■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話5
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枝葉の先の青空は、闇に近付く濃さを増し、赤の入り混じる紺になった。冷えた石壁に四方を囲まれ光の射さない空間は、シンと静かで薄暗い。
頭上の空が、ぽっかり丸く切り取られていた。落下の途中で触わった何かを、とっさに掴み損ねて転がったから、地面に激突するのは免れた。だが、
「……やばい」
上がれない。
エレーンは空を仰いで溜息をついた。底に水は溜まっていないし、つるべも桶もなかったが、この円筒状の石壁は、たぶん涸れてしまった古井戸だ。
涸れ井戸の底にいた。顔をしかめて足首を擦り、時と隔絶した地の底で、一人膝を抱えて座り込む。落下の拍子に腰を強かに打ち付けたらしいし、擦り剥いた手足もヒリヒリしてるが、幸い骨折はないようだ。地上までかなりの高さがある。三階のバルコニーを地面から仰ぐくらいの距離感だ。足元には、長年に亘って吹き込んだらしき枯葉や砂が堆積している。このクッションが落下の衝撃を受け止めてくれたらしかった。井戸は長いこと使われていないらしく、円筒状の石壁は所々剥がれ落ち、廃墟のようにボロボロだ。左の壁を割り裂いて太い木の根が突き出ているから、あれに手が引っ掛かったらしい。頑張って飛び上がれば、或いはあの根を掴めるのかもしれないけれど、そこから上には足がかりもないから、縁まで登れるか分からない。とりあえず助けを呼ぼうと溜息をつき、口を開いたその時だった。
「──どこへ行った!」
頭上で荒っぽい罵り声がした。忌々しげな舌打ちと、八つ当たりして草を蹴る音。
( ザイだ──! )
エレーンは慌てて口をつぐんだ。真上に、あのザイがいる。しかも、かなり苛ついた様子。あの晩、バリーにどんな目に遭わされたかを思い起こせば、出て行く勇気など毛頭ない。そうだ。ここの連中は基本野獣だ。慌てて窪みに滑り込み、手足を縮めて丸くなる。精一杯に小さくなって、体を固くし息を潜めた。背けた背中に、縁から覗く気配を感じる。だが、舌打ちと共に遠のいた。一瞥して立ち去ったらしい。
ザイは井戸が気になるらしく、いなくなっては舞い戻り、縁から中を覗いている。だが、地上から暗がりの隅までは見えないらしい。ガサガサ草を踏む音が近づいては、再び遠ざかるのを繰り返す。足音がする都度、窪みに慌てて潜り込み、エレーンは息を殺してやり過ごした。
足音が再び遠ざかる。それを慎重に確認し、膝にうつ伏せた顔を上げた。
「……もー! キツネのヤツ、しつこいっ!」
丸く切り取られた空を仰いで「もーさっさとどっか行ってよ〜」とブチブチ口を尖らせる。アレが近くをうろついている限り、井戸から外に出られないのだ。こうなったら、誰かがここに捜しに来るのを、ひたすら我慢して待つしかない。そう、今は我慢だ。早く出たいのは山々だが、迂闊に叫べば、今度こそ捕まる。
「……助けにきてよ、ケネル」
思わず、その名が口をついた。途端、今しがた目撃した、あの光景を思い出す。
ズキンと胸が鋭く痛んだ。ケネルは恋人と一緒なのだ。こんな所へ来る訳ない。恋人の方が誰だって大事だ。ケネルだって、彼女の方が大事なんだ……。
息苦しくて息をついた。彼女を大切に思っていることは、只の一目ですぐにわかった。普段仏頂面のあのケネルが、彼女の機嫌を窺いながら、楽しそうに喋っていた。余計なことなど普段は一切言わないくせに、自分の方から話しかけて。
それなら、やっぱりあの人が、大事に持っていたラブレターの相手?
それなら、やっぱりあの人が、あの晩寝言で呼んでた "クリス"?
