■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話6
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意地悪ギツネがうろついてて井戸から外に出られないのだ、とザイ=悪者の図式で事態を簡潔に説明すると、ケインはすっくと立ち上がり 「ぼく、やっつけてくるっ!」 と止める間もなく掻き消えてしまった。つまり、悪いヤツは成敗するから、後は自力で上がって来い、とこういう趣旨であるらしいのだが。
「……もー。あんのガキんちょおー。井戸の壁よじ登れなんて、そんなの無理に決まってんでしょおー」
どうせだったら、助けを呼んでくれればいいのに。そーよ。適任者は幾らでもいるでしょ。ケネルとかケネルとかケネルとか──!
丸く切り取られた空を仰いで、エレーンはブチブチ文句を垂れる。どーして男どもはこうなのだ。か弱いレディーをほっぽり出して、なんで、すぐに報復に行くのだ。賊に襲われた後のファレスといい、アドルファスをけしかけた短髪の首長といい──! もっともケインは「二度としない」と約束したから、妙なことにはならないだろうけど。そう、この前みたいな妙なことには──。
円筒形の空間を満たす空虚な静寂に身を沈め、エレーンは重い溜息をついた。あの賊を、ケインが手にかけたのは明らかだった。木立の血溜まりの惨状を見て、ザイは何があったか察したのだろう。だから、ああも恐い顔で、あんなにしつこく問い詰めてきたのだ。それはそうだろう。だって、人が一人、
──死んでいる。
あの口振りでは、ウォードもすぐに分かったのだ。あの時何があったかを。ケインが何をしたのかを。けれど、それでも庇ってくれた。ケインの処断になど大して関心はなさそうなのに。
「……ノッポ君」
膝に気鬱にうつ伏せた脳裏に、木漏れ日揺れる木立の中、ふい、と立ち去る白シャツの長身が思い浮かんだ。居るようで居ないような不思議な空虚さを纏う青年。頭一つ高い場所から、じっと見下ろす硝子のような薄茶の瞳。振り向きもせずにどんどん進む速い歩調に小走りで付いて歩いた森。立ち止まってもくれない白シャツの背から、苛立っているのは何となく分かった。
『 こっちで恐い奴って、オレ、あんまりいないけどー、コイツのことだけは、恐いと思うよー? 』
等閑(なおざり)に放られた言葉の意味を、今まざまざと思い知る。
「闘ってたんだノッポ君……」
浅く吐いた呼吸と共に、我知らず呟いた。薄笑いさえ頬に浮かべてウォードは淡々としていたけれど、二人は本気で戦っていたのだ。ウォードは、野放しにすれば不特定の者に塁が及びかねない小さな罪人を狩る為に。ケインは、己の存在を脅かす強大な狩人を葬る為に。どちらも己の生き残りを賭けて。ケインはあの時ウォードのことを、
──本気で殺そうとしていた。
梢がサワサワ鳴っていた。世界と隔絶された涸れ井戸の底は、ひっそり静かで穏やかだ。膝の上で顔を傾け、丸い空を気怠く仰いだ。井戸の縁に変化はない。丸い空には木漏れ日がチラチラ揺れている──。ふと奇妙なことを思い出し、そういえば、と背を起こした。そう、あれはいったい何だったのだろう。井戸に落ちた瞬間に、不思議な感覚があったのだ。地面が掻き消えたと思ったら、体がふわりと浮いたような──。もっとも、ほんの一瞬のことで、すぐに落下速度を取り戻し、尻餅をついて転がる羽目になったのだが。
背中についた後ろ手の甲に、さわり、と冷たい風を感じる。気を取られて振り向いた刹那、視界の片隅、向かい壁の中程辺りを、黒い何かが素早く過ぎった。
体が、びくっ、と動きを止める。じんわり噴き出す嫌な汗。氷結した凝視の先は、向かい壁の隅っこに転がる赤ん坊大の苔むした石。そう、あの苔石の裏に、
──アレが、いる。
ゴクリ、と唾を飲み下した。もしや光の加減とか? いいや、見間違いなどでは断じてない。視線を感じるこっちを見てる。石の裏なんか見える筈もないのに何故に分かってしまうのか。そう、絶対探知なんかしたくないのに、肌身に感じて、ちゃあんと分かってしまうのだ。アレがいる、という事を。
