■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話9
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バサリと戻った戸口のフェルトに、とっさに掴んだケネルの枕をぶん投げる。枕はフェルトまで僅かに届かず、仄暗い靴脱ぎ場に、ぼてり、と落ちた。
「……なに。あの勝ち誇った顔は!」
立ち去る肩越しにチラと見やって、哀れむように嘲笑った小娘。曰く、
" ふっ。勝ったわね "
憤怒に拳を固く握って、エレーンはギリギリ地団太を踏む。
「ケネルのばかっ!」
別の女に呼ばれた途端、なんでホイホイくっついて行くのだ。こっちの時には無視したくせに! そうよ、あの素早いことったら──! 戸口のフェルトはシンと素気なく静まっている。淡々としたケネルの顔とそれが重なり気分が荒れた。不完全燃焼の憤怒をぶつけてロープの残骸を思い切り蹴る。ドサリ、と何かの音がした。ギョッと慌てて壁際を見れば、土間の明かりが届かぬ隅に、黒い袋が転がっている。しかも、横倒しの開いた口から中身が零れて──。
( やばいっ! )
怯んであたふた袋に駆け寄る。その正体にふと気付き、むっとして足を止めた。
「……なんだ、ケネルのか」
ぷい、とそっぽを向いてユーターン。家財道具を破壊したなら問題だけど、ケネルの荷物なんか知ったこっちゃない。むしろ部屋中にばらまいてやる! そうだ、そんなの開けっ放しで放置するケネルが悪い! なあによ、肩なんか抱いちゃってさあ! 丁寧な手付きで優しくエスコートなんかしちゃってさあ! こっちの時には二の腕掴んで荷物みたいに引っ張るくせに!
むかむかしつつも、とりあえず寝巻きに着替えを済ませた。薄暗い戸口に動きはない。苛々爪を噛みながら、寝巻きの裾を蹴飛ばして薄暗いゲルを行きつ戻りつうろうろそわそわ隅々まで歩き回る。「すぐ戻る」って言ったけど、「すぐ」っていつよ。いつのことよ。こないだ出てった時だって、朝まで待ちぼうけ食わしたくせに!
「なによ、ケネルの女誑しぃ!」
綺麗な恋人がいるくせに。恋人からのラブレターをいつも持ち歩いているくせに、その上まだ他の女と──。木漏れ日の中、笑い戯れる親密な光景を思い出した。あの人が例の " クリス " だろうか。ケネルが寝言で名を呼んだ相手。そこまで思い入れの強い相手。知りたい。
どうしても。
「──そっか、手紙」
はっと息を飲み込んだ。何故気付かなかったのだろう。手紙になら差出人の署名がある筈だ。そういえば、ケネルはしょっちゅう荷物をいじっている。底の方に何やらぎゅうぎゅう押し込んでいる。それって何かを隠す為? それって、もしや、
" クリス " からの手紙?
