■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話8
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ファレスを唖然と見送って、ケネルが首を捻りながら入ってきた。足を止め小首を傾げて、つくづく不思議そうに訊いてくる。
「あんた、あいつに何かしたのか」
「なんであたしが " 何かした " とか思うわけえ?」
尻を落としてペッタリ座り、エレーンは「そんな訳ないでしょー」とぶいぶい口を尖らせる。ケネルは溜息で首を振り、慣れた手付きで土間の炉に火を入れた。薄暗かった室内が次第次第に明るくなる。作業が済んでぶっきらぼうに立ち上がり、ケネルはやれやれと歩き出した。南側の自分の陣地に行くらしい。エレーンもすかさず立ち上がる。さりげなく、けれど急いであたふた接近。ケネルがぶらぶら歩いて振り向いた。「──まったくあんたは。今度はなんだ」
「なんだって何が?」
ケネルはかったるそうな面持ちだ。何事か発見した模様だが──。呆れ返った視線を追えば、ぶらん、と垂れ下がった細縄のシッポ。
「なに遊んでんだ、あんたは」
「だからなんで、あたしがやったとか思うわけ?」
あいつに決まってんでしょーあいつにっ、と犯人が出て行ったゲルの出口に「冤罪でございます」と指を差す。だが、当のケネルは腹の細縄をクイクイ引っ張り「なんの遊びだ?」と聞いてない。濡れ衣の汚名をおっ着せられて、エレーンは、むっ、と顔を見た。シッポの腹を、ぐい、と突き出す。
「とってよー」
ぷりぷり腕組み、踏ん反り返って撤去を要求。だって不埒な野良猫の飼い主だ。ケネルは「まったくあんたらは──」と十派一絡げにして嘆息すると、面倒臭そうに手を伸ばした。膝をついて屈み込み、指先で結び目を揉み解す。だが、固い結び目はちょっとやそっとじゃ解けない。それについては散々やって実証済み。因みに、結わえ付けた当人でさえもが短刀で縄をぶった切り脱出を果たしたという曰く付き。たいそう急いでいたようではあるが。
ケネルは膝立ちの体勢で、もみもみチマチマ根気よく縄に取り組んでいる。だが、結び目の手強さは半端ではない。作業は案の定難航し、むっと口を尖らせた。対抗心を煽られたか、しばしそうしてじれったそうに取り組んでいたが、やがて、ぶっきらぼうに立ち上がった。逆手で引き抜いた短刀を引っ張った縄に食い込ませ、ぶちり、と無下にぶった切る。何事にも動じぬ御仁であるが、やっぱり苛々したようだ。お守りの対象に好き放題に遊びに行かれ、虚仮にされ果てた野良猫の怨念、推して知るべし。
だらんと垂れた罪なき縄を、ふんっ、と邪険に叩きつけ、ケネルは南の陣地へ歩き出した。壁際の布団を投げ広げ、寝床を黙々と敷いている。苛立った癇癪に一瞬ビビるも、喉元過ぎれば何とやら、エレーンはやっぱり、そそくさ後をついて行く。作業の傍らをうろうろし、手持ち無沙汰に覗き込み、後ろ手でこそこそ顔色を窺う。「──んねえ〜、なんか怒ってるでしょー」
ケネルはぞんざいに即答した。
「別に」
だが、こういう態度をとる時は大抵怒っているのだと、これ迄のやり取りで学習している。ならば、あんまり近寄ると危ないのだが、それは分っているのだが、ぶっきらぼうな顔をチラと見た。だって会えるのを待っていた。ずっと密かに待っていたのだ。だって訊きたいことがある。だって気になって仕方ない。だって、あの女、ケネルの何?
「ここに座れ」
「……へ?」
物思いに耽っていて反応が遅れる。慌てて見やれば、ケネルが作業を終えて振り向いていた。寝床はとっくに完成している。指定の先は、と見てみれば、大雑把に敷いたケネルの寝床。ギクリ、とエレーンは硬直した。
( なななななに言ってんの!? )
なんという直球。そこは紛うことなく寝床であろう!?