視線は逸らさずジリジリ後退、足元の障害物を爪先で探り、苔石から最も離れた逆側の壁へドキドキ逃れる。それにしたって根性悪い。誰もいないこんな時に、何故に狙い澄ましたかのように出てくるのか。アレの半径一m以内には絶対近接不可なのに。なのに何故、ああ、それなのに何故
──何故に出てきてしまうのか。
カサカサカサ──と素早く過ぎる黒い羽。
「──でたっ!?」
黒虫。
ぞわり、と怖気が背を撫でて、万歳三唱で飛び退る。己の悲鳴で正体を特定、途端、怖気の津波が堰を切り、怒涛のおののきが襲いかかった。円筒状の壁に囲まれ後がないのは分かっているけど、こうなったら理屈じゃない。顔が引きつり、全身ぞわわと総毛立つ。とうとう理性が吹っ飛んで、全力で後退、びたんと石壁に張り付いた。
艶やかな黒羽をてらてら光らせ、テキは、さささ──とおちょくるように出戻った。だが、格下と見切って気がデカくなったか、黒い触覚が、ひょい、と現れ、又も、すすす……と壁に出てくる。
「……こ、こ、来ないでよっ!」
へっぴり腰で、せめてもの威嚇。視線は苔石に釘付けだ。向かいの黒虫の進路に合わせ、最も遠い距離になるよう半時計回りにジリジリ移動。
「──わっ!?」
ガタンと音がし、足が取られた。体が宙に投げ出され、バランスを取るべく、とっさに両手を振り回す。何かにぶつかり、ガタタ──と響き渡る凄まじい音。そして気付けば、両手を伸ばしたスライディング状態。
冷たい地面に這いつくばって、エレーンは涙目で首を傾げた。こんな所につまずくような物などあっただろうか? ひりつく手足を擦りつつ、両手を突いて体を起こし、いったい何につまずいたのだ、と四つん這いのまま振り返る。エレーンはパチクリ瞬いた。
「板?」
大きな木板が視界を斜めに両断していた。白っぽい木目を木漏れ日にさらし、少し湾曲した先端が向かいの石壁に倒れかかっている。いや、こんな板、今の今迄どこにもなかった筈である。ぽかん、と口を開けて手を伸ばし、呆気にとられて板裏を覗く。薄板の裏は、今まで見ていた古井戸の壁、いや、それらしく見えるよう絵の具で描き込んであるような?
「何これ」
まるきり芝居の大道具だ。石壁に立てかけてあったのが、蹴つまずいた拍子に外れたらしい。てか、なんだって、こんな物が涸れ井戸にあるのだ?
不可解な状況に、エレーンは、うう〜む、と首を傾げた。薄っぺらな板の、裏を、表を、何度も見返し首を捻る。もしやゴミかと思ったが、廃棄した訳ではないだろう。だって、井戸の石壁そっくりの絵がわざわざ全面に描いてある。誰かがここに置いたのだ。なら、何の目的でこんな所に──? 薄板が外れた右手の壁が、何とはなしに明るい気がする。怪訝に思い振り向けば、井戸の垂直な石壁がぽっかり大きくえぐれていた。上端は身長より上、大きな窪みだ。何の気なしに、ひょい、と覗く。エレーンは息を呑んで瞠目した。
「──通路が、ある」
道が暗がりの先まで伸びていた。巨大な洞窟の天井は、背の高い大人の身長くらいは優にある。凝視しながら踏み出して、開けた空間を唖然と見回す。洞窟の中は、ひんやりしていた。薄暗い道が延々先に伸びている。どこへ続いているものとも知れぬ静かで広大な地下通路。大人が立って歩ける高さ、横に三人並べる程度の幅がある。気を呑まれ、しばしそのまま突っ立っていたが、ふと気付いて我に返った。慌てて戻ろうと踵を返す。
何かがキラリと薄闇で光った。反射的にそれを追い、エレーンは胸元に視線をやる。
「あ、お守りの──?」
目を射た煌めきの正体は、ペンダントヘッドの翠石だった。何かに呼応するかのように、胸でキラキラ輝いている。握り締めれば、温かい気がした。石が歓喜しているようにふと感じ、エレーンは面食らって小首を傾げる。さわり、と頬に何かが触れた。
「……風?」
淀んでいない新鮮な風だ。洞窟の奥から吹いてくる。空気が動くということは、
──地上に通じる出口がある?