床に零れたケネルの荷物に目がいった。指の先までピンと伸ばした両手を振って、転げたザックまでギクシャク歩く。唾を飲み込み、無人の室内をそろりと確認、ひょい、と手前でしゃがみ込んだ。
「……これじゃない……これじゃない……」
犬が横穴を掘るが如くにザックに四つん這いで鼻を突っ込み、ぽいぽい脇に投げ捨てる。ケネルの日用品やら所持品やらが絨毯の床に飛んでいく。ケネルのタオル、ケネルの靴下、ケネルの歯ブラシ、ケネルの石鹸、ケネルの──。荷物を漁る手がピタと止まった。
「……こ、これはもしかして、」
むむ、と凝視したまま身を起こし、目の高さで広げ持つ。クマさんや"はあと"だったら爆笑しちゃうところだが、しかし意外にも無地でもなくて、青と白の太いシマシマ。そう、四角い布が二枚合わさったこの形態。これはまさしく、
「ケネルのぱんつ?」
意図せずイヤンな物を引き当てる。あんぐり息を止めて放心し、そのまま絶句で三秒後、はっと気付いて首を振った。いや、探してたのはこれじゃないから──。探し物はケネルが見ていたあの手紙。端が擦り切れた薄青の便箋。気を取り直して横倒しのザックを引っ掴む。片手を突っ込み、ザックの中をガサガサ漁る。室内の明かりが乏しい上にザックが黒くて深いから、奥の方がよく見えない。
「……雑誌?」
ザックの底から抜き出したのは見覚えのある本だった。ケネルが見ていたあの雑誌。不可解な図形と記号だらけの──ふと閃いた。
「そうそう。こういう所によく隠すのよね〜ヘソクリだとか」
手紙みたいに薄っぺらい物なんか、シワにならなくて最適だ。逆さにしてバサバサ振った。どうせ中身はつまんないから眺めたいとも思わない。どさっと何かが落ちてきた。なんだこれは、と何気なく拾えば、見開き全面に際どいポーズのお姉さんの図、前屈みの豊満な胸を伸ばした両腕でむぎゅっと寄せて、色っぽい目付きでばっちりウインク。ぬ? と見入って、しばし硬直。ケネルは日頃こんなものを見てるのか? ふと、その様が思い浮かんで、かーっと顔に血が上った。
「──ばかケネルっ!」
ふんぬっと壁に投げ付ける。涼しい顔してあのタヌキ、こんなもん隠し持ちおって! ( 信じらんない不潔よ不潔よ不潔よっ! )と眦(まなじり)吊り上げ呪詛の如くにぶつぶつ唱え、再びザックに手を突っ込む。
「……何? この布は」
ぱちくり眼(まなこ)を瞬いた。奥底に敷かれた雑誌の下から妙な物が出てきたのだ。それは折り畳まれた黒い布。「お?」と掴んだ黒布の端を、なんだこりゃ、と引っ張ってみたらば、これがまた、しゅるしゅるしゅるるん……と面白い程にスルスル出てくる。
「ほっほう?」
ぐいぐい出てくるだけ引っ張った。単純作業だが中々楽しい。そうして作業することしばし、
「……からまっちゃった」
エレーンはすっかり黒い布にまみれていた。頭から腕からダラリと巻きついた長布の端に「んもお、しつっこいわねえ!」と口を尖らせ、たらたら文句。
「……ケネルって仮装の趣味でもあんのかしら」
己の腹にぐるぐる巻いてるケネルの姿を想像し、微妙な気持ちで、むむう、と唸る。手触りは案外悪くない。にしても、なんかこの布、最近どこかで見たような──。何の気なしにグイと引っ張る。途端、逆側の腕が、ぐっ、と締まって持ち上がった。
「……ぬ、ぬぅ」
確かに無考えにそんなことをすれば、余計に締まるのは道理というもの。首とか締まってもアレなので、今度はそろそろ外していく。あらかた取り去り脇に置き、軽くなったザックの奥を、もっとないか、と顔を傾けて覗き込む。又も見慣れぬ物があった。長い布が途切れた終わり、深いザックの奥の方。なんだろう、あれは。
拾い上げて膝に置く。金属の板であるらしい。板とはいっても鞄の底ではないようで、丸くもなければ四角くもない。掌より大きいアーモンド型。端が少し持ち上がり、面が僅かに反っている。薄板一枚だけではなく折り畳んであるような──。
ガラン、と大きな音がした。ゲルの外、すぐそこだ。
( 帰って来た──!? )