「……ケネルの、恋人」
ケネルは気を許して笑っていた。いつもの鉄面皮なんかじゃない本当の顔を見た気がした。もしも世界が滅亡するなら、ケネルは彼女を守るだろう。我が身を挺して命さえかけて。ケネルはあの彼女を選ぶ。
──自分じゃない。
自覚に胸が抉られた。息が詰まって体が震える。ケネルだっていい年なのだから、恋人がいたって、おかしくない。ちっともおかしくないけれど。
「……どういう、つもりよ」
それなら、あれは、どういうつもりよ。
唇を噛み締め、エレーンは頬に手を当てた。あの甘やかな感触は、もう、とうに残っていない。
頭上でサワサワ梢が鳴った。スカートのポケットからそれを取り出し、手の平に置いて眺めてみる。包み紙の拠れた小さな飴玉。ケネルに貰った子供騙しの──。
「ん? 子供、だま、し……?」
その語感が近頃の記憶に引っ掛かる。そういや、いつぞやのキャンプの朝、ケネルは見送りに来た幼女を抱き上げ「プリシラ〜プリシラ〜」とあてつけがましく連呼した挙句、頬っぺにキスとかしていなかったか? あの晩自分にしたのと同じように。てことは……?
不吉な符合に顔が引きつる。黒い疑惑がヒシヒシと広がる。まさか、まさかケネルのヤツ!? いいや、あのタヌキならば、やりかねない。だったら、あの晩のキスってつまり、だったら、ケネルにとってあたしってつまり──
( ぷっ、プリシラと一緒ってことお!? )
まさしく子供騙しかあのタヌキ!?
無神経なのは知っていたけど、こんないっぱしのレディーに対して、信じられない無礼な仕打ちだ! エレーンはわなわな拳を握った。
「ケネルのばか!」
掌の上には、包み紙の拠れた小さな飴玉。抱えた膝に、溜息と共に脱力した。
「……ケネルにとって、あたしって、この程度の存在なの?」
うつ伏せた胸がトクトク小さく音を立てる。とんだ茶番だ。もしかしたら、と思っていたのに……。ケネルといると安心出来た。心の底から安堵できた。なのにケネルは──。
いじけて潜り込みそうになっていた顔を、はっ、と我に返って振り上げた。エレーンはぶんぶん首を振る。「じょ、冗―談じゃないわよ! なーんで、あたしがケネルなんかっ!」
臆面もない小憎らしい顔を、頭の中から振り払う。
「そっ、そーよっ! なに言ってんのよっ! あたしは別に、ケネルのことなんか何とも思ってないんだから!」
拳を握って大きく頷き、大急ぎで己に否定する。危うく己を見失うところだ。あの取り澄ました顔がしつこく浮かんで、ギッと頭上を睨み上げた。
──いい気になんなよ? 自惚れタヌキ!
さわり、と風が動いた気がした。
ふと、瞬いて目を向ける。向かいの左の片隅だ。
壁が仄かに光っていた。いや、光が宙に浮いている。何もない空間に、至極唐突にぽっかりと。
意表を突かれて面食らい、思わず、じぃっ、と凝視する。その突拍子もない正体を見定め、ギクリと顔が引きつった。異様なものがそこにあった。"
光 " がぽっかり浮いている。鏡か何かを置いたかのように、そこだけ切り取られたように背景がない。
( あ、頭でも打ったかな……? )
とりあえずゴシゴシ目を擦る。仕切り直して今のはなかったことにして、改めておもむろに目を向けた。だが、そこにはやはり、異様な光景が依然として──いや、"
光 " の中で何かが動いた?