お守りを手に握ったままで、エレーンは凝視して立ち尽くす。突然の事態に、頭が固まってついていけない。
無人の仄明るい地下道が、ぽっかり口を開けていた。旧知の友を誘うように、風が奥から吹いてくる。ドキドキ胸が高鳴った。理由は全く分からない。けれど、この洞窟に強く惹かれる。如何にも奇妙な話だが、どこか好意的な温かい感じが息づいているのを感じるのだ。逡巡に唇を噛み締めて、背後の井戸を振り返り、もう一度、洞窟に目を戻す。
「……行って、みる?」
確信があった。この道は地上に続いている、そんな気が強くする。もし、行き止まりだったり、小さな裂け目しかなかったら、戻ってくればいいだけの話だ。
仄明るい洞窟に魅せられ、エレーンは足を踏み出した。光源はどこにもないようなのに、周囲の様子が見分けられる。壁自体が自然に発光しているかのように薄黄色い温かな光で包まれている。洞窟の中は全てが死に絶えてしまったように、シン、と静まり返っている。空気が少しだけ湿っぽい。
仄明るい静かな地底を、エレーンは一人で歩いていた。不思議と怖いとは思わなかった。むしろ大地の懐に抱かれるような得も言われぬ安堵を感じる。
「……何これ。昔の避難路か何か?」
左右の岩壁は剥き出しだが、地面は平らに均されていて明らかに人の手が入っている。井戸の底の入口に、あんな仕掛けがあったくらいだ。やはり、地上に通じているのかも知れない。
しばらく歩くと脇道があった。ずっと先の方まで続いているが、人が歩くには狭すぎて、とてもではないが入れない。細い分岐が幾つもあって木の根のように縦横無尽に広がっている。それらは横目で通過して、太い道だけを辿って歩く。こちらの道幅は、ほぼ一定だ。多少広くなったり狭くなったりはするものの、そう極端な悪路はなくて、洞窟の先には同じような光景が延々と続いている。翠石の欠片はやはりキラキラ、どこか生き生きと輝いている。仄明るい壁を見回し、エレーンはゆっくり進んで行く。ふと前方の異変に気がついた。
「なにこれ」
右の岩壁を覆い隠して、木箱が山と積まれていた。前まで行って眺めれば、そこから先は道幅が大分広くなっている。壁沿いに積まれた箱は、横に五箱、縦に三段、手前にも幾つか、雑然と放置されている。何れも腹までの高さの大きな木箱。焼印の記号が側面にあるが、内容物の表示だろうか。
唖然としながら手近な箱に近付いた。作業の途中か何かだろうか、蓋が少しずれている。ぞんざいに載った木の蓋を、そっと脇に退けてみる。中身がギッシリ詰まっていた。石鹸やら、歯ブラシやら、紙箱やらの日用品、どれも未開封であるようだ。隣の箱も見てみると、そちらには酒が詰まっていた。その又隣も開けてみる。中から一つを取り出して、エレーンはパチクリ瞬いた。
「刃物?」
ずっしり重い。黒い鞘に入った短剣だ。箱の中に幾十も無造作に突っ込まれている。鞘の皮の真新しさから、どれもまだ新品のようだ。( なんで、こんな物が……?