万歳三唱で飛び上がった。何故にこんなに早いのだ。いや、確かに「すぐ戻る」とは言ったけど。切羽詰ってあわあわ見回す。調子に乗って散らかしてたから、荷物の中身が散乱している。だが、いちいち拾ってザックに戻す暇はない。荒らしに荒らした諸々を爪先でぎゅうぎゅう隅っこに押しやる。カタ、と戸口で音がした。
「お、おかえりなさいましぃっ!」
枕元目がけて決死のスライディング、「ははーっ」と絨毯に三つ指を突く。戸口からの反応はなかった。どうしたのだ? ケネルは靴脱ぎ場に立っているのか? 頭を絨毯にこすり付け至近距離で絵柄を見たまま、窮屈な体勢でしばし待つ。だが、テキは待てど暮らせど動かない。まさか戻る早々バレたとか、荷物を漁っていた事が。それで怒って黙っているのか? いや、なんか気配さえもないような──。伏した頭はそのままに、チラと目だけを上げてみた。
「……あれ?」
拍子抜けして見返した。薄暗い靴脱ぎ場には誰もいない。シンと静まり返ったまま。首を傾げて立ち上がり、薄暗い靴脱ぎ場へ怪訝に歩く。今のは獣が忍び寄るような謙虚な物音じゃ全然なかった。一瞬だったが喧しいくらいの大音量。
戸口のフェルトから、ひょい、と外に顔を出す。夜気がひんやり頬に冷たい。風が強く吹いている。辺りは一面、夜の草原。空には一面、満天の星。音源はすぐに知れた。
「……なんだ。あれかー」
立てかけてあったブリキのバケツが暗い地面に転がっている。突風か何かで飛んだらしい。脅かさないでよー、と文句を言い、夜風にぶるっと首を竦める。東向きの戸口の先には、暗い草原が広がっていた。こんもり黒い遠くの木々が夜風にざわざわ靡いている。右手には、広大な樹海の端が草原に迫って広がっている──。
「ケネル……」
あの気配が感じ取れた。至極微かなケネルの気配。ケネルがいる。浅く入った樹海の端に。多分、さっきの小娘と一緒に。
「──何を、話しているんだろう」
気分がカリカリ苛立った。樹海をそわそわ見つめつつ、唇を強く噛み締める。ケネルは今、何をしている? 話しているのか、黙っているのか、どんな顔で笑っているのか。ちょっと話をするくらい、何故ここでしないのだ。すぐそこにケネルがいる──。
手近なサンダルをもどかしい思いで突っ掛けた。しがみ付いていたフェルトを除ける。足が止まった。外に出ようと身じろぐと、体に微弱な抵抗がある。何故だろう。いつでもそうだ。ケネルの命に反しようとすると、決まって体が引き止める。罪悪感とか躊躇とかいうより物理的な反発に近い。そこに作用する何かの力をはっきり体に感じるのだ。そこにあるのはケネルが引いた境界線。突破しようとするにつれ抵抗を増す微弱な負荷。それでも振り切り、足を踏み出す。
戸口を通過した途端、ふっと体が軽くなった。そのまま草原を突っ切って暗闇に広がる樹海に向かう。だって、どうしても我慢出来ない。何をしているのか、どうしても知りたい。たぶん話をしているだけだ。昼に小娘がテントに来た時、用があるとか言ってたし。きっと別に何でもない。それを内緒で確認したら、ケネルより先に戻ればいい。
潰れたサンダルで夜の野草を切って歩く。あたかも魔物であるかのような鬱蒼と暗い広大な樹海。頬に当たる夜風が冷たい。薄い寝巻きが肌寒い。両手で体を抱えて歩く。
暗い樹海に踏み込んだ。音を立てぬように夜の木立を掻き分ける。募る緊張に唇を噛み、ゆっくり慎重に足を進める。はっきり分かる、ケネルの気配が。胸がドキドキ高鳴った。このすぐ先にケネルがいる──。
唐突に頭が目に入った。ケネルの黒髪、藪の向こうだ。両手をついて何故か四つん這いになっている。予期せぬ光景に面食らい、すぐに胸がざわめいた。体の具合でも悪いのだろうか。戸惑いつつも声をかけようと踏み出して、はっ、と息を呑み込んだ。地面に伸ばした両腕の下に誰かいる。地面に流れた長い髪。女だ。目元のきつい面長の美女。ケネルがその手を押さえつけ、仰向いた女を組み敷いている。ふとケネルが一瞥した。
──気付かれた!
