくらいで素直に引き下がるとも思えない。それにしても、あの男、なんで、いつも、誰もいないような所にいるのだ? もしや人嫌いなのか? キツネなだけに。
静かな木立に鋭い指笛が響き渡った。ザイがもたれた幹から身を起こし、足下の枝を躊躇なく蹴る。伸ばした腕が掴んだのは一段下の太い枝。
( 降りてくる!?)
エレーンは逆側の藪へと飛び込んだ。草木を掻き分けアタフタ逃げる。ザイは野生の猿のように次から次へと枝を伝い、着々と地面に降りて来る。どこぞの野良猫のように一気に飛び降りるような無謀な真似はさすがにしないが、それでも降下の速さはかなりのものだ。
ザッ、と下草が大きく鳴った。
( ──もう降りた!?)
震え上がって即行ダッシュ。息せききった肩越しにハラハラ後ろを窺えば、ザイは長く伸ばした前髪の下、切れ長の鋭い目で苛立たしげに辺りを見回し、舌打ちで靴を取り上げ、下草の地面にしゃがみ込んだ。周囲をチラチラ気にしつつ、靴紐を両手で締めている。やばい。やっぱ追いかけてくる気だ!?
とにもかくにも、こちらの居場所を悟られぬよう音を立てずに猛ダッシュ。ザイが靴を履くのに手間取っている間に、少しでも距離を稼がなければ──!
( なによおバパさんてばっ! 全然変わってないじゃないっあのキツネえっ! )
短髪の首長の等閑(なおざり)な顔を思い出し、ブー垂れつつも涙目だ。しゃがんで靴を履いていたザイが立ち上がった。案の定、胡乱に捜している。靴を履くのに俯いている間に藪を盾にして隠れたから、姿を見失ったらしい。──チャンス! この隙に、もっと遠くへ! ほんの僅かでもいい、もっと遠くへ!
足音を殺して必死で逃げる。辺りには相変わらず誰もいない。野営地の中心から、どんどん離れていくようだ。けれど、助けを乞いにそちらへ戻れば、辿り着く前にザイに捕まる。足音を殺し、歯を食いしばって闇雲に走る。後ろにいる筈のザイの気配を、何度もやきもき確認し──。
ザッ、と草を割る音がした。右手の藪だ。
──天の助け!?
こんな所にも人がいた! そこまで走れば助けてもらえる!
萎えた元気を取り戻し、手を伸ばさんばかりのヘトヘトの体で縋りつくようにそちらを見やれば、生い茂った青葉の向こうに男が一人、キョロキョロ周囲を見回している。目にかかるほど長い薄茶の前髪、切れ長の鋭い目、獲物を狙う飢えた野犬のような俊敏そうで強靭な痩身、あれは──。
( ……ザイ〜!? )
何故に!? なんで、もうあんな所に!? ほんのついさっきまで、まだまだ遠くにいた筈なのに!
内心の悲鳴が聞こえたか、ザイがふと振り向いた。慌てて野草に屈んだが、時既に遅かった。鋭い視線と目がかち合う。ザイは足を止め、何故か戸惑ったように辺りを見回している。だが、意を決したように振り向くと、地面を蹴って突っ込んできた。
( やっぱ来た!? )
エレーンは慌てて地面を蹴った。けれど解せない。ザイは何故、ああも人目を気にするのだろう。怪訝に首を捻り、ふと、理由が分かった気がした。あの様子は、やっぱり注意を受けている。だが、無視して狼藉を働く気でいる。だから、誰もいない方が都合がいいのだ。
( ……やばい。本気だ )
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。なんという卑劣なヤツなのだ。いや、ザイだけじゃない、他の連中もだ。そう、なんだかコイツら全般的に、日を追う毎に段々容赦がなくなる感じだ。バリーの一味もそうだったけど、態度に裏表がかなりある。上役と一緒の時には知らんぷりして大人しいが、一旦見てないと分かった途端、ガラリと柄悪く豹変する。でも、こんな追いかけっこを内輪でやってて、本当にトラビアまで辿り着けるのか!?
前だけを見てひたむきに走る。血相変えてしゃにむに走る。頑張って移動しといたから、距離と障害物は結構ある。だが、油断は出来ない。キツネの足は異様に速い。穏やかな木立の風景が、視界の端を流れ飛ぶ。後ろの藪で音がした。
──ザイだ!
総毛立って震え上がった。とうとう追いついてきたらしい。我が身を抱いて唇を噛み、静かな木立をオロオロ見回す。
( どうしよう…… )
誰もいない。走りに走って中心から遠く離れてしまって、助けを求めようにも人が全く周囲にいない。中央から離れたこんな隅っこの木の上で、暇を持て余して寝てるのは、きっと嫌われ者のキツネくらいだ。なら、この先どっちに行ったらいい? 道なんてまるで分からない。でも、とりあえずは逃げないと!
身を隠せる木立が少しでも深い方へと足を向けた。走り続けた頬が火照る。動揺に頭が膨れ上がった。もう何も考えられない。顔が熱い。胸が苦しい。息があがる──!
「──わ!?」
がくん、と体が大きく傾いだ。腰砕けになったようにバランスを失い、体が仰向きに引っ繰り返る。バナナの皮を踏んだ時、滑って転ぶあんな感じ。けれど、転倒するのと違うのは、いつまで経っても足が地面に着かないことだ。踏んだ筈の地面がない。そう、
地面が唐突に消え失せた。
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