)と呆気に取られて訝りつつも、剣と蓋とを元に戻して、隣の蓋を持ち上げる。エレーンは首を傾げた。
「……黒い布?」
こちらは真四角に折り畳まれた布だった。木箱の縁まで詰められている。喪服用の生地だろうか。それにしてはスカーフのように薄手だが……? 端に紙箱が載っている。ケネルがたまに持ってくる六個入りの菓子箱くらいの大きさだ。取り上げ、蓋を開けてみる。中には赤い薬包がぎっしり端まで詰まっていた。この薬包には見覚えがあった。アディーが毎日服用していた激痛を散らす鎮痛剤だ。特徴のあるこの赤は、危険を示す劇薬の印。でも、あれって確か、
「麻薬じゃなかったっけ?」
非合法の筈だ。用法を誤ると命に関わる。だから、重病人でもない限り、こんな物は使わない。
「……なんで、こんな所に」
不安が胸に込み上げて、赤い薬包を握り締める。見てはいけないものを見てしまったようで、胸がドキドキ高鳴り出した。ここは、いったい何なのだろう。木箱が積まれたこの様は、あたかも倉庫か何かのようだ。けれど、この辺りは街道からかなり離れている。こんなに遠くて不便な場所に、わざわざ何の目的で──?
積み上げられた大量の木箱は、シンと黙して語らない。それを腑に落ちない思いで見回して、震える息を浅く吐く。その時だった。
「──なんだァ、こいつは」
しゃがれた男の声がした。真後ろだ。
息が止まり、体が強張る。慌てて振り向こうとした途端、後頭部に強い衝撃。意識を失うその刹那、癖のある匂いを嗅いだ気がした。
夕暮れの木立の大木に隠れて、ケインは様子を窺っていた。周囲を苛々見回しながら、男が一人、井戸の周りをうろついている。飢えた野犬のように痩せた体、目にかかるほどの薄茶の髪。前髪の下の鋭い目。間違いない。あれが
「 悪い 《 ロム 》 」 だろう。彼女を追いまわしたキツネ目の男。
男を凝視し、狙いを定める。男は気付かず、木立を舌打ちで見回している。ふと、ケインは眉をひそめた。ためていた息を一気に吐いて、もどかしげに爪を噛む。「アレ」は二度としないと約束したのだ。
次善の策を周囲に探して、結局、屈んで石を拾った。掌に余る大きな石だ。それをそっと握り締め、ジャンバーの背にそろそろ近付く。男はやはり気付かない。意を決し、狙いを定めて、ゆっくり石を振りかぶる。
「おい、ガキ」
ギクリ、と、ケインは居竦んだ。慌てて声を振り向けば、長髪の《 ロム 》が怪訝そうに眺めている。《 バード 》のように長い髪、踏ん反り返った偉そうな態度、どこかで見た顔だ。ふと、ケインは思い出した。隊長の所に報告に来ていた偉そうな態度の23番目、ファレスと呼ばれていたあの男だ。
「何してんだ、こんな所で」
ファレスはぞんざいに声をかけ、上着の腕で額を拭った。辺りを見回し、苛立ったように舌打ちしている。だが、何かに気付いたように目を戻し、首を傾げた。「そういや、お前、先だっての──。なんで今頃こんな所にいんだよ」
つくづく不思議といった顔。ほんの一瞬目を背け、ケインは俯いて唇を噛む。「……あ、あの、ぼく……おさのかいだしで、こっちに……」
「あー? 買い出しだあ?」
かったるそうに聞いていたファレスが、眉をひそめて顎をしゃくった。「家畜はどうした。なんでわざわざ《 マヌーシュ 》が、買い物如きで南下して来んだ」
詰問口調で問い質す。既に不審そうな顔つきだ。執拗な視線から目を逸らし、ケインはそっと後退る。
「おい、てめえ。手に何を持っている?」
ギクリ、とケインは背中に隠した。ファレスは怪訝そうに目を眇め、周囲の木立を眺め回した。
「──ザイ、か?」
すぐに対象を見つけたらしい。面食らったように確認し、みるみる顔を険しくする。一歩足を踏み出した。
「おい、ガキ。その手ここに出してみろ。そいつでザイに何をするつもりだった」
長髪の顔を睨み付け、ケインはジリジリ後退る。足が木の根を踏むと同時に体を素早く反転させて、後ろの草むらに飛び込んだ。