弾かれ、とっさに逃げ出した。慌てて返した視界の端で、銀の何かがキラリと目を射た。だが、構っているような余裕はなかった。暗い木立を闇雲に走った。生い茂る野草を遮二無二掻き分け、元いたゲルを一心に目指す。視界が揺れる。木の根につまづく。枝にぶつかる。行く手に立ち塞がる蔦這う大木。サンダル履きの素足の先に、藪を払った右手の甲に鋭い痛みが走ったが、構うことなく走り続けた。物音に気遣う余裕など、どこにも残っていなかった。
背中に夜風が吹きつけた。ゲルのフェルトが開いたのだ。クッションを抱き締め壁を見つめて座ったままで、エレーンは唇を噛み締めた。バサリとフェルトの音がしてから、気配は無言で留まっている。しばらくしてから動き出した。靴を脱いでいるらしい。ややあってゲルの中に踏み込んできた。ためらうようにぶらぶら歩く後ろの気配が少し離れて足を止める。重い沈黙が再び落ちて、ケネルの静かな声がした。「──何をそんなに怒っているんだ」
呆れたような問いかけだ。言うに事欠き他人事のような呑気な言い草。エレーンは肩越しに睨みつけた。
「怒ってませんーっ! あたしは全然怒ってませんんーっ! なあんであたしが怒んなくっちゃなんないのよっ!」
憤りのままに吐き捨てた途端、何故だかケネルと目が合った。四つん這いだ。片手の下に枕があるから、靴脱ぎ場にぶん投げたヤツを自分で回収したようだ。て何、そのご機嫌窺うようなふざけた態度は! 更にもそもそ這い寄って「ちょっとちょっと」と肩を叩こうとするので、(
来ないでよ不潔男っ! )と爪先でシッシと牽制し、ぷい、と冷たく背を向ける。ケネルは、きょとん、と動きを止めた。ふむ、と四つん這いを引き起こす。目の端だけで窺えば、腕なんか組んで思案顔。
( なんでそんなに平気なわけ? 言い訳さえもしないわけ? やっぱコイツには神経がない! ケネルの鈍感! ケネルの最低! ケネルの不潔! )
ああ、むかつく。
ケネルは持て余したように眺めていたが、肩を竦めて立ち上がった。お手上げと言わんばかりに頭を掻いて、自分の寝床にかったるそうに足を向ける。「──あんたの考える事はよく分からないな」
何食わぬ顔にカチンときた。何たる不届き、何たる無神経、誰のせいだと思っているのだ! むかむか怒りが込み上げて、すっく、とエレーンも立ち上がった。ケネルにツケツケついて歩く。
「もーっ! こんな遅くまで何してたわけえっ!?」
そうだ。素直にお縄につけ。不埒な現場は押さえているのだ! 非難を遠回しにぶつけてやるも、ケネルは足さえ止めずに背中で応えた。「……何だっていいだろ」
「ケネルっ!」
堪え続けた暗い怒りが一瞬にしてぶちきれた。目撃されたこと気付いたくせに! あそこで見てたの知ってるくせに!
ケネルは枕をぶら下げて、あくびをしながら寝床に歩き、かったるそうに掛け布を被った。ふと気付いたように、ぬっと顔を出し「早く寝ろよ?」と釘をさし、大あくびで目を閉じる。て、気にせず寝る気かこのタヌキ!
「ケネルっ! ちょっとケネルっ! ねーっ!」
どーゆーことだ説明せよ、と両手でわしわし肩を揺する。ケネルは素気なく背を向けたまま取り合う気配はまるでない。成り行き上きっちり正座で、エレーンは、むう、と口の先を尖らせた。
( なに、その開き直りはあっ! )
素知らぬ態度に怒りが沸々込み上げる。ちゃんと恋人がいるくせに。あんな仲良くしてたくせに。なのに、あんな別の女と──! あんまりむかついたから、ちょっと鎌をかけてやる。
「ねー! あの手紙ってもしかして " クリス " が──」
ギクリ、とケネルが見返した。唖然と口を開けている。思わぬ過剰な反応だ。とっさにビビってたじろいでいると、ケネルは戸惑ったように言葉を詰まらせ、やっとのことで言い返した。「──なんで、あんたがそんなことを」
だが、すぐに、おかしいと勘付いたらしい。ジロリと見やって、ぐい、と顎を突き出した。
「あんたには関係ない」
ぷい、と背を向け、目を閉じる。
「──あっ、ケネルってば!」
逃がすか!