ギクシャク見返し、しどもど赤面。( いやっ──でも、そんなあっ……そーゆーのはホラちょっとお〜……)ともじもじクネクネしていると、当人はかったるそうに身を屈め、絨毯に直に膝を折った。無造作に胡座(あぐら)をかき、早く座れよ、と顎をしゃくって催促する。エレーンはきょとんと顔を見た。なにケネルはそっちなわけ? 距離はきっちり離すわけ? てことはつまり、
「……あー、そーゆーこと」
ようやく意図を理解した。単に、座布団代わりにどうぞ、てな話らしい。一応気を使ったようだ。レディーだから。
こっ恥ずかしい勘違いを唐突に悟って、エレーンはそそくさちんまり座る。両腕伸ばして何となく正座。ケネルは胡座(あぐら)をずらして大儀そうに体を傾け、尻ポケットから煙草を出した。眉をひそめて一本銜え、だが、クレーム発動寸前の向かいの様子に気付いたようで、すぐに口から取り去った。箱にしまい、絨毯の上に放り出す。おもむろに目を向けた。
「あんた、どうして井戸になんかいたんだ」
窺うように問うてくる。不審そうな面持ちだ。とっさに呆けて、エレーンは見返す。「井戸」のキーワードで記憶を探れば、会合の用件が浮き彫りに。なら、改めて向かい合ったこの状況は、
( 説教か!? )
遅まきながら気が付いた。内心 ( うげっ!? ) と逃げ腰になるも、脱出するにはチト遅い。ケネルは既に腰を落ち着け、話を聞く万全の体勢でスタンバイ。
「……ど、……どうして、って……」
どうして、と問われたならば、雑木林に踏み込んだそもそもの経緯について言及するのが筋というもの。しかし、である。両腕を突っ張り冷や汗たらたらの上目使いで、しどもどケネルの顔を見る。その張本人は目と鼻の先にいるのだが、しかし言えない。実は密会現場をばっちり目撃してました、とは。んでもって、覗いてんのが綺麗な恋人に見つかって、怒らせた挙句とっ捕まりそうになりました、とは。そーだ、そんな惨めったらしい真似誰が出来るか──!
しかし、じっと見られて逃げ場がない。向かいの胡座(あぐら)からは胡散臭げな尋問の視線。機嫌もどうやら悪そうで、いつにも増しての仏頂面。エレーンは頬を掻いて目を逸らした。「そっ、それはちょっとそのお〜……」
しかし、お茶を濁して逃亡プランも無理そうな雲行き。観念し、渋々口を開いた。「……だからあのー、ちょっと近所を散歩してたら、いきなりキツネのヤツに追っかけられて、」
「"キツネ"?」
ケネルが怪訝そうに聞き咎めた。ぽかんと固まり理解不能という顔だ。ややあって( なんで狐なんかに……? )としきりに首を捻り出した。まさか獣の狐と勘違いしたのか? 出鼻を挫かれ、あたふた説明。「あっ、いや、そーじゃなくって! だから、ザイって人が追っかけてきて」
ケネルは「──ああ、ザイか」と面食らったように瞬いた。非難の顔で顎を出す。
「あんた、ザイに何をしたんだ」
「だからなんで、あたしが何かしたとか思うわけ?」
エレーンはぷりぷりケネルに対抗。しげしげ顔を見返すケネルは( 俺の部下を苛めんなよな )と説教顔。マジで心外、失礼なヤツだ。にしても、短髪の首長に引き続きケネルにまで訊き返されようとは。「ザイ=キツネ」の図式は、彼らにはどうやら通じない模様。しかし何故だ。あんな分かり易い顔なのに。ケネルはげんなりしたような顔をして
( どうしてそんなに誰彼構わず問題まき散らして歩くんだ…… ) と無言の抗議を向けてくる。無礼な態度に眦(まなじり)吊り上げ、エレーンは本件事案に是正要求。
「なんとかしてよね隊長でしょー」
そーだそーだ責任者出て来い! ケネルは一瞥、最終回答。