エレーンはへたり込んだまま後退り、あわあわ口を半開きにする。光度を増して眩く輝く " 光 "の中に " 指 "が一本、ニョキッと唐突に生えていた。まっすぐ突き伸ばされた人差し指が。あまりの奇怪さに、悲鳴をあげることさえ叶わない。そうこうする内、" 指 "は、すっ、と引っ込んだ。
「……な、なに?……なんだったの今のは……?」
卒倒寸前ばくばく打ち鳴る心臓を押さえて、エレーンは呆然と呟いた。今すぐ襲われる危険性は、とりあえず回避されたのか? だが、ホッとしたのも束の間だった。
又も何かが、にゅっ、と出た。今度は足だ。ぶかぶかのズボンを穿いていて、ふわり、と宙に浮いている。
声なき悲鳴で飛び上がり、エレーンは我が身を抱いて凍り付いた。足が" 光 "から歩み出る。宙に空いた穴の縁を、ひょい、とまたぎ越すように、左足が出て、左手が出て、屈めた頭と肩が出て、そして、華奢な細い胴──。
足は空中をふわりと歩いて、とん、と地面に降り立った。すっかり全身を現して、"それ"は平然と立っている。エレーンは愕然と見返して、回らぬ口で問い掛けた。「ど、ど、どうして──!?」
彼が出てきた眩い" 光 "は、既に消滅しかけている。それは湿った石壁と同化するように涸れ井戸の深い闇に溶け込んで、瞬く間に霧散していく。どこか苛々と彼が言った。
「──どうして、こんなところにいるのさ」
( こっちの台詞だ!? )と内心突っ込むも委細構わず、彼は眉をひそめて頭上を窺い、何を気にしているのか、ソワソワしながら振り向いた。「はやく、でたほうがいいよ、ここ」
「──そ、そりゃあ、あたしだって、早く出たいのは山々だけどさ」
もっともな助言に、むむむ、と詰まって思わず応答。キツネがいるから出られないのだ。てか、そこか!? そんなことより──!? エレーンはビシッと指差した。
「ケイン! あんた、どこから来たの!?」
あの少年が立っていた。片足の足首から先がない羊飼いキャンプの男の子だ。井戸の壁をあたふた見回し、進入口を改めて探す。古い石壁が所々傷んで崩れた箇所はあるけれど、何れも土肌が剥き出しで、出入り出来そうな亀裂さえない。ケインは肩を竦めて顎をしゃくった。「そこから」
「そこ、って、──」
壁か? その真っ平らな石壁のことか?
ケインはぬけぬけとのたまった。「ぼく、どこにでも、いけるから」
「な、なんで、そんなことが出来るのよ」
「わかんないよ」
絶句であんぐり口を開け、( わかんないよ、って、あんたね…… )と、エレーンが無責任な発言者をしばしマジマジ眺めていると、ケインは口を尖らせて、何事か思い出すように、ふい、と遠くを眺めるように目を背けた。
「はやく、はしりたかったんだ。かけっこ、いっつも、ビリだったから──。だから、はやく、はしりたかった。そうしたら、いつのまにか、みんなのこと、おいこしてた」
突拍子もない思い出話だ。ふと、ケネルの言葉を思い出す。ケインのように障害を持つ子は、稀に特殊な力を持っている。他人の心を読み取ったり、遠くの物を動かしたり、手をさえ触れずに壊したり──。あたかも欠けた能力を補うように。ケインもそうした子供の一人なのだ。だから──。はっと唐突に思い出し、エレーンは慌てて見返した。
「あのおじさんに、何したの?」
森で襲ってきた盗賊が、突然、姿をくらましていた。ケインが現れた途端にだ。確かケインは「自分がやった」と言ってやしなかったか。ケインはうんざりしたように小首を傾げた。「いったでしょ? けしたって」
全く悪気のない声だ。
「──だから、ケインはどういうふうに、」
「ぼく、"きえちゃえ " って、おもっただけだよ」
「あの時、ケインがしたみたいに?」
刃物を振り上げたウォードから庇い、伏せた体のすぐ下で、ケインは消えてなくなった。あの時のあれと同じ事を賊にもした、ということか。自分を消したのと同じ要領で。
「じゃあ、どこへやったの? あのおじさん」
「──わかんないよ、そんなの」