肩を掴んで掛け布ごと揺する。力任せにガシガシ揺する。ケネルは煩そうに眉をひそめて、じっと目を閉じている。もう梃子でも動きそうもない。誘導作戦はどうやら失敗した模様。エレーンは、ふむ、と腕を組み、次の作戦の算段をする。どうやって起こしたろうかこのタヌキ。首根っこ掴んで力尽く系の強攻手段はたぶん無理。ケネルの体重が自分に持ち上がる筈はない。立場が逆なら移動の際とか常時多用されてるが。だったらいっそ、脇の下とかコチョコチョするか? ばたん、と腕が飛んできた。かくり、と頭が枕から落ちる。て
( もう寝たのか!? )
口を半開きにした気の抜けた寝顔を愕然と見返す。ちょこっとヤツから目を離した隙に。もうすっかり夢の中らしく、すぐにゴロリと寝返りをうった。手足を伸ばして大の字になる。ぼりぼり腹とか掻きながら、のびのび気兼ねなく爆睡している。てか、なんでそんなに眠いのだ? 静かなゲルに一人ちんまり取り残されて、エレーンは唖然と顔を見た。
ケネルはよく眠っている。昼にきびきび動くから、ケネルは夜には深く眠る。手を伸ばし、掛け布を腹までかけてやる。見返した目に何かが光った。向こうを向いた寝顔の首、銀の鎖だ。ケネルが装飾品なんて、らしくない。意外に思い、シャツの襟ぐりから鎖をそっと指先でたぐる。ペンダントヘッドは銀の
「鍵 ?」
瞬いて寝顔を見返して、目の高さに持ち上げた。何の鍵だろう。ありふれた形の金属の鍵。わりと大きいから、どこかの建物の鍵だろうか。肌身離さず付けているなら大切な物ということか。
「……そっか、さっきの、これだったんだ」
ふと合点した。あの現場から逃げ出した時、一瞬光ったのはこの鍵らしい。ケネルが下を向いた拍子に懐から零れて反射して──。
「……誰よお、さっきのあの女」
置いてけぼりを食わされて、寝入った頬っぺを、むに、と引っ張る。無残な顔だが、ケネルは起きない。ゴン、とおでこをぶつけてみる。それでもケネルは全く起きない。自分のでこが相応の打撃を受けただけ。涙目で見返し、ケネルの顔に手を伸ばす。今度は気持ち良さげな寝顔の鼻を人差し指で押し上げてやる。ケネルが「──んかっ?」と動きを止めた。突然のことに訳が分かっていないらしく「かっ、かっ、かっ……?」と寝ながら首を傾げている。いい気味だ。グーにした手を口におき、エレーンは、ぷくく、と密かに笑う。しばしケネルはもがいていたが、とうとう煩そうに手を払った。
「……なによお、痛いでしょー」
口を尖らせ、エレーンはぶちぶち手をさする。己のせいではあるのだが。
ケネルが掛け布を蹴飛ばした。むむうと眉をひそめて、あっちへバタン、こっちへバタンと忙しい。移動中の昼寝の時には静かに澄まして寝てるのに、布団に触ると豹変するのか? てか、何かと戦ってでもいるのか己は。ケネルは細長く丸まった掛け布の棒に両手でシッカとしがみ付き、おまけに足も、ふんぬ──と絡めて、今にも噛み付かんばかりに眠っている。腕白坊主並みの寝相の悪さ、小型怪獣さながらだ。口が半開きの気の抜けた顔──。落ち着いた。近くにいると気分が落ち着く。大口開けてガーっとか寝ても、ぼーりぼりとお腹を掻いても、プッ……とかしょーもない粗相をかましても──。
涙が零れた。正座の膝で強く握った拳が震え、噛んだ唇が小さくわななく。
「ちょっとは、あたしの傍にいてよ……」
ぽろぽろ頬を滑り落ちる涙を、両手の甲で交互に拭う。手首が不意に掴まれた。ぎくり、と慌てて見返せば、ケネルが眠たそうに目を眇めている。「……なに泣いてんだ」