「バパに言え。ザイはバパの担当だ」
ぬけぬけ顎出すしたり顔には( あれは自分の分担じゃない )と書いてある。面倒そうに促した。「それで、どうした」
軽くいなされ、エレーンは、むむむっ、と拳を握る。隊長のくせに責任回避か? そもそも、あの首長が約束したくせにチャランポランだから──! 不平不満は多々あれど、しかし相手はケネルである。
「だからあー、あの人すんっごくしつこくてえー。追っかけてくるから逃げてたら、そしたらいきなり、すとん、って。気が付いたら、あの古い井戸の底にいてえー──」
だからあたしは悪くない、とふて腐れてぶちぶち力説。はっ、と"それ"を思い出した。そんなみみっちい小競り合いより、びっくり仰天の一大事件があったではないか。「そーだそーだ!」と顔を振り上げ「大変大変!」と身を乗り出す。
「そんな事よりあの井戸変よ! 変な木の板が井戸の壁にくっ付いてて、壁に大っきな穴とか空いていて、怪しい通路がずぅっと延びてて──」
「通路?」
そうよそうよ! そうなのよっ! エレーンは大きく頷いた。「それと、明かりもないのに、なんでか中が明るいし、あんな地下の洞窟なのに大っきな木箱がいっぱいあって、あ、それ、中に色んな物が詰まってんだけど、お酒とか石鹸とか歯ブラシとか、あ、あと、それからね──」
ケネルが、しらっと目を逸らした。興味が失せたかガリガリ頭を掻いている。チラと一瞥、ぼそりと呟く。「夢でも見たんじゃないのか」
「違うっ! 違うもん!」
拳を握って、エレーンはぶんぶん首を振る。「絶対違うぅー! 違いますぅー! あれは絶対に夢なんかじゃ──!」
確かに地下通路があったのだ。怪しい木箱があったのだ。そして大量の品々が。ケネルは首をコキコキやりつつ等閑(なおざり)にそっぽを向いたまま。殴られた後頭部に手を当てて、反応の薄さに食ってかかる。「そこで頭とかもぶたれたもん!」
「頭を?」
ケネルが訝しげに振り向いた。おーよ! そーだ! そのとーり! 鼻息荒く大きく頷く。「それで何もわかんなくなって、気がついたら、ここで寝てて──」
ケネルが身を乗り出した。胡座(あぐら)の膝を素早く崩し、両手で頭を引っ掴む。エレーンはぎょっと居竦んだ。いきなり頭を捕らえられ、膝立ちになった綿シャツの腹が目前に迫って視界を塞ぐ。とっさに怯んで後退れば、ケネルは苛立ったように引き戻す。珍しく本気の面持ちだ。予期せぬ反応に気を呑まれ、呆気にとられて大人しくした。逆らわない方が吉とみた。頭の左右を丁寧に見やって、ケネルは眉をひそめている。「──まだ痛いか。吐き気はあるか」
何故だか怒ったような尖り声。慌てて首をぶんぶん振った。
「う、ううんっ! いやっ、痛いのはもう大丈夫なんだけど、──あ、でも、……あの……」
惰性で口をついた応答が先細りになって立ち消える。ケネルは恐いくらいに真剣だ。顔にカッカと血が上り、直視出来ずに俯いてしまう。こんなに心配するとは思わなかった。ひしひし感じる切迫した緊張に耐えられなくなり、ややあって上目使いで盗み見た。頭を包む大きな手から意外な狼狽が伝わってくる。慎重に触れる指先から焦燥が直に伝わってくる。ケネルが自分を心配している。ケネルが案じてくれている──。
安堵した。ケネルに触れられると力が抜ける。こんな風に構ってもらうと無条件に安心する。ケネルの気配を間近に感じて、安らいだ気分で目を閉じる。本来自分が在るべき場所にやっと帰って来た、そんな感じだ。もっともっと、ずっと心配すればいい。
ケネルはしばらく怪我の具合を調べていたが、やがて、ゆっくり手を離した。元いた場所に胡座(あぐら)で座る。そして、
「落下の時にでも打ったんだろ」