エレーンは唖然と見つめ返した。この子は、自分が何をしているのか、よく分かっていないのだ。その動揺を読み取ったように、ケインが口を尖らせた。「──ぼく、ときどき、わかるんだ、おばちゃんが、かんがえてること」
ギクリ、と体が強張った。ケインは一呼吸置き、仕方なさげに話し出す。
「ネズミやウサギは、きれいにけせるし、ウマとかクマとか、おおきいヤツも、ふっとばせる。ぼくがふっとばすと、あいつら、ころん、って、ひっくりかえってにげるんだ。できるときと、できないときがあるけど、だんだん、うまくなってきた。でも、あいつのときには、あわててて、ちがでたのは、はじめてで、だから、すごくびっくりしたけど」
そういえば、あの時、辺りが血の海になっていた──。エレーンは、はっ、とケインを見返す。「ね、ねえ、あの人怪我とかしたんじゃないの? それも、ものすごくたくさん──」
「しらない」
とうとうケインは、そっぽを向いた。「いいじゃん、あんなヤツのことなんか!」
癇癪を起こした横顔に、嫌な予感が込み上げる。あんなにびっしょり頭から血を浴びたのに、怪我した程度で済むものだろうか。ケインは肩を揺らして、不貞腐って歩き出す。エレーンは腰を浮かせて細い両腕を引っ掴み、怪訝そうに振り向いた瞳を真摯に見つめた。
「いい? ケイン、約束して。二度としないって約束して」
ケインはきょとんと瞬いた。小さな口を大きく開ける。
「なんで、やっちゃいけないのー? わるいのは、あいつだよ。だから、やっつけてやったんだ!」
口を尖らせ、不服そうに訴える。面白くなさそうな顔つきだ。煩がって振り払おうとする細腕を、しっかり手の中に捕らえ直して、そっぽを向いたケインの顔を、極めて真剣に凝視した。
「ケイン、ちゃんと約束して」
あの盗賊は死んでいる。そんな凶暴な力が頭や胸を直撃すれば、まず無事で済む筈がない。ケインが揮う力には、数百キロもの家畜をさえ一撃で吹っ飛ばせるほどの威力があるのだ。まして対象が柔な殻を持つ人間なら──。現に気配が一瞬にして消し飛んだ。手足が千切れただけじゃない。恐る恐る目を開けてみた時には、既にどこにもいなかった。もしもケインが、気に入らない相手に出くわす都度、そんなことを始めたら、
──大変なことになる。
事態を悟って、嫌な汗が滲み出る。焦燥が胸に込み上げる。
「ね、わかった? もうやっちゃ駄目なのよ。絶対、人には──」
言い聞かせている言葉の途中で、ケインが辟易したように口を開いた。
「おばちゃんも、おんなじこと、いうんだね。キャンプのおさも、ぜったいやるな、って、おこるんだ」
くるり、とこちらを振り向いた。
「やったら、おばちゃんも、ぼくのこと、きらいになる?」
「──ケイン、」
「ね、きらいになる?」
子供の澄んだひたむきな瞳が、ただそれだけを問うてくる。そのあまりの必死さに、胸が詰まって言葉を失う。この子には相手の機嫌が重要なのだ。人一人の命より。
ケインは不安そうな視線を逸らして、小さく溜息をついた。
「わかったよ、もうしない。──おばちゃんにきらわれるの、いやだもん」
渋々不本意そうに約束し、ケインは口を尖らせ、そっぽを向いた。ほっと胸を撫で下ろし、エレーンはそそくさ話題を代える。「それにしても、よく分かったわねえ、あたしがここにいるの」
こんな井戸の底なのに。ケインは普通に頷いた。
「おばちゃんがいるところは、だいたいわかる。なんか、そこだけゆがんでるし」
「……。わーるかったわねえ歪んでて」
実に微妙な言い方だ。言わんとした意味は分からんでもないが。難解な言い分に溜息で答えた。「ま、あたしも、だいたい分かるけどねー、ケネルがどの辺りにいるかとか」
きっと、あの女と一緒にいるのだ。あーむかつく。ケインがマジマジ顔を見た。「……タイチョー、おばちゃんのおとうさんなの?」
そんな訳あるかい。てか、
「なんでケネルがお父さんよ?」
つまり、自分はケネルが二・三歳の時の子ってことか?