「あ、クソガキ! 待ちやがれ!」
ファレスが舌打ちで分け入った。腰まで茂った丈高い草に窮屈そうに背を屈め、その都度、顔に当たる野草の葉先に鬱陶しげに舌打ちしている。停止を求めて罵りながら、草海をもどかしげに薙ぎ払う。ケインは思うに任せぬ足を引きずり、垂直な草を掻き分けた。体を隠す野草の海を、身を捩って必死で逃げる。だが、追い上げの手がすぐに迫った。見開いた視界の前方に、緑の蔓這う楡の大木。叩き付けるように幹に手をかけ、向こう側へ全力で飛び込む。
( ──とべ! )
空を仰いで踏み切った。
酷く痛む胸を押さえて、肩で息をついていた。あの長髪はどこにも見えない。
辺りを見回し確認し、ケインは、ゆっくり歩き出す。木立の向こうにテントがあった。大きさからして首長のテントだ。あれがある、ということは、ここはまだ野営地だ。《
ロム 》が大勢ウロついている。早く離れた方がいい──。
額の汗をシャツで拭って、それを横目に逆側に踏み出す。肩越しに背後を振り返り、息を喘がせ木立を歩く。
「くそガキー! どこ行った!」
ギクリ、とケインは飛び上がった。あの罵声はさっきのファレスだ。キャンプで会った時もぞんざいな態度で踏ん反り返っていたが、今日はあの時とは比べ物にならないくらいに苛ついている。今捕まったら、どんな目に遭わされるか分からない。
震え上がって踵を返す。息せき切って走る間に間に何度も後ろを振り返り、進行方向へ目を戻す。視界が左右に大きく揺れる。はっ、とケインは足を止めた。木陰に寝転がったあの男──。強張った顔がみるみる崩れる。
「──タイチョーっ!」
怒鳴りつけるように呼びかけた。両手を振って、泣き出さんばかりに駆け寄る。
「タイチョー! タイチョー! たいへんだよ!」
《 ロム 》を率いる隊長、ケネルだ。左手の茂みの向こう側、大木に寄りかかり、背を向けて寝そべっている。
「タイチョー! あのねっ! いま、いどで──」
「ここへは来るなと言った筈だな」
ビクリ、とケインは足を止めた。ケネルは頭の後ろで手を組んで、背を向けたまま振り向きもしない。
「……タイチョー。だって、……だって、ぼくは」
下から掬い上げるように顔を見上げて、ケインはおずおず口を開いた。「だって、ぼくは、おばちゃんといたい。あのひとだけなんだ、ぼくのこと、ちゃんとみてくれたの。ぼくにやさしくしてくれたの。だって、もう……だって、ぼく、もう……」
喘ぐように言い切った。
「おわっちゃうんだ!」
「それでも、だ」
ケネルは静かに、きっぱりと退けた。
「長から聞いて知っている筈だな。異能の力を見かけたら、俺はそいつを処分せにゃならん」
ケインは息を呑んで立ち尽くした。やっと、ここまで逃げてきたというのに、心酔している隊長が自分の敵だと言っているのだ。震える唇を開きかけ、けれど、ゆっくり口をつぐんで、唇を噛んで踵を返す。だが、まだ幾らも行かぬ間に、足を止めて振り向いた。「──あ、あの、でも、ちがうんだタイチョー、ぼくは、」
「早く戻れ。お前の顔を見ちまったら、見逃してやれなくなる。俺にお前を斬らせるなよ」
頭上で梢が揺れていた。ケネルは口を開かない。もどかしそうに顔を歪めて、ケインはしばし戸惑っていたが、拳を握って顔を上げた。
「おばちゃんをたすけて! いどにおちて、こまってるんだ!」
ケネルが怪訝そうに顔を上げた。「井戸に?」
すぐさま木陰を立ち上がり、「早く戻れ」と軽く手を振り歩き出す。振り向きかけた横顔が、何事か気付いたように眉をひそめた。
「──あいつがいるな」
舌打ちし、「ファレス!」と大声で呼びつける。藪の向こうに、ファレスはすぐに現れた。何事か指示を与えられ、すぐさま長髪を翻す。井戸へと駆け出した後を追い、ケネルも足早に歩いて行った。
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