しれっと予期せぬぞんざいな結論。
「違うってばっ!」
エレーンは目を剥いて食ってかかった。「落ちる時、ちゃんと足から降りたもん! 途中で太い根っこに捕まって、だから頭なんて打ってな──」
「どこも何ともない」
ケネルがぶっきらぼうに言い切った。やれやれと嘆息し、「──いいか」と説いて聞かせるように目を向ける。「あんたは涸れ井戸の底で気絶していた。知らせを聞いて、俺が担いで引き上げたんだ。間違いない」
「ケネルが?」
あの深い井戸の底から? 自分の肩に体を担いで? ただそれだけの事に動揺した。とっさの想像に戸惑いながらも訊き返す。「ケネルがあたしのこと引き上げてくれたの?」
「そうだ」
有無を言わせぬケネルの目。言い含めるような強引な響き。ケネルは顔色一つ変えない。
「木の板なんかどこにもなかった。井戸の壁に穴もない」
「そ、そうなんだ……?」
念押しされて口篭った。記憶と違う。なら、ケインと会ったのも夢だった? 確かに、井戸の底に人など現れる筈もないのだけれど──。ふと思い出し、スカートのポケットに手を入れた。ごそごそ探るも、案の定ない。ケインにあげた飴玉は。ならばやはり、ケインと会った事それ自体は正真正銘現実なのだ。でも、それなら、と不可解な事実に首を捻る。ふと気付いてポケットの中を探り直した。最後に握り締めていた記憶があった。ならば、もしかするとアレがどこかにあるかも知れない。アレがあれば、はっきりする。あの赤い薬包が。
服のポケットを須らく探す。上着のポケット、スカートの左右。それはどこにも見つからなかった。となると、あの奇妙な地下道の方は、
( 夢ってこと? )
でも、おかしい。落下で頭なんか打ってない。木の根に手が引っ掛かって確かに足から降りたのだ。落ちた時に気絶したなら、ケインと会えた筈がない。あの時誰かにぶたれた頭もなんとなく疼くような気もするし。でも、他ならぬケネルは夢だと言う──。なら、ケインがいなくなったあの後で眠ってしまったということか?
( ──違う )
心が激しく否定した。あれは絶対夢じゃない。だって、はっきり覚えている。洞窟に散乱した大量の木箱を。紙箱の隅までびっしり詰まった見覚えのある薬包の赤を。大地の胎内に抱かれて赤子に返ったような手放しの安堵を。巨大な仄明るい洞窟が確かに広大に広がっていたのだ。でも──。ケネルの顔色を窺った。ケネルには何故か逆らえない。頭では違うと分かっていても。
ケネルがおもむろに身じろいだ。「──さてと寝るか」
( 寝るのか!? )
ぎくり、と検討を中断した。突発事態に枕を抱えてあわあわ硬直。話は済んだと思ったか、ケネルが胡座(あぐら)をおもむろに崩し、もそもそ四つん這いでやってくる。ふと気付いたように顔を上げた。あまりの率直さに冷や汗たらたら、じぃっ、と至近距離で見つめ合い──。ケネルが右に首を傾げた。
「……えっ?」
ビクビク顔を引きつらせ、エレーンはおどおど訊き返す。今のはなんの合図なのだ? ケネルが軽く顎をしゃくった。「あんたはあっち」
「" あっち " ?」
ほけっと見つめ合って復唱し、しゃくられた顎の先を見る。あわあわ寝床から飛び退いた。そこは野良猫のごろ寝で揉みくちゃになった北の寝床──。唐突に悟る。今のアイコンタクトは「どいて」の意味であったらしい。つまり「もう寝るから、あんたの陣地にさっさと帰って」と言われているのだ。
ケネルは構わずあくびをかまし、雑に寄せた掛け布の下にもそもそ足なんか突っ込んでいる。いつものようにゴロリと背を向け、寝床に体を横たえる。むかっと顔を見返した。やっと会えたのに、もう寝る気だ!