「ぼくは、かあさんのいるとこ、なんとなくわかるから、おばちゃんも、そうかとおもって。──でも、それなら、おばちゃんは、なんでわかるの?」
「──えっ、いや、なんでって言われても」
そういや、なんでだろう? 執念で? エレーンは、ふむ、と首を捻る。ケインはパチクリ不思議そうな顔だ。
「でも、ケイン、よく来たね。この前、あんな恐い目に遭ったのに」
あの時ウォードは、ケインを手にかけようとしていた。"先祖返り"──ケインのことをそう呼んで。ケインは口を尖らせて頷いた。「あいつにはわからないよ、おばちゃんがここにいること。あいつとぼくらは、ちがうから」
確信ありげな言い方だ。エレーンは怪訝に横顔を見る。確かに、こんなとんでもない真似が出来る者など、そうザラにはいないだろうが。ケインが「──そんなことよりさ」と振り向いた。細い両腕を大きく広げ、「ねえ、おばちゃん、おばちゃん」と満面の笑みでにじり寄る。そして、
「おばちゃん、だっこ!」
「……む?」
またかい。
だが、逃げる間もなく問答無用で抱きつかれていた。「よいしょ」と膝によじ登られて、エレーンは成す術もなく引きつり笑う。どうしてなんだか、ここんとこ子供に大人気。ケインといいウォードといい──。あれ? ウォードは子供っていうのか?
梢のざわめきだけがザワザワ聞こえる。キツネはようやく、どこか他所へ行ったようだ。
懐いてくる子供の頭を、エレーンは、やれやれ、と撫でていた。それにしたって、どこへでも行けるこんな凄い力があるんなら、 本当のお母さんの所へ行けばいいのに──。
「いけないよ」
「……え゛っ?」
ギクリ、と体が凍り付く。やばい。丸聞こえだ……。ふと、エレーンは気がついた。ケインの背中が震えている。細い腕を切羽詰ったように首に伸ばして、小さな体がしがみ付いて来た。
「……おかあ、さん」
蚊の鳴くような、小さな震える声だった。堪えて堪えて、やっと吐き出したようなか弱い声。
「ど、ど、どうしたの!?」
泣いている?
おろおろ顔を覗き込めば、懐の柔らかな体温は、長いまつ毛を震わせて涙に顔を歪めている。「……だめだよ。また、おいかえされちゃうもん。はやくかえりなって。 ──だから、ぼく、かあさんがきてくれるのをまってるしかないんだ。──ぼく、しってるんだ。かあさんが、たまにキャンプにきてるの。でも、ぼくがしってること、ぼく、だれにもいわないんだ」
「どうして?」
「だって、こなくなっちゃうもん」
応えに窮して、エレーンはただただ顔を見る。しがみ付く手は小さくて、薄桃の爪は作り物のように小さい。柔らかな髪をそっと撫でた。
「すごくきれいなひとなんだ。そのひとがきたひは、ふくとか、おかしとか、おさから、もらえる。だから、あのひとがもってきてくれるんだ。あのひとが、きっと、かあさんだよ」
「え? きっと、って?」
ケインは顔を歪めて唇を噛んだ。
「かあさんのかお、しらないから。ちいさいときに、キャンプにきたし。でも、わかる。きっと、あのひとだよ。だって、ぼくのこと、いつも、みているし」
「──で、でもね、ケイン、それだけじゃ」
ケインが顔を振り上げた。
「ぜったいそうだよ! だって、あのひとだけは、ぼくのこと、きもちわるい、って、いわないんだ!」
「……え?」
堪りかねたように怒鳴りつけられ、エレーンはギクリとたじろいだ。そんな酷い事は、誰も面と向かって言わないだろうに。でも、この子は、
──心が読める。
愕然と心が冷えた。筒抜けなのだ、何もかも。
「ちゃんと、あざもあったもん!」
ケインはムキになって口の先を尖らせた。「おぼえてるんだ、かあさんのて。しろくて、きれいで、でも、あざがあった。かおも、こえも、わからないけど、それだけはぼく、おぼえてる。だから、あのひとだよ、たぶん」