「──あ、あたしは別に泣いてなんか!」
とっさに目を逸らした。ケネルはやれやれと溜息をつく。「……しょうがないな、あんたはまったく」
呟いた途端、手が、ぐい、と引っ張られ、仰臥の胸にぶつかるようにして転がり込んだ。後ろ向きに拘束されて、エレーンはぎょっと体を引く。頭上でケネルが溜息をついた。「──ここにいろ」
「え?」
どきん、と心臓が飛び跳ねた。胸はとくとく、頭は真っ白、あたふた赤面で振り仰ぐ。ケネルが大きくあくびした。
「……え゛?」
エレーンは、ぽかん、と瞬いた。なに? その気の抜けた顔は。何が起きたか一瞬分からず呆気に取られて見ていると、目を閉じたケネルから「……んかー」といびきが聞こえてきた。エレーンは呆けて唖然と固まる。この男さては──
( 寝惚けてんなっ!? )
憤怒に拳固をぐぐっと握った。こめかみにわなわな怒りの符号。
( そんな真顔で寝惚けんなー! )
下が下なら上もまた上。野良猫の無礼さも相当なものだが、揃いも揃ってこいつらは! レディーを腕に抱いといて無視して寝るってどういうこと? それがレディーに対してする仕打ちか! 野放図な腕から脱出すべく手足を振り回してジタバタ足掻く。今にも噛み付きそうな勢いで。だが、ケネルは腕を放さない。腹に回した両腕はがっちりガード継続中。伸びやかに爆睡中のケネルの一方、一人ぜえぜえ奮闘しつつ、エレーンは悟った。なんとなく分った。いや実感してよーく分った。ファレスやウォードが 「 ケネルの隣は絶対嫌だ 」 と頑ななまでに拒んだ理由が。
──寝惚けて技かけてくるからかー!
にしたって、バックドロップで拘束するって、いったいどういう了見だ!
手足をばたつかせて 「 放せー! 放せー! 」 と大暴れするも、熟睡していて気兼ねがないのか、ケネルの腕はたいそう強い。しかも暴れれば暴れるほどに余計に力が籠るのは万国共通の仕組みか何かか?
しばらく暴れに暴れていたが、体力を根こそぎ使い果たして、やがて、ぐったり脱力した。伴い、ケネルの腕の力も抜ける。だが、脱出しようともがこうものなら、たちどころに締め付けてくること請け合いだ。ヤツらの腕は自動的に締め上げるように出来ている。とはいえ、仰向けの頭が肩の下に落ちているから、喉が仰け反り結構苦しい。
脱出の気配に目敏く反応する腕を、その都度「どうどう」宥めすかして、体をそろりと反転させつつ、そろりそろりと滑り降りる。すると、何故だか頭を「いい子いい子」と撫でられた。この男、どんな夢を見てるのだ? 腕の重みを背に感じる。一つ大きくあくびをし、平らな胸にぺったり頬をくっ付けた。重たくなってきた瞼を閉じる。
( ……もーいいや、どーでも )
あったかいし。
そう、ここはとても温かい。頬の下にあるケネルの胸が規則正しく上下していた。押し当てた耳に心臓の音が大きく聞こえる。母胎に戻ったような安らかさ。大きく脈動する大地の胎内にいるような仄明るい地下道を思い出した。どこまでも続く巨大な洞窟。人知れず息づく圧倒的なまでの地下世界。うつらうつらしながら、何事か考え始めていた。何か符丁があるような気がした。
『 タイチョー、おばちゃんのおとうさんなのー? 』
眠りに落ちゆくその刹那、あの時聞いた子供の声を脳裏のどこかで聞いた気がした。
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