「んねえっ! ケネルぅー!」
即行、肩を掴んで呼び止めた。背を向けたケネルは「……なんだ」と見るからに煩そうな返事。無視してもぞもぞ潜り込もうとする。──て、おのれ逃がすかこのタヌキ! 掛け布で蠢く潜行寸前の黒い頭を辛うじてむんずと捕まえた。「んもおっ! 寝ないでよっ! ケネルぅ〜っ!」
「……なに」
背けた背からは不機嫌そうな返事。片手を出して追い払おうとさえする。もちろん無理やり話を続行。「あ、あ、あのねケネルっ! あのねっ!」
「だからなに」
ケネルは棒読み。大あくび。
「だからね、あの、──あのっ──!」
焦燥と不安で切羽詰る。我慢していた諸々の不満が込み上げた。だって訊きたいことがある。ずっとずっと待っていた。
あの女は誰?
「──ほ、包帯がっ!」
口をついたのは別の言葉だった。先が続かず、とっさにあくせく目を逸らす。「そ、そう! 背中に巻いた包帯が……なんか、新しくなってるみたいなんだけどぉ……」
指の先をいじくって「なんでか知らない?」ともじもじ俯く。やっぱり訊けない、そんなこと。でも気になる。すんごい気になる。胸はざわざわ、指先の神経がチリチリかりかり痺れるよう。背けた背中が鬱陶しそうに応えた。「──ああ、医者を呼んだ」
「お医者さん?」
ぽかん、と口を開けてケネルを見た。思ってもみなかった答えだ。肩越しに見える横顔が面倒そうに眉をひそめて補足した。「包帯なら、診察した時にでも替えたんだろ」
「そ、そう、なんだ……」
懸案事項がひょんなところで解明されて、急に半端に気が抜けた。切羽詰った気合が抜け落ち、ギクシャクもう一度目を上げる。「で、でも、なら、あたしの為だけに町からわざわざ呼んでくれたり?」
どうでもいい話だ。言ってる傍からもどかしい想いが込み上げる。苛立つ。自分で自分がじれったい。違う。全然違う。そんなのどっちだって構わない。だって、本当に訊きたいのは──
あの女は誰?
昼に会ってたあの女は。
ケネルは事もなげに応えた。「仕方ない。あんたが目を覚まさないんだから」
「そ、そっか。ふーん……」
切り出せない。やっぱり。
──こっちを見てよ、ケネル。あたしを見てよ、ケネル。
膝で拳を強く握って、密かに唇を噛み締める。もういいだろうと言わんばかりの無関心なケネルの背中に、想いだけがどんどん膨れて胸苦しい。「で、でも、あそこ街道からすんごく遠いのに、よくあんな林の中までお医者さんが、」
「──あんた」
ケネルがもそりと腹這いになった。
「え?」
いきなり見るなー!?
「な、なにっ!? なにケネルっ!」
慌てふためきしどもど訊く。そりゃあ確かに「見て」とは言ったが。両手の頬杖でじっと見つめて、ケネルが片手を突き出した。この手はなに? なんの合図? もしかして、こっちに来いとか、そういうこと? 己を指差し、ぱちくり見返す。
「かえして」
ケネルが、それ、と指差した。見れば、胸にシッカと揉みくちゃの枕? とっさに頭が付いていけずに、抱き抱えた枕を呆然と見下ろす。「……これ?」
「そう、それ」
しばし、じっと見つめ合う。そして、虚しく吹き荒ぶ隙間風。心と現実の無情な開きに面食らい、呆けた顔で固まっていると、ケネルは自力で枕を回収、然るべき位置にごそごそセット、掛け布を被って背を向けた。大口開けて、又あくび。すぐにも寝入ってしまいそうだ。エレーンは出し抜けに我に返った。「──ね、ねえケネル! ケネルってば! ねえっ!」
ツレない肩を両手で揺する。わしわし揺する。思いきり揺する。ケネルが煩そうに肩越しに見た。「……なんだ、あんたはさっきから」
掛け布を奪われるとでも思ったか死守するように片手で握り、もう寝なさいよー、と口の先を尖らせる。たいそう迷惑げな面持ちだ。彼はとても眠いらしい。てか、なんでそんなに眠いのだ? そういや野良猫もぐーすか寝てたが、揃いも揃っていたいけな幼児かお前らは。
「ねえ〜、まだ八時じゃん。ねーケネルぅ〜!」
掛け布を引っ被った肩を揺すって「さあ起きませう」とふれんどりーに勧誘。そうだ。これしきで引き下がってなるものか。てか、こんな悶々とした気分で寝られるか!