「どうして、その人に訊かないの?」
恐る恐る尋ねてみると、ケインは涙でぐちゃぐちゃの顔を「だって、──」と歪める。声に伴い温もりが震えた。
「……ちがうって、いわれたら、こわいもん」
重い何かが心に落ちた。苦い想いが胸に広がり、エレーンは暗澹たる思いで口をつぐんだ。独りぼっちのこの子には、それだけが心の拠り所なのだ。それさえ相手に否定されたら、最後の砦までも失ってしまう。顔を擦り付けられた肩の辺りが、ぐっしょり温かく濡れていた。胸の深い場所が疼くように痛い。ケインが小さくしゃくり上げた。「──かあさんに、あいたい」
怯えて泣き出した子供を抱えて、エレーンにはどうしてやることも出来なかった。頭を撫でつつ、自分の無力さを噛み締める。小さな体をこうして抱き締めているように、ケインの心をも包み込んで、安心させてやれればいいのに。けれど、想いに手が届かない。ケインの抱える生々しい傷は、傍の者には分からない、とてつもなく深く大きなものなのだ。
子供の相手などしたことがないので、こんな時、どうやって、あやしてやったらいいのか分からなかった。子供はどうやったら泣きやむのだろう。困って顔を覗き込み、柔らかな髪を撫でてやる。
「……な、泣かないでケイン、ね、お願い。……あ、そ、そうだ……」
とある考えが閃いた。けれど、一瞬後には躊躇した。逡巡し、しばし迷ったその末に、ようやくポケットに手を入れた。笑顔を作って、ごそごそ探る。「──お、おばちゃん、いいもの持ってるんだー」
スカートのポケットに確かアレがあった筈。やってしまうのは正直惜しいが、背に腹は替えられない。今は比類なき緊急時、そうだ、ここで使わずして何とする!
だって、こんな事しか思いつかない──。
内心 ( あーあ…… ) と溜息つきつつ、むんず、と手を抜き出して、しがみ付くケインの顔の前へと持っていく。
「ほーら見て」
むずかるケインを覗き込み、それを持った片手を振る。ケインがチラと目を向けた。けれど、小さな両手は依然として、シカとしがみ付いたまま離れない。
「ね、これ、あげるから──ね?」
少しだけ思わせ振りに間を持たせ、ケインの視線が確かに見たのを確認してから、握った手の平をゆっくり開いた。あの晩、ケネルがそうしたように。
恐らくそれどころではないのだろうケインは、嫌々ながらも顔を上げ、無感慨な目でそれを見て、一度しゃくり上げてから片手で取った。無造作に掴んだ涙に濡れた拳を開くと、細い指をピンと伸ばした小さく華奢な掌の上に、包みの先っぽがよれた飴玉が一つ。
「あれ?」とケインが何かに気付いたように瞬いた。その拍子に、長いまつ毛を濡らした涙が、ぽろん、と一粒、つるつるの頬を滑り落ちる。何が不思議か、ケインは手の上に載ったそれを、いやにマジマジ見つめている。どうかしたのだろうか、と訝しく思って見ていると、ぽかん、と口を開けて顔を仰いだ。
「ぼくがタイチョーにあげたヤツー? なんで、おばちゃんがもってるのー?」
「……え?」
エレーンはパチクリ瞬いた。予期せぬ事態だ。てか、飴の出所はケインなの? なら、巡り巡って元の持ち主に戻ったわけ? いや、そんなことは、どうだっていい──!
一瞬後、我に返って、わなわな拳を握りしめた。
( おのれえ! ケネル〜っ! )
使い回しかい!?
けれど、自分に泣かれたケネルの気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がする。そうしたら、ケネルの人となりが、ほんの少しだけ分かった気がした。あの紛らわしい仕打ちは腹立しいことこの上ないが、なんとなく、それでもいいような気がした。
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