「ケネルぅ〜、ケネルぅ〜、ねえケネルぅ〜!」
ケネルは煩そうに背を向けたまま、もう相手もしてくれない。エレーンは唇を噛み締めた。ずっと会えるのを待っていたのに。ずぅっとずぅっと待っていたのに。てか、こんなに懸命に揺すってるのに、無視して眠るってどんな神経!?
ケネルは依然、掛け布を引っ被って潜っている。諦めるまで狸寝入りを決め込む気らしい。すげない背中を見ていたら、堪え続けた想いが溢れた。
「……こっちを見てよ、ケネル」
あたしを見てよ、ケネル。だって、ケネルにまで見捨てられたら、あたし一人でどうしたらいいの──?
素気ない背中は動かない。溜息で手を引っ込めた。恨めしい思いでじっと見つめて、枕元から立ち上がる。ずっと会えるのを待っていたのに。目覚めたテントで、ケネルが、ふい、と出て行ってから。丸寝の背から声がした。「──そんなに、あいつに会いたいか」
「え……?」
ぎくり、と心臓が飛び跳ねた。「あいつ」っていうのはダドリーのこと?
「そ、そりゃあ……」
心臓の場所をドギマギ押さえる。今のは何? 独り言? 途方に暮れたような声の響き。ドキドキしていた。ウキウキするようなときめきじゃない。錘を飲んだように胸が重くて息さえ苦しい。たじろいで動転する。なんでいきなり、そんなこと訊くの?
左を上にした丸寝の背中を唖然と見つめる。出し抜けに黒い頭が嘆息した。「それなら、もう問題を起すな」
虚をつかれ、とっさに顔を振り上げた。「問題って何!? あたしは別に!」
「あんたが何かやらかす度に、その分だけ到着が遅れる」
面倒そうに言い切られ、もどかしさと反発に拳を握る。「でも! あたしは──!」
ケネルを追って。
いつでもケネルを追いかけて──!
ピクリ、と肩が強張った。掛け布が素早く跳ね除けられる。ケネルが立て膝で起き上った。目を眇め、聞き耳を立てるように、じっと動きを止めている。前傾姿勢の凝視の先はフェルトの降りた薄暗い戸口──? 問いかける間もなく立ち上がり、靴脱ぎ場へツカツカ歩く。
「誰だ」
誰何と共に、フェルトをぞんざいに払い退けた。ぽっかり開いた戸口の向こうに、夜に沈んだ暗い草原。立ち塞がったケネルの背が凍った。
「……あんた、どうして」
唖然と声が漏れてきた。呆気に取られて立ち尽くした向こうで、小柄な人影が身じろいだ。「あの──」と鈴を振るような戸惑った声。
鋭く息を飲み込んだ。テントに訪ねて来た小娘ではないか。
「ケネルっ!」
とっさに枕元を立ち上がった。平穏な心が瞬時に冷えて、嫌な予感がせり上がる。何しに来たのだ、こんな夜更けに。なんで又、あの女が──。次の動きを見透かしたように、ケネルが肩越しに振り向いた。「ちょっと出てくる」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が飲み込めない。背を屈め靴を履くケネルに、面食らって食い下がった。「で、でも、どこ行くの? だって、こんな夜中なのに──!」
「すぐに戻る。あんたは寝ていろ。ああ、ついて来るなよ、分かったな」
抗議を制して一方的に言い置くと、ケネルは彼女を促して、頭を屈め戸口を潜って、夜の草原に出て行った。
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